買われた花嫁は、極上の花の蕾

3 、結婚する気はない、と夫は言う


『オレは結婚する気はない』と彼は言った。

しかし華也子は、1億で華也子を買ったこの人の妻となった。


✴︎



ちらり。

華也子は車の運転をしている弘毅の横顔をまた見た。

父親と別れて弘毅の車に向かう途中、彼は『オレは結婚する気は全くないし、子供に妙なマネはしない。安心しな』と言ってくれた。お陰で『安心』しながら、華也子は車の後部座席に座っていた。

それにしても、この人、いくつぐらいなんだろう。父よりはもちろん下、でも、華也子よりはずっと上。

車は超高級外車だ。その中でもまた数ランク上の車で、華也子にはよく分からなかった。

革張りのシートは手触りがサラリとしていて、ヒンヤリと心地いい。しかし、生き物だった名残なのか、優しいあたたかみがある。

柔らかいのか硬いのか⋯⋯ 華也子には判断できなかったが、妙なハリと柔らかさ。
緊張して汗をかいてしまっているというのに、サラリとした感触は変わらない。シートはべたつかずに、汗さえも皮の呼吸の中に取り入れてしまうようだ。

さっき2人で小部屋に戻ると、父が今か今かと待っていた。2人で戻ったことには驚いたようだったし、華也子に対して、誤魔化すような、おもねるような、気持ち悪い笑顔を浮かべた。

『この方が、華也子にもええと思うんや』

と父は、言い訳するように華也子に言った。その言葉に、隣の弘毅の体がイラついたように揺れた。

それでも弘毅は最後まで何も言わずに書類にサインをし、支払いの手続きをした。
もう1人秘書のような男がいて、書類を受け取ったり確認したりしている。

『ここにサインを』

と言われ、唯一、華也子が自分の名前を書いたのは婚姻届だった。

手続きが終わった途端、それまで押し込めていたような感情が弘毅から滲み出てきた。
弘毅は柔らかな雰囲気をかなぐり捨てた。

『金を出したのはオレだ。オレが買ったんだ
1億でな! 』

と父に凄んだ。買われたのは華也子の事だ。父が何か言おうと口を開きかけたら、それを遮るように、

『それともなに? 金返してくれんの? 』

と睨んだ。弘毅は華也子を今すぐ、連れ帰ると言った。凄んで酷い事を言っているんだろう。人間の私を買ったとか、返さないとか、連れ帰るとか。

その場で結婚届も書いた。それはもう、数時間で提出されてしまうのだろう。

華也子はもう彼のものだった。

(もっと、嫌がればいいんだろうか)

なのに不思議とこの妙な状況に従ってしまう。弘毅の怒りは自分に対してではないのがはっきり分かるからだ。

華也子からしたら(家に帰らないんだな)と思い、非現実的すぎて、この話の中のたとえば一個だけ、今から元の家に戻ると言うことだけを実行したって、何一つ元通りではないじゃないかと思う。
 
売られてしまった。買われてしまった。

彼は何を考えているんだろう、というか、あまりにも知らな過ぎて推測も出来ない。非現実的すぎると逆に頭が冷えて妙な冷静さだ。

それから弘毅は華也子に一言で説明して楽にしてくれた。華也子は安心していればいいと。

そして今。

この高級車。

彼の服装。

これが彼。広岡弘毅。
全く知らない男性。
華也子は気持ちの良いシートに身を預けながら、ぼんやりと窓の外をながめた。過ぎていく街灯の灯りが、規則的に車内を照らしていた。


✴︎


運転席に座る弘毅は不機嫌だった。それは、華也子の父親に、こんな状況に、そしてこんな事をしている自身に対してだった。


✴︎


弘毅の家は、モデルルームみたいに生活感がなく、ただ豪華でシンプルで広いだけのマンションだった。


「家になんて興味ねぇから」


と先に立ち、


「お前の部屋、ここな、」


人気(ひとけ)のないゲストルームらしき部屋に通された。一部屋と言ってもかなり広い。ここだけでまるでワンルームのように全部がそろっていた。簡単なキッチンスペースも、バスルームまでもある。


「ここが」


と華也子は言ったまま、他に言うことが思いあたらない。


「金」


と弘毅が札束を置いた。
分厚いが、いくらぐらいか見当もつかなかった。


「好きなもん買え」


バタンと扉が閉まり、その日はそのまま、華也子は弘毅に会わなかった。


✴︎


部屋に通されてから、3日たった。

華也子は、出かけていいものなのか、どうしていいのかわからずに取り敢えず部屋にいた。
食事は3食、知らないコンシェルジュさんみたいな人が運んできてくれた。
その他も、ざっと見たところ、必要なものがおおかた揃っていて、しばらく困らずに生活出来そうだ。
確かに何だかものすごく安心だけど⋯⋯ 。

しかし、3日が限界!

いったいどうなってるのか。不安だか、混乱だか、戸惑いだか、いろいろ思ったが、そのうち全部を超えて3日目にもなると、だんだん腹が立ってきていた。


かちゃり


広いマンションの部屋にいると、他の部屋の音は聞こえないので、今日はドアを薄く開けて、その近くに椅子をひいて座っていたら、遠く玄関から物音が聞こえた。

(帰ってきた! )

あわてて華也子は部屋から飛び出した。


物音で振り返った弘毅は、スーツを着ていた。帰ってきたばかりで外の匂いを纏っている。

黒のインナーに、仕立ての良いスーツは高級だろうに何だかツルツルしていて、なぜか普通よりどうしてもやさぐれた雰囲気を醸し出してしまう。
長めの黒髪が、束になって揺れていた。チャラリと腕にしたアクセサリーが音を立てた。

走り出てきた華也子に、弘毅は少し驚いて眉を上げた。

弘毅は大人の落ち着きがある。
人生の全部を自分の手で作り上げ、しっかり地に足がついているような、少々のことでは動じないであろう彼の、華也子には埋めることのできない年齢の積み重ねが、2人の違いを感じさせる。余裕があって、人生経験が違う。


「あの⋯⋯  」

「なに? 」


何もないだろう、分かるだろうに、こんなほったらかしで。華也子はまた、苛立ちを感じた。


「あなた、えっと、何で呼べばいいのかしら? 広岡さん? 」

「弘毅だ」


2人の目が合った。


「あなたいくつなの? 」

「45」


想像通りのような、でも改めて聞いたらこんなに年が離れている、しかもこんな雰囲気の男性。簡単にお子様が呼び捨てできるのか? と、そんな余裕や挑戦、からかいを含む口調で、彼は薄っすら口元を歪めて笑っている。

(45才か⋯⋯  )

華也子はそう思いながらも目を合わせたまま、


「じゃ。弘毅」


と呼びかけた。

彼は眉を上げて、へーという感じで、そのまままだ薄らと笑いながら自分の袖口を見た。

形良い薄い唇だった。

この人の唇は薄くて、彼を薄情そうに見せている。それを歪ませるように笑うからひどい男みたいだ。

でも何だかバツが悪そうだ。

思うほど、この人には華也子に対して余裕などないんだと不思議と華也子はわかった。


「どういうつもりなの? 」

「なにが? 」


わざとシラをきるみたい、分かっているくせに、と睨む。


「私の立ち位置」

「ああ。」


と弘毅は、だろうね、と鼻で笑うようなしぐさをする。彼はカッコつけているんだ。本当は何かしら思っているくせに、何でこんなに何でもない、さも気にもしていませんって態度なんだろう。


「ちゃんと離婚してやる」


と弘毅がいきなり言った。


「自立させてやる。まともに幸せになるように。父親から解放してやるよ」


と言ってから、


「ろくでもないオレからもな」


と吐き出すように言った。


「そのために買ったんだ」


と、そんな事はさも当たり前のように弘毅は言った。
何でもないさ、と余裕に。大人みたいに。

そのくせ、彼は傷ついた顔をしていた。

表面に見えるのは45の男。落ち着いて余裕のある大人。

(でも、彼の心の中は? )

と華也子は思った。


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