もしも、あの日に戻れたら ~高校生たちが議論する、元首相銃撃事件~
ラスト・ディスカッション「風のなか」
教室のドアを開けて入ってきたのは、黒のTシャツ――胸に大きく『HELL』と赤文字で書かれている――を着て、ジーンズをはいた、眠たそうな印象を与える目の細さの少年だった。
「お前は確か、白井? ずいぶん痩せたなあ」
「兵藤……あーもう太一でいいか、太一、彼のこと知ってるの?」
「ああ、亮介だけは一年のとき、みんなと違うクラスだったから知らねえのか。白井っていうんだ。穣治……あ、呼び捨て悪りい、先生が受け持ってた、おれたちのクラスの同級生で、三学期に入ってから急に学校に来なくなっちまった」
白井と呼ばれた伏し目がちの少年は片手をあげて、すぐにおろした。
「どうして、白井君がここに?」沙織が穣治に尋ねる。
「白井には隣の教室にずっといてもらってたんだ。実は今日のみんなの議論、隣の教室に設置してあるパソコンに映しだしてて、白井は一部始終を見てた」
「えー、観客ありだったの? 先に言ってよ。もっと、おめかししてから来たのに」と加奈が憤る。
「ブーたれなくてもいいでしょ。観客ったって、同じ学校の生徒一人だけなんだし。それに、あんたの顔を見に来たわけじゃなし」
沙織がやれやれといった、あきれた顔で言い、それから穣治に向きなおる。
「で、事情があるみたいだけど、どういうことなんですか?」
「うん、実はな」
「なんか、『実は』が多いですね。あ、すいません、続けてください」と亮介が言って即座に詫びた。
「変に和んだ空気だけど、まあいいか。これから、ちょっとシリアスな話になるぞ。白井は今年に入ってから家庭でいろいろあり、不登校になってた。二年に進級はできたんだが、そのあとも学校には来られなくてな。おれも白井のクラス担任ではなくなったから、あまり気にかける余裕がなかった」
穣治はジャケットの内ポケットからタバコの箱を取りだす。
「真面目な話するときは吸いたくなるんだよな」
「いや、普通にだめでしょ」と加奈。
教え子にたしなめられた穣治は、タバコを内ポケットにしまう。
「それでな、今日、白井はある事件を起こしたんだ。近所に住んでる白井の親戚が経営してる印刷所で、先月から手伝い、というか搾取に近いバイトだな……をしてたんだが、あまりにこき使われる状況にキレて、所長の叔父の頭を、角材で何度も殴っちまった」
「え……」沙織が息を詰まらせる。
「床に倒れたままピクリとも動かなくなった叔父の姿を見て、怖くなった白井は逃げだした」
「それって、まさか――」亮介は自ら途中で言葉を切った。
「いや、先に言うが、命に別状はない。白井が逃げまわっているあいだに、おれのところに白井のご両親から電話があってな、事情を聞いた。叔父は病院で目を覚まして、意識もしっかりしてるそうだ。後遺症もおそらくは心配ないと言ってた。ただ、怪我の治療で、しばらくは入院が必要らしい」
白井は下を向いたまま、何もしゃべらない。沙織、加奈、太一は、彼らの記憶のなかにある、かつての白井のおもかげをなくした、痩身の少年を見つめていた。亮介も、白井が短い期間に相当に変貌したであろうことを理解した。
「警察は?」太一が聞く。
「ああ、印刷所の従業員が通報したから警察も動いてる。白井はいまの担任ではなく、おれのところに連絡してきた。学校の前にある公衆電話からな。それが三時間ほど前のことだ」
「自首させないと!」太一が声をあげた。
「わかってる。かくまうつもりはない。白井も理解してくれた。ただ、その前にな、ちょうど今日、お前たちとのディスカッションがあったから、それを白井に見て、聞いてもらってからにしようと。いまも探しまわってる警察やご両親には悪いと思ってるよ、それでなんらか、おれが処罰されるならしかたない」
「先生……」沙織がかぼそく言う。
穣治は隣に立つ白井を自分のほうに向かせ、正面から見つめた。
「白井、ちゃんと見たか? 聞いたか?」
白井はこくりとうなずく。
「よし、それでいい。感想は聞かないよ」
穣治はふたたび、沙織たちのほうを向く。
「じゃあ、これで解散だ。お前らが帰ったあと、おれは白井のご両親に連絡をして、こいつを連れていく。巻きこみたくないから、ここで白井と会ったことは黙っててくれ」
「あの」
白井が口を開いた。幼い少女みたいな声だった。
「どうした?」
「みんなに……ひと言」
白井は加奈、太一、沙織、亮介の顔を一人ずつ見ていった。次いで、片手をあげる。今度はすぐにおろさず、白い柔らかな手のひらを見せたままだ。
「また……会おう」
白井はぎこちない笑みをつくって言った。
「おれのオヤジは警察官だから、お前が取り調べとかで嫌な目に遭わされないよう頼んでおくから安心しろ」
「自由の身になったら、みんなでカラオケ行こうよ。ぜんぶ、太一のおごりで」
「そのTシャツ、いいね。わたしのキャップといいコーデになりそう。今度、買ったお店に連れてってよ」
「えっと、はじめまして。今後とも、よろしく」
四人の生徒は教室を出ていった。校舎から出ると、夏の夜の外気が少年少女たちを包みこむ。高温多湿のこの土地で、いつもは不快感しかない、じめりとしたもののはずなのに、今夜だけはなぜだか、湖上を吹き抜ける心地いい風のなかにいるようだった。
(終わり)
「お前は確か、白井? ずいぶん痩せたなあ」
「兵藤……あーもう太一でいいか、太一、彼のこと知ってるの?」
「ああ、亮介だけは一年のとき、みんなと違うクラスだったから知らねえのか。白井っていうんだ。穣治……あ、呼び捨て悪りい、先生が受け持ってた、おれたちのクラスの同級生で、三学期に入ってから急に学校に来なくなっちまった」
白井と呼ばれた伏し目がちの少年は片手をあげて、すぐにおろした。
「どうして、白井君がここに?」沙織が穣治に尋ねる。
「白井には隣の教室にずっといてもらってたんだ。実は今日のみんなの議論、隣の教室に設置してあるパソコンに映しだしてて、白井は一部始終を見てた」
「えー、観客ありだったの? 先に言ってよ。もっと、おめかししてから来たのに」と加奈が憤る。
「ブーたれなくてもいいでしょ。観客ったって、同じ学校の生徒一人だけなんだし。それに、あんたの顔を見に来たわけじゃなし」
沙織がやれやれといった、あきれた顔で言い、それから穣治に向きなおる。
「で、事情があるみたいだけど、どういうことなんですか?」
「うん、実はな」
「なんか、『実は』が多いですね。あ、すいません、続けてください」と亮介が言って即座に詫びた。
「変に和んだ空気だけど、まあいいか。これから、ちょっとシリアスな話になるぞ。白井は今年に入ってから家庭でいろいろあり、不登校になってた。二年に進級はできたんだが、そのあとも学校には来られなくてな。おれも白井のクラス担任ではなくなったから、あまり気にかける余裕がなかった」
穣治はジャケットの内ポケットからタバコの箱を取りだす。
「真面目な話するときは吸いたくなるんだよな」
「いや、普通にだめでしょ」と加奈。
教え子にたしなめられた穣治は、タバコを内ポケットにしまう。
「それでな、今日、白井はある事件を起こしたんだ。近所に住んでる白井の親戚が経営してる印刷所で、先月から手伝い、というか搾取に近いバイトだな……をしてたんだが、あまりにこき使われる状況にキレて、所長の叔父の頭を、角材で何度も殴っちまった」
「え……」沙織が息を詰まらせる。
「床に倒れたままピクリとも動かなくなった叔父の姿を見て、怖くなった白井は逃げだした」
「それって、まさか――」亮介は自ら途中で言葉を切った。
「いや、先に言うが、命に別状はない。白井が逃げまわっているあいだに、おれのところに白井のご両親から電話があってな、事情を聞いた。叔父は病院で目を覚まして、意識もしっかりしてるそうだ。後遺症もおそらくは心配ないと言ってた。ただ、怪我の治療で、しばらくは入院が必要らしい」
白井は下を向いたまま、何もしゃべらない。沙織、加奈、太一は、彼らの記憶のなかにある、かつての白井のおもかげをなくした、痩身の少年を見つめていた。亮介も、白井が短い期間に相当に変貌したであろうことを理解した。
「警察は?」太一が聞く。
「ああ、印刷所の従業員が通報したから警察も動いてる。白井はいまの担任ではなく、おれのところに連絡してきた。学校の前にある公衆電話からな。それが三時間ほど前のことだ」
「自首させないと!」太一が声をあげた。
「わかってる。かくまうつもりはない。白井も理解してくれた。ただ、その前にな、ちょうど今日、お前たちとのディスカッションがあったから、それを白井に見て、聞いてもらってからにしようと。いまも探しまわってる警察やご両親には悪いと思ってるよ、それでなんらか、おれが処罰されるならしかたない」
「先生……」沙織がかぼそく言う。
穣治は隣に立つ白井を自分のほうに向かせ、正面から見つめた。
「白井、ちゃんと見たか? 聞いたか?」
白井はこくりとうなずく。
「よし、それでいい。感想は聞かないよ」
穣治はふたたび、沙織たちのほうを向く。
「じゃあ、これで解散だ。お前らが帰ったあと、おれは白井のご両親に連絡をして、こいつを連れていく。巻きこみたくないから、ここで白井と会ったことは黙っててくれ」
「あの」
白井が口を開いた。幼い少女みたいな声だった。
「どうした?」
「みんなに……ひと言」
白井は加奈、太一、沙織、亮介の顔を一人ずつ見ていった。次いで、片手をあげる。今度はすぐにおろさず、白い柔らかな手のひらを見せたままだ。
「また……会おう」
白井はぎこちない笑みをつくって言った。
「おれのオヤジは警察官だから、お前が取り調べとかで嫌な目に遭わされないよう頼んでおくから安心しろ」
「自由の身になったら、みんなでカラオケ行こうよ。ぜんぶ、太一のおごりで」
「そのTシャツ、いいね。わたしのキャップといいコーデになりそう。今度、買ったお店に連れてってよ」
「えっと、はじめまして。今後とも、よろしく」
四人の生徒は教室を出ていった。校舎から出ると、夏の夜の外気が少年少女たちを包みこむ。高温多湿のこの土地で、いつもは不快感しかない、じめりとしたもののはずなのに、今夜だけはなぜだか、湖上を吹き抜ける心地いい風のなかにいるようだった。
(終わり)