お転婆姫は命がけ。兄を訪ねて三千里!
「いいえ、お兄様。私はデロスの姫巫女です。約束を反故にして逃げることは出来ません」
 アイリーンは静かに答えた。
「よく考えるんだ! 昔から、あれほど毛嫌いしていたダリウス王子に嫁ぐことと、愛する公爵に嫁ぐこと。エクソシアの公爵なら、次々に妻が増える可能性はあるが、それでもダリウス王子に嫁ぐよりはましだろう?」
 考え直したウィリアムの必死の説得にも、アイリーンは耳を貸さなかった。
「公爵には、私に婚約者が居ること、国に帰ったら直ぐに嫁ぐことも、もうお話ししてあります」
 そこまで聞いたウィリアムは、ふと、あまりにも自然な様子でカルヴァドスがアイリーンを抱き締めたことを思い出した。
「アイリ、お前と公爵は、本当は既に床を共にしたのではないのか?」
 ウィリアムの問いが、ただの同衾ではなく、初夜を迎えたのではないかという問いだと言うことは、アイリーンにも直ぐに理解することができた。
「お兄さま、私は姫巫女です。その様なこと致しておりません」
 アイリーンはキッパリと言い放った。
「そうか、そうであろうな」
 アイリーンの返事に、ウィリアムは当然だと納得した。そして、アイリーンを疑い、感情のままに罵った自分を心の底から恥じた。
 愛し愛されながらも、姫巫女であるからと、純潔を護らなくてはいけなかったアイリーンの苦しみと辛さは、男のウィリアムには計り知れなかった。貞節と純潔を求められるのは王族でも姫だけで、子供さえ作らなければ王子には求められない事だからだ。
「船は最短で明後日。三日前に連絡すれば、すぐにデロスに向けて出発できるそうです」
 アイリーンは静かな声で言った。
 ウィリアムの前で『ダリウス殿下に嫁ぐ』と宣言したことが良かったのか、すべての夢が断たれ、もうそれ以外の道がないことをアイリーン自身が身に染みて感じることができた。
「明日、医師が往診に来る。その時に出発してよいか確認しよう」
 ウィリアムは迷いながら言った。さっきまでの、一刻も早く国に帰りたいという思いは、アイリーンの不幸の上に国の平和が成り立っているという事実を知った今、ウィリアムは鉛の塊を飲み込んだように、胃が重く胸が苦しかった。
「そうですね。でも、船にもドクターがいらっしゃいます。元海軍の軍医をされていた方です。引き続き、お兄様の治療をしてくださるでしょう」
 アイリーンの言葉に、ずいぶん手回しがいいなとウィリアムは思った。それと同時に、自分がアイリーンに対して抱いていた怒りと、ここのところの冷たい態度がどれほど理不尽なものだったかをウィリアムは痛いほど思い知らされた。
 父王よりも、誰よりも、アイリーンがどれほどダリウス王子を嫌っているかを知っているのはウィリアムだった。


< 286 / 301 >

この作品をシェア

pagetop