FOOLという名のBAR
第二章 MARIA

 あれから夜まで、怖いくらい何も起きなかった。十時までの時間を潰して回った。今夜はいかがわしい連中は嘘のように現れなかった。
 エンジェルからの連絡で、十時に“正義の味方 沢村正義弁護士事務所”があったビルの地下にある “FOOLという名のBAR ”に来るように言われた。まだ九時だったが俺は店に向かった。別にあいつらが現れる十時に合せる義理はない。敵陣に乗り込むのだから先に行く方がいい。
 ドアを開けるとカウベルが鳴った。
「ふざけた街だぜぇ」
 俺は思わず口にした。
 店の中にはこの街に来て不愉快な思いをさせられた連中が雁首揃えて待っていた。
 カウンターの中にちょっと翳りがあるが瞳がくりっとしたいい女がいた。この店のママだろう。店の奥にはアップライトのピアノがあった。長い髪の女の背中が愚か者達の合間に見えた。
「ようこそ、ソルジャー、約束の時間より早く来るに違いないと皆が言っていたから時間をサバよんでおいたの」
「ふざけやがって。探偵エンジェルなんて名前からふざけていやがるけどな」
「だって、私にぴったりのコード・ネームでしょう?ソルジャーだって私がキュートだと思ったくせに」
「た、確かに・・・それにソルジャーって中々良いネーミングだ・・・」
「でしょう?」
 エンジェルが得意気に顔を上げた。
 小生意気な女、と想ってもそれを許してしまう何かを兼ね備えた女だ。
「俺が渡した調査料の前金は返してくれるのだろうな?」
「セコい!そんなシルベスター・スタローンみたいな身体して」
「知っていて教えなかったのだから返金だろう。まっ、それは置いといて、だ。でね、ここにいるあんたらも同罪だ」
 俺は身構えながら店の中にいる愚か者達に視線を走らせた。
 悪徳刑事、岸村の視線とぶつかった。
「俺を覚えていてくれたか?若造」
「暗い目をして、職務質問だと言って、いきなり連行しようとした、本物か分からないが岸村と名乗った刑事。お前、俺が何をしたと言うんだよ、健全な市民な俺を」
「ソルジャー、お前は市税を払っているのか?」
「えっ?イヤ、その、俺はここの市民じゃないから、ずっと海外にいたから」
「嘘をついたか?記録する」
「ちょっと待てよ、おい!何を記録しているんだよ!おいおい!お前は何者だ!?」
 昼間、藪と並んでいた茶系のスーツを着た男だった。
「誰か、教えてやってくれないか?」
「何で、自分で名乗らない?」
「彼は正義がない限り仕事は受けない、沢村正義弁護士先生よ」
「あっそうなの、ありがとうエンジェル」
「素直ね、ソルジャー」
 とエンジェルが親指を立てる。
「人間、素直が一番です」
 と言って唇に菩薩のような笑みを浮かべた探偵。
「確か・・・七尾。何が素直だ、あんたが一番素直じゃあない」
「マラエ・ランガは名前を変えたと教えて差し上げたのに」
「回りくどいんだ、この場所教えてくれたら済む話じゃないか?」
「皆さんが集まるのに時間が必要だったのですよ」
「俺はもう、まともに口をききたくない」
 と俺は頭を振った。
「うちの若いのが世話になったなぁ」
 真っ赤なバラの刺繍のネクタイ以外、黒で統一した、何処からどう見ても筋者全開の男が凄んだ。
「ヤルのか?あんた、俺、強いよ!殺しちゃうよ!」
「陣野って者だ」
 殺気。
 俺も陣野も無意識に戦闘モードに入って行く。ピンと空気が張り詰めた。
「待て、待て、陣野もソルジャーも」
 緊迫感をブチ壊すようにヒョコヒョコと純爺が割り込む。
「わしは純爺じゃ、おちつけよ、二人共」
「陣野さんよ、あんたのとこの若い衆はなぁ、いきなり『この街に何のようだ』って殴り掛かってきたんだぞ!因縁を吹っ掛けるどころじゃあない。まるでテレビドラマだ」
 フッと笑って、陣野は静かに殺気を収めた。俺も息をつく。
「陣野さんよう。あんたとやり合うなら俺も本気で戦闘モードに入らなければやられる、そんな男だよ。あんた。それにあんたとこの若頭、元木って奴もな」
「純爺よ、邪魔しくさって、俺の商売上がったりだぜぇ」
 と言ったのは汚れた白衣を上着のように引っかけた藪だ。
「彼はヤブ医者の先生」
 とエンジェルが説明する。
「ヤブ医者って本人の前で言うなんてエンジェルもCuteな顔して酷い人だなぁ」
「いいんだよ、俺は“ヤブ医者”って看板上げている天才外科医で藪って者だ」
「天才には見えないけど・・・ね」
 と言ってエンジェルにウインクされて、俺は照れ笑いを浮かべた。悪い男ではないようだ。
「赤くなっているぜぇ、こいつぅ」
 と指差したのは籔医者だ。
「うるさい!ホントふざけた街だぜぇ!ここは」
そこで、パンパンと手を叩く音がした。カウンターの中の女がスツールに俺を招いた。
「愚か者達の自己紹介は終わったね?ようこそ、ソルジャー。あたしはユウコ、この店のママだ」
「ユウコママかい?愛嬌のある笑顔を向けているが、どうにもならない悲しい目をしているじゃないか?いい女だぜ」
 愚か者達がザッとカウンターの前に立ち塞がる。
「ふふん、なるほど、あんたらママのしもべか!道理でここに辿り着くのに苦労したのか分かった気がするぜ」

♪ ピアノの音・・・

「In a sentimental mood、JAZZのスタンダード・ナンバーだよ」
 とユウコが教えてくれた。そして、エンジェルの横のドアに一番近いカウンターのスツールを勧めた。全てを掌握出来る席を勧めるとは戦うってことを良く承知した女だ。そして、敵じゃないという意味だろう。
 愚か者達が道を譲り、ピアニストを庇うようにピアノの前に並んだ。
「俺は無知でね、戦うことしか知らないんだ、音楽なんて分からない」
「これはマリアの男が好きだった曲でね・・・その男は」
「もう、いない・・・か?バーボンをくれ、ワイルド・ターキーで」
ショット・グラスにワイルド・ターキーが注がれた。俺はアルコール度が五〇度を
超えるバーボン・ウィスキーを一息で呷る。
「あたしだってピアノのことなんて分からない・・・ピアノが音を出していたらそれだけでピアニストだと思ってしまうよ」
ユウコは空になったショット・グラスを満たしてくれた。
「専門家がマリアのピアノを聴いたらとるに足りないものだと言うのかも知れない。マリアは素手でナイフの刃を握ってしまった・・・あの曲が好きだった男の腹に刺さっていたナイフを必死に引き抜こうとしてね・・・それ以来、マリアの左手の薬指は動かない・・・堕ちてゆく女の言い分けだけかも知れない」
「そんなわけないさ。柊さんが惚れた女だ」
「あなたは柊の使いなのね?」
 振り向いたマリアに俺は息を飲む。
 絶世の美女マリア。でも、悲し過ぎる目をしているのはユウコと同じだと思った。
「柊さんは、あんたの腕の中で死ねたのだな?」
「そうよ、よく辿りつけたものだと検死官は言っていたわ」
「柊さんはもう、助からないと感じていたのだと思う。あなたの元に辿りつけるかも賭けだったはずだ」
「何をやっていたんだお前等は。その頃はまだ餓鬼だろ?」
 と聞いたのは藪だ。
「俺達は違法なモノを捌いていた外道な餓鬼だったよ。それがその街を牛耳る筋者にばれて奴らは俺達を取り込もうとした。でも俺達は拒否した。あとは追われるだけだ。逃げなきゃならなかった。俺達は高飛びする手筈を整えたが奴等に嗅ぎつけられた。そして俺達、舎弟を逃がす為に柊さんは盾になって刺された・・・」
 俺はショット・グラスを飲み干す。
「ある日、俺達のアパートでテレビを見ていた時にあなたのレコード販売でベストテン入りのニュースと全国を回るコンサート情報が放送された。柊さんは照れたような顔をして、
『あのピアニストは俺の幼馴染なんだ。立派になっちまったけど彼女は』
 眩しそうにテレビを視ていた。
『頼みがあるんだが』
『柊さん、改まってなんです?何でもやりますよ』
 柊さんは鞄の中から譜面を取り出した。
『これをいつか、あのピアニストに届けてくれ。今じゃだめだ。今、彼女は大事な時だ。これからもっと売れる。俺みたいなチンピラが近づくことは許されない。そうだな、一〇年後くらいかな・・・餓鬼の頃の約束で、どちらかがプロになったらお祝いに一曲、プレゼントしようと言っていたのさ。どちらが先にプロになるか競争だと言って・・・彼女は忘れてしまっているかも知れないけどな』
 俺は一応、保管しておくと言って預かった」
 空になったグラスが黙って満たされた。

「そして、あの日、あの街にあなたがコンサートで来る日だった。俺は、柊さんにチケットをプレゼントした。柊さんは喜んでくれた。しかし、あの日の夕方、俺達は筋者に追われた。柊さんは盾となって俺達舎弟を庇った。
『逃げろ!』と言って柊さんは刺された。それでも必死になって俺達を逃がしてくれたんだ」
「そして・・・柊は私の元に来てくれた・・・」
「あぁ・・・俺達は皆、散った。俺は海外に高飛びするのに成功して傭兵になった・・・戦い続けたよ、もちろん正義の為になどじゃねえさ」
「過去を忘れる為には戦いの中に身を投じるしかなかったのだろう?ソルジャー」
「全てお見通しってことかい?ママ」
 俺が向けた笑みにユウコは頷いた。

「柊は私とは幼なじみだったの。一緒にピアノを習っていた・・・でも、柊のお父さんの仕事が傾いてしまって・・・ピアノなんてやっている場合じゃなくなってしまったの、柊は日に日に荒んでいった・・・」
 マリアの瞳は悲しいままだ。過去を受け入れている。
「俺は、柊さんから預かったものがあるんだ」
「おっと、何かを取り出すならゆっくりだ、ソルジャー、まだ全てを信じたわけじゃない」
 と言う岸村の言葉に愚か者達が一斉に身構えた。
 俺はジャケットのポケットからゆっくりと封筒を取り出しカウンターの上に置いた。
 ユウコが中身を引っ張り出す。皆の視線が集まる。譜面だ。
「柊さんが残して俺に預けたものは一曲の譜面だ。もちろん俺に読めるはずがない」
 マリアが震える指で譜面を掴んだ。
「弾いてくれよ、これを託せるのは、あんたしかいない。だから、捜していたんだ・・・柊さんが死ぬ前に会いに行こうとしたピアニストの行く末を・・・」
「天才ピアニストと呼ばれていたマリアさんは怪我をして業界から消え、流れ流れてマラエ・ランガに流れついたと言う噂を頼りにここまで来たと言う分けですか・・・」
 と、坊主探偵が説明してくれた。

♪ ピアノの音・・・
 柊が最後に作った曲・・・
♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪

「哀しい旋律の中に、必死に足りないモノを求め、苦しみもがきながらもその先に希望を掴もうとしている。これは “渇き”だね。この曲は、柊って男の“渇き”だ」
 と、ユウコが言った。

 誰も何も言わず、ピアニストの奏でる音に引き込まれて行く。

 マリアの頬を止めどなく涙が零れて逝く。初めて譜面を見て弾いているとは想えない。柊とマリアはこの曲を通じて一体になっている。

“渇き ”

 それ以外のタイトルは思い浮かばない。
 愚か者達の“渇き ”を癒してくれ。

♪ ピアノの音・・・は続く。
 マリアは声を上げずに泣いている。

「愛した男のために人生を棒に振った女・・・会えて良かった。柊さんの想いを運べたことが意味もなく嬉しいぜ」
「ソルジャー、あんたも愚か者の仲間入りってことだね」
「俺の奢りだ、ママ」
 ユウコがグラスを全員の分、用意する。
 ユウコがワイルド・ターキーを注ぐ。
 喉を焼くバーボンでは喉の渇きは癒されない。
「心の渇きを癒すのさ」
 愚か者の誰かが言った。
「俺はこの街が、この店が、いや多分この愚か者達が妙に気にいってしまったみたいだぜ」
 俺はグラスを掲げた。皆がそれにならう。
「ピアニストにも一杯奢りたい」
「ギムレットでいいかい?」
 ユウコはカウンターにプリマス・ジンとローズ社のライムジュースを並べた。
 ミキシング・グラスに氷を詰めてジンとライムをハーフ&ハーフで注いだ。バースプーンでステア。ミキシング・グラスにストレーナーを被せ、氷を入れたオールド・ファッションド・グラスに中身を注いだ。きっちり一杯だけ。
「クラシック・ギムレットだよ」
 ユウコはカウンターを出てピアノにギムレットを運んだ。
 マリアは一息でグラスを空けた。
「ようやく、俺もJET LAGが収まったようだよ」
 曲が変わった。ブルースだ。
 ギムレットのお礼のつもりなのか、俺にぴったりの選曲だと思った。

 ヤスミンのブルース

♪ JET LAG
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