鉄仮面御曹司が愛に目覚めたら、契約妻は一途な熱情に抗えない
鳩が豆鉄砲食らった……なんて言葉があるけれど、私には頭の上から隕石でも直撃したような衝撃だった。
 そこから更に、新たな宇宙が発生しそう。
 三百万で、私を一年間を買うなんて。
 それに、契約結婚しようとも聞こえた。
「丁度明日は休みなので、三百万揃えて前払いでお支払いできます」
 はっきりとした声で、ぽかんとしている私に語りかける。
 どうやら、さっきのは聞き間違えでは無いらしい。
 でもそれって、もしかして。
「あの、それって……愛人契約とかの話ですか?あ、でも結婚?とかって……?」
 口に出してみると、更に自分が混乱しているのがわかった。それに、平凡な私に神楽坂さんが愛人契約を申し出るなんて、思い上がりだと顔が熱くなる。
「いえ、愛人ではなく妻です」
「つま」
 語彙力も『妻』というワードで砕けてしまった。
「愛人契約ではなく、本当に婚姻関係を結びたいのです。婚姻届を提出して」
 神楽坂さんがあまりにも堂々と話をするので、落ち込む気持ちが一旦遠くに飛んでいってしまった。
「あの……もし大丈夫なら、神楽坂さんが結婚したい理由を教えて貰えませんか? ていうか、独身だったんですね。それから私のことを……す、好きって訳ではないんですよね?」
 かなりすごいことを聞いてる自覚がある。
 緊張でひりつく喉を潤すのに、端に置きっぱなしになっていたグラスの水を一気に煽った。
 指先がびしゃびしゃになるほど、透き通ったブラウン色のグラスは汗をかいていた。
「……短い期間でもいいので、結婚していたという事実が欲しいのです」
 あえて、好きかどうかの質問の答えをはぐらかされた気がする。
「結婚していた、事実ですか」
「そうです。お恥ずかしながら、僕はこの歳まで人を愛したり、愛されたりという中で生まれる喜びを知りません。正確に言えば、それが分からない人間なのです」
 この世にはたくさんの人が居て、それぞれに事情を抱えていたりする。
 神楽坂さんが抱えるものの全部を理解する事はいま出来ないけれど、そういう人も居る事実は受け止めたいと思う。
 喫茶店には、相変わらず誰も入店してこない。
 非現実的な雰囲気の漂う喫茶店は、現実的ではない話をする私たちの為に用意された舞台装置みたいだ。
「この歳で独身でいると、周囲がなにかと騒ぎます。中には出世に支障が出ると言う人や、紹介しようと勝手にセッティングを進めようとする人もいて」
 ……正直、困ります。と、神楽坂さんは凛々しい眉を下げた。
「あの、神楽坂さんて、おいくつなんですか」
「今年で三十八になります。先月、誕生日でした」
「本当に……ごめんなさい、こっそり彼女さんとか居ないんですか」
 総支配人でなかったら、俳優にでもなれそうなルックスは宿泊客やスタッフの羨望の的だった。
 いつも冷静な佇まいで笑顔を見ることは無かったけれど、厨房にもしっかりと気を配ってくれる姿勢は皆の憧れだった。
「いません。もしそういった人間関係が自分で築けていれば、事態も違っていたでしょう」
 
< 5 / 39 >

この作品をシェア

pagetop