FOOLという名のBAR
第1夜 In A Sentimental Mood
冷たい雨が降っている。夜半には雪へと変わると予報が出ていた。こんな夜は客足も遠のく。静かな夜になるだろう。ここは駅前からのメイン・ストリートから一本路地を入った場所で旧市街という街並だから今は静かな方だ。あたしは踵を返して階段で地下に降りる。
小さなビルの地下にあたしの店はある。
FOOLという名のBAR
ここは、愚か者が静かに酔い潰れるための店。
ドアを開けるとカウベルが鳴る。この音を聞くとホッとするという常連の愚か者達も多い。カウベルはこの店がまだマラエ・ランガと呼ばれた頃からある。
店の奥からはピアノの音が流れて来る。
アップライトのピアノが店の奥に置かれてあって、カウンター席が五つしかないこの店ではピアノが占める面積はかなり大きい。
ピアニストのマリアはこの店には無くてはならない存在となっていた。愚か者達の心を映すピアニストとマリアは呼ばれていた。
「外は冷たい雨だよ」
「こんな夜にはブルースが似合うかしら、ママ」
♪ ねぇ ジョニィ
ヤスミンのブルース。消えちまったジョニィが教えてくれた話しを懐かしむ詩がついている。そして、ジョニィが帰って来たら・・・もしもなんて考えるのはあたしらしくない。静かな夜がセンチメンタルを連れて来る。この曲を作ったosamuというギタリストの男はもう亡くなっていた。ボーカルのmichiという女が残ってこの曲を歌っているはずだ。まるで、いずれosamuが、ジョニィになると知っていたかのような曲だ。
ジョニィか、と思った。誰にでもジョニィのような存在がいる。マリアにもいた。そして、あたしにも・・・。
マラエ・ランガという店の名を、FOOLという名のBARと変えてどのくらいの時間が過ぎたのだろうか。ほんの短い時間のような気もするし、長い時間が過ぎたような気もする。
ふと、あたしは、マリアと初めて出会った夜のことを想い出した。店の名を変えた日がマリアと出逢った夜だった。マリアのジョニィの話を聞いた夜だった。
あたしはマリアが好きなギムレットを用意した。ジンとライムを一対一でシェイクではなくステアで作るあたしのギムレットをマリアは好んでくれた。
あたしの分は作らない。あたしが好きなこのギムレットは自分では作らない。あたしが飲むギムレットは冬木が作るものだけだ。このバーにいたバーテンダーの冬木はあたしにとってのジョニィかも知れない。
ギムレットをマリアのピアノに運んだ。
「ありがとう、ママ」
髪を軽く流してマリアが微笑んだ。誰もが息を止めるクールな美貌と、マリアの繊細なピアノの音が愚か者達の心を掴む。最初に心を掴まれたのはあたしだった。
マリアのピアノの音に引き込まれてゆく。音が途切れたことに気がつかなかった。でも、ギムレットのグラスはいつの間にか空になっている。
マリアのピアノの曲が変わった。
♪ In A Sentimental Mood
心がマリアと出逢った夜に飛んだ。
「ねぇ、ママ、ピアノを弾いていい?」
クールな美貌な女が言った。初めて来た客だった。ここに辿り着くように店に入って来た時には既に酔っ払いだった。
「構わないよ、多分、音くらい出る筈だよ」
あたしはカウンターの中から出ようとさえせずに言った。あたしは彼女の水割りのグラスの汗を拭った。彼女の奢りのあたしの分の水割りを口に含む。
女はふらつきながらもピアノに辿り着いた。
女はピアノの前に座って鍵盤をいくつか鳴らす。そして、一気に鍵盤の上を指が走った。
♪ In A Sentimental Mood
愛されることの嬉しさと不安、そんな詩が付いている。Jazzのスタンダード・ナンバーだ。
酔っ払いが弾いているとは思えない。見事な演奏だ。髪を泳がせてピアノを弾く女に見覚えがあることにあたしは気が付いた。新進気鋭のジャズ・ピアニストとしてテレビでも取り上げられていたことを想い出す。
♪ In A Sentimental Mood
ピアノの音に引き込まれていた。彼女が弾くピアノはあたしの何かに触れて来る。
音の連なりの中で時折感じる何か・・・足りないものを補おうとする何か。
この曲は、元々はデューク・エリントンが母の死を悼んで作ったレクイエム、後からラブ・ソングの詩が付けられた。
失くしたものへの鎮魂歌。彼女は誰かを失くしたのか。どうであれ、場末のバーでピアノを弾く女ではない筈だ。
カシャ
グラスの中の氷が溶けてグラスに触れた音が軽く響いた。
「やっぱり、だめ。音が飛んだわ」
「音が飛んだ?しばらく調律してないからね」
「いいえ、違うのよ、ママ。私の左手の薬指が動かないから。技術でカバーしきれなかったの」
彼女はピアノの前で大きく息を吐いた。
「左手の薬指が動かない。それを技術でカバー出来るものなのか、あたしには分からないけど・・・そのピアノが音を紡いでいたらそれだけでピアニストが弾いていると思うものさ」
「頭で考えて弾いている時は技術で何とかカバー出来るのだけど・・・」
「心で奏でると音が飛んでしまうことがあると言うのかい?」
「そう、ママは何でもお見通し?」
「まさか、あたしには何も見えないよ。ただね、あんたが紡ぐピアノの音が心に触れて来る、そう感じただけ。心の隙間に出来た何か足りないものを埋めようとして、あがいているあたしにそっと寄り添うようにあんたのピアノが入り込んできたのさ」
「ママは、何か失くしたの?」
ピアノから振り向いた彼女は悲しい瞳を向けた。
「ふふん、愚か者さ。あたしを置いて一人で無期懲役に行ってしまった愚か者が一人、ここにいたのさ。バーテンダーだった」
「なんて悲しい目をしているの?ママは」
「これでも、女、だからね」
バブルの絶頂期、この辺り一帯も地上げが横行した。この小さなビルもその中に呑まれていた。立ち退きを迫られ、暴力的な嫌がらせも受けた。もう、終わりだと思った時、バーテンダーの冬木は動いた。何人かが死んだ。
何をやればそんな罪になるのか常人には分からない。あたしは彼の罪を許さない。だから一度も面会には行かなかった。
だけど、あたしは待っている。無期懲役。帰れるあてなどあるのか。それは考えてはいけないことだ。待つ。それがあたしの愛し方だと思った。それがあたしの勇気だ。
「似たもの同士かしら、私達」
「あんたも誰かを失くしたのかい?」
♪ ピアノの音
何かを探すように音が流れる。
♪ I'm A Fool To Want You
まるであたしの心を映しているかのように紡ぐ彼女のピアノ。
「私も愚か者を一人、失くしたの。ねぇママ、一杯だけカクテルを作ってくれない?強いカクテルが飲みたいの」
「どんなカクテルがいい?」
「そうね、ママが一番好きなものがいいわ」
♪ I'm A Fool To Want You
あたしはカウンターにプリマス・ジンとローズ社のライムジュースを並べた。ミキシング・グラスに氷を詰めてジンとライムをハーフ&ハーフで注いだ。バースプーンでステア。ミキシング・グラスにストレーナーを被せ、氷を入れたオールド・ファッションド・グラスに中身を注いだ。きっちり一杯だけ。
「クラシック・ギムレットだよ」
あたしはカウンターを出てピアノにギムレットを運んだ。
彼女は一息でグラスを空けた。
「美味しい。こんなギムレットは初めて」
♪ I'm A Fool To Want You
「ママは飲まないの?」
「あたしの分のギムレットは作らない。あたしが一番好きなギムレットは自分では作らない」
「そう、分かるわ。その愚かなバーテンダー?」
「冬木って言う男さ」
「冬木さんが作るギムレットしか飲まないわけね」
♪ I'm A Fool To Want You
カシャ
カウンターの上の水割りの中で氷が溶けた。
あたしは気がつくとカウンターのスツールに腰掛けていた。
ピアノの音の中を漂っていたようだ。
「あんたのピアノは心を映す」
「ギムレットのお礼になったかしら?でも、ステアしたギムレットは初めて飲んだわ。シェイクしたギムレットしか知らなかったから」
「レイモンド・チャンドラーが書いた小説でフィリップ・マーロウという探偵がいてね。 “THE LONG GOOD-BYE(長いお別れ)”という作品の中に出て来るギムレットさ。優しい甘さと鋭さが一つになった味、一九三〇年に発行されたサヴォイ・カクテルブックにも登場するクラシックなギムレットだよ」
「漂うような甘さの中にあるシャープな鋭さが、眠りの中から意識が覚醒する、そんな気がしたわ」
「嬉しいねえ、あたしのカクテルを気に入ってくれて」
♪ ピアノの音。曲が戻った。
♪ In A Sentimental Mood
「私が愛した男が好きだった曲なの・・・今はもういない」
♪ In A Sentimental Mood
「彼のお腹に刺さっていたナイフを必死に引き抜こうとして私、左手の薬指を傷つけてしまった。ピアニストとしては致命的な怪我だった。堕ちて逝く女の言い分けだと言われるかもしれない・・・」
「何かが足りない、あんたのピアノだから。あたしのような愚か者の心に入り込んで来るのかも知れないね。あんたのピアノは愚か者を救う」
「私のピアノはまだ人を救えるのかしら?」
「ああ、多分ね」
「人を救うなら・・・マリア・・・」
「えっ?」
「うふふ、私はこれからマリアと名乗ろうかしら」
「マリア・・・うん、あんたにぴったりの名前だよ。あたしはユウコだ」
♪ In A Sentimental Mood
「私は新進気鋭のピアニストとして脚光を浴びていたの。コンサートツアーも組まれて全国を回ったわ。そして彼がいる街にもやって来た。彼の名前は、“渡瀬 柊(ひいらぎ)”・・・私の幼馴染だったの」
あたしはマリアのためにもう一杯のギムレットを作った。今度は少しずつギムレットを口に含んだ。少しずつ酔いの中に堕ちて行くように。
♪ In A Sentimental Mood
「柊と私は幼い頃から一緒にピアノ教室に通った。いつかプロのピアニストになろうと競うようにピアノを弾いた。プロになったら、お互いに一曲、オリジナル曲を贈ろうと約束もしたのに・・・」
♪ In A Sentimental Mood
「柊のお父さんの会社が傾いてしまったの。柊はピアノどころではなくなってしまった。少しずつ、彼は荒んで行った。何の障害もなく好きなピアノを弾ける私は、後ろめたさを感じてしまうくらい柊の人生は一変してしまったわ。でもね、一度だって柊は私を傷つけるようなことはしなかった。優しかった。いつも応援してくれた。そして、ただ、離れて行った。私から離れて行ってしまったの」
マリアはピアノと一体化しているかのようだった。マリアの言葉なのか、ピアノが語っているのか分からない。
冬木と同じように、ただ黙って離れて行った柊の想いを感じた。
♪ In A Sentimental Mood
「風の噂では、仲間達と法に触れるような危険な物の売買をしていると聞いたわ。そしてそれは事実だった。ある街で地元の筋者とぶつかった。彼らから見れば柊達は子供だった。取り込もうとした。でも柊はそれを拒絶した」
「そうなれば、今度は潰されるだけだね」
「柊は仲間を逃がすために盾となって刺された・・・」
♪ In A Sentimental Mood
「死んだと思われたのかも知れない。でも、柊は生きていた。そのまま病院に駆け込めば助かったのかも知れない」
「柊は最後の力を使ってマリアのコンサート会場に来たのだね」
「そう、チケットを持っていたみたい。最前列の席にいた。コートを身体に巻きつけるようにしてシートに蹲(うずくま)っていた。ステージから見た柊は変わり果てた姿だった。頬は痩せこけ、無精髭を生やして、薄汚れたコートを着て。でもね、私のピアノを聴く柊の瞳は優しかった。昔のままの柊だった」
♪ In A Sentimental Mood
「私はアンコールにこの曲を弾いた。もちろん柊のために彼が好きだったこの曲、
In A Sentimental Moodを」
マリアの心と一緒にあたしの心もコンサート会場に飛んだ。
「柊が優しく笑った・・・」
♪ In A Sentimental Mood
「会場から悲鳴が上がった。何が起きたのか分からなかった」
♪ In A Sentimental Mood
マリアの心と一緒にあたしもそのまま、コンサート会場の中にいるようだった。
「柊の足元に血が広がっていた。悲鳴は柊の周りにいたお客様達のものだった」
マリアの指が鍵盤を走る。音が飛んでいるのかなんて分からない。
「私はステージを駈け下りた。警備員の制止など振り切って、走ったわ。黒いドレスを着たまま私は柊の座席まで走った」
『いいピアノだったよ。君は僕の誇りだよ』
「柊の言葉、消えてしまいそうなくらい細かった。私は柊のコートを無理矢理開いた。ナイフの柄がお腹から生えているみたいだった」
『痛いなあ、痛い』
「柊の瞳から生気が消えた。私は右手でナイフの柄を握った。必死に引き抜こうとしたわ。誰かがやめなさいと叫んでいた。でも私には遠い声にしか聴こえない」
♪ In A Sentimental Mood
「邪魔をしないで。柊が痛いと言っているの!こんなものが刺さっているから!」
マリアに声などかけられない。マリアの心はここにはない。
「私は引き抜けないナイフに左手も加えた。左手の薬指がナイフの刃を握ってしまった」
曲が止まった。
「私の左手の薬指から血が流れていた。その血は柊の血と混ざって行く。私の血と柊の血が混ざって行くのを視ていた。血ってこんなにも真っ赤なのだって、その時に初めて知った」
カシャ
グラスの中の氷が溶けてグラスが鳴った。
曲が変わった。
♪ I'm A Fool To Want You
愚か者が一人、ここに流れて来た。
「ねぇ、ママ。そう言えば店の看板に灯りが点いてなかった。まだ店は開けてなかったの?」
「マラエ・ランガという看板に灯りは点けてないんだよ。店の名前を変えたいと想っていてね」
「そうなの?」
「マラエ・ランガは太平洋に沈んだ楽園の名前なんだよ。ここにあったマラエ・ランガも欲望という名の海に沈んでしまったから」
♪ I'm A Fool To Want You
「I'm A Fool To Want You ・・・まるであたし達のためにあるような曲だね・・・
FOOLという名のBAR・・・」
「それが新しい名前?ぴったりの名前だと思うわ」
「愚か者が愚か者を待つ店だから、愚か者が静かに酔い潰れるための店として、そうFOOLという名のBARと付けようか」
♪ I'm A Fool To Want You
「マリア、愚か者が静かに酔い潰れるにはお前のピアノが必要になりそうだよ」
マリアは微笑んだ。まるで聖母のように。
「ママのぶれない愛が愚か者を引き寄せたの、多分ね。そして、これからも」
そして、マリアの曲が変わった。
♪ ねぇ ジョニィ
ヤスミンのブルースに誘われて、マリアと出逢った夜から現在へと意識が浮上して来る。
あたし達のジョニィ、冬木というバーテンダーと柊というピアニストに捧げたい曲だ。
ここは、FOOLという名のBAR
愚か者が静かに酔い潰れるための店。
小さなビルの地下にあたしの店はある。
FOOLという名のBAR
ここは、愚か者が静かに酔い潰れるための店。
ドアを開けるとカウベルが鳴る。この音を聞くとホッとするという常連の愚か者達も多い。カウベルはこの店がまだマラエ・ランガと呼ばれた頃からある。
店の奥からはピアノの音が流れて来る。
アップライトのピアノが店の奥に置かれてあって、カウンター席が五つしかないこの店ではピアノが占める面積はかなり大きい。
ピアニストのマリアはこの店には無くてはならない存在となっていた。愚か者達の心を映すピアニストとマリアは呼ばれていた。
「外は冷たい雨だよ」
「こんな夜にはブルースが似合うかしら、ママ」
♪ ねぇ ジョニィ
ヤスミンのブルース。消えちまったジョニィが教えてくれた話しを懐かしむ詩がついている。そして、ジョニィが帰って来たら・・・もしもなんて考えるのはあたしらしくない。静かな夜がセンチメンタルを連れて来る。この曲を作ったosamuというギタリストの男はもう亡くなっていた。ボーカルのmichiという女が残ってこの曲を歌っているはずだ。まるで、いずれosamuが、ジョニィになると知っていたかのような曲だ。
ジョニィか、と思った。誰にでもジョニィのような存在がいる。マリアにもいた。そして、あたしにも・・・。
マラエ・ランガという店の名を、FOOLという名のBARと変えてどのくらいの時間が過ぎたのだろうか。ほんの短い時間のような気もするし、長い時間が過ぎたような気もする。
ふと、あたしは、マリアと初めて出会った夜のことを想い出した。店の名を変えた日がマリアと出逢った夜だった。マリアのジョニィの話を聞いた夜だった。
あたしはマリアが好きなギムレットを用意した。ジンとライムを一対一でシェイクではなくステアで作るあたしのギムレットをマリアは好んでくれた。
あたしの分は作らない。あたしが好きなこのギムレットは自分では作らない。あたしが飲むギムレットは冬木が作るものだけだ。このバーにいたバーテンダーの冬木はあたしにとってのジョニィかも知れない。
ギムレットをマリアのピアノに運んだ。
「ありがとう、ママ」
髪を軽く流してマリアが微笑んだ。誰もが息を止めるクールな美貌と、マリアの繊細なピアノの音が愚か者達の心を掴む。最初に心を掴まれたのはあたしだった。
マリアのピアノの音に引き込まれてゆく。音が途切れたことに気がつかなかった。でも、ギムレットのグラスはいつの間にか空になっている。
マリアのピアノの曲が変わった。
♪ In A Sentimental Mood
心がマリアと出逢った夜に飛んだ。
「ねぇ、ママ、ピアノを弾いていい?」
クールな美貌な女が言った。初めて来た客だった。ここに辿り着くように店に入って来た時には既に酔っ払いだった。
「構わないよ、多分、音くらい出る筈だよ」
あたしはカウンターの中から出ようとさえせずに言った。あたしは彼女の水割りのグラスの汗を拭った。彼女の奢りのあたしの分の水割りを口に含む。
女はふらつきながらもピアノに辿り着いた。
女はピアノの前に座って鍵盤をいくつか鳴らす。そして、一気に鍵盤の上を指が走った。
♪ In A Sentimental Mood
愛されることの嬉しさと不安、そんな詩が付いている。Jazzのスタンダード・ナンバーだ。
酔っ払いが弾いているとは思えない。見事な演奏だ。髪を泳がせてピアノを弾く女に見覚えがあることにあたしは気が付いた。新進気鋭のジャズ・ピアニストとしてテレビでも取り上げられていたことを想い出す。
♪ In A Sentimental Mood
ピアノの音に引き込まれていた。彼女が弾くピアノはあたしの何かに触れて来る。
音の連なりの中で時折感じる何か・・・足りないものを補おうとする何か。
この曲は、元々はデューク・エリントンが母の死を悼んで作ったレクイエム、後からラブ・ソングの詩が付けられた。
失くしたものへの鎮魂歌。彼女は誰かを失くしたのか。どうであれ、場末のバーでピアノを弾く女ではない筈だ。
カシャ
グラスの中の氷が溶けてグラスに触れた音が軽く響いた。
「やっぱり、だめ。音が飛んだわ」
「音が飛んだ?しばらく調律してないからね」
「いいえ、違うのよ、ママ。私の左手の薬指が動かないから。技術でカバーしきれなかったの」
彼女はピアノの前で大きく息を吐いた。
「左手の薬指が動かない。それを技術でカバー出来るものなのか、あたしには分からないけど・・・そのピアノが音を紡いでいたらそれだけでピアニストが弾いていると思うものさ」
「頭で考えて弾いている時は技術で何とかカバー出来るのだけど・・・」
「心で奏でると音が飛んでしまうことがあると言うのかい?」
「そう、ママは何でもお見通し?」
「まさか、あたしには何も見えないよ。ただね、あんたが紡ぐピアノの音が心に触れて来る、そう感じただけ。心の隙間に出来た何か足りないものを埋めようとして、あがいているあたしにそっと寄り添うようにあんたのピアノが入り込んできたのさ」
「ママは、何か失くしたの?」
ピアノから振り向いた彼女は悲しい瞳を向けた。
「ふふん、愚か者さ。あたしを置いて一人で無期懲役に行ってしまった愚か者が一人、ここにいたのさ。バーテンダーだった」
「なんて悲しい目をしているの?ママは」
「これでも、女、だからね」
バブルの絶頂期、この辺り一帯も地上げが横行した。この小さなビルもその中に呑まれていた。立ち退きを迫られ、暴力的な嫌がらせも受けた。もう、終わりだと思った時、バーテンダーの冬木は動いた。何人かが死んだ。
何をやればそんな罪になるのか常人には分からない。あたしは彼の罪を許さない。だから一度も面会には行かなかった。
だけど、あたしは待っている。無期懲役。帰れるあてなどあるのか。それは考えてはいけないことだ。待つ。それがあたしの愛し方だと思った。それがあたしの勇気だ。
「似たもの同士かしら、私達」
「あんたも誰かを失くしたのかい?」
♪ ピアノの音
何かを探すように音が流れる。
♪ I'm A Fool To Want You
まるであたしの心を映しているかのように紡ぐ彼女のピアノ。
「私も愚か者を一人、失くしたの。ねぇママ、一杯だけカクテルを作ってくれない?強いカクテルが飲みたいの」
「どんなカクテルがいい?」
「そうね、ママが一番好きなものがいいわ」
♪ I'm A Fool To Want You
あたしはカウンターにプリマス・ジンとローズ社のライムジュースを並べた。ミキシング・グラスに氷を詰めてジンとライムをハーフ&ハーフで注いだ。バースプーンでステア。ミキシング・グラスにストレーナーを被せ、氷を入れたオールド・ファッションド・グラスに中身を注いだ。きっちり一杯だけ。
「クラシック・ギムレットだよ」
あたしはカウンターを出てピアノにギムレットを運んだ。
彼女は一息でグラスを空けた。
「美味しい。こんなギムレットは初めて」
♪ I'm A Fool To Want You
「ママは飲まないの?」
「あたしの分のギムレットは作らない。あたしが一番好きなギムレットは自分では作らない」
「そう、分かるわ。その愚かなバーテンダー?」
「冬木って言う男さ」
「冬木さんが作るギムレットしか飲まないわけね」
♪ I'm A Fool To Want You
カシャ
カウンターの上の水割りの中で氷が溶けた。
あたしは気がつくとカウンターのスツールに腰掛けていた。
ピアノの音の中を漂っていたようだ。
「あんたのピアノは心を映す」
「ギムレットのお礼になったかしら?でも、ステアしたギムレットは初めて飲んだわ。シェイクしたギムレットしか知らなかったから」
「レイモンド・チャンドラーが書いた小説でフィリップ・マーロウという探偵がいてね。 “THE LONG GOOD-BYE(長いお別れ)”という作品の中に出て来るギムレットさ。優しい甘さと鋭さが一つになった味、一九三〇年に発行されたサヴォイ・カクテルブックにも登場するクラシックなギムレットだよ」
「漂うような甘さの中にあるシャープな鋭さが、眠りの中から意識が覚醒する、そんな気がしたわ」
「嬉しいねえ、あたしのカクテルを気に入ってくれて」
♪ ピアノの音。曲が戻った。
♪ In A Sentimental Mood
「私が愛した男が好きだった曲なの・・・今はもういない」
♪ In A Sentimental Mood
「彼のお腹に刺さっていたナイフを必死に引き抜こうとして私、左手の薬指を傷つけてしまった。ピアニストとしては致命的な怪我だった。堕ちて逝く女の言い分けだと言われるかもしれない・・・」
「何かが足りない、あんたのピアノだから。あたしのような愚か者の心に入り込んで来るのかも知れないね。あんたのピアノは愚か者を救う」
「私のピアノはまだ人を救えるのかしら?」
「ああ、多分ね」
「人を救うなら・・・マリア・・・」
「えっ?」
「うふふ、私はこれからマリアと名乗ろうかしら」
「マリア・・・うん、あんたにぴったりの名前だよ。あたしはユウコだ」
♪ In A Sentimental Mood
「私は新進気鋭のピアニストとして脚光を浴びていたの。コンサートツアーも組まれて全国を回ったわ。そして彼がいる街にもやって来た。彼の名前は、“渡瀬 柊(ひいらぎ)”・・・私の幼馴染だったの」
あたしはマリアのためにもう一杯のギムレットを作った。今度は少しずつギムレットを口に含んだ。少しずつ酔いの中に堕ちて行くように。
♪ In A Sentimental Mood
「柊と私は幼い頃から一緒にピアノ教室に通った。いつかプロのピアニストになろうと競うようにピアノを弾いた。プロになったら、お互いに一曲、オリジナル曲を贈ろうと約束もしたのに・・・」
♪ In A Sentimental Mood
「柊のお父さんの会社が傾いてしまったの。柊はピアノどころではなくなってしまった。少しずつ、彼は荒んで行った。何の障害もなく好きなピアノを弾ける私は、後ろめたさを感じてしまうくらい柊の人生は一変してしまったわ。でもね、一度だって柊は私を傷つけるようなことはしなかった。優しかった。いつも応援してくれた。そして、ただ、離れて行った。私から離れて行ってしまったの」
マリアはピアノと一体化しているかのようだった。マリアの言葉なのか、ピアノが語っているのか分からない。
冬木と同じように、ただ黙って離れて行った柊の想いを感じた。
♪ In A Sentimental Mood
「風の噂では、仲間達と法に触れるような危険な物の売買をしていると聞いたわ。そしてそれは事実だった。ある街で地元の筋者とぶつかった。彼らから見れば柊達は子供だった。取り込もうとした。でも柊はそれを拒絶した」
「そうなれば、今度は潰されるだけだね」
「柊は仲間を逃がすために盾となって刺された・・・」
♪ In A Sentimental Mood
「死んだと思われたのかも知れない。でも、柊は生きていた。そのまま病院に駆け込めば助かったのかも知れない」
「柊は最後の力を使ってマリアのコンサート会場に来たのだね」
「そう、チケットを持っていたみたい。最前列の席にいた。コートを身体に巻きつけるようにしてシートに蹲(うずくま)っていた。ステージから見た柊は変わり果てた姿だった。頬は痩せこけ、無精髭を生やして、薄汚れたコートを着て。でもね、私のピアノを聴く柊の瞳は優しかった。昔のままの柊だった」
♪ In A Sentimental Mood
「私はアンコールにこの曲を弾いた。もちろん柊のために彼が好きだったこの曲、
In A Sentimental Moodを」
マリアの心と一緒にあたしの心もコンサート会場に飛んだ。
「柊が優しく笑った・・・」
♪ In A Sentimental Mood
「会場から悲鳴が上がった。何が起きたのか分からなかった」
♪ In A Sentimental Mood
マリアの心と一緒にあたしもそのまま、コンサート会場の中にいるようだった。
「柊の足元に血が広がっていた。悲鳴は柊の周りにいたお客様達のものだった」
マリアの指が鍵盤を走る。音が飛んでいるのかなんて分からない。
「私はステージを駈け下りた。警備員の制止など振り切って、走ったわ。黒いドレスを着たまま私は柊の座席まで走った」
『いいピアノだったよ。君は僕の誇りだよ』
「柊の言葉、消えてしまいそうなくらい細かった。私は柊のコートを無理矢理開いた。ナイフの柄がお腹から生えているみたいだった」
『痛いなあ、痛い』
「柊の瞳から生気が消えた。私は右手でナイフの柄を握った。必死に引き抜こうとしたわ。誰かがやめなさいと叫んでいた。でも私には遠い声にしか聴こえない」
♪ In A Sentimental Mood
「邪魔をしないで。柊が痛いと言っているの!こんなものが刺さっているから!」
マリアに声などかけられない。マリアの心はここにはない。
「私は引き抜けないナイフに左手も加えた。左手の薬指がナイフの刃を握ってしまった」
曲が止まった。
「私の左手の薬指から血が流れていた。その血は柊の血と混ざって行く。私の血と柊の血が混ざって行くのを視ていた。血ってこんなにも真っ赤なのだって、その時に初めて知った」
カシャ
グラスの中の氷が溶けてグラスが鳴った。
曲が変わった。
♪ I'm A Fool To Want You
愚か者が一人、ここに流れて来た。
「ねぇ、ママ。そう言えば店の看板に灯りが点いてなかった。まだ店は開けてなかったの?」
「マラエ・ランガという看板に灯りは点けてないんだよ。店の名前を変えたいと想っていてね」
「そうなの?」
「マラエ・ランガは太平洋に沈んだ楽園の名前なんだよ。ここにあったマラエ・ランガも欲望という名の海に沈んでしまったから」
♪ I'm A Fool To Want You
「I'm A Fool To Want You ・・・まるであたし達のためにあるような曲だね・・・
FOOLという名のBAR・・・」
「それが新しい名前?ぴったりの名前だと思うわ」
「愚か者が愚か者を待つ店だから、愚か者が静かに酔い潰れるための店として、そうFOOLという名のBARと付けようか」
♪ I'm A Fool To Want You
「マリア、愚か者が静かに酔い潰れるにはお前のピアノが必要になりそうだよ」
マリアは微笑んだ。まるで聖母のように。
「ママのぶれない愛が愚か者を引き寄せたの、多分ね。そして、これからも」
そして、マリアの曲が変わった。
♪ ねぇ ジョニィ
ヤスミンのブルースに誘われて、マリアと出逢った夜から現在へと意識が浮上して来る。
あたし達のジョニィ、冬木というバーテンダーと柊というピアニストに捧げたい曲だ。
ここは、FOOLという名のBAR
愚か者が静かに酔い潰れるための店。
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