エリート外科医との政略結婚は、離婚予定につき~この愛に溺れるわけにはいきません~
思いがけない偶然に、気づけば珠希の涙は止まっていた。

「笹原先生が頭を下げるのを、あのとき初めて見たんだ。医師としての意識をがらりと変えられるほどの衝撃だった。多分俺と一緒にいたあとのふたりも同じだったと思う。笹原先生が言うには、俺はその日から五年、仕事ばかりでなんの面白みもない人間だったらしい。それほど影響を受けたんだ」
「あ……」

以前笹原から聞かされた言葉を思い出す。
五年というのはそのことだったのだ。紗雪と別れてからの五年ではなく、笹原が頭を下げている姿を見てからの五年。
碧は胸につかえていたものが消えて、心が軽くなったような気がした。

「俺、病院の跡継ぎとして期待されながら育ってきて、勉強もかなりできたんだ。だから医師になることに疑問もなくて、あっさり医学部にも受かって国家試験も余裕だった。だから天狗になってたんだろうな。医師という肩書きを鼻にかけた、面倒な奴だったと思う」
「……冗談ですよね。信じられないです」

患者のことが最優先でプライベートなどないも同然の今の碧の姿からは、まるで想像できない。

「俺も、今はあのときの自分が信じられないよ」

碧は顔を歪ませ、自嘲気味に笑う。

「患者さんに対しても事務的で、技術はあるけど情がない仕事しかしてなかった。だけど、あのとき笹原先生が頭を下げる姿を見て、それまでの価値観が一気に崩れてしまったんだ。医師としての自分を過信しない。医師も薬も万能ではない。それをいつも心に留め置いて最善の力を尽くす。笹原先生はあの頃も今もそう言ってる。それって、あの頃の俺にとっては人生を変えるくらいの言葉だった」
「……ですよね。私も笹原先生の姿を見て、ドクターに対する認識ががらりと変わりました」

珠希と碧は顔を見合わせ、小さく笑い合う。
< 168 / 179 >

この作品をシェア

pagetop