まもなく離縁予定ですが、冷徹御曹司の跡継ぎを授かりました
「結」

 しかしその時、私を呼ぶ声がもうひとつあった。タイミングよく現れたその人物は人混みの中から颯爽とこちらに向かって歩いてくる。

「探したぞ、ここにいたのか」

 ここで待っていろと言ったのはあなたです、と言いたい気持ちを飲み込んだ。芝居がかった一哉さんはさも今偶然見つけたかのように私の前に立っていた。

「私の婚約者になにか」

 ぽかんと立っていたら一哉さんにぐっと肩を引き寄せられる。そばにいる巧さんは唖然としていて、私もしばらく自分の状況を理解するのに時間がかかった。

 彼の発した言葉がだんだんと自分の中に落ちてきて、ようやく一哉さんの言葉に驚かされる。頭の中で繰り返される〝婚約者〟というワードに驚いて彼を見上げていた。

「婚約者ってあなた、もしや見てくればかり良くなった彼女に騙されましたか」

 ふっと鼻で笑う巧さんの馬鹿にしたような言葉に体が縮こまる。でも隣にいる一哉さんは堂々と立っていて、こっそり「大丈夫だ」と耳打ちしてきた。

「婚約者のフリをしてくれとでも言われたんでしょう。あなたもどこのご子息か存じませんが知っておいた方がいい。彼女はきもの鷹宮という潰れかけの会社の――」

 べらべらと得意げに話し続けていた巧さんだったけれど、驚いたように私たちを見つめ言葉が消えていく。そして私もまた突然の事態に体が硬直する。

 唇に触れる柔らかい感触。

 一哉さんの顔が開けていた視界を占め、一瞬何が起こったか分からなかった。ゆっくり離れていく綺麗な顔は唇に僅かな余韻を残していく。目を泳がせる私は震える手でそっと口元に手をやった。


< 41 / 128 >

この作品をシェア

pagetop