保健室の君。
出会い
私は今日も保健室に登校する。
「おはようございます」
「早弥ちゃん、おはよー」
東峰高校で2年生になった私、立花早弥は、
養護教諭の石田美弦先生に明るく挨拶を返して貰えて、はにかんだ。
安心したように私は笑った。
私にとって、高校での居場所はもうここにしかなかった。
東峰高校は進学校だ。偏差値は中の上と言った所。
生徒も真面目な性格で賢い生徒が多いため、いじめなどの大きな問題はほとんどない。
私が自分のクラスに行けなくなったのは、決して周りの人のせいじゃない。それだけは言っておきたい。
大切な友人のためにも、私なんかを支えてくれる恩師の先生たちのためにも。
1年でつまずいて、2年からは教室に行けなかった。
4月中は登校も出来なくて、5月下旬の今、やっと保健室に顔を出せるようになった。
私だって、授業はわかるようになりたいし、卒業もしたいし、大学だって行きたいと思っている。
その目標を毎朝忘れないように確認して、自分を奮い立たせて保健室に登校する。
教室には行けないが、保健室に登校さえしてしまえば、石田先生含め優しくて面倒見の良い先生方のおかげで楽しく勉強できる。
そうして、人目を忍んで、普通の生徒とは時間をずらした登下校を、今日も繰り返す。
教室に行けない私に、空き時間の先生が代わる代わるやってきて、熱心に授業の補講のようなものを行ってくれたり、プリント課題を出してくれたりしている。
事情を知っている親友が昼休みに顔を出してくれたり、たまにデリカシーの無い先生が来ても、保健室の先生がフォローしてくれて、なんとか過ごしている。
彼と出会ったのは、そんな保健室登校にだいぶ慣れた頃。
もうすぐ梅雨入りするだろうかという、6月のはじめだった。
「ふう」
私は課題プリントを終えて一息ついた。
「失礼します……」
顔色の悪い、男子生徒。
生徒が休み時間に来るのはよくあること。
保健室は本来、そういう場所だ。
私も突然の訪問者に慣れた頃だった。
もういちいち緊張したり気まずくなったりしない。
一応、ぺこりと会釈をして、あとは堂々としていれば良いのだ。
別に悪いことはしていないのだから。
あとから思えば、そうやって堂々と出来るようになっていたことは心境の変化が顕著になっているのだから、良い変化だった。
「あれ、宮下君」
意外そうに石田先生は声をかける。知っている生徒のようだ。
「ちょっと体調悪くて。休みたいんですけど」
今は3限の授業中だ。
「良いよ。わかりました。次の授業は? 出れそう?」
「はい、次小テストあるんで出たいんですけど、頭痛くて」
「わかりました。一応熱測って。その後、そこのベッドで休んで良いから」
はい、と宮下先輩は頷く。
学ランの足元には先輩を指す緑の学年カラーの上履きを履いていらっしゃった。
先輩は体温計を受け取り、熱を測る。
「はい。熱は無いみたいね。3限終わったら声かけるから」
「はい、ありがとうございます」
先輩はそういってベッドに横になった。
石田先生がカーテンを閉める。
私は気持ちを切り替えるために一度大きく息を吸って、吐いた。
また、課題に取り組む。げ、苦手な社会……日本史だ。
***
「立花さん、いる?」
宮下先輩が授業に戻った4限。良く知った先生の声がした。
「あ、はい! 安曇先生」
国語科の安曇麗子《あずみれいこ》先生だ。
去年も今年も、私のクラスの古文担当でお世話になっている。
「これ、さっきの授業のプリント。クラスの子は今日の授業でやって提出して貰ったから、立花さんも今日中に提出して貰える?」
「あ、はい。わかりました」
私は古文のプリントを受け取る。
安曇先生は厳しくも優しい先生だ。
こうして、授業についていけるように、プリントを届けてくれる優しさ。
けれど、他の生徒と締め切りは同じにする、甘やかさない厳しさ。
それだって優しさとも言える厳しさだ。
締め切りを伸ばすことは生徒のためになるとは言えない。
そんな先生なので、私は信頼しているが、多くの生徒の間では「厳しい」というイメージが先行して独り歩きしてしまっている感じだ。
私も厳しく怖いイメージはなかなかぬぐえないので、返事をするたびに声が強張ってしまう。
「・・・・・・」
いつもならプリントを渡してすぐに去っていく安曇先生の様子が少し違う。
私は首を傾げた。
安曇先生は、何かを躊躇っているような様子だった。
やがて意を決したように一度口を引き結んでから、ゆっくりと開いた。
「立花さんもわかってると思うけど」
敢えて言うわね、と安曇先生は続けた。
私は嫌な予感がしたし、続く安曇先生の言葉もなんとなく予想がついた。
先生が厳しいだけでなく、優しいからこそ言ってくださるのはわかる。
わかっているつもりだ。
「このままっていうのはあまり良くないですよ」
安曇先生は、言葉を選んでくれていた。
私も黙ってうなずいた。
「いつまで、保健室登校をしますか?」
期限を決めておかないと、ずるずると先伸ばしにしてしまう私の性格をわかったうえで、安曇先生は言ってくれている。
もうすぐ期末試験だから、気にしてくれているのだろう。
「例えば――」
安曇先生は、クラスに復帰する時期や方法、きっかけをいくつも私のために提案してくれた。
考える素振りが無かったから、何度も考えて話しに来てくれたのだろうと予想がつく。
けれど、聞けば聞くほど、心の中の頑固な私が、心を閉ざし、先生の話も聞けなくなってしまった。
先生は悪くない。全部私が悪い。誰も悪くない、私のネガティブ思考が原因だ。
ただ、口をつぐんだ私にお構いなく、安曇先生は提案を続け、それが重荷となり私は苦しくなってしまった。
だめだ、だめだと思いながら涙が溢れた。
苦しくて止まらなくて、先生を困らせてしまった。
申し訳なくて私は先生に頭を下げた。
安曇先生は提案を止めた。
驚いたのか、少し焦っていた。
慌てた表情を冷静に努めようと隠しながら、ティッシュを差し出してくれた。
どうしようも無いんだと、弱音を聞いて欲しかった。
けれど、厳しい安曇先生にそれは通用しないと思った。
分かって貰えないと思って口をつぐんだら、理解者が減ったように感じて苦しくなってしまった。
自分を、全てをわかってくれる人なんていないって、わかってるのに。
「大丈夫?」
安曇先生が保健室を出て言って、石田先生がそう声をかけてくれた。
安曇先生は焦らせるつもりは無いんですよ、また来ますねと優しく言って保健室を出て行った。
わかっている。
安曇先生のことは好きだ。
本当に良い先生なんだ。
熱心で。
だからこそ、それに応えられない自分が不甲斐無い。
黙って一部始終を見ていた石田先生に、私はそんな思いを伝えた。
うん、うん、と石田先生は頷いてくれていた。
散々泣きはらした後、私は教室復帰について考えるようになった。
6限の間に、放課後の生徒と被らないように私は下校する。
安曇先生に今日中と言われたプリントは1年でやった古文の文法の復習プリントで、5限にプリントを提出に行った際、気まずくて、けれどそんな空気はイヤで私は安曇先生に考えてみます、と言った。
教室復帰について。
少しほっとしたように、安曇先生は表情を崩して、優しく、そうしてください、と言った。
このままじゃいけないのはわかっている。
復帰するタイミングも悩みどころだ。
クラスのみんなは優しく受け入れてくれるだろう。
それは校風的にも十分わかっている。
私は友人は多い方なのだ。
人間関係であまり困った事は無い。
前に石田先生と私自身について分析してみて、自己肯定感の低さが原因だというのはわかっている。
つまりは自分の問題なのだ。
自分に自分が押し潰されそうで――押し潰された結果、現状がある。
「失礼しまーす。石田先生ー?」
そんなある日。私が悩んでいると、以前聞いた声がした。
「宮下先輩?」
「ん?」
「今ちょうど、石田先生、席を外してて。すぐ戻るって言ってました」
誰だこいつ、という顔をしている先輩にお構いなく、私は石田先生のいない現状と、誰か来たらすぐ戻るって伝えて、と頼まれた役目を果たしている。
「あーじゃあ、待ってれば良いかな」
気まずそう、というか訝しげに私を見ながら、宮下先輩は言った。
「あの、ごめん、覚えてないんだけどどこで知り合った?」
俺、お前の名前知らん、と顔に書いてある。率直に聞いてくる先輩に、私も簡潔に答えた。
「ここです」
「保健室?」
「はい」
先輩はうーんと考えを巡らせるが、思い当たらないようだ。そりゃそうだ。少し、からかいすぎたか。
「すみません。私、立花早弥って言います。2年です」
「2年……?」
私の名乗りを、先輩はヒントだと解釈したらしい。違う違う。
後輩の顔を思い出しているのか、それでも心当たりが無い、という風に首をかしげる先輩。
「先週、先輩が小テストの前に頭痛で来た時にいただけです。一方的に名前だけ知ってたので。すみません」
ああ、そういうことか、と先輩は言った。
「よく覚えてるな?」
「え?」
「俺が来た日とか、小テストとか症状とか」
「あ、いや。たまたま。すみません」
いやいや、と謝らなくて良いと先輩は言う。
このやりとりで緊張がほぐれたのか、先輩が言った。
「ああ、あの日もいたってことは保健室登校?」
「あ、はい」
「ま、色々あるよな」
先輩はあっさりしていた。
この学校の生徒は優しく気遣いができる性格の人が多いので、保健室登校の生徒に対しても、気を遣って話題に触れないか、逆にざっくばらんに気にしない様子かでだいたい二極化する。
この学校の生徒なだけあって、やっぱり先輩も良い人だ。
「あ、宮下君ごめんねー」
そのタイミングで石田先生が戻って来た。
すっかり打ち解けている私と先輩を見て、先生は少し不思議そうだ。
「ちょっと待ってね」
石田先生はそう言って、宮下先輩に渡すらしいプリントを探している。
私が不思議がっているのが分かったのか、先輩が説明してくれた。
「俺、保健委員。委員長なんだわ。今月の保健だよりの委員コーナー任されてて」
「なるほど」
うちの学校の毎月配られる保健だよりはA3サイズ。
A4サイズ――よくあるクリアファイルのサイズの2倍だ。
用紙の半分ずつ、A4のスペースを養護教諭や保健委員会の先生が書いた連絡事項と、保健委員会の生徒が書く季節に合った健康ネタで構成されている。
特に委員会の女子生徒はよくダイエットに関する記事を書いてくれるので意外と参考になり、人気があるらしい。
先輩は石田先生から何やら保健だより執筆のための用紙と注意事項やネタ、メモの書かれたプリントを受け取って昼休みが終わる前に教室に戻っていった。
保健室を出る前に先輩が振り返り、言った。
「あ、俺、宮下千尋。よろしくな、立花」
これが、先輩との出会いだった。
「おはようございます」
「早弥ちゃん、おはよー」
東峰高校で2年生になった私、立花早弥は、
養護教諭の石田美弦先生に明るく挨拶を返して貰えて、はにかんだ。
安心したように私は笑った。
私にとって、高校での居場所はもうここにしかなかった。
東峰高校は進学校だ。偏差値は中の上と言った所。
生徒も真面目な性格で賢い生徒が多いため、いじめなどの大きな問題はほとんどない。
私が自分のクラスに行けなくなったのは、決して周りの人のせいじゃない。それだけは言っておきたい。
大切な友人のためにも、私なんかを支えてくれる恩師の先生たちのためにも。
1年でつまずいて、2年からは教室に行けなかった。
4月中は登校も出来なくて、5月下旬の今、やっと保健室に顔を出せるようになった。
私だって、授業はわかるようになりたいし、卒業もしたいし、大学だって行きたいと思っている。
その目標を毎朝忘れないように確認して、自分を奮い立たせて保健室に登校する。
教室には行けないが、保健室に登校さえしてしまえば、石田先生含め優しくて面倒見の良い先生方のおかげで楽しく勉強できる。
そうして、人目を忍んで、普通の生徒とは時間をずらした登下校を、今日も繰り返す。
教室に行けない私に、空き時間の先生が代わる代わるやってきて、熱心に授業の補講のようなものを行ってくれたり、プリント課題を出してくれたりしている。
事情を知っている親友が昼休みに顔を出してくれたり、たまにデリカシーの無い先生が来ても、保健室の先生がフォローしてくれて、なんとか過ごしている。
彼と出会ったのは、そんな保健室登校にだいぶ慣れた頃。
もうすぐ梅雨入りするだろうかという、6月のはじめだった。
「ふう」
私は課題プリントを終えて一息ついた。
「失礼します……」
顔色の悪い、男子生徒。
生徒が休み時間に来るのはよくあること。
保健室は本来、そういう場所だ。
私も突然の訪問者に慣れた頃だった。
もういちいち緊張したり気まずくなったりしない。
一応、ぺこりと会釈をして、あとは堂々としていれば良いのだ。
別に悪いことはしていないのだから。
あとから思えば、そうやって堂々と出来るようになっていたことは心境の変化が顕著になっているのだから、良い変化だった。
「あれ、宮下君」
意外そうに石田先生は声をかける。知っている生徒のようだ。
「ちょっと体調悪くて。休みたいんですけど」
今は3限の授業中だ。
「良いよ。わかりました。次の授業は? 出れそう?」
「はい、次小テストあるんで出たいんですけど、頭痛くて」
「わかりました。一応熱測って。その後、そこのベッドで休んで良いから」
はい、と宮下先輩は頷く。
学ランの足元には先輩を指す緑の学年カラーの上履きを履いていらっしゃった。
先輩は体温計を受け取り、熱を測る。
「はい。熱は無いみたいね。3限終わったら声かけるから」
「はい、ありがとうございます」
先輩はそういってベッドに横になった。
石田先生がカーテンを閉める。
私は気持ちを切り替えるために一度大きく息を吸って、吐いた。
また、課題に取り組む。げ、苦手な社会……日本史だ。
***
「立花さん、いる?」
宮下先輩が授業に戻った4限。良く知った先生の声がした。
「あ、はい! 安曇先生」
国語科の安曇麗子《あずみれいこ》先生だ。
去年も今年も、私のクラスの古文担当でお世話になっている。
「これ、さっきの授業のプリント。クラスの子は今日の授業でやって提出して貰ったから、立花さんも今日中に提出して貰える?」
「あ、はい。わかりました」
私は古文のプリントを受け取る。
安曇先生は厳しくも優しい先生だ。
こうして、授業についていけるように、プリントを届けてくれる優しさ。
けれど、他の生徒と締め切りは同じにする、甘やかさない厳しさ。
それだって優しさとも言える厳しさだ。
締め切りを伸ばすことは生徒のためになるとは言えない。
そんな先生なので、私は信頼しているが、多くの生徒の間では「厳しい」というイメージが先行して独り歩きしてしまっている感じだ。
私も厳しく怖いイメージはなかなかぬぐえないので、返事をするたびに声が強張ってしまう。
「・・・・・・」
いつもならプリントを渡してすぐに去っていく安曇先生の様子が少し違う。
私は首を傾げた。
安曇先生は、何かを躊躇っているような様子だった。
やがて意を決したように一度口を引き結んでから、ゆっくりと開いた。
「立花さんもわかってると思うけど」
敢えて言うわね、と安曇先生は続けた。
私は嫌な予感がしたし、続く安曇先生の言葉もなんとなく予想がついた。
先生が厳しいだけでなく、優しいからこそ言ってくださるのはわかる。
わかっているつもりだ。
「このままっていうのはあまり良くないですよ」
安曇先生は、言葉を選んでくれていた。
私も黙ってうなずいた。
「いつまで、保健室登校をしますか?」
期限を決めておかないと、ずるずると先伸ばしにしてしまう私の性格をわかったうえで、安曇先生は言ってくれている。
もうすぐ期末試験だから、気にしてくれているのだろう。
「例えば――」
安曇先生は、クラスに復帰する時期や方法、きっかけをいくつも私のために提案してくれた。
考える素振りが無かったから、何度も考えて話しに来てくれたのだろうと予想がつく。
けれど、聞けば聞くほど、心の中の頑固な私が、心を閉ざし、先生の話も聞けなくなってしまった。
先生は悪くない。全部私が悪い。誰も悪くない、私のネガティブ思考が原因だ。
ただ、口をつぐんだ私にお構いなく、安曇先生は提案を続け、それが重荷となり私は苦しくなってしまった。
だめだ、だめだと思いながら涙が溢れた。
苦しくて止まらなくて、先生を困らせてしまった。
申し訳なくて私は先生に頭を下げた。
安曇先生は提案を止めた。
驚いたのか、少し焦っていた。
慌てた表情を冷静に努めようと隠しながら、ティッシュを差し出してくれた。
どうしようも無いんだと、弱音を聞いて欲しかった。
けれど、厳しい安曇先生にそれは通用しないと思った。
分かって貰えないと思って口をつぐんだら、理解者が減ったように感じて苦しくなってしまった。
自分を、全てをわかってくれる人なんていないって、わかってるのに。
「大丈夫?」
安曇先生が保健室を出て言って、石田先生がそう声をかけてくれた。
安曇先生は焦らせるつもりは無いんですよ、また来ますねと優しく言って保健室を出て行った。
わかっている。
安曇先生のことは好きだ。
本当に良い先生なんだ。
熱心で。
だからこそ、それに応えられない自分が不甲斐無い。
黙って一部始終を見ていた石田先生に、私はそんな思いを伝えた。
うん、うん、と石田先生は頷いてくれていた。
散々泣きはらした後、私は教室復帰について考えるようになった。
6限の間に、放課後の生徒と被らないように私は下校する。
安曇先生に今日中と言われたプリントは1年でやった古文の文法の復習プリントで、5限にプリントを提出に行った際、気まずくて、けれどそんな空気はイヤで私は安曇先生に考えてみます、と言った。
教室復帰について。
少しほっとしたように、安曇先生は表情を崩して、優しく、そうしてください、と言った。
このままじゃいけないのはわかっている。
復帰するタイミングも悩みどころだ。
クラスのみんなは優しく受け入れてくれるだろう。
それは校風的にも十分わかっている。
私は友人は多い方なのだ。
人間関係であまり困った事は無い。
前に石田先生と私自身について分析してみて、自己肯定感の低さが原因だというのはわかっている。
つまりは自分の問題なのだ。
自分に自分が押し潰されそうで――押し潰された結果、現状がある。
「失礼しまーす。石田先生ー?」
そんなある日。私が悩んでいると、以前聞いた声がした。
「宮下先輩?」
「ん?」
「今ちょうど、石田先生、席を外してて。すぐ戻るって言ってました」
誰だこいつ、という顔をしている先輩にお構いなく、私は石田先生のいない現状と、誰か来たらすぐ戻るって伝えて、と頼まれた役目を果たしている。
「あーじゃあ、待ってれば良いかな」
気まずそう、というか訝しげに私を見ながら、宮下先輩は言った。
「あの、ごめん、覚えてないんだけどどこで知り合った?」
俺、お前の名前知らん、と顔に書いてある。率直に聞いてくる先輩に、私も簡潔に答えた。
「ここです」
「保健室?」
「はい」
先輩はうーんと考えを巡らせるが、思い当たらないようだ。そりゃそうだ。少し、からかいすぎたか。
「すみません。私、立花早弥って言います。2年です」
「2年……?」
私の名乗りを、先輩はヒントだと解釈したらしい。違う違う。
後輩の顔を思い出しているのか、それでも心当たりが無い、という風に首をかしげる先輩。
「先週、先輩が小テストの前に頭痛で来た時にいただけです。一方的に名前だけ知ってたので。すみません」
ああ、そういうことか、と先輩は言った。
「よく覚えてるな?」
「え?」
「俺が来た日とか、小テストとか症状とか」
「あ、いや。たまたま。すみません」
いやいや、と謝らなくて良いと先輩は言う。
このやりとりで緊張がほぐれたのか、先輩が言った。
「ああ、あの日もいたってことは保健室登校?」
「あ、はい」
「ま、色々あるよな」
先輩はあっさりしていた。
この学校の生徒は優しく気遣いができる性格の人が多いので、保健室登校の生徒に対しても、気を遣って話題に触れないか、逆にざっくばらんに気にしない様子かでだいたい二極化する。
この学校の生徒なだけあって、やっぱり先輩も良い人だ。
「あ、宮下君ごめんねー」
そのタイミングで石田先生が戻って来た。
すっかり打ち解けている私と先輩を見て、先生は少し不思議そうだ。
「ちょっと待ってね」
石田先生はそう言って、宮下先輩に渡すらしいプリントを探している。
私が不思議がっているのが分かったのか、先輩が説明してくれた。
「俺、保健委員。委員長なんだわ。今月の保健だよりの委員コーナー任されてて」
「なるほど」
うちの学校の毎月配られる保健だよりはA3サイズ。
A4サイズ――よくあるクリアファイルのサイズの2倍だ。
用紙の半分ずつ、A4のスペースを養護教諭や保健委員会の先生が書いた連絡事項と、保健委員会の生徒が書く季節に合った健康ネタで構成されている。
特に委員会の女子生徒はよくダイエットに関する記事を書いてくれるので意外と参考になり、人気があるらしい。
先輩は石田先生から何やら保健だより執筆のための用紙と注意事項やネタ、メモの書かれたプリントを受け取って昼休みが終わる前に教室に戻っていった。
保健室を出る前に先輩が振り返り、言った。
「あ、俺、宮下千尋。よろしくな、立花」
これが、先輩との出会いだった。