仮面夫婦のはずが、冷血御曹司の激愛で懐妊いたしました
澪の杞憂
鍋の中でくつくつと音を立てるビーフシチューを焦げないようにゆっくりとかき混ぜながら、澪は笑みを浮かべている。市販のルーを使わない本格的なビーフシチューは、はじめて挑戦したけれど、なかなか上出来な味だった。
早く圭一郎に食べてほしい。
結婚する前の彼は、食事はすべて外食かテイクアウトだったという。澪と一緒に住むようになった今は、都合がつく限り家で澪の作る料理を食べる。帰りが遅くなる時は澪は先に食べるけれど、さっき会社を出るとメッセージ届いたから、今夜は久々に一緒に食べることができそうだ。
圭一郎と結婚してからの二カ月間はあっという間に過ぎた。
このマンションで家のことをやりながら、時々実家に帰り庭の作業をする。想像もしていなかったくらい幸せで、順調な日々だった。
シチューはもう出来上がるし後はサラダをセットするだけだ、澪がそう思った時、玄関の方で物音がして、圭一郎が帰ってきた。
しばらくすると、リビングダイニングへ続くドアが開いて彼が姿を現した。
「おかえりなさい」
振り向いて澪は驚いて目を見張る。圭一郎が大きな花束を抱えていたからだ。
「圭一郎さん、それは……?」
「結婚祝いに、秘書室からもらったんだ。プレゼントも」
「わぁ、嬉しい」
花が大好きな澪はすぐにでも行って受け取りたいと思う。でも作りかけのシチューを放っておくわけにはいかなかった。
「あの、そこに置いておいてください。今手が離せなくて」
彼は頷いてカウンターに花束と紙袋を置く。それから澪のもとへやってきて、いきなり後ろから包み込むように抱きしめた。
「け、圭一郎さん⁉︎」
突然の彼の行動に、澪は驚いて声をあげる。けれどシチューから手を離すわけにいかなくて身体はされるがままだった。
圭一郎が澪の肩に顔を埋めて、深いため息をついた。
「ただいま」
「……圭一郎さん?」
なんだか様子がおかしかった。
この行動自体もそうだけれど、どこか元気がないように思える。もちろん彼は一日中ハードな仕事をこなしてきたのだから、あたりまえといえばあたりまえだけれど……。
「なにかあったんですか?」
問いかけても答えはない。
その代わりに彼は澪の首筋で大きく息を吸う。そしてようやく顔を上げた。
「いや、ただ……いい匂いだな、と思って」
そう言ってにっこりと笑う。その笑顔に澪の鼓動がドキンと跳ねた。
「あ……シ、シチューですね。ルーを使わない本格的なやつなんです。はじめてだけど、案外うまくいきました」
頬が熱くなって顔が赤くなっているのをごまかすようにそう言うと、圭一郎が頷いた。
「うまそうだ。……着替えてくるよ」
そして腕を解いてそっと澪を解放する。そのまま寝室へ行きかけて、足を止めて振り返った。
「そういえば澪、明日は実家へ行く日だったな」
「はい、午前中に」
「お義父さんはご在宅?」
「……多分」
明日は土曜日だからよほどのことがない限り、父は家にいるはずだ。でもどうしてそんなことを聞くのだろうと澪は首を傾げる。
圭一郎が意外な言葉を口にする。
「よかった。明日は休みだから、俺も一緒に行くよ」
「え……ええ⁉︎ ど、どうしてですか?」
この二カ月、澪は何度も実家へ帰り、そのたびに彼には事前に報告をしていた。けれど今まで一度もそういうことはなかったのに。もっとも、どの日も彼の方は仕事だったからそうしたくてもできなかっただろうけれど……。
「夫が妻の実家に行くのは変なのか?」
圭一郎がやや不満そうに言う。
「そ、そういうわけじゃないですけど……」
ごにょごにょと答えると、圭一郎がフッと笑った。
「お義父さんに、ご挨拶をしたいんだ」
「え……? 挨拶?」
「そう。考えてみれば、俺、結婚については澪の伯父さんの方とやり取りしてたから、お義父さんとはしっかり挨拶できていないだろう? 結婚式でもあまり話す時間がなかったし。なるべく早くとは思ってたんだ。なかなか休みが取れなくて申し訳なかったけど……」
その言葉に、澪はすぐに返事をすることができなかった。
「ダメかな?」
「い、いえ……! よ、喜ぶと思います」
ぶんぶんと首を振って澪は言う。本当のことだった。
実家に帰った折に、澪は父に圭一郎とはうまくいっていることを報告している。それを父はまだどこか不安そうに聞いている。澪が父に心配をかけまいと無理しているのではないかと疑っているようだ。直接彼が行って話をすればきっと安心するだろう。
「ありがとうございます。じゃ、じゃあ、念のため明日は家にいてもらうように、伝えます」
嬉しくなってそう言うと、圭一郎が少し照れたように微笑んだ。
「ん、よろしく」
そしてキッチンを出ていった。その背中を見送って、シチューの火を止めてから、そのまま澪はしばらく動くことができなかった。
胸に、温かいものが広がって、目の奥が熱かった。圭一郎が夫として誠実に澪と向き合ってくれようとしているのがひしひしと伝わってくる。それがとても嬉しかった。
でも同時に心の奥底に仕舞い込んでいる罪悪感が頭をもたげるのも感じている。彼との距離が近づけば近づくほど、抱えている秘密を重く感じるようになっていた。
澪が父の養子だということを隠して結婚したことを、もし彼が知ったらどう思うだろう。
裏切られたと怒るのは当然だ。
もう今みたいには接してくれなくなるだろう。
会社のための結婚だからすぐに離婚という話にはならないだろうけれど。
信頼し合う夫婦になりたいと言ったくせに嘘つきだと澪に失望して……。
それが怖いと澪は思う。彼に嫌われて軽蔑されるのが怖くてたまらない。
でも……。
どうしようもなかったのだ。
澪は心の中で自分自身に言い訳をした。
早く圭一郎に食べてほしい。
結婚する前の彼は、食事はすべて外食かテイクアウトだったという。澪と一緒に住むようになった今は、都合がつく限り家で澪の作る料理を食べる。帰りが遅くなる時は澪は先に食べるけれど、さっき会社を出るとメッセージ届いたから、今夜は久々に一緒に食べることができそうだ。
圭一郎と結婚してからの二カ月間はあっという間に過ぎた。
このマンションで家のことをやりながら、時々実家に帰り庭の作業をする。想像もしていなかったくらい幸せで、順調な日々だった。
シチューはもう出来上がるし後はサラダをセットするだけだ、澪がそう思った時、玄関の方で物音がして、圭一郎が帰ってきた。
しばらくすると、リビングダイニングへ続くドアが開いて彼が姿を現した。
「おかえりなさい」
振り向いて澪は驚いて目を見張る。圭一郎が大きな花束を抱えていたからだ。
「圭一郎さん、それは……?」
「結婚祝いに、秘書室からもらったんだ。プレゼントも」
「わぁ、嬉しい」
花が大好きな澪はすぐにでも行って受け取りたいと思う。でも作りかけのシチューを放っておくわけにはいかなかった。
「あの、そこに置いておいてください。今手が離せなくて」
彼は頷いてカウンターに花束と紙袋を置く。それから澪のもとへやってきて、いきなり後ろから包み込むように抱きしめた。
「け、圭一郎さん⁉︎」
突然の彼の行動に、澪は驚いて声をあげる。けれどシチューから手を離すわけにいかなくて身体はされるがままだった。
圭一郎が澪の肩に顔を埋めて、深いため息をついた。
「ただいま」
「……圭一郎さん?」
なんだか様子がおかしかった。
この行動自体もそうだけれど、どこか元気がないように思える。もちろん彼は一日中ハードな仕事をこなしてきたのだから、あたりまえといえばあたりまえだけれど……。
「なにかあったんですか?」
問いかけても答えはない。
その代わりに彼は澪の首筋で大きく息を吸う。そしてようやく顔を上げた。
「いや、ただ……いい匂いだな、と思って」
そう言ってにっこりと笑う。その笑顔に澪の鼓動がドキンと跳ねた。
「あ……シ、シチューですね。ルーを使わない本格的なやつなんです。はじめてだけど、案外うまくいきました」
頬が熱くなって顔が赤くなっているのをごまかすようにそう言うと、圭一郎が頷いた。
「うまそうだ。……着替えてくるよ」
そして腕を解いてそっと澪を解放する。そのまま寝室へ行きかけて、足を止めて振り返った。
「そういえば澪、明日は実家へ行く日だったな」
「はい、午前中に」
「お義父さんはご在宅?」
「……多分」
明日は土曜日だからよほどのことがない限り、父は家にいるはずだ。でもどうしてそんなことを聞くのだろうと澪は首を傾げる。
圭一郎が意外な言葉を口にする。
「よかった。明日は休みだから、俺も一緒に行くよ」
「え……ええ⁉︎ ど、どうしてですか?」
この二カ月、澪は何度も実家へ帰り、そのたびに彼には事前に報告をしていた。けれど今まで一度もそういうことはなかったのに。もっとも、どの日も彼の方は仕事だったからそうしたくてもできなかっただろうけれど……。
「夫が妻の実家に行くのは変なのか?」
圭一郎がやや不満そうに言う。
「そ、そういうわけじゃないですけど……」
ごにょごにょと答えると、圭一郎がフッと笑った。
「お義父さんに、ご挨拶をしたいんだ」
「え……? 挨拶?」
「そう。考えてみれば、俺、結婚については澪の伯父さんの方とやり取りしてたから、お義父さんとはしっかり挨拶できていないだろう? 結婚式でもあまり話す時間がなかったし。なるべく早くとは思ってたんだ。なかなか休みが取れなくて申し訳なかったけど……」
その言葉に、澪はすぐに返事をすることができなかった。
「ダメかな?」
「い、いえ……! よ、喜ぶと思います」
ぶんぶんと首を振って澪は言う。本当のことだった。
実家に帰った折に、澪は父に圭一郎とはうまくいっていることを報告している。それを父はまだどこか不安そうに聞いている。澪が父に心配をかけまいと無理しているのではないかと疑っているようだ。直接彼が行って話をすればきっと安心するだろう。
「ありがとうございます。じゃ、じゃあ、念のため明日は家にいてもらうように、伝えます」
嬉しくなってそう言うと、圭一郎が少し照れたように微笑んだ。
「ん、よろしく」
そしてキッチンを出ていった。その背中を見送って、シチューの火を止めてから、そのまま澪はしばらく動くことができなかった。
胸に、温かいものが広がって、目の奥が熱かった。圭一郎が夫として誠実に澪と向き合ってくれようとしているのがひしひしと伝わってくる。それがとても嬉しかった。
でも同時に心の奥底に仕舞い込んでいる罪悪感が頭をもたげるのも感じている。彼との距離が近づけば近づくほど、抱えている秘密を重く感じるようになっていた。
澪が父の養子だということを隠して結婚したことを、もし彼が知ったらどう思うだろう。
裏切られたと怒るのは当然だ。
もう今みたいには接してくれなくなるだろう。
会社のための結婚だからすぐに離婚という話にはならないだろうけれど。
信頼し合う夫婦になりたいと言ったくせに嘘つきだと澪に失望して……。
それが怖いと澪は思う。彼に嫌われて軽蔑されるのが怖くてたまらない。
でも……。
どうしようもなかったのだ。
澪は心の中で自分自身に言い訳をした。