お嬢様、今宵は私の腕の中で。
コツコツ、と足音をさせながら廊下を歩き、ふと思い出す。
「あれ?わたし、お稽古から逃げてた……よね?」
あの全身真っ黒スーツ男が、あんなところで待ち構えていたから焦って戻ってきてしまったけれど、そもそもお稽古から逃げていたんじゃない……!!
なんかわたし、素直にお稽古に行く人みたいになってない?
急に振り返ったわたしに、貴船がぎょっとした目を向ける。
「どうされましたか、すずお嬢様」
再び走り出そうとするけれど、まだあの男がいたらと思うとなかなか一歩を踏み出せない。
「あー、もう!なんなのよ……!」
逃げ道を完全に塞がれてしまった。
これから受けなければならない地獄のような稽古に思いを馳せて嘆くわたしを、貴船は目を丸くして見ている。
「今日は茶道のお稽古だよね」
どんよりとした気持ちのまま問いかけるわたしに、貴船は「いえ」とふるふると首を横に振った。
「今日はお稽古事は全てお休みです」
「……え?」
「旦那様からすずお嬢様に大切なお話があるそうです。ですから、今日はお稽古事は無しで、旦那様の書斎へおいでになってください」
「大切な、お話……?」
『お稽古がなくなった、万歳!』などと騒いでいる場合ではない。
わざわざ呼び出しとは、何事だろうか。
……もしかしてわたし、怒られる?
呼び出しとなると、桜家を追い出される?
ここ数週間の自らの行いを振り返ってみる。