エリート外科医との政略結婚は、離婚予定につき~この愛に溺れるわけにはいきません~
「事故による記憶障害だと診断されています。事故のあとこちらに転院してきたのは、外科的な治療とリハビリのためだけじゃなくて、こちらは脳外科が有名だからなんです」
「記憶障害……」

思いがけない事実に、珠希は言葉を失った。
この間会ったときの遥香は、手足に不自由は残っていたが他に気になることはなにもなかった。
ポニーテールの髪に水玉模様のリボンを揺らす、かわいらしい女の子。
人見知りもせず碧とふたり、珠希の演奏に耳を傾けはしゃいでいた。
珠希が教室で教えている子ども達との違いはなく、記憶障害という言葉は遥香とはまるで結びつかない。

「あ、あの。私……気づかなくて。そんな大変な状況とは知らず、エレクトーンを勧めてしまって、すみません」

珠希は腰を上げ、頭を下げる。

「とんでもない。エレクトーンは遥香が自分でレッスンを受けると決めたんです。退院したらお店にエレクトーンを買いに行くって張り切っちゃってて。コンビニにお菓子を買いに行くのとは訳が違うのに……」

遥香の母は、娘とのやりとりを思い出したのか笑みを漏らす。すべてを受け入れているとわかる慈愛に満ちた表情は、とても綺麗に見える。

「でも、喜んで買ってあげます。エレクトーンでも、ピアノでも。記憶を失っていても、ちゃんとあの子は生きているんです。なくした記憶以上の記憶を積み重ねていけばいいんです。とにかく、生きている。それだけで十分です」

力強い声の中にそう言えるようになるまでの葛藤が見え、珠希の方が泣きそうになってしまう。
遥香はまだ八歳だ。この先続く長い人生の中で、幸せな記憶をいくらでも積み重ねていけるのだと気づかされる。
生きているだけで十分。
その言葉の重みに触れて、珠希はそっと姿勢を正す。
そして手の甲で涙を拭い、気持ちを切り替えた。

「それとね、これだけは言っておきたくて」

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