仮面夫婦のはずが、冷血御曹司の激愛で懐妊いたしました
圭一郎の変化
向坂自動車本社ビルの副社長室で、圭一郎は夕暮れの街を眺めている。
紫色とオレンジ色が混ざり合いグラデーションを作る空の下、二十四時間体制で動き続ける工場の向こう側の家々に、チラホラと灯りがつきはじめている。副社長に就任してから五年間、毎日のように見ている光景だ。でも今それを見つめる圭一郎の心境は、以前とは随分違っている。
あの家の灯りひとつひとつに家族があり、愛し合う者たちがいて幸せな家庭を築いているのだ。冷たい家庭で育った以前の圭一郎にはわからなかった世界が今は手に取るようにわかる。
圭一郎のマンションにも澪がいて、圭一郎の帰りを待っている。まだ互いにぎごちなくはあるものの温かい家庭を築きつつある。
澪と結婚してから約二カ月が経った。
季節は秋に差し掛かり、夜の風が少し寒く感じられる。
以前の圭一郎だったら、こんな季節の変化にも気が付かなかっただろうと思う。コンクリートのビルの中でひたすら業務をこなし、日が変わる直前に自分のマンションへ戻る。その繰り返しの日々だったから。
今もスケジュール自体にそれほど変化があるわけではないけれど、季節が変わったのをしっかりと感じられるのは澪がマンションに花を飾るからだ。
新婚旅行から戻り彼女はマンションへ越してきた。そして生活を整えつつ時間を見つけて実家にも通って庭の手入れを続けている。
マンションに庭で育てた花を飾ってもいいかと遠慮がちに尋ねられ、圭一郎が頷くと、嬉しそうに持ってかえって飾るようになったのだ。
玄関を開けた時に感じるどこか瑞々しい空気を、圭一郎は気に入っていた。
今日の業務はすべて終えたから、自分も澪の元へ帰ろう、圭一郎がそう思った時。
コンコンというノックの音がして振り返る。
「どうぞ」と答えるとドアが開き入ってきたのは渡辺だった。
「失礼します」
「……なんだ、まだいたのか?」
思わず圭一郎は叱言のようなことを言ってしまう。今日の業務は比較的早く片付いたから、もう帰るように言ってあったからだ。今までも余計な残業はさせないように心がけてはいたが、彼の妻の妊娠を知ってからはさらに気をつけている。
「はい、申し訳ありません。所用がありましたもので。副社長、少しお時間よろしいでしょうか」
その言葉に圭一郎は頷きつつ、身構えた。有能な彼のこの言葉の後には、澪についての何かが明らかになることが最近続いていたからだ。
だがその圭一郎の様子に渡辺が苦笑した。
「深刻なお話ではないですから、ご安心ください。……何度か奥さまについて失礼なことを申し上げましたので、無理もないかもしれませんが。調査も終わりましたし、今後は余計なことを申し上げるつもりはありません。なにより結婚生活が順調のようですから……」
そう言ってくすくすと笑っている。
圭一郎は咳払いをして彼から目を逸らした。
「……いや、ありがたかったよ」
察しのいい部下に、自分の澪に対する気持ちを見透かされているのが恥ずかしかった。
新婚旅行中は初日以外に外せない用事は入れていなかったが、いつでもリモートで繋がれる体制にしてあって、彼には緊急でなくても呼んでくれてかまわないとあらかじめ言ってあった。
だが二日目の電話の時の"ハイキングへ行く"発言で、なにかを感じとったのだろう。電話での連絡はなくなり、メッセージもこちらからの返事は必要ない報告のみになった。
さらにいうとこの二カ月間は、彼のみならず圭一郎も余計な残業はしなくなり、やるべきことを終わらせたら帰宅するようになったのだから、秘書としてそばにいる彼には、結婚生活が当初予想していたのとは違っていることくらいは察しがつくのだろう。
「今日は副社長にお渡ししたい物がありまして……」
意味ありげに彼は言って、振り返る。するとまたドアが開いて圭一郎の秘書室のメンバー七名が入ってきた。手に花束とプレゼントらしき物を抱えている。
そこで圭一郎は彼らの用件に思いあたり驚いて立ち上がった。
渡辺が、にっこりとして口を開いた。
「こういった儀礼的なやり取りは我が社では全面的に廃止されてはおりますが、個人的な贈り物は禁止ではありません。秘書室から副社長へのご結婚のお祝いです」
「副社長、ご結婚おめでとうございます」
渡辺の後ろの第二秘書がそう言うと、後ろのメンバーもにこにことして、口々に祝いの言葉を述べている。
圭一郎は机を回り込み、彼らに歩み寄った。
渡辺の言う通り、向坂自動車は社内での昔ながらの儀礼的なやり取りは随分前に廃止されている。バレンタインデーや、上司に対するお歳暮やお中元といった類のものは時代の流れにそぐわないどころか、社員の負担になるからだ。
だからといって個人間のやり取りはもちろん禁止ではない。秘書室のメンバーについては、結婚、出産と、何かあるたびに会社から出る祝い金とは別に圭一郎は祝いを包むようにしていた。
だから圭一郎の結婚について、彼らが気を遣わないように、祝いなどは不要だと渡辺にあらかじめ言ってあった。
「副社長からは気を遣わないようにとおっしゃっていただいておりましたが、どうしてもお祝いの気持ちを伝えたいと思いました。せっかくお心遣いいただきましたのに、申し訳ありません」
第二秘書の言葉に、圭一郎は首を横に振った。
「……いや、嬉しいよ。ありがとう」
そして花束とプレゼントを受け取った。
ブルーにまとめられた花束の花の名前はわからないが、澪が喜ぶだろうと思う。
『庭の花はひかえめで好きですけど、ちょっと素朴すぎるかなって思ったりもします。でもお花ってお花屋さんで買うと高いんですよね』
以前そんなことを言っていたからだ。
一方でプレゼントは少し重さが感じられる。互いに目配せをし合っている女性社員たちに目を留めて、圭一郎は確認した。
「開けてみてもいいかな?」
贈り物を受け取った時にその場で中身を確認するかどうかは相手との関係による。ビジネス上のやり取りで儀礼的な物を受け取った時は、その場では開けないことがほとんどだ。
でも今は、彼らから"開けて中を見てほしい"という空気を感じた。おそらくこれは自分のために選んでくれたのだ。
「ぜひぜひ」
女性社員数人が頬を染めて嬉しそうに答えた。
中身は、高級食器ブランドのペアカップだった。全体に素朴だけれど上品な花が描かれている。
「奥さまが、花がお好きだとお伺いしましたので……」
手に取って眺める圭一郎に、ひとりの社員が遠慮がちに口を開く。圭一郎は渡辺をチラリと見た。そういえばなにかの折に彼にそう漏らしたかもしれない。渡辺が素知らぬフリで目を逸らした。
とはいえ、カップのプレゼントは素直に嬉しかった。これもきっと澪は喜ぶだろう。
「気を遣わせて申し訳なかった。でも花束もプレゼントも妻が喜ぶと思う。私も嬉しいよ。ありがとう」
心からそう言うと、メンバー全員が一斉に顔を見合わせて笑顔になる。ひとりの社員が口を開いた。
「二カ月も遅れてしまって申し訳なかったですが、正直言って迷ったんです。渡辺さんからお祝いは不要だと聞いていましたし、副社長がそう仰るということは本当にその通りなんだろうと思いましたから……」
圭一郎は頷いた。
秘書室とはしっかりした信頼関係を築けていると自負している。圭一郎が不要だと言ったら本当に不要で、裏のない言葉だということは十分に伝わっていたのだ。
「ただ……ご結婚されてから副社長は私たちから見てもわかるほどお幸せそうです。雰囲気がとても柔らかくなられました。もちろん以前から親切にしていただいてはいましたけど」
「ふふふ、やっぱりお祝いしたいよねって話になったんです」
別の社員がそう言って、隣の社員と微笑み合っている。
「そうか……いや、浮かれてしまって、申し訳ない」
咳払いをして圭一郎は答えた。
渡辺のみならず、他の社員にも結婚生活が順調であることを、バレているのが恥ずかしかった。
「とんでもないです」
べつの社員が声をあげた。
「以前も無理な指示はありませんでしたし、業務に関するお気遣いもいただいていてまったく不満はありませんでしたけど、近寄りがたい存在だったのは事実です。それが最近は休憩中に声をかけてくださることもあったりして、すごく嬉しいんです」
彼の言う通りだった。
以前の圭一郎にはなかったことだけれど、社員に対して興味が湧き始めたのだ。
休憩中の秘書室で、『夕食はなににしよう? 作るのも面倒だけど、メニューを考えるのも面倒よね』という女性社員の言葉が耳に飛び込んでくれば、そうか彼女は仕事が終わってから夕食を作るのか、それは大変だ、と思う。ついジッとそちらを見てしまい『……あ、えーと、副社長だったらなにを食べたいですか?』と聞かれる始末だ。
澪が作ってくれたメニューの中で自分が今食べたいものを答えると、彼女は嬉しそうに『じゃあ、それにしよう』と言っていた。
また別の機会には。
『飲み会があると必ず嫁から十時にメールが入るんだよな。面倒くさいよ』という男性社員の愚痴が聞こえてきた時は、『それだけ心配されてるということだろう』と、口を挟んでしまっていた。
彼は驚いたようにこちらを見て、『そう思いますか?』と笑っていた。
「確かにそうかもしれないな」
照れ隠しに咳払いをしてそう言うと、彼は元気よく言う。
「僕、副社長の秘書室に配属されて本当によかったと思っています。誰にもできないことをやってのけるすごい方と一緒に働けるだけでも勉強になるのに、俺たち社員を大切にしてくださるじゃないですか。なんていうか男として憧れます!」
すると他の社員たちも彼につられるように「女の私も憧れます」「これからもよろしくお願いします」と口々に言いだした。
その言葉に、圭一郎はある感動を覚えていた。
澪と結婚して、自分自身に変化が起きていることに気が付いたからだ。
今までも圭一郎は社員たちを大切に思い会社の利益の犠牲とならぬよう心を砕いてきたつもりだ。それが向坂家の曽祖父の時代から受け継がれてきた家訓だからだ。だが他の取締役の言動からそれが形骸化しつつあると感じることもあって、ぶつかることも少なくはない。
それでも圭一郎はそれを頑なに守り続けた。それが自分の使命だからだ。
でも澪と結婚した今は、少し違う角度からその家訓を捉えるようになっている。
巨大な企業を動かしながら、社員ひとりひとりを大切にする。やることは変わらない。でもそれがどれほど大切なことなのかを今の圭一郎は知っている。
社員は働く駒ではなく、彼らには愛する人がいて、誰かに愛されている……。
以前の圭一郎なら、彼らは自分に感謝していたとしても、それをわざわざ圭一郎に伝えようとはしなかったはず。他でもない圭一郎自身がそれを必要としていなかったからだ。社員との間に壁を作り遠ざけていた。
でも澪に出会い人を愛するという気持ちを知った今、圭一郎も彼らと同じ目線にいる。そのことを彼らも感じとっているのだろう。
「ありがとう、本当に嬉しいよ。これからも、ついてきてくれるとありがたい」
本心からそう言うと、メンバーから「もちろんです」と声があがる。
圭一郎の胸が熱くなった。
紫色とオレンジ色が混ざり合いグラデーションを作る空の下、二十四時間体制で動き続ける工場の向こう側の家々に、チラホラと灯りがつきはじめている。副社長に就任してから五年間、毎日のように見ている光景だ。でも今それを見つめる圭一郎の心境は、以前とは随分違っている。
あの家の灯りひとつひとつに家族があり、愛し合う者たちがいて幸せな家庭を築いているのだ。冷たい家庭で育った以前の圭一郎にはわからなかった世界が今は手に取るようにわかる。
圭一郎のマンションにも澪がいて、圭一郎の帰りを待っている。まだ互いにぎごちなくはあるものの温かい家庭を築きつつある。
澪と結婚してから約二カ月が経った。
季節は秋に差し掛かり、夜の風が少し寒く感じられる。
以前の圭一郎だったら、こんな季節の変化にも気が付かなかっただろうと思う。コンクリートのビルの中でひたすら業務をこなし、日が変わる直前に自分のマンションへ戻る。その繰り返しの日々だったから。
今もスケジュール自体にそれほど変化があるわけではないけれど、季節が変わったのをしっかりと感じられるのは澪がマンションに花を飾るからだ。
新婚旅行から戻り彼女はマンションへ越してきた。そして生活を整えつつ時間を見つけて実家にも通って庭の手入れを続けている。
マンションに庭で育てた花を飾ってもいいかと遠慮がちに尋ねられ、圭一郎が頷くと、嬉しそうに持ってかえって飾るようになったのだ。
玄関を開けた時に感じるどこか瑞々しい空気を、圭一郎は気に入っていた。
今日の業務はすべて終えたから、自分も澪の元へ帰ろう、圭一郎がそう思った時。
コンコンというノックの音がして振り返る。
「どうぞ」と答えるとドアが開き入ってきたのは渡辺だった。
「失礼します」
「……なんだ、まだいたのか?」
思わず圭一郎は叱言のようなことを言ってしまう。今日の業務は比較的早く片付いたから、もう帰るように言ってあったからだ。今までも余計な残業はさせないように心がけてはいたが、彼の妻の妊娠を知ってからはさらに気をつけている。
「はい、申し訳ありません。所用がありましたもので。副社長、少しお時間よろしいでしょうか」
その言葉に圭一郎は頷きつつ、身構えた。有能な彼のこの言葉の後には、澪についての何かが明らかになることが最近続いていたからだ。
だがその圭一郎の様子に渡辺が苦笑した。
「深刻なお話ではないですから、ご安心ください。……何度か奥さまについて失礼なことを申し上げましたので、無理もないかもしれませんが。調査も終わりましたし、今後は余計なことを申し上げるつもりはありません。なにより結婚生活が順調のようですから……」
そう言ってくすくすと笑っている。
圭一郎は咳払いをして彼から目を逸らした。
「……いや、ありがたかったよ」
察しのいい部下に、自分の澪に対する気持ちを見透かされているのが恥ずかしかった。
新婚旅行中は初日以外に外せない用事は入れていなかったが、いつでもリモートで繋がれる体制にしてあって、彼には緊急でなくても呼んでくれてかまわないとあらかじめ言ってあった。
だが二日目の電話の時の"ハイキングへ行く"発言で、なにかを感じとったのだろう。電話での連絡はなくなり、メッセージもこちらからの返事は必要ない報告のみになった。
さらにいうとこの二カ月間は、彼のみならず圭一郎も余計な残業はしなくなり、やるべきことを終わらせたら帰宅するようになったのだから、秘書としてそばにいる彼には、結婚生活が当初予想していたのとは違っていることくらいは察しがつくのだろう。
「今日は副社長にお渡ししたい物がありまして……」
意味ありげに彼は言って、振り返る。するとまたドアが開いて圭一郎の秘書室のメンバー七名が入ってきた。手に花束とプレゼントらしき物を抱えている。
そこで圭一郎は彼らの用件に思いあたり驚いて立ち上がった。
渡辺が、にっこりとして口を開いた。
「こういった儀礼的なやり取りは我が社では全面的に廃止されてはおりますが、個人的な贈り物は禁止ではありません。秘書室から副社長へのご結婚のお祝いです」
「副社長、ご結婚おめでとうございます」
渡辺の後ろの第二秘書がそう言うと、後ろのメンバーもにこにことして、口々に祝いの言葉を述べている。
圭一郎は机を回り込み、彼らに歩み寄った。
渡辺の言う通り、向坂自動車は社内での昔ながらの儀礼的なやり取りは随分前に廃止されている。バレンタインデーや、上司に対するお歳暮やお中元といった類のものは時代の流れにそぐわないどころか、社員の負担になるからだ。
だからといって個人間のやり取りはもちろん禁止ではない。秘書室のメンバーについては、結婚、出産と、何かあるたびに会社から出る祝い金とは別に圭一郎は祝いを包むようにしていた。
だから圭一郎の結婚について、彼らが気を遣わないように、祝いなどは不要だと渡辺にあらかじめ言ってあった。
「副社長からは気を遣わないようにとおっしゃっていただいておりましたが、どうしてもお祝いの気持ちを伝えたいと思いました。せっかくお心遣いいただきましたのに、申し訳ありません」
第二秘書の言葉に、圭一郎は首を横に振った。
「……いや、嬉しいよ。ありがとう」
そして花束とプレゼントを受け取った。
ブルーにまとめられた花束の花の名前はわからないが、澪が喜ぶだろうと思う。
『庭の花はひかえめで好きですけど、ちょっと素朴すぎるかなって思ったりもします。でもお花ってお花屋さんで買うと高いんですよね』
以前そんなことを言っていたからだ。
一方でプレゼントは少し重さが感じられる。互いに目配せをし合っている女性社員たちに目を留めて、圭一郎は確認した。
「開けてみてもいいかな?」
贈り物を受け取った時にその場で中身を確認するかどうかは相手との関係による。ビジネス上のやり取りで儀礼的な物を受け取った時は、その場では開けないことがほとんどだ。
でも今は、彼らから"開けて中を見てほしい"という空気を感じた。おそらくこれは自分のために選んでくれたのだ。
「ぜひぜひ」
女性社員数人が頬を染めて嬉しそうに答えた。
中身は、高級食器ブランドのペアカップだった。全体に素朴だけれど上品な花が描かれている。
「奥さまが、花がお好きだとお伺いしましたので……」
手に取って眺める圭一郎に、ひとりの社員が遠慮がちに口を開く。圭一郎は渡辺をチラリと見た。そういえばなにかの折に彼にそう漏らしたかもしれない。渡辺が素知らぬフリで目を逸らした。
とはいえ、カップのプレゼントは素直に嬉しかった。これもきっと澪は喜ぶだろう。
「気を遣わせて申し訳なかった。でも花束もプレゼントも妻が喜ぶと思う。私も嬉しいよ。ありがとう」
心からそう言うと、メンバー全員が一斉に顔を見合わせて笑顔になる。ひとりの社員が口を開いた。
「二カ月も遅れてしまって申し訳なかったですが、正直言って迷ったんです。渡辺さんからお祝いは不要だと聞いていましたし、副社長がそう仰るということは本当にその通りなんだろうと思いましたから……」
圭一郎は頷いた。
秘書室とはしっかりした信頼関係を築けていると自負している。圭一郎が不要だと言ったら本当に不要で、裏のない言葉だということは十分に伝わっていたのだ。
「ただ……ご結婚されてから副社長は私たちから見てもわかるほどお幸せそうです。雰囲気がとても柔らかくなられました。もちろん以前から親切にしていただいてはいましたけど」
「ふふふ、やっぱりお祝いしたいよねって話になったんです」
別の社員がそう言って、隣の社員と微笑み合っている。
「そうか……いや、浮かれてしまって、申し訳ない」
咳払いをして圭一郎は答えた。
渡辺のみならず、他の社員にも結婚生活が順調であることを、バレているのが恥ずかしかった。
「とんでもないです」
べつの社員が声をあげた。
「以前も無理な指示はありませんでしたし、業務に関するお気遣いもいただいていてまったく不満はありませんでしたけど、近寄りがたい存在だったのは事実です。それが最近は休憩中に声をかけてくださることもあったりして、すごく嬉しいんです」
彼の言う通りだった。
以前の圭一郎にはなかったことだけれど、社員に対して興味が湧き始めたのだ。
休憩中の秘書室で、『夕食はなににしよう? 作るのも面倒だけど、メニューを考えるのも面倒よね』という女性社員の言葉が耳に飛び込んでくれば、そうか彼女は仕事が終わってから夕食を作るのか、それは大変だ、と思う。ついジッとそちらを見てしまい『……あ、えーと、副社長だったらなにを食べたいですか?』と聞かれる始末だ。
澪が作ってくれたメニューの中で自分が今食べたいものを答えると、彼女は嬉しそうに『じゃあ、それにしよう』と言っていた。
また別の機会には。
『飲み会があると必ず嫁から十時にメールが入るんだよな。面倒くさいよ』という男性社員の愚痴が聞こえてきた時は、『それだけ心配されてるということだろう』と、口を挟んでしまっていた。
彼は驚いたようにこちらを見て、『そう思いますか?』と笑っていた。
「確かにそうかもしれないな」
照れ隠しに咳払いをしてそう言うと、彼は元気よく言う。
「僕、副社長の秘書室に配属されて本当によかったと思っています。誰にもできないことをやってのけるすごい方と一緒に働けるだけでも勉強になるのに、俺たち社員を大切にしてくださるじゃないですか。なんていうか男として憧れます!」
すると他の社員たちも彼につられるように「女の私も憧れます」「これからもよろしくお願いします」と口々に言いだした。
その言葉に、圭一郎はある感動を覚えていた。
澪と結婚して、自分自身に変化が起きていることに気が付いたからだ。
今までも圭一郎は社員たちを大切に思い会社の利益の犠牲とならぬよう心を砕いてきたつもりだ。それが向坂家の曽祖父の時代から受け継がれてきた家訓だからだ。だが他の取締役の言動からそれが形骸化しつつあると感じることもあって、ぶつかることも少なくはない。
それでも圭一郎はそれを頑なに守り続けた。それが自分の使命だからだ。
でも澪と結婚した今は、少し違う角度からその家訓を捉えるようになっている。
巨大な企業を動かしながら、社員ひとりひとりを大切にする。やることは変わらない。でもそれがどれほど大切なことなのかを今の圭一郎は知っている。
社員は働く駒ではなく、彼らには愛する人がいて、誰かに愛されている……。
以前の圭一郎なら、彼らは自分に感謝していたとしても、それをわざわざ圭一郎に伝えようとはしなかったはず。他でもない圭一郎自身がそれを必要としていなかったからだ。社員との間に壁を作り遠ざけていた。
でも澪に出会い人を愛するという気持ちを知った今、圭一郎も彼らと同じ目線にいる。そのことを彼らも感じとっているのだろう。
「ありがとう、本当に嬉しいよ。これからも、ついてきてくれるとありがたい」
本心からそう言うと、メンバーから「もちろんです」と声があがる。
圭一郎の胸が熱くなった。