エリート外科医との政略結婚は、離婚予定につき~この愛に溺れるわけにはいきません~
「よかったら遥香ちゃんに返事を書いてあげて。きっと喜ぶよ」
「はい、もちろんです。絶対に書きます」

遥香の手紙を握りしめ、珠希は何度もうなずいた。
そのたび涙が珠希の膝にぽとぽと落ちていく。
「……泣きすぎだろ」

ぽつりと響いた碧の声。

同時に碧の手がすっと伸び、珠希の頬から涙をすくい取る。
珠希は頬を滑る温かな刺激に、ハッと顔を上げた。

「宗崎さん……?」

険しい表情で珠希を見つめる碧と目が合い、珠希は息をのんだ。
射るような強い眼差しから目が離せない。

「プロでもアマでもどっちでもいい。聞く人の心に響けばそれで十分だし、遥香ちゃんみたいに珠希の演奏をたった一度聞いただけで目標ができて、笑顔が増える子だっているんだ。演奏者の立場なんて、気持ちが込められた音の前では関係ない」
「はい……」
「少なくとも、俺は今度のイベントで珠希の演奏を楽しみにしてる」

碧の言葉を、珠希はぐっとかみしめる。
幼少期に初めてピアノの鍵盤に触れたとき、珠希はその場に広がった小気味いい音に心躍らせた。子どもの指では鍵盤は重く満足な音は出せなかったが、初めて自分が奏でた音は特別で、今でもその音を思い出せるほどだ。
そのとき珠希が味わった感動を子ども達に知ってほしくて音楽教室の講師の道を選んだが、それはピアニストを目指していた拓真の夢を奪ってまで追うほどの道だったのかと、珠希は今も悩み続けている。
音大の同級生の中には名誉あるコンクールで賞を受賞したピアニストや、厳しいオーディションを突破して海外の有名交響楽団に入団したバイオリニストなど、卒業後の活躍がめざましい友人が多くいる。
母達のためにチケットを手配してくれた友人も、声楽を学び今はミュージカル女優として徐々に名前を知られつつある。
かたや珠希は音楽教室の講師だ。もちろんその選択に後悔はない。


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