買われた花嫁は、極上の花の蕾
6、なぜ、だめなの?
華也子は温泉がいいと言った。
弘毅は、温泉は部屋がね、と苦笑いした。
部屋が何だと言うんだろう。
「いや、和室はね」
「和室だとダメなの? 」
「はっ」
好きにしろと言うから、温泉の旅行に行きたいとごねた。どうしても弘毅についてきて欲しいと言った。
しかし弘毅が選んだのは、温泉の入れる洋風のホテルだった。もちろん二部屋。
✴︎
車でマンションを出発する時、かなり雨が降っていた。天気予報では雨雲はそのうちなくなりそうだし行こう、と華也子が曲げなかったので、ゆっくりと気をつけて出発する事にした。
車の中はほぼ無言だった。
何か話しても、雨音でかき消される。
しかし、温泉地に着いた時、雨は小雨になり、着いた頃には綺麗に止んでいた。
雨上がりの空は、さっきまでの大雨がうそみたいだった。
頬を、しっとりと潤いを含みながら妙に乾いたような風が撫でる、華也子の髪もさわさわと揺れた。
洗い流して澄み切った空気が気持ちいい。
車を止めて、眺めのいい展望台から夕日を見た。
一日の終りの夕日。
何だか切ない気持ちがした。
今から華也子たちは別々の部屋で過ごす。
一応、2人は夫婦で、世界に2人だけの何の因果か夫婦なのに、別々のそれぞれの部屋に行く。
「弘毅は、何で1人でいるの? 」
「はは、この年だし、今更いいよ 」
「だって。世界はこんなにのに⋯⋯ 」
「そうだな⋯⋯ 」
夕陽に照らされる弘毅の顔は、陰影が濃くて、いつもよりさらに感情が見えない。
しばらくして弘毅が言った。
「オレは貧乏だったし、母親に疎まれていた、は、とうに昔のことか」
弘毅の母親の話は初めて聞いた。
「疎まれてたの? 」
と華也子はそっと聞き返した。
「ワガママな女だった。オレが知る限り、あんなに自分本位でワガママな女は見たことない」
「今も⋯⋯ ? 」
「8つの時死んだよ。オレはずっと一人で部屋で待っていた。1週間ほどか、誰も帰ってこなくて絶望していた。母親は飲み屋街の路上で凍死していたらしい、というのも、当時は理解できなかったからね」
「じゃ同じね、」
と、華也子はとにかく言った。
「だって、私の母も死んじゃったから。小さい時に」
何が同じか、何だか華也子自身にも分からないけど、弘毅に寄り添いたかった。私も同じだって言いたかった。年が少し違ってたって同じだって。
今同じ気持ちでいる、同じ世界を見ている、同じ経験をしている。
何も違わない。同じ今を同じ気持ちで2人きり寄り添って立ってるじゃない、1人なんかじゃないよ。
もったいないじゃない、せっかく一緒にいるのに、弘毅は後ろをむくんだ、この手に入るかもしれない2人の世界を。ほら、手を出せばもう、ここにあるのに、と華也子はそっと弘毅の服の端を掴んだ。
「本当はワガママな女は苦手なんだ」
とポツリと弘毅が言った。
「狭量で嫉妬深くて、自分勝手で、執念深い」
ふ⋯⋯ と弘毅は苦しそうに笑った。
「オレは母に似てる。だから家族を持ってはいけないと思った」
「⋯⋯ 」
「子供や妻に、オレと同じ思いをさせる」
「そんなこと⋯⋯ 」
「施設で育ったんだ、唯一の母が勝手に死んだからな。母は出歩くから、オレはいつも家に1人で閉じ込められていた。食べるものもなくて
ずっと母を待っていた」
もうずっと昔の話。思い出しても平気なぐらい昔の、ただ、心に痛みだけが残っているぐらいの、ただの昔話。
「死んだ時、結婚してる男を追いかけて、騒いで、自分でひっくり返って頭を打って死んだ。
最後まで家で1人でいるオレのことなんて考えつかなかったんだろ」
「⋯⋯ 」
「ワガママな女には今でも何日も帰ってこなかった時の不安や体の痛みを感じる。手も足も出なくなるんだ」
「じゃぁ私、ワガママにして、弘毅を傷つけたのかな」
「傷つけた? 華也子のワガママなど、かわいいもんだよ」
と弘毅は笑った。華也子はいつまでも笑う弘毅の横顔を見ていた。いくら彼の服を握っていても、彼の心には届かないみたい。
彼に立ち入りたかった。
彼に立ち入れなかった。