買われた花嫁は、極上の花の蕾

2 、買われた花嫁

✴︎

(父ったら、信じられない! )

パーティー会場でさっきから1人で立っている。
シャンデリアの柔らかな光。
婦人達の上質な服地。

今まで、ここにいる人たちと同じように、ごくごく普通に暮らしていたんだ、と華也子は会場を見ながら思った。

1人で手持ちぶたさなのを誤魔化すために、手にはグラスを持っている。

華也子の母親は小さい頃になくなった。関心のない父は、とりあえず困らない以上の暮らしはさせてくれたし、たまたまお手伝いさんはいい人で、かわいがってもくれた。女子校にも普通に通っていた。併設の女子短大も卒業した。

何が狂ったんだろう。

何となく不穏になってきたのは、父が海外に旅行に行って帰ってきた頃からだ。

家の飾り物が無くなり、父がいつでも上の空、それは以前からだが、というより、心配事があって、もう一時もじっと座ってもいられないようなかんじだ。

電話して懇願するような声。
父の泣くような声。

ウロウロと歩き回って、家中の物を持って行って怯えている。

何か大変な借金をしたのだ、と、さすがに華也子ですら分かってしまった。

そして今日の朝『お前の面倒をみてくれるかもしれん』と、ペットの話でもするような説明でいきなり連れ出され、何やら着替えさせられた。
面倒ってどう言う意味、私ハタチも超えてるのよ、ねぇ父! と問いかけた言葉は、のらりくらりと返事も貰えず、さっきこの会場についてから、父は奥の部屋に行ってしまったまま。
不安で不安で、心が冷たく重くなるようだった。
とんでもないことに立たされるんだと思った。
誰だって気づくだろう。

女子校育ちで男性経験のない、交際したこともない自分ですら、女性が商品になる事ぐらいボンヤリと考えてしまったりする。

もしかしたら。

私も。

家の中の装飾品と同じ、売りに出される商品、とか?

ぐっと心が重くなり冷たい恐怖を感じるが、今、こんな落ち着いた、立派なご夫婦達を見ていると、あまりにも違う世界の下品な想像など、恥ずかしく思ってしまうぐらい遠い話だった。

キョロキョロと、会場を見る。

ほとんどがご夫婦ばかりだ。
立派そうなちゃんとした感じの人たち。
きちんとしたお金持ちそうな人しかいない。
若い人でも40才ぐらいだろう、そんな、買取りますみたいな人は見当たらない。

養子に出されるの? まさかね。物語じゃあるまい⋯⋯ 。

逃げたところで無一文。
どうにかなるとはもちろん思えない。


立花華也子(たちばな かやこ)


後ろからいきなり、低い男性の声で自分の名前を呼ばれ、飛び上がりそうになった。
危うく手にしたグラスの中身を零しそうだったが、くらりと揺れただけで何とかおさめた。

驚いたけれど、まず息を吐く。
吸う
吐く。

何事もないかのように振り返る⋯⋯ 。

知らない男が立っていた。この会場の誰とも違う雰囲気だ。立派な社会人、良き夫、良き父親⋯⋯ 夫婦で歩く年配の男性と全くかけ離れている。

まるで映画みたいだ。華也子はぼんやりと男を見た。


「オレは、広岡弘毅」


と男が名乗った。華也子は仕方なく、


「はい」


と答える。

自分に何か用事があるとも思えない。
パーティーの関係者とか、と呑気に思う。それほど、自分にかかわりのある人だと思えない、知らない世界の人だと思った。


✴︎


つい先日の事だ。

弘毅はビルを一棟買わないかと話を持ちかけられた。立地は良い。ただし1週間以内。相手は金に困っているから、値段なんていかようにもつけられる。書類などの準備だけ大方して、今日、会う約束を取り付けていた。
弘毅は、現金2億でそれを購入するはずだった。

(そりゃ叩き売りだろ)

と心の中で思ったのだ。物件を見に行き、この立地でその金額はないだろ、価値のわからん奴め、と思った。

弘毅には既にこのビルをどう活用するか、はっきりと明白に先が見えているような気がする。確かに築年数がやや古いが、大幅にリフォームしたとしたって、すぐ回収できる。それを2億で売るなんて、商才がないのが丸わかりだ。ああ、分かっていても金がないのか。

2億の金が必要なんだろ。
すぐに。

迷っていると思ったのか、立花は娘までつけてきたんだ⋯⋯ 。
『もろてくれまへんか? ハタチになったばかりですわ 』
と。

今、目の前に立ち、不審そうな表情で弘毅を見上げる大きな目。知性を感じるその強い視線。立花の娘にしては、色白な綺麗な顔立ちだった。

ふと少し意地悪な気持ちになった。

オレなんかとかかわりなど、一生あり得ないと信じているこの子供に、お前はもう、こっちの世界と無関係でいられなくなっているんだ、とチラリと思った。

フッ、子供のような可愛らしさと、妙な落ち着きを感じる子。
現金で1億。

黙ってジロジロと眺めていたら、娘はそのうち、私もしかして⋯⋯ という表情を浮かべた。
やっと気づいたか。

親の不始末、尻拭い。
理不尽だよな。


「おやっさんはなんて言ってたんだ? 」


すると、みるみるうちに不信感が広がり、彼女の唇にキュッと力が入る。警戒心を思い切り浮かべた。


「お前は、父親に何て説明されたんだ? 」


ともう一度言えば、


「言わないわ! 」


と答えた。ぷっと弘毅が吹き出した。


「ははっ、そんな事で膨れてもしょうがねぇだろ」


可笑しくてたまらなかった、言わない、だなんて可愛らしいもんだ。全然、自分とは世代も人生も違う。交わることのない2人だった。

弘毅は、呆れたように華也子を見下ろしている。
華也子も弘毅を見た。

長くて男らしい骨張った大きな手。
日焼けした肌に日本人には荷が重いだろうゴールドの指輪が、しかしギリギリのいかがわしさとギリギリの品を保ちながら、ぴたりとハマっている。

その右手の人差し指を薄い唇に当てたら、ゴールドがギラギラと光に当たって輝く。

華也子もまた、もうほんとに、なんて言うか⋯⋯ と思った。

なんて言うか、こんな人は知らない。この人は自然にこの場を自分のペースに巻き込むみたいだ。簡単に彼の手の内にいるみたいな、彼は大人だ。弱い幼い自分を突きつけられるような気がする。

弘毅の考えのままに、華也子なんてどうにでもなってしまう。そんな埋まらない差は、逆に身を任せて何も考えずに弘毅の決めた流れに頼ってしまいたくなる。

笑われてぼんやり、おかしな事でも言っただろうか。
弘毅はそんな華也子を値踏みするようにじっと見ている。


「どこまで話を知ってるんだ? 」


はなし⋯⋯ ? どこまでって。何が?
だって、父は借金があって、育てられなくなるかも、だから面倒を見てくれる人がいるかもって。《面倒》って?

目の前の男が、とても新しいお父さんなんて思えないし、かといって、それ以上の何かの関係になるほども、なんの接点もないって言うか、普通にしていたら、交わることのない人すぎて、彼にしたってそうだろう。

ただの子供。

後見人? 時代錯誤な、物語でしか聞いたことのない関係?
だって、ここで話している今が、現実感すらない。


「新しいお父さんなの? 」

「はっ」


と彼は目を丸くした。


「あんたの親父? 本気で言ってんの? 」


だって。それ以外。どんな厚かましい関係を口にすると言うのだ。まさか夫婦とか、可笑しいでしょう。彼にとって妻がこんな子供では、おかしいではないか。


「オレの妻らしいよ? 」

「ふふ」


っと華也子は呆れたように笑った。さっき、この男がしたように。
そんな事知るはずない、と思った。


「じゃ、あなたはどこまでその話とやらをのんだの? 」


とはっきりと逆に聞き返す。
この人が呑まなければいいんだから。そんな変な話。

彼が見下ろすように華也子を見た。

目を逸らさない。だってほんとに、面倒を見てくれる人がいるってことしか聞いてない。まさか、って心で思ってるけど、まだ聞くまで認めない。初めから負けてしまわない。

まだ私は私だ、と華也子は思った。


「もしかして、聞かされてないのか? 」

「何を? 」


ときっぱりと聞いた。


「何を私は聞いてないの? 」

「1億」

「え? 」

「あんたの値段」

「私? 」

「売りに出されていたあんたを、1億円で買うんだ」


うーん、商品だったのか私って、面倒を見てもらうってそう言う意味? 現実感がなさすぎて、華也子は逆にこれ以上ないぐらい冷静な気分だ。

家にあった壺やら絵やら、それと同じ。売られたんだ、と知った。あの角地の立花ビル。今日はその売買契約とは聞いていた。


「ビルを買おうと思ったら、あんたが、ついてきた。だから1億上乗せした。妻にしろってさ」


父がおまけに付けた私に1億払う人。彼は広岡弘毅⋯⋯ 一生、かかわることなんてなさそうな、この人が夫⋯⋯ 。

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