同期のふたり〜高山と谷本の場合〜
水曜夕方6時
「高山さーん、終わるー?」
「あ、はいっ!すぐ出ますっ」
牧原課長が営業フロアの鍵を持って待っている。
今日は第2水曜日。ノー残業デーだ。
私の会社、アローズプロジェクト株式会社はそこそこの中堅企業。大企業ほど社員が多くないので6年もいれば顔見知りが増え、社員同士の仲もいい方だと思う。有給の取りやすさや、福利厚生もそこそこ。よほど繁忙期でなければ、こうしてノー残業デーが守られている。
「今日も暑くてビール日和だよねー!家着いたら速攻飲もっと」
「ふふ、いいですね」
「ねー!やっぱお店の生には敵わないけどさ。先週のお店も生中美味しかったわね。」
先週、と聞いて少しドキっとしてしまった。
そう、その先週の帰り、谷本と……
「高山さん駅方面だったよね。また明日ねー」
「あっ、はい、お疲れ様でした!」
牧原課長と別れ、もう18時近いなんて信じられないような明るい帰り道を歩きながら、紗季は顔を赤くした。
あああ、また思い出した。
紗季の恋愛経験はあまり多くない。初めての彼氏は高校生の時。紗季は県内でもまあまあの進学校に通っていて、彼も真面目な生徒だった。つまり、とても学生らしいお付き合いをしていた。
2人目の彼氏は大学2年から社会人2年目まで付き合った。2つ年上の彼とは気が合うと思っていたが、社会人になるとすれ違いが続き、最後は自然消滅に近いくらいお互いの気持ちが薄れてしまった。
つまり、紗季にとってあんな、酔った勢いで熱いキス、なんて前代未聞の事件だったのだ。
月曜日の朝はぐるぐる考えてしまい、谷本に会うのが憂鬱だった。
谷本はどんな気持ちで私にキスしたのだろう。酔ってて誰でもよかった?いやいや、そういう事しなさそうな人だけど…。まさか、私に気があるとか…いや、ないないない。チームでずっと顔を合わせてたけど何のそぶりも感じなかった。谷本の好みは多分、もっとはっきりしてて明るい美人。谷本自身が明るい人だし。…そもそも、結構酔ってたけど谷本はあの事覚えてるのかな……
何の答えも出ないまま出社すると、すでに谷本はPCに向かっていた。その姿が目に入った瞬間ドキっとする。
「おはよう」
「おはよ」
全然落ち着かない気持ちを抑え、平静を装って声をかけると、谷本もいつも通り答えてくれてほっとした。
「あ、今日ライデン工業の石原様から仕様書が届くそうです。確認して水曜までに電話ほしいそうです。」
「了解。」
取引先からの連絡事項を伝える。ごく普通に返事がくる。よかった、普通に仕事できてる。
その後も「あの事」に関わる話を一切せずに、火曜、水曜と過ぎた。もしかしたら、谷本は覚えていないのかもしれない。それなら、私も何もなかったように接する方がいいのだろう。そう思う事にした。
「「あ」」
アパートの前で谷本とばったり会ってしまった。
「……今帰り?」
「うん、谷本は直帰したの?」
「あー、うん。今日ノー残だから戻っても時間ないだろ」
今日、谷本は商談で午後いっぱい出かけていた。紗季より早く帰れたようで、シンプルなTシャツとチノパンに着替え、どこかへ出掛ける所だったようだ。
「「……」」
しばしの沈黙。「じゃ……」と紗季が立ち去ろうとした瞬間、谷本が口を開いた。
「あのさ……高山これから時間ある?」
「え、う、うん」
「話があって。今から飯食いに行かない?」
「……うん」
はなし……って何だろう。え、あの事?それとも仕事の話??再び頭の中が混乱してくる。
「ごめん、ちょっと忘れ物取ってくる」
谷本は一旦部屋に戻り、すぐに戻ってきた。
「お待たせ。どっか行きたい店ある?」
特にないと言うと、谷本は歩いて10分くらいの定食屋さんに連れてきてくれた。住宅街の一角にあるこの店は、古い民家を改装していて、いかにも美味しい料理を作ってくれそうなおじちゃんと、奥さん、30代くらいの息子夫婦で切り盛りしているらしかった。紗季は初めて来たが、なかなかの繁盛店らしかった。
ちょうど空いた2人用テーブルに座る。注文を聞かれ、紗季は本日おすすめの金目鯛の煮魚定食にしてみた。
「はい、唐揚げ定食と煮魚定食ね」
にこにこしたおばさんが料理を運んでくれた。ここまでわずか10分。セルフ式のお冷を取ってきたりするうちに料理が到着した。
まだ何の話もできてないけれど、とりあえず料理が来たら美味しいうちに食べるのが優先だ。
「いただきます」
煮魚を口に入れると、甘辛のたれが金目鯛にしみていてとても美味しい。普段調理が面倒でなかなか魚を食べられないから、より身体に沁みた。
「んー美味しい。懐かしいなあ煮魚」
「ああ、一人暮らしでなかなか食べないよな、魚って。そういえば高山って海沿いの出身なんだっけ?」
「そうだよ、静岡の伊豆半島。地元のお刺身とか干物めっちゃ美味しいよ!」
「羨ましいわー。俺地元が栃木だから、海とか本当憧れる」
何気ない会話が弾む。もともと谷本とは同期の知り合い、という位の関係性だったけど、半年近く一緒に働いてかなり距離が縮まった。いまや同期の男性では一番仲がいい。女性といるより男性同士でわいわいする中心にいるタイプだけど、意外と周りの人を見ていて、気遣いもできる優しい人だと知った。
「はー、ごちそうさまでした!」
おばさんにそう言って会計し、店を出る。
しばらくは美味しい定食の余韻に浸っていたけど、すっかり暗くなった道を歩きながら、2人はだんだん言葉少なになっていった。
そう、まだ本題が残っている。
「……あの、さっき言った話したい事なんだけど…」
――きた!
「ちょっと座って話せる?」
谷本はベンチを指差して言った。この道には水路があって、それに沿ってちょっとした遊歩道があり、ところどころに休憩用のベンチがある。
私が座ると、谷本も少し離れて座った。
「……あの……先週、ごめん、俺めちゃくちゃ酔っ払って、多分、高山に……その………触ったり……した……よね?」
「あ……えっと……うん…」
ああ、やっぱり谷本は覚えていたんだ。紗季は鼓動が高まるのを感じた。
「やっぱりそう……だよな……ほんとごめん……」
「ううん…」
谷本は俯いていて表情がわからない。けど、すごく後悔してるみたいだ。それは…やっぱり、酔った勢いだけだったから…?
「ほんとに申し訳ないんだけど、俺、全部は覚えてなくて。その………………むりやりキスとか…………したと思うんだけど、怖い思いさせなかった?」
暗くてよく見えないけど、多分谷本は相当顔を赤くしている。恥ずかしいと思いながら、逃げずに謝ろうとしてくれているのだ。
「……こわくなかったよ!」
そんな谷本を見て紗季はとっさに答えた。
「その…驚いたけど、無理矢理じゃなかったし……」
……その続きに迷い、言葉が出てこなかった。何と言えばいいのだろう。谷本は誠実に対応してくれているけれど、特段私を好きだった訳でもないと思う。私も、谷本をそこまで意識していなかった。ただ、その時はキスが気持ち良くて身を任せてしまったなんて、恥ずかしくて絶対言えない。
「そっか……いや、でも、付き合ってる訳でもないのに最低だよな。もう絶対しないから。本当に悪かった。」
谷本は少しほっとしたような声を出した後、改めて深く頭を下げる。少しだけ癖のある黒髪を見下ろし、私は……
「いいの。気にしないで」
と答えるのが精一杯だった。
……本当は、もっと違う事を言いたかった。そんな気持ちを必死に押さえ、平静を装った。
「これ、高山のだよね」
谷本がカバンから何かを取り出した。
「あ。うん、ありがとう」
それはあの時失くしたピアスだった。
「じゃ、帰ろっか」
谷本が歩き出す。
私も後を追って歩く。あと2.3分で家に着く。今日が終わったら、谷本と私はもとの同僚に戻る。ピアスも返ってきたし、多分、あの事は気まずい過ちとしてもう話題にしないだろう。
「……っ」
紗季は何だか泣きたくなった。どうしても、あの、ドキドキした気持ちを、優しい指先を、無かった事にするのが嫌だと思ってしまう。キスしたくらいで、都合が良すぎるだろうか。谷本は私の事を何とも思ってないかもしれないのに。
「ん?高山?」
私が追いつかない事に気づいた谷本が振り返る。私に近づいて彼はビクッとした。
「えっ?ちょっ…泣いてる?」
慌てた声が聞こえた。
「ごめ…俺……やっぱ取り返しのつかない過ちを……」
動揺した谷本の声を聞くともっと泣けてくる。
私こそごめんなさい。谷本は私の事何とも思ってないってわかってるのに、これでは困らせる。
「高山が顔合わせるの辛かったら、俺会社も辞める覚悟だから。もう一生思い出させないように消えるから」
谷本はどこまでも私の気持ちと反対方向に進む。ああ、私、全然望みないんだと思い知らされるようだ。
「……とりあえず、家までは送らせて。嫌かもだけど、夜道は色々危ないから」
私の涙が少し落ち着いたのを見て、谷本は慎重にそう言った。決して近づきすぎないよう、注意深く距離をとって歩いてくれた。その優しさに何だか胸が痛かった。
アパートに着き、2人は沈黙したまま階段を登った。2階の廊下で谷本は遠慮がちに振り返った。
「………じゃあ。」
紗季は顔を上げられなかった。廊下の蛍光灯がやたらに眩しく感じる。泣いてメイクの崩れた顔を見られたくなかったし、気持ちもぐちゃぐちゃだった。
ガチャ
バタン
谷本は部屋に入っていった。
残された紗季はポロポロ涙をこぼした。
「……っ、うっ……」
私は
いつのまにか
谷本の事を好きになっていた。
はっきり自覚した気持ち。
「……このままじゃ、やだ…」