たとえば運命の1日があるとすれば
その時。
突然、BGMでしかなかったギター音楽が、“曲として”耳に飛び込んできた。

ショパンの『別れの曲』。

よく知っているメロディだから?
それもあるけど、それだけじゃない。

音の熱が、明らかに違う。

思わず音のする方を見ると、

……私の背中側、店内の隅で、男性が、ギターを弾いている。

店内BGMは生演奏だったのだ。

……問題は、それが、滝沢さんに見えるということだ。

私の頭が混乱するなか、有名なメロディが紡がれていく。

優しく、あたたかいショパンだった。
ギターの音色のせいだけじゃない。
演奏自体が、優しく包み込んでくれる。

今まで弾いていた、透明なBGMとしての音楽ではなく、
人に届ける意志を持った音楽。

曲は中間部に入る。
ピアノだったら切なく、激しく、エモーショナルに弾かれるところ、
彼のギターは、優しく、明るく、背中を押してくれる。

私に向かって弾いてくれている、と感じた。

別れを経験したことを知っている彼が、私を励ましてくれている。

……ちょっと。これはない。
涙腺崩壊する。

曲は、はじめの有名なフレーズに戻ってきた。

上手い。
滅茶苦茶上手い。
ギターには詳しくないけど、上手いのはわかる。
旋律と伴奏を同時にやってのけてる時点で難しいことをやってるとわかる。
それがたどたどしくなく、自然に聴こえるということは相当上手いんだ。
しかも、間の取り方とか、和音を微妙にずらすセンスが、絶妙。

そして、きれいな手。

優しくマウスを扱ったように、
優しく弦を抑え、弦をはじく。

美しい。
鍛錬を重ねてきた美しさ。

彼の姿に魅入っていると、曲は減速していき、ふわっと優しい和音で閉じられた。


つかの間の余韻の後、彼が構えをとくと、ひとりの男性客が拍手をした。その拍手は周りに広まり、店内のお客様がみんなで拍手をする。
もちろん私も。

滝沢さんは少し困ったように立ち上がり、お辞儀をした。

滝沢さんは涙をぬぐった私の方を見て、少しだけ微笑んだ。

ああ、好きだ。彼と恋がしたい。

そう思った。

彼はもう一度お辞儀をして下がっていった。
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