エリート外科医との政略結婚は、離婚予定につき~この愛に溺れるわけにはいきません~
たった一度会っただけの珠希ですら、事故で手足に不自由を強いられている遥香を思うと胸が痛いのだ。
母親なら珠希とは比べもの鳴らないほどの苦しみを抱えているに違いない。

「事故に遭う前の遥香は、夫が休みの日には一日中ひっついているほどのお父さん子で、口癖が〝お父さんのお嫁さんになる〟だったんです」
「女の子なら、よくありますよね。私は五歳年上の兄のお嫁さんになるって言っていたそうです。うっすらとしか覚えてないんですけどね」

今では親戚で集まるときのネタのひとつとして使われる、楽しい思い出だ。

「遥香ちゃんも、成長して小さな頃のことは忘れちゃったんでしょうね。でも、ふとした時に思い出して懐かしくなるんですよ。そのうち理想の男性はお父さん、なんて言っちゃうかもしれませんね」

珠希はそう口にしながらも、理想の男性が兄であったことは一度もなかったこれまでを思いだし、クスリと笑った。

「あの……まさか。珠希さん、宗崎先生からなにも聞いていないんですか?」

当惑している声に視線を向けると、遥香の母が目を丸くし珠希を見つめていた。

「あ、あの、ごめんなさい。なにを……?」

遥香の母が言わんとすることが思い浮かばず、珠希は力なく首をかしげた。

「いえ。あの……そうなんですね。えっと……。宗崎先生って医師として誠実なんだなと。今さらですけど感心しちゃいました」
「誠実?」

珠希はきょとんとする。
遥香の母の表情や声に張りが戻っていてホッとするが、なんのことか、さっぱりわからない。
やがて遥香の母は、どこか固い笑みを浮かべ、ゆっくりと口を開いた。

「遥香は、事故以前のことをほとんど覚えていないんです。お父さんのお嫁さんになるって言っていたことも、家族のことも。ほとんどの記憶を無くしたんです」
「え? それって、どういう……」

珠希の心臓が、どくっと鈍い音を立てた。


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