お転婆姫は命がけ。兄を訪ねて三千里!

六 荒波に揺れる心

 アイリーンの船酔いは、カルヴァドスの予言通り一週間ほど続き、その間は何かを食べると三十分もしないうちにアイリーンは吐き気を催し、正体もなく船縁に蝉のように掴まって吐き続けた。
 その姿は、知らないものが見たら、まるでおめでたか二日酔いの様だったが、アイリーンの気持ち的には既に一月は酔っている気がした。
 座学で、この世界は球体をしており、潮の満ち引きは月の引力のなせる業であると習いはしたが、正直、アイリーンはそれが事実かを疑っていた。
 講師は、アイリーンを船着き場に連れて行き、一面に広がる海の向こうの水平線を見せて、その丸みを帯びた線こそが、世界が丸い証拠だと説いて聞かせたが、アイリーンはずっと心の中で、世界は平面で、きっと端まで行ったら、そこは丸くなく、この世界から落ちて違う世界に行くに違いないけれど、行ったら二度と戻って来れないから、誰もそれを知らないだけだと心の中で思っていた。
 しかし、大海原に出て、見渡す限り何もない世界がぐるりと広がり、どの方角を向いても、丸い線が広がっているのを見て、初めて世界は丸かったのだと理解した。
 そんなアイリーンに、カルヴァドスは側にいられる限り、ずっと側について甲斐甲斐しく看病してくれた。
 ただ、船酔いばかりは、体が慣れるまでの持久戦だからと、何も出来ない事をカルヴァドスは酷く申し訳無さそうに謝った。
 最初の二日ほどは、一緒に食事をしたアイリーンだったが、食べては吐くだけの状況に、貴重な食材を無駄にしたくないからと、食事はチーズひとかけらとお茶だけにするようにした。
 チーズは高価な食べ物ではあるが、保管がきくので、船には大量に積まれている。その本当の理由は、栄養価が高く、少ない量でもある程度の栄養が取れるので、嵐で補給が間に合わなくなりそうな時などに、皆で分け合って食いつなぐことが出来るだけでなく、暑さで不足しがちな塩分をちょうどよく補給できる食材だからでもあった。

 一週間を過ぎ、やっとチーズとお茶を戻さなくなったアイリーンに、カルヴァドスがパンとスープを勧めてくれた。
 この甲斐甲斐しくアイリーンの世話をするカルヴァドスの姿は、あっと言う間に船の中の噂となり、『タリアレーナについたら、二人は結婚する』とか、『エクソシアについたら、カルヴァドスにお熱の女達が船に乗り込んできて血みどろの戦いになるに違いない』だとか、『二人は、実は夫婦だ』とか、『身分違いの恋だったので、カルヴァドスがさらって来たに違いない』などと、まことしやかに囁かれ、わざわざ甲斐甲斐しくアイリーンの世話をするカルヴァドスの姿を見に来るクルーまで出てくる始末だった。
 それもあってか、ずっと『レディ』とアイリーンの事を読んでいたカルヴァドスが、いつの間にかアイリーンの事を『姫さん』と呼ぶようになっていた。
 当然、クルーからはなぜアイリーンを『姫』と呼ぶのかと質問が絶えなかったが、カルヴァドスは満面の笑みで、太陽の光の下、光り輝くようなアイリーンの姿を見つめながら『俺が惚れたんだから、お姫様待遇は当たり前だろ』と当然とばかりに答えると、他のクルー達もいつしかアイリーンの事を『姫さん』と呼ぶようになっていった。

 それまでは、人の噂など耳に入っても理解できないくらい世界が回り続けていたアイリーンも、さすがにスープとパンが口に出来るようになると、皆の噂や視線が気になるようになり、自分のことは自分で出来るからと、カルヴァドスに過保護にしないで欲しいと申し出たが、カルヴァドスはまじめな顔で『好きな女の側にいたくない男がいると思うか?』と、言ってのけた。
 しかし、だからといってカルヴァドスが実力行使に出るかと言えば、そんなことはなく、夜休むときも背中合わせ。アイリーンの具合が悪いときは、何も言わずにカウチで休む紳士であることに変わりはなかった。
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