仮面夫婦のはずが、冷血御曹司の激愛で懐妊いたしました
 古い日本家屋の客間で重苦しい空気の中、澪と父は今日の来客坪井康彦(つぼいやすひこ)と向かい合っている。
 
 康彦が澪が出した緑茶をひと口飲んで渋い表情になった。

 父の従兄弟にあたる康彦は、銀行業で財を成した財閥坪井家を取り仕切る本家の長だ。親戚ではあるけれど、分家筋の末端のさらにその先にいる澪は、しっかりと顔を合わせるのははじめてだ。
 さっきから澪は彼を観察し、いったい今日の用件はなんだろうと考えを巡らせているが、さっぱりわからなかった。

 古い木の茶受け皿にコトリと湯呑みを置いて、康彦が澪を見る。その視線に、侮蔑の色が滲んでいると感じるのは澪の思い過ごしではないはずだ。
 世話話など一切なく彼は本題に入る。

「澪、といったな」
「……はい」
「年はいくつだ?」
「……二十六です」

 お互いに存在は知っていてもまったく関わりがなかった人物からの尋問のような質問に、澪は戸惑いながら答えていく。
 康彦が「そういえば、琴音(ことね)と同い年だったな」と呟いた。そしてまた質問に移る。

「働いているのか」
「文具メーカーで営業事務をしております」

 新卒入社して三年経つ自身が勤める会社名を告げると、康彦は鼻で笑った。

「あそこか、たいして大きくはない会社だな」
 内心でムッとするが、顔には出さなかった。
 とはいえ、彼がその大きくはない澪の会社を把握していることについてはさすがだと思う。さすがは、日本有数のメガバンク五菱銀行の頭取だ。もしかしたら、澪の会社とも取引があるのかもしれない。

「勤めて何年だ?」
「三年です」

 次々と放たれる質問に澪は澱みなく答えていく。すると彼は「なるほど」と呟いて鋭い視線を澪に向けた。

「男はいるのか?」
「……は?」

 就職活動の面接のような気分になりかけていた澪は、突然放たれた変化球のような質問に、戸惑い口籠る。
 康彦が眉を寄せて苛立ったように畳み掛けた。

「恋人はいるのかと聞いている」
「……い、いません」
「そうか、なら面倒ごとはひとつ減った」

 ひとり言を言って納得している。
 どこか不穏なその言葉に、澪はチラリと父を見る。彼も眉を寄せて怪訝な表情を浮かべていた。親戚とはいえ、親しげな気持ちで近況を伝え合う間柄にない相手からの、プライベートな質問が不可解で不快だった。

 澪に恋人がいるかどうかが今日彼がここを訪れた目的と繋がるのは明らかだ。でもやっぱりこの段階においても、その目的がなんなのかとまったく見当がつかなかった。
 とはいえ、相手としてももったいぶる必要はまったくない。すぐに康彦の口から明かされる。

「お前には、見合いをしてもらう。来週だ」

 その言葉に、澪は目を剥いて固まった。
 同じく父も「は?」と声を漏らしたまま、返事もできないでいる。
 そんなふたりをよそに康彦は平然として話を進めていく。

「相手は向坂自動車(こうさかじどうしゃ)の副社長、向坂圭一郎(けいいちろう)氏だ。見合いと言っても形式だけで断るという選択肢はない。今月いっぱいで仕事も辞めてもらう」

 まるで事務連絡をするかのように康彦は言う。

「明日からは……」

 ようやくそこで父がストップをかけた。

「待ってください、兄さん。話が突然過ぎて、ちょっと頭がついていかないのですが、それは澪の話ですか? ……琴音さんではなくて?」

 澪も父とまったく同じ疑問を抱いていた。
 向坂自動車は、ここ数年販売台数世界一を保持し続けている日本どころか世界経済を牽引する巨大なグローバル企業だ。
 そんな企業の副社長がいったいどんな人物なのか澪自身は知らないが、住む世界が違うということだけは間違いない。明らかに澪の見合い相手としては不釣り合いだ。
 でもそれがほかでもない康彦の娘、坪井琴音ならばそうではない。坪井家は旧華族の家柄で明治以降銀行業で財をなした由緒ある家柄だ。現在も五菱銀行の役員には一族の名前が並ぶ。
 その本家のひとり娘である彼女なら、件の人物の見合い相手として見劣りはしない。

「琴音ではない。澪だ。だからこうして来てるのだろう」

 それは確かにそうだった。伯父と澪親子とは琴音の縁談をわざわざ伝え合うような間柄ではない。でもやっぱり納得はいかなかった。

「ですがあまりに突然で……。お相手の方の家柄が我が家とは釣り合いが取れないと思います。琴音さんの縁談だと言われた方が自然だと思ったのです」

 率直に父は言う。澪も完全に同意見だった。
 確かに澪と父は坪井家の一員だが、分家筋だし、父も銀行経営に関与していない。本家の集まりなどにもほとんど参加していなかった。それにそもそも澪は……。
 その父の疑問に康彦が頬を歪める。そして渋々といった様子でその話を認めた。

「……この話は本当は琴音の縁談だった。圭一郎氏は向坂自動車の後継者と目される人物で、琴音にとっても釣り合いの取れる相手だからな。……だが」

 そこで彼は言葉を切って、苦々しい表情で舌打ちをした。

「琴音が、逃げた」

 そしてこの不可解な見合い話の種明かしを口にする。

「男がいる、そいつと一緒になりたいと言って家を出て、以来音信不通だ。パスポートを持っていったから日本にはいないのかもしれん。世界中にある坪井家の別荘をしらみつぶしにあたってはいるが……」

 もう時間がない、ということだろう。さっき彼は見合いは来週だと言っていた。

「だからといって……」

 父が呟いた。身代わりを立てるというのはあまりにも安直な選択なのではないだろうか。一度澪が見合いをしてしまったら、後から琴音が見つかったとしても、やっぱりこっちでとはいかなくなってしまう。

「日を改めていただいては?」

 父の提案に康彦は首を横に振った。

「もうこれ以上は無理なのだ」

 適当な理由をつけてすでに何度か延期を繰り返しているのだという。これ以上は相手方に不審に思われてしまう。
 それでも澪は納得がいかなかった。琴音にきた縁談だ。琴音が嫌がるなら、見合いを断ればいいだけだ。

「あの」

 たまらずに澪は口を挟む。
 康彦にジロリと睨まれて怯みそうになるが、ごくりと喉を鳴らしてまた口を開いた。

「伯父さんは、お相手の方を琴音さんの結婚相手にと望まれてお見合いの話を進められていたのでしょう? 琴音さんが逃げたから私に、というのは本末転倒ではありませんか?」

 澪としては真っ当な意見を言ったつもりなのに、なぜかそれを康彦は鼻で笑う。そしてバカにしたような表情を浮かべて、また事情を話しはじめた。

「これは家と家の話なのだ。坪井家と向坂家が姻戚関係になることにこそ意味がある。個人がどうという話ではない。そんなことはどうでもよい」

 結婚ほど個人の感情が尊重されるべきイベントはないと思うのに、どうでもいいと彼は言い切る。

「これは、どうしても成功させなくてはならない縁談なんだ」

 まるで、ビジネスの話をするように康彦が、坪井家……五菱銀行と向坂自動車との長年に渡る因縁について話し始めた。
 自動車産業は日本において戦後大きく伸びた分野だが、向坂自動車はもともとは戦闘機を作る会社だった。創業者の向坂宗典(こうさかむねのり)は、当時絶対に無理だと言われていた国産車の製造にすべてをかけた人物で、その波瀾万丈の人生は二時間ドラマのモデルになったこともある。
 現在は日本どころか世界でも知られている企業だが、その道のりは平坦ではなかった。特に試作品の製造に失敗し資金繰りに苦しんだ時期は幾度となく廃業を考えたと、向坂宗典は自伝の中で語っている。そしてその頃の向坂自動車を救ってくれた恩人としていくつかの都市銀行の名を挙げていて、現在も友好的な関係を保っているのだという。
 しかしその中に、五菱銀行の名前はない。
 元々は向坂自動車のメインバンクは五菱だった。だが康彦の祖父にあたる当時の頭取は、ある時期に資金難で経営が傾きかけた向坂自動車への追加融資を断った。つまり見切りをつけたのだ。以来、向坂自動車と五菱銀行が冷え切った仲だというのは経済界では有名な話だという。

「とはいえ過去は過去だ。あれから五十年以上が経つのだ。感情的なことなど水に流して、そろそろお互いにとって建設的な関係を築く時べきだ」

 でないと、他の銀行に五菱が遅れをとってしまう、と伯父は付け出した。
 当時とは大きく状況が変わったということだろう。もはや今は向坂自動車側が、銀行に頭を下げて融資してもらうわけではなく、銀行が頭を下げる時代になったということだろう。
 それでなくとも銀行業は過渡期にある。ネット銀行の台頭で、都市銀行は融資額や純利益率でここ数年大きく遅れをとっている。
 向坂自動車はこの先も伸び続けることが確実視されている企業で、何がなんでも関係を修復し、融資銀行のひとつに名を連ねたいのだと康彦は言った。

「それにはこの縁談が必要不可欠なのだ」

 ぎりりと奥歯を噛み、康彦が言い切った。

「向坂宗典の息子にあたる向坂宗安(むねやす)会長が、この件に関して難色を示している。当時の件を記憶している唯一の人物だ。五菱は信用できないと言っているそうだ」

 裏切られた記憶が忘れられないのだという。

「年寄りは昔のことはよく覚えているからな」

 康彦が忌々しげに吐き捨てた。

「それで……縁組を?」
「そうだ。娘を差し出せばさすがにもう二度と裏切りませんという証拠になるだろう? この結婚を根拠に、会長を説得することになっている」

 まるで人質のようだと澪は思う。
 自分の娘の幸せを願うどころか、物同然に考えていることを隠そうともしない目の前の男を澪は冷え切った目で見つめる。脳裏に彼とよく似た坪井琴音の顔が浮かんだ。
 彼女とは、元華族の家柄の子女や皇族が通う名門学校、学水院(がくすいいん)で、中学から大学までをともに過ごした同級生だ。はっきりいって思い出したくもないほどいい感情のない相手だが、この時ばかりは少し同情的な気持ちになる。
 結婚という人生の一大イベントをこのような形で勝手に決められては、逃げ出したくなるのも無理はない。

「事情はわかりました。ですが、だからといって代わりに澪をというのは同意致しかねます。ありがたいお話ではありますが、お断りいたします」

 そう言って治彦が頭を下げる。澪に意見を求めなかったのは、この縁談が親から見て娘を幸せにするものだとは思わなかったからだろう。

「申し訳ありません」

 父の隣で澪も頭を下げた。
 込み入った事情はわかった。経営者としての伯父の決断も、澪には理解できないものの否定するつもりはない。でもそれに自分が身を捧げる義理はどこにもない。
 分家の者は本家の者に従うべしという古いしきたりが坪井家にはあって、父は彼を立てているが、現代においては本当のところ上下関係はない。
 他の分家の者にとって康彦の意見が絶対なのは皆、五菱銀行の経営にかかわっているから。つまり役職の上下があるからこそのものなのだ。
 治彦は植物研究を生業としているから、彼に従わなくてはならないいわれはどこにもない。
 この無茶苦茶な要求を断ってもなんの問題もないはずだ。
 頭を下げる父娘を前に、康彦が眉間に皺を寄せた。

「私はお前たちにお伺いを立てに来たのではない。通告をしにきたのだ。さっきの話を聞いていなかったのか。この話は絶対だ、断ることなど許さんからな。治彦、お前は私に逆らえんはずだ」

 高圧的に言い放つ。それでも澪はまだ安易に考えていた。脅かすように言われても、こちらに従う義務はない。断固として父が断ってくれるはず。
 けれどなぜか父は、その言葉にぐっとつまり苦しげな顔になる。そしてやや申し訳なさそうにチラリと澪を見て、言いにくそうに口を開いた。

「……ですが、兄さん。そういう話ならなおさら澪は……その、つまり澪は……」

 最後まで言えない父の言葉を澪は引き継いで口にした。

「私は、父の養子です。お相手が"坪井家の娘"を求めてるというなら、まったく相応しくないと思います」

 そう、澪は治彦の養子で坪井家の血を継いではいない。この縁談が坪井家と向坂家の思惑があってのものならば、不都合なのではないだろうか。

「そんなことはわかっている! だが今の坪井家にはほかに適当な娘がおらんのだ。お前が坪井家の血筋でなくとも背に腹はかえられんのだ」

 あまりにもひどい言い草に父の拳に力が入る。一瞬澪は彼が伯父に殴りかかるのではないだろうかと思ったが、目を閉じてなんとかその衝動をやり過ごしたようだった。
 そして冷静に低い声で応戦する。

「……ですが向坂家の方はそれでは納得しないでしょう?」
「向こうには黙っている」
「そんな……! いくらなんでもそれは……!」
「異論は許さん」

 むちゃくちゃなことを言う康彦に、たまらずに澪は口を開いた。

「でもそんなのすぐにバレるんじゃないですか? 向坂家ほどの家なら、身辺調査はあたり前でしょう。私が養子だということは戸籍にも載っています」
「そのあたりはうちの弁護士になんとかさせる。お前はただ貝のように口を閉じて嫁にいけ。どのみち会長を説得するための手段なんだ。会長は今年九十になられるからはっきりいってそう長くはない。向こうとの関係が軌道に乗り始めて会長が死んだ後なら、離婚してもかまわない」

 話にならない、と澪は思う。都市銀行の頭取だか旧華族の名家だか知らないけれど、あまりにも人をバカにしている。こんな話、お断りの一択だ。塩を撒きたいくらいだった。
 それなのに、伯父はどこまでも強気だった。

「治彦、お前は俺に逆らえんはずだ」

 その言葉にムッとして口を開きかけた澪は、父の様子がおかしいことに気が付いた。なぜか苦渋の表情を浮かべ、黙り込み言い返す気配がない。膝に置いた手が震えていた。

「お父さん?」

 不思議に思って澪は尋ねる。
 いったいなぜこんなにも追い詰められたような表情をしているのだろう。
 康彦はうっすらと笑みを浮かべた。

「わかってるな、治彦。この話を断るならば、借金はすべて返済してもらう。今すぐにだ」
「借金……?」

 突然伯父の口から出た脈略のない言葉に、澪は呟いて首を傾げる。

「お父さん、……どういうこと?」

 不安な気持ちで問いかけるが、答えは返ってこなかった。
 代わりに康彦が口を開く。

「お前の学費だ。学水院の」
「学水院の……?」
「そうだ。あそこの学費が、しがない研究員なんかに支払えるわけがないだろう。寄付金も必要なんだ。それを治彦は私から借りている」

 まさかと思いながら再び父を見ると真っ青になっている。その父の反応に、伯父の言葉は真実なのだと確信する。

「毎月きちんとお支払いしています」

 震える声で父は言う。その父の言葉を伯父は一蹴した。

「はっ! あんなもの本当なら利息にもならんわ。あれほどの金額を無利息期限で貸してやる奴がどこにいる? その恩を返すチャンスをやってるというのに、拒否するなら、一括返済を要求する。その代わり言う通りにすればチャラにしてやる」
「そんな……!」

 冷酷に言い放つ伯父に父が絶句するのを見つめながら、澪は目の前が暗くなっていくのを感じていた。
 借りている金額の詳細はわからないがふたりの口ぶりを聞く限り、社会人三年目の澪が支払える額ではなさそうだ。
 だとすれば伯父の言う通り、澪も父も彼には逆らえない立場にいたということだ。バカにしてる、ありえないと強く感じたさっきの伯父の要求を黙って呑むしかないのだろう。
 それでも澪は最後の望みを掛けて伯父に懇願する。

「そのお金、これからは私も支払います。貯金も少しはありますし、月々の金額に上乗せしますから……」
「ダメだ、見合いをしろ。それ以外は受け入れん」

 にべもなく伯父は言う。そして澪と治彦に最後通告をする。

「見合いもしない、さらに一括返済もできないなら、この家を差押えて借金を回収する。無一文で坪井家から追い出してやる」
「この家を……」

 呟いて、そのまま澪は絶句する。
 隣で父も息を呑む気配がした。
 坪井家から追い出されるのはともかくとして、この家を出なくてはならないのはどうしても受け入れられなかった。
 この家は澪の亡き母との思い出が詰まった家だった。血のつながりのない父と、親子としての情を育んだ場所でもある。庭の木々や草花は、ありし日の母が植えたものもたくさんあって、母の死後のつらい時期は、父と澪の心を癒してくれた。
 この家を売るなんて耐えられないと強く思う。なにがあっても絶対に嫌だった。

「考える時間をやるつもりはない。今決めろ」

 冷酷に言い放つ康彦を奥歯を噛み締めて澪は睨む。この男は、人ひとりの人生をいったいなんだと思っているのだろう。こんな男とたとえ血がつながっていなくとも親戚だというだけで虫唾が走る思いがする。
 ……とはいえ、もはや澪の進むべき道はひとつだった。
 目を閉じて深いため息をついてから、ゆっくりと瞼を開き目の前の男を澪は見据えた。

「わかりました。そのお話お受けします」

 康彦が狡猾な笑みを浮かべた。

「手間をかけさせやがって」

 一方で隣の父は激しく動揺する。

「み、澪! ダ、ダメだ……! そ、そんな……!」
「大丈夫、お父さん」

 なにがどう大丈夫なのか自分でもさっぱりわからないけれど、澪は意識して父に微笑む。

『澪、笑顔の魔法よ。つらい時こそ微笑んで』

 母の言葉が頭に浮かんだ。

「段取りはうちの弁護士と秘書から連絡させる。会社は今すぐに辞めてもらう。手続きも弁護士に任せて、とにかくお前は明日から、坪井家の娘としてボロが出ないよう行儀作法を身に付けてもらう。寝る暇もないからな」

 勝手なことを一方的に言い放ち伯父は立ち上がる。澪が了承した以上、目的は達成した。長居は無用ということだろう。

「に、兄さん、待ってください! まだ話は終わっていません」

 慌てて止める父には目もくれず、さっさと部屋を出ていった。
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