FOOLという名のBAR
第14夜 雨のリグレット
あたしはユウコ。バーのカウンター越しに毎夜、様々な人生のワンカットシーンを見て来た。
時にそのワンカットシーンをフィルムのように繋いで見ることがある。
そこに浮かび上がる人生の悲哀、喜びにあたしが作ったカクテルが添えられた時・・・
愚か者達の心が少しだけでも満たされたなら幸せだと思う。
FOOLという名のBAR
ここは、愚か者が静かに酔い潰れるための店。
今宵はどんな愚か者達がやって来るだろうか・・・
ドアが開いてカウベルが鳴った。
マリアが傘を畳みながら冬の気配を連れて入って来た。
「ママ、外は冷たい雨がしとしとと降っているわ」
「雨か、この地下のカウンターの中にいると天気の変化さえ気付かないことがあるね」
「着替えて来ます」
と言って、マリアは店の奥に消えた
マリアは気がつくとこの店のピアニストになっていた。
そして今ではこの店の酒のように、この店には必要不可欠な存在になっている。
マリアのピアノは愚か者の心を映す。
人の心が読めるのかと、ふと思ってしまうくらいぴったりの選曲が愚か者の心に入り込む。
いつもと同じように黒いドレスに着替えたマリアが店の奥のピアノに向かう。
「こんな雨の夜は悲しくなるね、ママ」
マリアの指がピアノの上に走り出す。
♪ ♪ ♪
初めて聴く曲だった。
「私が好きなChiiの曲・・・雨のリグレット」
なるほど、リグレット(後悔)だと思う。
哀愁が走るような曲。
どこかもどかしくて、切ない・・・リグレット、そう後悔に涙したくなる、こんな夜にぴったりの選曲だと思う。
カウベルが鳴った。
入って来た今宵の愚か者は珍しい組合せだった。
「珍しいじゃないか。藪医者先生が岸村の旦那とつるんで来るなんて」
藪医者とは嫌味を言っているのではなく、藪という苗字に“医者”を付けて、“藪医者”と看板を上げているからだ。
実際はヤブどころではなく、天才外科医として名を知られた大学病院の医師だった。
この街に流れて来てからは表の診療はほとんどやらず、闇医者だという噂だ。
数年前、患者の家族の悲しみに耐えられず、助かる見込みのなどない患者のオペを強行し、患者を死なせてしまった。
裁判沙汰になり、医師免許剥奪という騒ぎになったが、それだけはさせないと弁護したのが藪医者の親友で沢村正義という弁護士だった。
藪はいつも沢村と二人で必ずやって来てライバル心剥き出しで騒ぐ。
ありがたいことにあたしを口説きに来るのだ。二人は親友であり、恋敵でもあるわけだ。
「抜け駆けかい?藪先生」
「ママ、男、藪はそんな真似はせぬ。正義には岸村の旦那と先に行っていると伝えた。今頃、奴はヤキモキしながら仕事を進めているだろうぜ」
時々、一人で抜け駆けして来ることがあるが、どういう分けか借りて来た猫のように静かになってしまう二人だった。
親友を裏切ることが出来ない男達なのだと思う。
あたしは岸村のヘネシーをブランデー・グラスに注いで出した。
藪にはプリマス・ジンをロックで出して半分に割ったライムを皿に並べて添える。藪はライムを絞りながらジンを飲む。
ジンは昔、熱病の特効薬として開発された由緒正しき薬なのだと藪はうそぶく。
「見つけたのだよ、ママ。奴を偶然に」
岸村がブランデーを呷りながら吐き出すように言った。
岸村の暗い目が更に深い闇を見ているようだ。
岸村は犯罪者になって逃亡している友達を捕まえるために刑事になった。悪徳刑事と蔑まれながら裏社会と癒着して情報を探していると噂されていた。
「この街に現れたのだよ。女と同棲しながら流れて来たのさ。あいつが、よりによって俺がいるこの街に」
岸村の空になったグラスをあたしは黙って満たした。
岸村の瞳が虚空を睨んでいた。そして、その瞬間をポツリポツリと岸村は語った。
※ ※ ※
昼下がりの雑踏。
定食屋から出て、アーケードを歩く岸村は、前方から歩いて来るフードをかぶった男とすれ違う。
「岸村?」
「太宰!?だと?」
男はフードを翻(ひるがえ)し内ポケットから拳銃を掴み出した瞬間には撃鉄を起こし岸村に向かってトリガーを絞ろうとした。
岸村は振り向きざまにショルダーホルスターから拳銃を抜いていた。
“ 銃声 ”
一発の銃声だけが響いた。
倒れ込んだのはフードの男の方だ。
内ポケットに拳銃を隠していたフードの男より、ショルダーホルスターに拳銃を保持していた分、岸村の方が早かった。
フードの男からの一瞬の殺気を刑事の嗅覚で察知し、繁華街、雑踏、そして至近距離であることを総合的に判断した岸村は本能で発砲したとしか思えなかった。
「だ、太宰!」
岸村の絶叫が繁華街に響いた。
※ ※ ※
「奴と繁華街のど真ん中で鉢合わせしてしまったのだ。奴も愕然とした顔を俺に向けた、と同時に奴は俺に向かって拳銃を構えた。街のど真ん中で発砲されるわけにはいかなかった。だから、俺はよ、ママ・・・ダチをこの手で俺の拳銃で撃っちまった」
藪は苦虫を噛むような顔をしながらライムを自分のグラスに絞った。
「ジンが効くぜえ、こんな夜にはよ」
藪は一息でグラスを空けた。
あたしは藪のグラスにジンを注ぐ。
「岸村の旦那がよ、うちの診療所のドアを叩くのさ。ガンガンとよ。俺は闇医者だぜ、昼間はやってねえとドアを開けたんだよ」
藪はもう一つのライムを絞ってグラスを揺らした。
「岸村が血だらけの男を担いで立っていやがった」
藪はその時の状況を自分で味を調整したジン・ライムを飲みながら説明した。
岸村は自分で撃った友達を降ろして
『助けてくれよ、先生よ。ダチなんだよ。こいつは俺のダチなんだよ』
と友人の血で汚れた岸村は鬼気迫る顔をして藪に縋ったそうだ。
「どうにもならねえさ。もう、そいつは生きてなかったんだよ、ママ。岸村は遺体を担いで俺の所まで来たんだ」
「そうすることしか出来なかった。他に考えることが出来なかった」
岸村の目は何も見えないように虚ろだった。
周りの状況を的確に判断し刑事としての本能で友達を射殺した刑事、岸村の悲しみを何で裁けるのだろうか。
♪ 雨のリグレット
マリアのピアノが現実に引き止めてくれる。
雨の街で起きた偶然が引き起こしたリグレット
「ママ、何かカクテルを作ってくれないか?太宰ミキオ、それがあいつの名前だ。ミキオを送るために」
と言う岸村の言葉を聞いて息を呑んだのはあたしだけではない。
マリアのピアノも音が止んだ。
いつも雪乃という同棲している女とこの店で静かに飲んでいたミキオ。あたしは酒棚から
“太宰 ”というネームタグがついたウィスキーのボトルをカウンターに置いた。
岸村の目がネームタグに吸い込まれた。
「ここに来ていたのか?あいつは・・・」
「ああ、そうだよ。彼女と一緒にね。過去があるとは思ったけどね。まさかミキオがお前が追っていた友達だったとは」
♪ Summertime
ミキオの中の何かを眠らせようとするかのようにマリアはいつもこの曲を彼らに弾いた。
「サマータイムか・・・子守歌だったかな?確か」
藪が目を閉じてピアノに耳を傾ける。
あたしはミキオのボトルとドライ・ベルモットとカンパリを等分ずつミキシング・グラスの中に入れてステアした。
「オールド・パル。古い友達っていうカクテルだったかな、ママ」
「ミキオのボトルから作った」
あたしは岸村の前にカクテルを置いた。
岸村は静かに呷った。
「ああ、ほろ苦くて、かすかに甘くて・・・美味いよ、ママ。餓鬼の頃を想い出す。そんな気分にしてくれる」
岸村はふう〜と息を吐いた。
悪徳刑事と蔑まれながら犯罪者となった友達を追いかけ、何かに取りつかれたように裏社会を彷徨っていた男。
「ようやく、息がつけたかい?旦那」
あたしはオールド・パルのグラスを下げた。
岸村は目を閉じて頷いた。
♪ Summertime
子守歌が今はミキオへの鎮魂歌のように心に入り込んで来る。
雪乃はどうしただろうか?ミキオの優しさに反発して、気がつくと浮気をしてしまう女だった。
雨の街。ミキオの魂を探しながら彷徨う、雪乃の姿が目に浮かんだ。
曲が変わった。
♪ 雨のリグレット
『全部、黒く塗り潰せたらいいのにな。白黒つけなくて済む』
と岸村が数週間前に言った言葉が甦った。
カウベルが鳴った。
ドアが開くと外の雨音が響いた。
「遅くなってしまった。揃っているか愚か者達」
雨に濡れたコートを脱ぎながら沢村正義が言った。
「けっ、愚か者は正義、お前だろうが。折角掴まえた金持ちの坊っちゃんの弁護の依頼を断ってしまったのだろうがぁ」
と藪が顔をネジ曲げて振り返った。
「ふん。その小僧には正義など欠片もなかったからな。弁護など必要なあい!」
沢村は藪の隣に腰掛けた。
正義がなければ弁護を引き受けない弁護士。まるでお伽の国の弁護士のようだとあたしは思う。
でも、そのキャッチフレーズが浸透すれば沢村が受けた弁護には正義があると世間に知られることになる。裁判が有利に働くことがあるのかどうかはあたしには分からない。
弁護士というと普通は、沈着冷静で冷徹なイメージを抱くものだが、沢村正義はここで見ている限り、熱く正義を追いかける男だと思う。
沢村が飲む酒はテキーラ・エラドゥーラ。
ショット・グラスにテキーラを注いで、サングリータをチェイサーとして並べる。
沢村はサングリータを口に含み、テキーラを喉に放り込む。
「効くう。ママが作るサングリータは最高だよ。覚醒する」
サングリータはトマトジュースにオレンジ、ライムジュースを加え、ウスターソース、胡椒、塩、タバスコをよく混ぜて冷やしたものでテキーラと同じショット・グラスに入れて出すスパイシーなジュースだ。
作り方は沢村本人に教えられた。いつも五〇〇mlのペットボトル一本分くらい冷やしたものを作っておくようにしている。
藪はライムをジンに自分で絞って入れるだけだから、手の込んだチェイサーを沢村の為に作ることに焼きもちを妬くかと思ったが違った。
お互いに酒の飲み方には一切ケチをつけない暗黙のルールがある様で、それは徹底している。
それは、藪や沢村だけではなく、他の愚か者達にも共通していた。
自分の飲み方にこだわりを持っている連中だ。そしてそれを他人に強要しない。
「さて、本題だ。諸君」
一息ついたところで沢村が言った。
「何かあったのか?先日のソルジャー事件じゃないが」
それまで黙っていた岸村が沢村に視線を向けた。
藪もグラスを置いた。
「ところでママは何処かで自分の肖像画を描かせたことがあるのか?」
「なんだって?あたしが?あるわけないだろう?」
沢村の意外な質問にあたしは噴き出した。
「だろうなあ。絵を描いてもらう間、じっとしていられるタイプじゃないものな」
と言った沢村の言葉に藪が大きく頷いている。
岸村もフッと笑みをこぼした。
「なんだって?それはどういう意味だい?」
「まあまあ、ママ。ここは落ち着いて話を聞こうじゃないか」
藪が大げさなジェスチャーであたしをなだめる。
「ママの肖像画らしき写真を持って街をうろつく奴が現れたようだ。エンジェルが騒いでいるよ。ハード・ボイルドの幕開けだとな」
あたしは大きく肩をすくめてみせた。
「あたしに似た絵を持っていただけじゃないのかい?」
「その絵には名前がついていたのさ。ユウコって女を捜しているようだ。七尾探偵社に依頼があったそうだから」
あたしはその写真を視たエンジェルの大きな瞳がきらりと光る瞬間が目に浮かんだ。
「じゃあ早速、俺が職質して来るぜ」
岸村が身支度を始めた。
「ちょっと待ちなよ。その人が何かした分けじゃないのだから」
「何かしてからじゃ遅いだろう。ママには指一本触れさせねえよ」
「何だって!岸村」
藪が立ち上がろうとした岸村を押さえつけた。
「聞き捨てならねえ。お前はいつからママに」
藪の目が据わっていた。
「俺が追いかけていたダチの件は終わったからな」
「だからと言って今度はママを追いかけるというのは浅はかというものだろう」
と沢村も岸村の前に立ちはだかった。
「また、あたしを取り合いしてくれているのかい?嬉しいねえ」
愚か者達はあたしが無期懲役となった冬木を待っていることは承知している。帰れるあてなどない男を待つ。でもそれがあたしの愛し方だ。勇気だ。
「ぶれない愛を貫くママに惚れたのさ」
と誰かが言ってくれた。
そんなあたしを視て愚か者達は安心するのだろう。
何処かの街の片隅で、はぐれてしまいそうな愚か者達にとって、あたしは道標のような存在なのだろうか。
「こんな夜中に職質もないか、今夜は飲むとしようか」
岸村が腰を落ち着けた。
「正義よう、岸村は平気な顔で抜け駆けする奴だぜ」
「藪よ、これは私達にとって由々しき事態だ。最大の危機だ」
と藪と沢村がこそこそと話し合っている。
「両先生よ、俺はあんた等と違って一人でもここに飲みに来るぜぇ。一人になると照れて大人しくなってしまう両先生とは違うぜ」
「き、岸村。お前って奴は・・・」
藪と沢村は可愛く思えるくらい悔しそうな顔をする。
♪ 雨のリグレット
「ママ、オールド・パルを今度は俺のボトルで作ってくれ。この二人にも」
「ブランデーでかい?それじゃぁ、それは新しいカクテルだね。名前を考えておくれ旦那」
あたしは岸村のヘネシーとドライ・ベルモットとカンパリを等分ずつミキシング・グラスの中に入れてステアした。グラスを三つ並べて注ぐ。
藪と沢村は何も言わずグラスを受け取った。
三人は同時にグラスを傾けた。
「名前は、リグレットだ」
岸村が微かに微笑んだ。
藪も沢村もあたしのことでは騒ぐくせに人が飲む酒には嫉妬もしなければ何もケチはつけない。愚か者の流儀は徹底していた。
♪ 雨のリグレット
♪♪雨がしとしと降る音を聴けば・・・リメンバー・・・♪♪
時にそのワンカットシーンをフィルムのように繋いで見ることがある。
そこに浮かび上がる人生の悲哀、喜びにあたしが作ったカクテルが添えられた時・・・
愚か者達の心が少しだけでも満たされたなら幸せだと思う。
FOOLという名のBAR
ここは、愚か者が静かに酔い潰れるための店。
今宵はどんな愚か者達がやって来るだろうか・・・
ドアが開いてカウベルが鳴った。
マリアが傘を畳みながら冬の気配を連れて入って来た。
「ママ、外は冷たい雨がしとしとと降っているわ」
「雨か、この地下のカウンターの中にいると天気の変化さえ気付かないことがあるね」
「着替えて来ます」
と言って、マリアは店の奥に消えた
マリアは気がつくとこの店のピアニストになっていた。
そして今ではこの店の酒のように、この店には必要不可欠な存在になっている。
マリアのピアノは愚か者の心を映す。
人の心が読めるのかと、ふと思ってしまうくらいぴったりの選曲が愚か者の心に入り込む。
いつもと同じように黒いドレスに着替えたマリアが店の奥のピアノに向かう。
「こんな雨の夜は悲しくなるね、ママ」
マリアの指がピアノの上に走り出す。
♪ ♪ ♪
初めて聴く曲だった。
「私が好きなChiiの曲・・・雨のリグレット」
なるほど、リグレット(後悔)だと思う。
哀愁が走るような曲。
どこかもどかしくて、切ない・・・リグレット、そう後悔に涙したくなる、こんな夜にぴったりの選曲だと思う。
カウベルが鳴った。
入って来た今宵の愚か者は珍しい組合せだった。
「珍しいじゃないか。藪医者先生が岸村の旦那とつるんで来るなんて」
藪医者とは嫌味を言っているのではなく、藪という苗字に“医者”を付けて、“藪医者”と看板を上げているからだ。
実際はヤブどころではなく、天才外科医として名を知られた大学病院の医師だった。
この街に流れて来てからは表の診療はほとんどやらず、闇医者だという噂だ。
数年前、患者の家族の悲しみに耐えられず、助かる見込みのなどない患者のオペを強行し、患者を死なせてしまった。
裁判沙汰になり、医師免許剥奪という騒ぎになったが、それだけはさせないと弁護したのが藪医者の親友で沢村正義という弁護士だった。
藪はいつも沢村と二人で必ずやって来てライバル心剥き出しで騒ぐ。
ありがたいことにあたしを口説きに来るのだ。二人は親友であり、恋敵でもあるわけだ。
「抜け駆けかい?藪先生」
「ママ、男、藪はそんな真似はせぬ。正義には岸村の旦那と先に行っていると伝えた。今頃、奴はヤキモキしながら仕事を進めているだろうぜ」
時々、一人で抜け駆けして来ることがあるが、どういう分けか借りて来た猫のように静かになってしまう二人だった。
親友を裏切ることが出来ない男達なのだと思う。
あたしは岸村のヘネシーをブランデー・グラスに注いで出した。
藪にはプリマス・ジンをロックで出して半分に割ったライムを皿に並べて添える。藪はライムを絞りながらジンを飲む。
ジンは昔、熱病の特効薬として開発された由緒正しき薬なのだと藪はうそぶく。
「見つけたのだよ、ママ。奴を偶然に」
岸村がブランデーを呷りながら吐き出すように言った。
岸村の暗い目が更に深い闇を見ているようだ。
岸村は犯罪者になって逃亡している友達を捕まえるために刑事になった。悪徳刑事と蔑まれながら裏社会と癒着して情報を探していると噂されていた。
「この街に現れたのだよ。女と同棲しながら流れて来たのさ。あいつが、よりによって俺がいるこの街に」
岸村の空になったグラスをあたしは黙って満たした。
岸村の瞳が虚空を睨んでいた。そして、その瞬間をポツリポツリと岸村は語った。
※ ※ ※
昼下がりの雑踏。
定食屋から出て、アーケードを歩く岸村は、前方から歩いて来るフードをかぶった男とすれ違う。
「岸村?」
「太宰!?だと?」
男はフードを翻(ひるがえ)し内ポケットから拳銃を掴み出した瞬間には撃鉄を起こし岸村に向かってトリガーを絞ろうとした。
岸村は振り向きざまにショルダーホルスターから拳銃を抜いていた。
“ 銃声 ”
一発の銃声だけが響いた。
倒れ込んだのはフードの男の方だ。
内ポケットに拳銃を隠していたフードの男より、ショルダーホルスターに拳銃を保持していた分、岸村の方が早かった。
フードの男からの一瞬の殺気を刑事の嗅覚で察知し、繁華街、雑踏、そして至近距離であることを総合的に判断した岸村は本能で発砲したとしか思えなかった。
「だ、太宰!」
岸村の絶叫が繁華街に響いた。
※ ※ ※
「奴と繁華街のど真ん中で鉢合わせしてしまったのだ。奴も愕然とした顔を俺に向けた、と同時に奴は俺に向かって拳銃を構えた。街のど真ん中で発砲されるわけにはいかなかった。だから、俺はよ、ママ・・・ダチをこの手で俺の拳銃で撃っちまった」
藪は苦虫を噛むような顔をしながらライムを自分のグラスに絞った。
「ジンが効くぜえ、こんな夜にはよ」
藪は一息でグラスを空けた。
あたしは藪のグラスにジンを注ぐ。
「岸村の旦那がよ、うちの診療所のドアを叩くのさ。ガンガンとよ。俺は闇医者だぜ、昼間はやってねえとドアを開けたんだよ」
藪はもう一つのライムを絞ってグラスを揺らした。
「岸村が血だらけの男を担いで立っていやがった」
藪はその時の状況を自分で味を調整したジン・ライムを飲みながら説明した。
岸村は自分で撃った友達を降ろして
『助けてくれよ、先生よ。ダチなんだよ。こいつは俺のダチなんだよ』
と友人の血で汚れた岸村は鬼気迫る顔をして藪に縋ったそうだ。
「どうにもならねえさ。もう、そいつは生きてなかったんだよ、ママ。岸村は遺体を担いで俺の所まで来たんだ」
「そうすることしか出来なかった。他に考えることが出来なかった」
岸村の目は何も見えないように虚ろだった。
周りの状況を的確に判断し刑事としての本能で友達を射殺した刑事、岸村の悲しみを何で裁けるのだろうか。
♪ 雨のリグレット
マリアのピアノが現実に引き止めてくれる。
雨の街で起きた偶然が引き起こしたリグレット
「ママ、何かカクテルを作ってくれないか?太宰ミキオ、それがあいつの名前だ。ミキオを送るために」
と言う岸村の言葉を聞いて息を呑んだのはあたしだけではない。
マリアのピアノも音が止んだ。
いつも雪乃という同棲している女とこの店で静かに飲んでいたミキオ。あたしは酒棚から
“太宰 ”というネームタグがついたウィスキーのボトルをカウンターに置いた。
岸村の目がネームタグに吸い込まれた。
「ここに来ていたのか?あいつは・・・」
「ああ、そうだよ。彼女と一緒にね。過去があるとは思ったけどね。まさかミキオがお前が追っていた友達だったとは」
♪ Summertime
ミキオの中の何かを眠らせようとするかのようにマリアはいつもこの曲を彼らに弾いた。
「サマータイムか・・・子守歌だったかな?確か」
藪が目を閉じてピアノに耳を傾ける。
あたしはミキオのボトルとドライ・ベルモットとカンパリを等分ずつミキシング・グラスの中に入れてステアした。
「オールド・パル。古い友達っていうカクテルだったかな、ママ」
「ミキオのボトルから作った」
あたしは岸村の前にカクテルを置いた。
岸村は静かに呷った。
「ああ、ほろ苦くて、かすかに甘くて・・・美味いよ、ママ。餓鬼の頃を想い出す。そんな気分にしてくれる」
岸村はふう〜と息を吐いた。
悪徳刑事と蔑まれながら犯罪者となった友達を追いかけ、何かに取りつかれたように裏社会を彷徨っていた男。
「ようやく、息がつけたかい?旦那」
あたしはオールド・パルのグラスを下げた。
岸村は目を閉じて頷いた。
♪ Summertime
子守歌が今はミキオへの鎮魂歌のように心に入り込んで来る。
雪乃はどうしただろうか?ミキオの優しさに反発して、気がつくと浮気をしてしまう女だった。
雨の街。ミキオの魂を探しながら彷徨う、雪乃の姿が目に浮かんだ。
曲が変わった。
♪ 雨のリグレット
『全部、黒く塗り潰せたらいいのにな。白黒つけなくて済む』
と岸村が数週間前に言った言葉が甦った。
カウベルが鳴った。
ドアが開くと外の雨音が響いた。
「遅くなってしまった。揃っているか愚か者達」
雨に濡れたコートを脱ぎながら沢村正義が言った。
「けっ、愚か者は正義、お前だろうが。折角掴まえた金持ちの坊っちゃんの弁護の依頼を断ってしまったのだろうがぁ」
と藪が顔をネジ曲げて振り返った。
「ふん。その小僧には正義など欠片もなかったからな。弁護など必要なあい!」
沢村は藪の隣に腰掛けた。
正義がなければ弁護を引き受けない弁護士。まるでお伽の国の弁護士のようだとあたしは思う。
でも、そのキャッチフレーズが浸透すれば沢村が受けた弁護には正義があると世間に知られることになる。裁判が有利に働くことがあるのかどうかはあたしには分からない。
弁護士というと普通は、沈着冷静で冷徹なイメージを抱くものだが、沢村正義はここで見ている限り、熱く正義を追いかける男だと思う。
沢村が飲む酒はテキーラ・エラドゥーラ。
ショット・グラスにテキーラを注いで、サングリータをチェイサーとして並べる。
沢村はサングリータを口に含み、テキーラを喉に放り込む。
「効くう。ママが作るサングリータは最高だよ。覚醒する」
サングリータはトマトジュースにオレンジ、ライムジュースを加え、ウスターソース、胡椒、塩、タバスコをよく混ぜて冷やしたものでテキーラと同じショット・グラスに入れて出すスパイシーなジュースだ。
作り方は沢村本人に教えられた。いつも五〇〇mlのペットボトル一本分くらい冷やしたものを作っておくようにしている。
藪はライムをジンに自分で絞って入れるだけだから、手の込んだチェイサーを沢村の為に作ることに焼きもちを妬くかと思ったが違った。
お互いに酒の飲み方には一切ケチをつけない暗黙のルールがある様で、それは徹底している。
それは、藪や沢村だけではなく、他の愚か者達にも共通していた。
自分の飲み方にこだわりを持っている連中だ。そしてそれを他人に強要しない。
「さて、本題だ。諸君」
一息ついたところで沢村が言った。
「何かあったのか?先日のソルジャー事件じゃないが」
それまで黙っていた岸村が沢村に視線を向けた。
藪もグラスを置いた。
「ところでママは何処かで自分の肖像画を描かせたことがあるのか?」
「なんだって?あたしが?あるわけないだろう?」
沢村の意外な質問にあたしは噴き出した。
「だろうなあ。絵を描いてもらう間、じっとしていられるタイプじゃないものな」
と言った沢村の言葉に藪が大きく頷いている。
岸村もフッと笑みをこぼした。
「なんだって?それはどういう意味だい?」
「まあまあ、ママ。ここは落ち着いて話を聞こうじゃないか」
藪が大げさなジェスチャーであたしをなだめる。
「ママの肖像画らしき写真を持って街をうろつく奴が現れたようだ。エンジェルが騒いでいるよ。ハード・ボイルドの幕開けだとな」
あたしは大きく肩をすくめてみせた。
「あたしに似た絵を持っていただけじゃないのかい?」
「その絵には名前がついていたのさ。ユウコって女を捜しているようだ。七尾探偵社に依頼があったそうだから」
あたしはその写真を視たエンジェルの大きな瞳がきらりと光る瞬間が目に浮かんだ。
「じゃあ早速、俺が職質して来るぜ」
岸村が身支度を始めた。
「ちょっと待ちなよ。その人が何かした分けじゃないのだから」
「何かしてからじゃ遅いだろう。ママには指一本触れさせねえよ」
「何だって!岸村」
藪が立ち上がろうとした岸村を押さえつけた。
「聞き捨てならねえ。お前はいつからママに」
藪の目が据わっていた。
「俺が追いかけていたダチの件は終わったからな」
「だからと言って今度はママを追いかけるというのは浅はかというものだろう」
と沢村も岸村の前に立ちはだかった。
「また、あたしを取り合いしてくれているのかい?嬉しいねえ」
愚か者達はあたしが無期懲役となった冬木を待っていることは承知している。帰れるあてなどない男を待つ。でもそれがあたしの愛し方だ。勇気だ。
「ぶれない愛を貫くママに惚れたのさ」
と誰かが言ってくれた。
そんなあたしを視て愚か者達は安心するのだろう。
何処かの街の片隅で、はぐれてしまいそうな愚か者達にとって、あたしは道標のような存在なのだろうか。
「こんな夜中に職質もないか、今夜は飲むとしようか」
岸村が腰を落ち着けた。
「正義よう、岸村は平気な顔で抜け駆けする奴だぜ」
「藪よ、これは私達にとって由々しき事態だ。最大の危機だ」
と藪と沢村がこそこそと話し合っている。
「両先生よ、俺はあんた等と違って一人でもここに飲みに来るぜぇ。一人になると照れて大人しくなってしまう両先生とは違うぜ」
「き、岸村。お前って奴は・・・」
藪と沢村は可愛く思えるくらい悔しそうな顔をする。
♪ 雨のリグレット
「ママ、オールド・パルを今度は俺のボトルで作ってくれ。この二人にも」
「ブランデーでかい?それじゃぁ、それは新しいカクテルだね。名前を考えておくれ旦那」
あたしは岸村のヘネシーとドライ・ベルモットとカンパリを等分ずつミキシング・グラスの中に入れてステアした。グラスを三つ並べて注ぐ。
藪と沢村は何も言わずグラスを受け取った。
三人は同時にグラスを傾けた。
「名前は、リグレットだ」
岸村が微かに微笑んだ。
藪も沢村もあたしのことでは騒ぐくせに人が飲む酒には嫉妬もしなければ何もケチはつけない。愚か者の流儀は徹底していた。
♪ 雨のリグレット
♪♪雨がしとしと降る音を聴けば・・・リメンバー・・・♪♪