買われた花嫁は、極上の花の蕾
9、新しい婚約者
夕方、弘毅は帰宅した。
華也子が来てから、それぞれ別々の部屋にいてたとえ顔を合わせなくても、どこかが違っていた。空気が動くというか、温まっているというか、1人の時とは全く違う。こんな空気に慣れてしまう前に、その前に⋯⋯ と思いながら、体も思考もその先に動かない。
昨夜の険悪な弘毅に、プリプリと怒っていた可愛らしい彼女。
魅力的だ、本当に。
素直に顔に出るのも。
生き生きと言葉を発するのも。
だから華也子には、本当にいるのか、男が⋯⋯ 。いてもおかしくない。
真っ暗だった。玄関のドアを開けた時⋯⋯ 。
人気のないその空気に、弘毅は体中の温度が一気に絶望に凍りついたように感じた。
(出て行ったんだ)
父親の言っていた男のところにやはり行ったのか、とすぐ思った。
暗闇の中リビングに入ると、机の上に走り書きがあった。
〈もう!わからずや! 実家に行きます〉
文字さえ愛しい。
彼女の書いた字すら、彼女の触っていた紙ですら、抱きしめたいほど彼女の存在が残っているように感じた。
「はは、愛しいよな」
いいんだ。華也子はこれで自由だ。
自ら出て行った。
弘毅は最初からそのつもりだったんだ。
弘毅はしばらくその紙を見ていた。
頭がぼんやりとしてくる。胸が痛い。
こんなに引きちぎられるように痛いとはね。
リビングのソファーに埋もれるように座り込んだ。
隣で同じように埋もれていた彼女。
彼女は出て行った。
好いた男⋯⋯ そいつといる。
惨めで1人で、この先も真っ黒な1人きりの人生、二度と光を見れないような絶望、息が詰まると思った、真っ黒だ、彼女の意思で行ってしまったんだ⋯⋯ バカだなオレは、と弘毅は思った。
一目見た時から、目が離せなかった。
その時は、ただの成り行きで彼女の幸せを思った。
でも目の前の彼女の顔。しぐさ。弘毅に話しかける表情。そのすべてが。前に向けても向けても、華也子は弘毅の方を振り向く。
全身で彼女は弘毅にむかってきた。
(そんな事あるか? )
とふっと気づく。
たとえ弘毅を見限ったとしてもだ。
それはないと確信する、違う、ありえない。
(華也子はそんなことする女か? )
好き合った男がいるのに、弘毅にちょっかいかけるような? 本気で弘毅に向き合おうとしていた華也子が?
(ちがうだろ)
あの親父だ。
何を思いついたかわかったもんじゃない。
だから華也子を守ってやりたかったんだ。
父親から解放してやると言ったんだ。
弘毅が信じているのは華也子の方じゃなかったのか。
弘毅は立ち上がり、あわてて走り出した。
✴︎
(ついに弘毅に厄介払いされたんだろうか)と華也子は思った。
(私、返品かな、笑っちゃう)
昨夜の弘毅の拒絶は本気だった。
父は昨日、弘毅と電話で話したらしい。
彼は私がいらないんだって。
そして、今⋯⋯ 。
なぜか目の前には華也子の婚約者だという男が、へらへらと笑っている。気持ちが悪い人だ。少し若いだけで、心根が滲み出るってもんよ。人の意見の聞けない自分本位なお坊ちゃん。弘毅と真逆だ。
自分を甘やかして、華也子に対して何の我慢すらできないダラシない感情。
あぁ、ほんとに弘毅は華也子を思ってくれていたんだ。
押し付けもしない。
嫌な自分本位の感情も向けない。
華也子の意志をなによりも大事に一番にしてくれる人。
「え、私、弘毅と結婚してる人妻なんだけど」
「大丈夫! 僕が愛してあげますよ」
と男が自信たっぷり言った。
「けっこうです」
と断った。
朝一で、父が体調が悪くて死にそうだと電話してきた。死にそうな人が自分で電話なんて出来ないだろうと思ったが、華也子は一人娘だ。分からずやの弘毅にメモを残して、一応とにかく駆けつけた。
華也子の実家は広くて立派だが、もう古くて住むには無理があるほどだった。
先先代が有名な海外の建築家に造らせた城のような洋館、しかし、漆喰も木も、至る所もう限界に近い。
帰宅するなり父から、弘毅と昨夜話し合って、華也子は家に戻されるんだと聞いた。
それから、自分の部屋に行きなさいと言われた。
華也子の自室は2階にあった。隣は父の寝室だった。
窓の外には、まるで中世の舞台セットのような広いバルコニーがあり、隣の部屋からも出られる。
もう色褪せて朽ちてしまっている椅子と机が、まだ置いてあった。
バルコニーからは町を一望出来た。
部屋にはそのままだった華也子の持ち物があったが、もう不思議と懐かしいだけで、自分の物のような実感は薄れている。
弘毅は本当に華也子をここに戻すつもりなのだろうか、だって弘毅は父から解放してやるって言ったじゃない⋯⋯ どうして⋯⋯ ちょっと泣きそうになっていたら、 なぜかこの変な男が入ってきた。
入口の古いやたらと質のいい木の扉を閉められ、今どき有り得ない鍵穴に大きな鍵を差し込みグギュ、と鍵を回された。
頑丈だけが取り柄のような分厚い扉だ。
閉じ込められた。
「いえ、私、結婚してますから」
と断れば、
「おかわいそうに。あなたは処女のままだそうじゃないですか。聞きましたよ父上に。不能なんじゃないの? あの男。あんななりしてさ、僕が愛してあげますよ。たっぷりと」
男が言った。
「守ってあげるよ、あの男から」
と男が手を伸ばしてきて⋯⋯ 。
✴︎
弘毅が立花家に着いた時、玄関からすぐ横の小道を回り込んだ庭あたりから、男の怒鳴り声がしていた。
弘毅が慌てて走ってそちらに行くと、バルコニーに2つの人影、その一方の男が喚いている。
「元々僕が結婚するはずだったんだ! 2億払えないからって掠め取られた! いつのまにか、あの親父、勝手に売ったとか言いやがって! 」
華也子が、手に当たるもの何でもかんでも投げつけたら、男がキレたのだ。華也子は怖くて、ものすごく腹が立っていた。
がちゃん、
華也子が転がるようにバルコニーに飛び出してきて、続いて男が追ってきた。
バルコニーの端には、建物の脇に庭に降りれるような細い階段がついている。
一瞥し、弘毅はその階段に向かって走っていた。
「さっきから、ふざけないでくれる? どうしたら、そんな思考なのよ、バカバカしい」
華也子も階段の方に走ってきて、手すりに手をかけ、追ってきている男の方にふりむいた。
「逆なのよ! あなたから、助けてもらうのよ! 私の夫に! 」
と蹴り飛ばした。
階段を急いで降りようと振り返り、登ってくる弘毅と目が合って⋯⋯ 。
階段で弘毅の姿を目にした途端、華也子の瞳に溢れたのは安堵だった。
「おそい! 弘毅のバカ! 」
と理不尽に怒ってから、階段から走り降り、弘毅の腕の中に飛び込み泣き出した。
弘毅を掴む細い指は、思ったよりも強く生命に満ち溢れている。
はっきりと弘毅はその引っ掴むような、縋るような、頼るような、全身で彼を信じて求める彼女を感じた。
その手で引き摺り出されるような気がした。
弘毅の何もかもが、押し込めている感情も、生命も、全部。
華也子が助けを求めるのはオレなんだ、と腕の中の華也子の体で思った
(あぁ、オレはバカだった、)
華也子以外を信じて彼女の気持ちを疑ったからだ。目の前の、彼女だけを信じればいいんだ。
「おそいよ⋯⋯ 」
と華也子はつぶやいた。
ベソベソ泣きながら弘毅の胸に顔を埋めている。
「怖かったのか? しょうがねぇな」
と弘毅は言いながら、よしよしと頭を撫でた。
「なかなか勇ましかったじゃないか」
と華也子を褒めたが、後ろにいる男には怒りを含んだ目で睨みつけた。
実際に弘毅を見たら男はもう何も言えずにいた。華也子には偉そうに振る舞っていたが、弘毅相手に何か言えるような気概などない男は、すごすごと後退りして消えていった。
くそ腹立たしかった。
弘毅はぐっと込み上げる怒りを抑えていた。
後で華也子の父親にどう言ってやろう。
しかし、ズレてはいるが、華也子を心配する気持ちも本当なのが、余計にやっかいだと弘毅は考えていた。
今後、こんなクソしょうもない事を考えつかないように、二度と華也子に手出しできないよう、徹底的に何とかしないとな、と決意する。
まさか、こんな事を仕組むなんて思いもしなかった。
華也子の周りは、どうしてこんな男しかいないんだ、父親も、あの男も、そしてオレも。
なのに、華也子はオレに縋っている。
華也子が弘毅を見上げた。
華也子の目の前の彼の顔と目。
涙に濡れた目で彼の目を見る。
高い鼻梁が触れそうなほど近くて、秀でたおでこにかかる彼の髪が、華也子もくすぐるほど近くだった。
弘毅も華也子を見つめていた。
手で華也子の髪を撫でる。
無事でよかった。
息が当たるほどの距離で、もう彼に届くのに、その位置で弘毅は止まったまま。
お互いの周りに取り巻く空気は触れ合っていて、弘毅は彼女を感じていた、その空気に触れるように、弘毅はちょっと苦しそうに、困ったようにニヤリと笑った。
「じゃぁ」
と華也子が言うのを遮るように、
「だから⋯⋯ 」
と弘毅が言った。