FOOLという名のBAR
第12夜 Layla
「捜しているのはピアニスト・・・私、ということ?純爺」
マリアは表情一つ変えないで純爺を見た。
マリアの左手の薬指は動かないという。
好きだった男の腹に刺さっていたナイフを必死に引き抜こうとして素手で刃を握ってしまった女。それ以来、マリアの左手の薬指は動かない。肝が座っているのか?人生を投げているのか?さすが、この店に流れて来るだけのことはある女だと思う。ハード・ボイルドさではユウコに並ぶ。
「私が、マラエ・ランガと呼ばれていたこの店に流れついたことは業界では意外と知られた話よ」
「天才ピアニスト・・・と呼ばれたマリアだからね」
ユウコが頷いた。
「しかし、マラエ・ランガと呼ばれたのは一〇数年も前じゃ、ということはその男の時間が一〇数年止まっているってことだ」
「そういうことだね、純爺・・・」
「店の名を変えたのはバーテンダーの冬木が抗争事件を起こして無期懲役に行ったからだったなぁ・・・ママよ」
「この辺一帯の地上げに泣かされて、もうおしまいだと考えた時、冬木は動いた。陣野の制止に耳を貸さずに」
「一人で殴り込んだ、陣野の敵対組織の出先機関である地上げ屋事務所にのう」
陣野とは、この街を牛耳る昔気質の筋者、陣野組組長のことだろう。陣野は街の中心にあるタワービルの最上階に住んでいると言われるこの街の顔役だ。黒いシャツに黒いスーツ、黒地のネクタイに真っ赤なバラの花が一輪だけ。どこから誰が見ても筋者という格好をしている。
「漁夫の利を得ただけでさあ、冬木にやるべきことを横から掠られてしまった外道だと、陣野はこの街の顔役とまで呼ばれる男になっても、筋者だという自分の愚かさを忘れてはならないと全身黒づくめの服を来て人生を憂いでおるよ」
「愚か者さ、冬木も。だから・・・あたしは」
「FOOL という名のBARと名前を変えて、愚か者を待っている分けじゃ」
ハード・ボイルドな会話がさり気無く飛び交っている。
「なんてハード・ボイルドなのこの展開は」
バーテンダーの冬木、噂は聞いたことがある。昔、ママに拾われた元筋者だったという男。ずっとこの店を、いいえ、ユウコを支え守って来た男。
「あたしはエンジェルが心配になって来たよ。余計な真似はしちゃダメだからね」
「ママ、大丈夫よ。私はコード・ネーム、エンジェルよ」
「キュートなだけでは危ない橋は渡れんのじゃ、エンジェル」
「純爺の年齢でも、私はキュートなんだ?」
「わしの年齢は余計じゃい」
「エンジェルに危険はないかい?」
ユウコの瞳を不安が走り、純爺に向いた。
「悪徳刑事岸村も坊主探偵も、もちろん陣野達も動いている・・・エンジェルには指一本、触れさすまいよ、ママ、誰もがエンジェルを大切に想っている」
あまりにもさり気なく、私がいかに誰からも愛されているかという一言が流れてゆく。私がリアクションを入れる間もなく話は展開。
「それならいいけどね、で、純爺は何をしているのだい?」
「おいおいママ、わしは情報屋だから、ここで集まる情報を待っていればいいって寸法じゃ」
「年だしね、純爺・・・」
純爺は苦笑してケータイを開いた。
「その年でケータイを使いこなすなんて凄いよ、純爺は」
「だからな、情報屋は最先端技術を取扱えなけりゃ商売にならん」
「なるほどね」
ユウコが腕を組んで感心したという様に頷いた。私も同じように頷いた。決してユウコの真似をした分けではない。
カウベルが鳴った。
振り返る必要もない、騒がしい声で誰が来たのだか分かる。
必ず二人セットでやって来る。
「疫病神みたいな顔をして純爺がいるってことはだ、噂は本当か?」
と最初にダミ声で口火を切ったのは籔、優秀な大学病院の外科医だったが今ではこの街で“ヤブ医者”という看板を上げて闇医者をやっている。
「こんな闇医者や引退した殺し屋みたいな純爺よりも頼りになる私が来たからには安心しておくれママ」
白衣を上着代わりに来ている籔とは違ってグレー系のスーツで紳士面したこの男は沢村正義、弁護士だが、変わり者だ。
依頼人に“正義”がない限り、弁護を引き受けない。
籔と沢村は幼馴染で親友だ。しかし、どちらもユウコにぞっこんでライバル心剥き出しでここに来る。必ず、二人でやって来てユウコを取り合い騒ぐ。たまに抜け駆けして一人で来ると借りて来た猫のように小さくなるという実は純情な二人。
「ママを狙う妙な野郎がうろついていると聞いて心配でよ」
と籔が言えば、
「籔は抗争があれば闇医者は儲かる、情報が欲しいだけだ、ママには私がついている」
と沢村が身を乗り出し自分をアピールする。
籔は元々大学病院で優秀な外科医だった。
しかし、藪は患者の家族に同情し、助かる可能性がないにも関わらず手術を執刀した。患者は助からなかった。
籔は告訴され医師免許剥奪の騒ぎまでなったが籔は強いて反論はしなかった。
そこで全面的な弁護をして籔を守ったのが沢村正義だった。
沢村は親友、籔のために鬼神の如く法定で熱弁を奮って籔を救った。
「そこに正義が見えたなら私は戦う」
それが沢村正義と言う弁護士だ。
二人の友情は堅い。
「ごめんなさい。ナイトのお二人さん。今回の事件は私を捜しているみたいなの」
とマリアが声をかける。
「マリア、二人にはそんなこと言っても意味はない、ママの前で良い格好する口実があればいいだけなんじゃよ、この二人はのう」
「純爺・・・相変わらず、口が軽いなあ。そんなので情報屋が務まるのか?」
と説教するのは“正義の味方弁護士”の方だ。
ケータイのバイブ音。
「坊主探偵からのメールだ」
皆の視線がケータイに集中する。
「慌てるな、今から読む。まず陣野のとこの若い衆三人が因縁をつけて襲ったが全員が簡単に捩じ伏せられたそうじゃ」
「ほう、まず三人の客が出来たと・・・闇医者繁盛しそうだぜぇ」
と籔がニヤリと笑うと
「本性を現したな籔よ」
と正義が素早くツッコミを入れた。
全く息が合う二人だ。私の存在が希薄になるくらい濃い客達がここに集まっている。
「なんて濃いの?ここの空気というか、時間の密度」
「おっエンジェルいたのか?今日はやけに大人しいじゃないか?」
藪がようやく私に気づいた。
「ははあ、エンジェル、ハード・ボイルドの匂いに胸をときめかせているのだろう?」
すかさず正義の弁護士が私に顔を向けた。
純爺のケータイが鳴った
「今度は誰からだ?純爺・・・」
と正義が睨む。
「おう、岸村の旦那、早いじゃあないか」
また皆の視線が集まる中、純爺はケータイで通話を始めた。
「外国で傭兵だったと?それは手強いのう」
純爺が電話を切った。
「岸村が警察組織のデータベースから調べて来た情報だ、間違いないだろう」
「傭兵上がりがなんのために・・・この店を知らないってことだから、地元人ではないってことだし・・・」
弁護士の沢村が考えあぐねている。
「用心することに越したことはない」
籔は柄にもなく心配気な声を出す。
「皆、無茶なことはしないでおくれよ」
「ママよう“しもべ”に餌をやるようなことを言っちまったな」
みるみる、籔と沢村の顔がぎらついた。
「俺がついているぜ、ママ」
「私がついている、ママ」
「だから・・・聞いてないのかい?無茶しないでって」
「ママ、無駄じゃよ、ママのためなら無茶するために生きている様な連中じゃ」
純爺がユウコの言葉を遮ったが、籔医者も正義の弁護士も全く他人の話は聞いてない。
♪ Layla
♪♪Layla, you've got me on my knees
Layla, I'm begging, darling please
Layla, darling won't you ease my worried mind
さり気なくマリアのピアノ。クラプトンのレイラ。なんてシブい選曲。
マリアのピアノは心を映す。
いつだって本気で心配してくれる “しもべ達?”に囲まれているユウコがちょっと羨ましく思った。私もこんな女になりたい。
♪ Layla
「今夜は解散じゃな」
と純爺が皆を見回しながら言ったが、誰も動こうとはしなかった。ハード・ボイルドの幕は上がったばかりって感じ。
ユウコとマリアのガードは愚か者達に任せて私は店を出た。
表にはなんと、黒塗りのベンツがいかにもって感じで止まっていた。
運転席から陣野組の若頭、元木が降りて来て、後部ドアを開けた。全身黒で統一された服に身を包んだ男、陣野が降りて来た。もの凄い貫禄、圧倒的な威圧感、本物の筋者というオーラが放たれている。
「エンジェルだね?店には愚か者達が集まっているかな?」
「は、はい。エンジェルです。はい、店にはママの“しもべ達”が雁首揃えて待っているわ」
「ママの“しもべ”かぁ」
陣野はフッと笑みをこぼした。微笑の中に優しさを感じた。ちょっと、渋いわ、このおじ様。
「元木、エンジェルを送ってやってくれ」
「はい、で社長は?あっいや、組長はどうするんで」
「あぁ、店にはママのしもべ達しかいないのならちょっと顔を出して来る、心配するな元木。自分の身体は自分で守れるさ」
「ちぃ、だから心配なんでさぁ」
元木は陣野を一人にはさせないという勢いだ。
「陣野の親分さん、私は一人で大丈夫ですから。帰れます」
と私が答えると陣野の鋭い視線が元木を射抜いた。
「わ、わかりましたよ。さぁエンジェル乗ってくれ。組長がお怒りだ」
元木は肩を竦めてみせた。わりと面白い男なのかも知れない。ここは元木の言う通りにしないと後で元木がこっぴどく怒られそうだと思った。
私が恐る恐るベンツの後部席に乗り込むと陣野はバーへ続く地下への階段を降り始めていた。
「組長、勝手に一人で街へ出ないで下さいよ。エンジェルを送ってすぐ戻りますから店に居て下さいよ」
陣野が階段を降りながら軽く右手を振った。
車が静かに発進した。
「元木さん、親分さんのことがホントに心配なんですね。それに親分さんは社長と呼ばれるのが嫌なんだ?何か分かる気がする」
「あの人は、ママのためなら命など簡単に捨てちまう、ママのしもべ達とエンジェルがさっき言っていたが、あの人もママのしもべさ」
「そうなの?」
と愛苦しい大きな瞳を更に大きく広げてしまった。
「いつだってあの店に飲みに行きたいのに、自分が行ってはカタギのお客さんに迷惑がかかると言って誰もいない閉店間際に行くんだ。店の看板が消えた瞬間、この前を通った時だけ飲むことが許されるって考えているのさ」
「なんて純情なの!親分さん」
「冬木が帰るまで、自分がママを守らないといけないと、いや、そう思いこもうとしているんだ」
「ホントは?」
「ホントは?組長がママを守りたいと想っているだけさ」
元木がルームミラー越しにニヤリと笑いかけた。
「ママはこの街のヒロインね、やっぱり私の理想、ハード・ボイルドな女ね」
「ママの瞳があまりにも悲しいから誰かが尋ねたそうだ
『何がそんなに悲しいんだよ』
ママが答えた。
『ふふん、女・・・だからさ』
ってな。そんな女、誰だって惚れちまうだろう?エンジェル」
「女・・・だからさ・・・堪らないわ、そのセリフ。言ってみたい、私もそんなハード・ボイルドなセリフが似合う女になりたいわ」
私はゾクゾクする想いに震えた。
「悲しいくらい女ってやつね、なんて素敵なの!」
※ ※ ※
翌朝、私は昨夜からの高揚感を抱きながら退屈な探偵事務所に向かった。薄汚れた三階建てのビルの階段を使って昇る。エレベーターなんて文明の利器等このビルにはない。
「私の足が太くなったら労災を申請してやるから」
私はぼやきながらも常にキュートな微笑は忘れない。
三階まで昇り切った私は大きく深呼吸。肩で息をするような真似は決してしない。
この階に七尾探偵社は二部屋も借りている。奥が事務所で、その手前の部屋は待合室になっている。レイモンド・チャンドラーの小説、孤高の探偵フィリップ・マーロウの事務所の模倣だ。ボスは英国紳士のシャーロック・ホームズ派のくせに、ハード・ボイルドの原点と言うべき、マーロウの事務所をモデルにするとはポリシーが全くない。肩を竦めたくなるところだが、私はまず出社すると待合室に入って隠しカメラのチェックを行う。
「ボス、おはよー」
カメラに向かって、キュートな笑顔を見せるだけだけど。
そして、隣の事務所に入ると、ボスこと七尾探偵社所長の七尾霊四朗がスリーピースに身を包み、菩薩の様な微笑を浮かべ、スキンヘッドの頭を撫でながら髪の擦り残しをチェックしていた。
「今日もキュートさが顕在ですね、エンジェル」
「ありがとーございまーす、ボスも相変わらず菩薩様のような凛々しさです」
私達はいつもの朝の挨拶を済ませた。
「さて、エンジェル、今日は大忙しですよ。FOOLという名のBARが絡んだ事件では街中の愚か者達が騒ぎ出しますからね」
「で、ボス。私は何を?」
私はワクワクした気持ちを抑えきれずにいた。
「はい、エンジェルは全ての愚か者達の繋ぎ役になって頂きたい」
「ハード・ボイルドな展開を私がコントロールするわけね」
「えっ?そこまでは望んでは」
「お任せ下さい、ボス」
「いや、あの、エンジェル。危ない真似はさせないでとママに頼まれているので」
ボスが横で何やら念仏を唱えているみたいだけど私の耳には入らない。
※ ※ ※
私はマラエ・ランガを探す男にコード・ネームを付けた。元傭兵ということで、
“ ソルジャー ”格好良すぎちゃったかな?でも、うちのボスは即、気に入って調査ファイルを作り、タイトルに“ソルジャー事件”と銘打っていた。
「そろそろ、愚か者の先行部隊、陣野組が因縁吹っ掛ける頃ですね」
もうすぐ、夜の帳が降りる時間、ソルジャーがバー探しを始めるのを狙って、昨夜に引き続き陣野組がけしかける。でも昨夜は簡単に捩じ伏せられたから今回は若頭の元木までも出張るみたい。
「純爺からの電話です、エンジェル」
ボスがケータイを開いた。
「えっ?逃げられた?純爺を含めて四人もいて?」
ボスの言葉でガックリきそうなところだと思ったらそれは間違いよ。
「中々、手強い男ね、ソルジャー。次はこのエンジェルが相手よ」
と私がほくそ笑んでいると、事務所のインターフォンが鳴った。
「これは急展開ですよ、エンジェル」
と言って、ボスはカメラが写している画像を見入っている。画像には屈強なボディをした男が映っていた。
「渦中の男がやって来ましたよ。マラエ・ランガを探す男が」
「なんですって!彼がそうなの?ついているわ、ボス」
「そうですね、エンジェル」
「はい、七尾探偵社です」
私はインターフォンに向かって話した。上ずりそうなのを必死に押さえた。
「あっ、仕事を依頼したいんだ」
男が答えた。
「隣の待合室でお待ち下さいませ」
男は隣の待合室に入った。ボスがカメラを切り替える。
「エンジェル、無茶しないで下さいよ」
ボスの心配など気にかけない。
「飛んで火に入る夏の虫、だわ!」
私は思わず叫んでしまった。
※ ※ ※
その日の夜、私はFOOLという名のBARにいた。昨夜は深夜遅くようやく解散になったようだ。店にはユウコとマリアがカウンターの中で洗い物していて、愚か者は銃爺だけがいた。
「傭兵は店を探している。それなら店にいなければ安心だ。店を開ける時、誰かが付いていると言うことで話はまとまったのじゃよ、エンジェル」
「純爺・・・自分の古本屋、こんなに早く締めちゃっていいのかい?」
ユウコはカウンターに泡盛 “龍” を用意しながら心配していた。
「情報屋で食っているんだ、古本屋は隠れ箕さ」
昨夜はユウコとマリアは一緒にいた。傭兵はマリアが流れた店を探しているのだ。傭兵に悪意は感じられないが、本気で何か仕掛けるなら人知れずやるはずだからだ。マリアをひとりにするわけにはいかない。そして、二十四時間、交代で愚か者達が二人をガードしていたのは言うまでもない。ママのしもべ達の見せ場なのだから。
「エンジェル、あんまりウロウロしないでよ、心配だから」
ユウコの心配顔に、私は微笑む。
「無茶はしないから大丈夫よ、ママ。それでね、コード・ネーム ソルジャーにさっき会ったのよ。話をしたわ」
「どういうことだい?」
と言うとマリアも洗い物の手を止めた。
「七尾探偵社に依頼に来たのよ、昔、マラエ・ランガと呼ばれたバーを探してくれと、そこに流れたピアニストに会いたいと」
「会うわ、そのソルジャーに。純爺は、危険はないと感じているのでしょう?」
マリアの視線が純爺に向いた。
「あぁ・・・悪意は感じない、しかし念のために愚か者達がガードするぜぇ」
「えぇ、お願いします」
「しかし、エンジェルよ。ソルジャーとは良いネーミングだなぁ」
「私って、センスいいでしょう?」
私は可愛い鼻をツンと上げて見せた。そしてケータイを開いた。
「ボス!マリアさんが承諾してくれました。ソルジャー誘導作戦に移行します!」
「誘導か、へたに連れて来ようとして暴れられたら面倒じゃからなぁ」
「そういうこと、ソルジャーにマラエ・ランガは、FOOLという名のBARと名前を変えたとだけ伝えるわ」
「ソルジャーに自力でここに辿り着かせると言うことだな」
後はここで待つだけ。退屈はしない、愚か者達が集合する。
しかし、明日の夜は騒がしくなりそう。私はワクワクしていた。
「これが、ハード・ボイルドで良く言われる、血管をアドレナリンが駆け巡るって奴ね」
ここは、FOOLという名のBAR
愚か者が静かに酔い潰れるための店。
でも、たまには静かではない夜もいいんじゃない?
マリアは表情一つ変えないで純爺を見た。
マリアの左手の薬指は動かないという。
好きだった男の腹に刺さっていたナイフを必死に引き抜こうとして素手で刃を握ってしまった女。それ以来、マリアの左手の薬指は動かない。肝が座っているのか?人生を投げているのか?さすが、この店に流れて来るだけのことはある女だと思う。ハード・ボイルドさではユウコに並ぶ。
「私が、マラエ・ランガと呼ばれていたこの店に流れついたことは業界では意外と知られた話よ」
「天才ピアニスト・・・と呼ばれたマリアだからね」
ユウコが頷いた。
「しかし、マラエ・ランガと呼ばれたのは一〇数年も前じゃ、ということはその男の時間が一〇数年止まっているってことだ」
「そういうことだね、純爺・・・」
「店の名を変えたのはバーテンダーの冬木が抗争事件を起こして無期懲役に行ったからだったなぁ・・・ママよ」
「この辺一帯の地上げに泣かされて、もうおしまいだと考えた時、冬木は動いた。陣野の制止に耳を貸さずに」
「一人で殴り込んだ、陣野の敵対組織の出先機関である地上げ屋事務所にのう」
陣野とは、この街を牛耳る昔気質の筋者、陣野組組長のことだろう。陣野は街の中心にあるタワービルの最上階に住んでいると言われるこの街の顔役だ。黒いシャツに黒いスーツ、黒地のネクタイに真っ赤なバラの花が一輪だけ。どこから誰が見ても筋者という格好をしている。
「漁夫の利を得ただけでさあ、冬木にやるべきことを横から掠られてしまった外道だと、陣野はこの街の顔役とまで呼ばれる男になっても、筋者だという自分の愚かさを忘れてはならないと全身黒づくめの服を来て人生を憂いでおるよ」
「愚か者さ、冬木も。だから・・・あたしは」
「FOOL という名のBARと名前を変えて、愚か者を待っている分けじゃ」
ハード・ボイルドな会話がさり気無く飛び交っている。
「なんてハード・ボイルドなのこの展開は」
バーテンダーの冬木、噂は聞いたことがある。昔、ママに拾われた元筋者だったという男。ずっとこの店を、いいえ、ユウコを支え守って来た男。
「あたしはエンジェルが心配になって来たよ。余計な真似はしちゃダメだからね」
「ママ、大丈夫よ。私はコード・ネーム、エンジェルよ」
「キュートなだけでは危ない橋は渡れんのじゃ、エンジェル」
「純爺の年齢でも、私はキュートなんだ?」
「わしの年齢は余計じゃい」
「エンジェルに危険はないかい?」
ユウコの瞳を不安が走り、純爺に向いた。
「悪徳刑事岸村も坊主探偵も、もちろん陣野達も動いている・・・エンジェルには指一本、触れさすまいよ、ママ、誰もがエンジェルを大切に想っている」
あまりにもさり気なく、私がいかに誰からも愛されているかという一言が流れてゆく。私がリアクションを入れる間もなく話は展開。
「それならいいけどね、で、純爺は何をしているのだい?」
「おいおいママ、わしは情報屋だから、ここで集まる情報を待っていればいいって寸法じゃ」
「年だしね、純爺・・・」
純爺は苦笑してケータイを開いた。
「その年でケータイを使いこなすなんて凄いよ、純爺は」
「だからな、情報屋は最先端技術を取扱えなけりゃ商売にならん」
「なるほどね」
ユウコが腕を組んで感心したという様に頷いた。私も同じように頷いた。決してユウコの真似をした分けではない。
カウベルが鳴った。
振り返る必要もない、騒がしい声で誰が来たのだか分かる。
必ず二人セットでやって来る。
「疫病神みたいな顔をして純爺がいるってことはだ、噂は本当か?」
と最初にダミ声で口火を切ったのは籔、優秀な大学病院の外科医だったが今ではこの街で“ヤブ医者”という看板を上げて闇医者をやっている。
「こんな闇医者や引退した殺し屋みたいな純爺よりも頼りになる私が来たからには安心しておくれママ」
白衣を上着代わりに来ている籔とは違ってグレー系のスーツで紳士面したこの男は沢村正義、弁護士だが、変わり者だ。
依頼人に“正義”がない限り、弁護を引き受けない。
籔と沢村は幼馴染で親友だ。しかし、どちらもユウコにぞっこんでライバル心剥き出しでここに来る。必ず、二人でやって来てユウコを取り合い騒ぐ。たまに抜け駆けして一人で来ると借りて来た猫のように小さくなるという実は純情な二人。
「ママを狙う妙な野郎がうろついていると聞いて心配でよ」
と籔が言えば、
「籔は抗争があれば闇医者は儲かる、情報が欲しいだけだ、ママには私がついている」
と沢村が身を乗り出し自分をアピールする。
籔は元々大学病院で優秀な外科医だった。
しかし、藪は患者の家族に同情し、助かる可能性がないにも関わらず手術を執刀した。患者は助からなかった。
籔は告訴され医師免許剥奪の騒ぎまでなったが籔は強いて反論はしなかった。
そこで全面的な弁護をして籔を守ったのが沢村正義だった。
沢村は親友、籔のために鬼神の如く法定で熱弁を奮って籔を救った。
「そこに正義が見えたなら私は戦う」
それが沢村正義と言う弁護士だ。
二人の友情は堅い。
「ごめんなさい。ナイトのお二人さん。今回の事件は私を捜しているみたいなの」
とマリアが声をかける。
「マリア、二人にはそんなこと言っても意味はない、ママの前で良い格好する口実があればいいだけなんじゃよ、この二人はのう」
「純爺・・・相変わらず、口が軽いなあ。そんなので情報屋が務まるのか?」
と説教するのは“正義の味方弁護士”の方だ。
ケータイのバイブ音。
「坊主探偵からのメールだ」
皆の視線がケータイに集中する。
「慌てるな、今から読む。まず陣野のとこの若い衆三人が因縁をつけて襲ったが全員が簡単に捩じ伏せられたそうじゃ」
「ほう、まず三人の客が出来たと・・・闇医者繁盛しそうだぜぇ」
と籔がニヤリと笑うと
「本性を現したな籔よ」
と正義が素早くツッコミを入れた。
全く息が合う二人だ。私の存在が希薄になるくらい濃い客達がここに集まっている。
「なんて濃いの?ここの空気というか、時間の密度」
「おっエンジェルいたのか?今日はやけに大人しいじゃないか?」
藪がようやく私に気づいた。
「ははあ、エンジェル、ハード・ボイルドの匂いに胸をときめかせているのだろう?」
すかさず正義の弁護士が私に顔を向けた。
純爺のケータイが鳴った
「今度は誰からだ?純爺・・・」
と正義が睨む。
「おう、岸村の旦那、早いじゃあないか」
また皆の視線が集まる中、純爺はケータイで通話を始めた。
「外国で傭兵だったと?それは手強いのう」
純爺が電話を切った。
「岸村が警察組織のデータベースから調べて来た情報だ、間違いないだろう」
「傭兵上がりがなんのために・・・この店を知らないってことだから、地元人ではないってことだし・・・」
弁護士の沢村が考えあぐねている。
「用心することに越したことはない」
籔は柄にもなく心配気な声を出す。
「皆、無茶なことはしないでおくれよ」
「ママよう“しもべ”に餌をやるようなことを言っちまったな」
みるみる、籔と沢村の顔がぎらついた。
「俺がついているぜ、ママ」
「私がついている、ママ」
「だから・・・聞いてないのかい?無茶しないでって」
「ママ、無駄じゃよ、ママのためなら無茶するために生きている様な連中じゃ」
純爺がユウコの言葉を遮ったが、籔医者も正義の弁護士も全く他人の話は聞いてない。
♪ Layla
♪♪Layla, you've got me on my knees
Layla, I'm begging, darling please
Layla, darling won't you ease my worried mind
さり気なくマリアのピアノ。クラプトンのレイラ。なんてシブい選曲。
マリアのピアノは心を映す。
いつだって本気で心配してくれる “しもべ達?”に囲まれているユウコがちょっと羨ましく思った。私もこんな女になりたい。
♪ Layla
「今夜は解散じゃな」
と純爺が皆を見回しながら言ったが、誰も動こうとはしなかった。ハード・ボイルドの幕は上がったばかりって感じ。
ユウコとマリアのガードは愚か者達に任せて私は店を出た。
表にはなんと、黒塗りのベンツがいかにもって感じで止まっていた。
運転席から陣野組の若頭、元木が降りて来て、後部ドアを開けた。全身黒で統一された服に身を包んだ男、陣野が降りて来た。もの凄い貫禄、圧倒的な威圧感、本物の筋者というオーラが放たれている。
「エンジェルだね?店には愚か者達が集まっているかな?」
「は、はい。エンジェルです。はい、店にはママの“しもべ達”が雁首揃えて待っているわ」
「ママの“しもべ”かぁ」
陣野はフッと笑みをこぼした。微笑の中に優しさを感じた。ちょっと、渋いわ、このおじ様。
「元木、エンジェルを送ってやってくれ」
「はい、で社長は?あっいや、組長はどうするんで」
「あぁ、店にはママのしもべ達しかいないのならちょっと顔を出して来る、心配するな元木。自分の身体は自分で守れるさ」
「ちぃ、だから心配なんでさぁ」
元木は陣野を一人にはさせないという勢いだ。
「陣野の親分さん、私は一人で大丈夫ですから。帰れます」
と私が答えると陣野の鋭い視線が元木を射抜いた。
「わ、わかりましたよ。さぁエンジェル乗ってくれ。組長がお怒りだ」
元木は肩を竦めてみせた。わりと面白い男なのかも知れない。ここは元木の言う通りにしないと後で元木がこっぴどく怒られそうだと思った。
私が恐る恐るベンツの後部席に乗り込むと陣野はバーへ続く地下への階段を降り始めていた。
「組長、勝手に一人で街へ出ないで下さいよ。エンジェルを送ってすぐ戻りますから店に居て下さいよ」
陣野が階段を降りながら軽く右手を振った。
車が静かに発進した。
「元木さん、親分さんのことがホントに心配なんですね。それに親分さんは社長と呼ばれるのが嫌なんだ?何か分かる気がする」
「あの人は、ママのためなら命など簡単に捨てちまう、ママのしもべ達とエンジェルがさっき言っていたが、あの人もママのしもべさ」
「そうなの?」
と愛苦しい大きな瞳を更に大きく広げてしまった。
「いつだってあの店に飲みに行きたいのに、自分が行ってはカタギのお客さんに迷惑がかかると言って誰もいない閉店間際に行くんだ。店の看板が消えた瞬間、この前を通った時だけ飲むことが許されるって考えているのさ」
「なんて純情なの!親分さん」
「冬木が帰るまで、自分がママを守らないといけないと、いや、そう思いこもうとしているんだ」
「ホントは?」
「ホントは?組長がママを守りたいと想っているだけさ」
元木がルームミラー越しにニヤリと笑いかけた。
「ママはこの街のヒロインね、やっぱり私の理想、ハード・ボイルドな女ね」
「ママの瞳があまりにも悲しいから誰かが尋ねたそうだ
『何がそんなに悲しいんだよ』
ママが答えた。
『ふふん、女・・・だからさ』
ってな。そんな女、誰だって惚れちまうだろう?エンジェル」
「女・・・だからさ・・・堪らないわ、そのセリフ。言ってみたい、私もそんなハード・ボイルドなセリフが似合う女になりたいわ」
私はゾクゾクする想いに震えた。
「悲しいくらい女ってやつね、なんて素敵なの!」
※ ※ ※
翌朝、私は昨夜からの高揚感を抱きながら退屈な探偵事務所に向かった。薄汚れた三階建てのビルの階段を使って昇る。エレベーターなんて文明の利器等このビルにはない。
「私の足が太くなったら労災を申請してやるから」
私はぼやきながらも常にキュートな微笑は忘れない。
三階まで昇り切った私は大きく深呼吸。肩で息をするような真似は決してしない。
この階に七尾探偵社は二部屋も借りている。奥が事務所で、その手前の部屋は待合室になっている。レイモンド・チャンドラーの小説、孤高の探偵フィリップ・マーロウの事務所の模倣だ。ボスは英国紳士のシャーロック・ホームズ派のくせに、ハード・ボイルドの原点と言うべき、マーロウの事務所をモデルにするとはポリシーが全くない。肩を竦めたくなるところだが、私はまず出社すると待合室に入って隠しカメラのチェックを行う。
「ボス、おはよー」
カメラに向かって、キュートな笑顔を見せるだけだけど。
そして、隣の事務所に入ると、ボスこと七尾探偵社所長の七尾霊四朗がスリーピースに身を包み、菩薩の様な微笑を浮かべ、スキンヘッドの頭を撫でながら髪の擦り残しをチェックしていた。
「今日もキュートさが顕在ですね、エンジェル」
「ありがとーございまーす、ボスも相変わらず菩薩様のような凛々しさです」
私達はいつもの朝の挨拶を済ませた。
「さて、エンジェル、今日は大忙しですよ。FOOLという名のBARが絡んだ事件では街中の愚か者達が騒ぎ出しますからね」
「で、ボス。私は何を?」
私はワクワクした気持ちを抑えきれずにいた。
「はい、エンジェルは全ての愚か者達の繋ぎ役になって頂きたい」
「ハード・ボイルドな展開を私がコントロールするわけね」
「えっ?そこまでは望んでは」
「お任せ下さい、ボス」
「いや、あの、エンジェル。危ない真似はさせないでとママに頼まれているので」
ボスが横で何やら念仏を唱えているみたいだけど私の耳には入らない。
※ ※ ※
私はマラエ・ランガを探す男にコード・ネームを付けた。元傭兵ということで、
“ ソルジャー ”格好良すぎちゃったかな?でも、うちのボスは即、気に入って調査ファイルを作り、タイトルに“ソルジャー事件”と銘打っていた。
「そろそろ、愚か者の先行部隊、陣野組が因縁吹っ掛ける頃ですね」
もうすぐ、夜の帳が降りる時間、ソルジャーがバー探しを始めるのを狙って、昨夜に引き続き陣野組がけしかける。でも昨夜は簡単に捩じ伏せられたから今回は若頭の元木までも出張るみたい。
「純爺からの電話です、エンジェル」
ボスがケータイを開いた。
「えっ?逃げられた?純爺を含めて四人もいて?」
ボスの言葉でガックリきそうなところだと思ったらそれは間違いよ。
「中々、手強い男ね、ソルジャー。次はこのエンジェルが相手よ」
と私がほくそ笑んでいると、事務所のインターフォンが鳴った。
「これは急展開ですよ、エンジェル」
と言って、ボスはカメラが写している画像を見入っている。画像には屈強なボディをした男が映っていた。
「渦中の男がやって来ましたよ。マラエ・ランガを探す男が」
「なんですって!彼がそうなの?ついているわ、ボス」
「そうですね、エンジェル」
「はい、七尾探偵社です」
私はインターフォンに向かって話した。上ずりそうなのを必死に押さえた。
「あっ、仕事を依頼したいんだ」
男が答えた。
「隣の待合室でお待ち下さいませ」
男は隣の待合室に入った。ボスがカメラを切り替える。
「エンジェル、無茶しないで下さいよ」
ボスの心配など気にかけない。
「飛んで火に入る夏の虫、だわ!」
私は思わず叫んでしまった。
※ ※ ※
その日の夜、私はFOOLという名のBARにいた。昨夜は深夜遅くようやく解散になったようだ。店にはユウコとマリアがカウンターの中で洗い物していて、愚か者は銃爺だけがいた。
「傭兵は店を探している。それなら店にいなければ安心だ。店を開ける時、誰かが付いていると言うことで話はまとまったのじゃよ、エンジェル」
「純爺・・・自分の古本屋、こんなに早く締めちゃっていいのかい?」
ユウコはカウンターに泡盛 “龍” を用意しながら心配していた。
「情報屋で食っているんだ、古本屋は隠れ箕さ」
昨夜はユウコとマリアは一緒にいた。傭兵はマリアが流れた店を探しているのだ。傭兵に悪意は感じられないが、本気で何か仕掛けるなら人知れずやるはずだからだ。マリアをひとりにするわけにはいかない。そして、二十四時間、交代で愚か者達が二人をガードしていたのは言うまでもない。ママのしもべ達の見せ場なのだから。
「エンジェル、あんまりウロウロしないでよ、心配だから」
ユウコの心配顔に、私は微笑む。
「無茶はしないから大丈夫よ、ママ。それでね、コード・ネーム ソルジャーにさっき会ったのよ。話をしたわ」
「どういうことだい?」
と言うとマリアも洗い物の手を止めた。
「七尾探偵社に依頼に来たのよ、昔、マラエ・ランガと呼ばれたバーを探してくれと、そこに流れたピアニストに会いたいと」
「会うわ、そのソルジャーに。純爺は、危険はないと感じているのでしょう?」
マリアの視線が純爺に向いた。
「あぁ・・・悪意は感じない、しかし念のために愚か者達がガードするぜぇ」
「えぇ、お願いします」
「しかし、エンジェルよ。ソルジャーとは良いネーミングだなぁ」
「私って、センスいいでしょう?」
私は可愛い鼻をツンと上げて見せた。そしてケータイを開いた。
「ボス!マリアさんが承諾してくれました。ソルジャー誘導作戦に移行します!」
「誘導か、へたに連れて来ようとして暴れられたら面倒じゃからなぁ」
「そういうこと、ソルジャーにマラエ・ランガは、FOOLという名のBARと名前を変えたとだけ伝えるわ」
「ソルジャーに自力でここに辿り着かせると言うことだな」
後はここで待つだけ。退屈はしない、愚か者達が集合する。
しかし、明日の夜は騒がしくなりそう。私はワクワクしていた。
「これが、ハード・ボイルドで良く言われる、血管をアドレナリンが駆け巡るって奴ね」
ここは、FOOLという名のBAR
愚か者が静かに酔い潰れるための店。
でも、たまには静かではない夜もいいんじゃない?