仮面夫婦のはずが、冷血御曹司の激愛で懐妊いたしました
澪の決意
どこか遠くでガチャリというドアが開く音がする。なにかを置くような人の気配を感じて澪の意識は浮上する。ハッとして身体を起こすと、寝室のベッドだった。
窓の外はいつのまにか日が落ちて煌びやかな夜景が広がっている。記憶を辿ると、夕方ベッドのシーツを交換したところで記憶が途切れていた。どうやら、ひと休みしているうちに寝てしまったようだ。
時計を見るともう午後の八時を過ぎている。圭一郎が帰ってきたのだと思い澪は青ざめた。
どうしよう、まったく夕食の準備ができていない。今夜は家で食べるというメッセージを昼間に受け取っていたのに。
慌てて澪がベッドから降りた時、寝室のドアが開いて圭一郎が入ってきた。
「なんだ、ここにいたのか」
「お、おかえりなさい……」
気まずい思いで澪は言う。
「ただいま」
頷いて圭一郎はウォークインクローゼットに向かった。その背中に、恐る恐る呼びかけた。
「あの……圭一郎さん?」
圭一郎が振り返り瞬きをした。
「実は今日、ちょっと夕方に寝てしまって、夕食の準備ができていないんです。今日は家で食べるって聞いていたのに。……すみません」
「なんだそんなことか」
圭一郎がふわりと微笑んだ。
「深刻な顔をするからなにかあったのかと思ったよ。夕食なんて気にしなくていい、なにか頼めばいいじゃないか」
こともなげに言う。
「すみません」
謝りつつも澪は胸を撫でおろした。
彼がいいと言うならば、本当にそう思っているとわかっているからだ。
彼と結婚して一緒に生活をするうちに、澪は彼の言葉には裏がないことに気がついた。一度口にしたことについて、後からあれこれ言ったりしない。見合いの時こそ偽りの姿を演じていたが、本来の彼はこっちの姿なのだと澪は思う。
「でも寝てたって……珍しいな体調でも悪いのか?」
澪のもとへやって来て、心配そうに顔を覗き込んだ。
「いえ、そうじゃないです。ちょっと疲れただけで」
澪は慌てて答えるが、彼はそれで納得しなかった。澪の顔を確認するようにジッと見ている。
「……顔色がよくないな。結婚からこっちずっと忙しくしていたから、疲れが出たんだろう。そういう時は、夕食作りも家事も無理しなくていい。そもそも俺は今まですべてテイクアウトか、外食だったんだから。なんなら家事すべて外注してくれてもかまわないよ」
澪が引っ越してくる前は、彼はそうしていたのだという。彼のスケジュールは普通では考えられないくらい多忙なのだから当然だ。だけど結婚した今、専業主婦として澪が家にいるのに、それはさすがにそれはもったいないだろう。でもその言葉を澪はグッと呑み込んだ。
そして少し考えて、あたり障りのない言葉を口にする。
「か、考えてみます……」
こうして、お嬢さまのフリをするのも随分と慣れた。当初よりは、失言は減ったはずだ。
けれど心は重かった。彼の方は夫として誠実に接してくれているのに、仕方がないこととはいえ、自分はまったくその逆だ。
圭一郎がそんな澪をジッと見つめて、少し考えてから口を開いた。
「澪、ちょっとそこに座ってくれる? 話があるんだ」
そう言ってベットを指し示す。
「え? ……はい」
突然どうしたのだろうと思いながら澪は言う通りにした。圭一郎が隣に座り、優しい眼差しで澪を見つめた。
「澪、君は以前……あの見合いの日、この結婚で幸せになりたいと言ったね」
確認するような彼の言葉に、澪はこくんと頷いた。
「俺はそれに協力すると答えた。でも正直言ってあの時はまだ半信半疑だったんだ。君の言葉に興味を持ったのは事実だが本当にそんなことができるのかと疑っていたんだよ。君自身に不安があったわけじゃない。ただ俺が幸せな家庭というものを知らないからだ」
少し意外な彼の話に、瞬きをして澪は耳を傾けた。
「うちの両親は、家と家の利害だけで結婚をしたいわゆる政略結婚というやつなんだ。だからお互いに愛情はない。昔から母親は一年のほとんどを海外に行ったままだったし、親父も愛人と住むもうひとつの家を持っている。家族で楽しく過ごしたという記憶は俺にはない」
圭一郎の過去についての話を聞きながら、澪は結婚式での彼らの様子を思い出していた。並んで、にこやかに招待客をもてなしてはいたけれど、そういえば互いに言葉を交わしていた記憶はない。
「それを今さらどうこう思ったりはしないけど、俺がこの年になっても結婚というものに興味が持てかったのは、そのせいだとも思う。君の言う幸せな夫婦というものは俺にとってはフィクションの中だけの言葉だったんだ」
だから彼は、ビジネスのための結婚にまったく抵抗がなかったのだと澪は今更納得をする。そもそも彼の両親がそうだったのだ。
「でも今は違う」
そう言って圭一郎は、真っ直ぐな目で澪を見つめた。
「この三カ月弱、君と過ごしてみて、君のご両親の話を聞いて、幸せな家庭というものが、少しだけれどわかったような気がするよ。今は、君となら信頼し合い……愛し合う夫婦になれると思っている」
「圭一郎さん……」
「だから澪」
圭一郎が膝に置いた澪の手に自らの手を重ねた。
「君も家では肩の力を抜いてそのままの君でいてほしい」
「そのままの……?」
彼の言葉の意図するところが、すぐには理解できなくて、澪は戸惑い瞬きをする。
圭一郎が重ねた手に力を込めた。
「適切な表現がわからないから、率直に言う。他意はないから悪く受け取らないでほしいんだが。……君は、坪井頭取の家のように極端に裕福な家庭で育ったわけでない。いわゆる嬢さまではなくて、普通の幸せな家庭の出身だ。だから、贅沢には慣れていないし、無駄な買い物はしなくないと思う。そうだろう?」
圭一郎からの確認にどきりとして、澪は黙り込んだ。
やはりバレていたのだ。
でも考えみれば当然だ。結婚してから今までに澪は何回も失言しているし、そもそも澪の父親が銀行経営に関わっていないことも彼は知っている。さらにいうとつい最近、澪の実家を訪れているのだから……。
とはいえ、どう答えるべきかはわからなかった。
黙り込み答えられずにいる澪を安心させるように圭一郎が優しい声を出した。
「澪、俺は君がお嬢さまだから結婚したわけではない。黙っていたことを責めているわけじゃない。ただ君に無理をしてほしくないと思っただけなんだ」
「圭一郎さん……」
自分を見つめる真摯な彼の眼差しに励まされるような気持ちになって、澪はようやく口を開いた。
「……その通りです。嘘をついていてごめんなさい。家は坪井本家とは違ってごく普通の一般家庭です。生活に困るようなことはありませんでしたけど、いわゆるお金持ちというわけではありませんでした。お見合いするにあたって……その、圭一郎さんのお家はすごく立派なお家ですから、釣り合いが取れるようにそういうフリをした方がいいと……伯父さまと相談してそうすることにしたんです。すみません……」
言い終えて澪はふうと息を吐いた。
心の中の重石がひとつ、どこかへ消えてなくなるのを感じていた。もちろん澪にはまだ秘密はあってそちらの方が重要だから、彼を裏切っていることには変わりはないけれど。
圭一郎が首を横に振った。
「いや、気にしなくていい。さっきも言ったけど、責めてるわけじゃないだ。この結婚で坪井家と向坂家に繋がりができた。それで祖父は五菱銀行との関係再開に納得したんだから、君には感謝している。だからもう無理はしないで、思ったことをそのまま言っていいんだよ」
「圭一郎さん、……ありがとうございます」
涙が出そうになるのを、なんとかこらえて澪は言う。そんな澪を圭一郎は優しい眼差しで見つめている。
「いや……」
でもそこで、突然なにかを思い出したように首を傾げて、しばらく考えてから思わずといった様子で吹き出した。そしてそのまま、くっくと肩を揺らして笑っている。
「圭一郎さん……?」
意外な彼の行動に、澪は目をパチパチさせる。
すると圭一郎は、笑いながら口をひらいた。
「君は……! 本当にお嬢さまのフリをするつもりはあったのか? ボロが出まくりだったけど」
「え? なっ……!」
その言葉に、澪の頬が熱くなった。
「も、もちろんです! す、すごく頑張ったんですよ……!」
目を剥いてそう反論をするが、それを圭一郎は一蹴する。
「本当に? だとしても、演技が下手すぎるだろう!」
「へ、下手⁉︎ だだだだって……! そ、そもそも圭一郎さんの感覚がちょっと桁違いだと思います。旅行だって……あんなに高級なホテル、私、あることも知らなかったんですから!」
結婚してからの三カ月間一生懸命だったのに、演技が下手だとまで言われてしまい、自分が嘘をついていたことも忘れて、澪は反撃をする。
「それは申し訳なかったよ。……でも、くくく、ははは!」
それなのに圭一郎が笑い続けるものだから、澪は頬を膨らませた。
「なによ、もう……。だいたい、気がついてたなら、もっと早く言ってくれればよかったのに。黙ってるなんて、悪趣味だわ」
その頬を、圭一郎が目を細めて突いた。
「ごめんごめん。一生懸命な姿が可愛いかったからさ。なんか、もう少し見ていたいと思ったんだ」
「なっ……!」
突然彼の口から出た思ってもみなかった言葉に、澪の頭はプチパニック状態になってしまう。
今彼が言った"可愛い"はあくまでも弾みで出た言葉で、深い意味などないとわかっていても胸がドキドキとするのを抑えることはできなかった。
だって澪はもう彼を好きだとはっきり自覚しているのだ。その人に可愛いなどと言われて、冷静でいられるわけがない。
「だだだだからって……」
言いながら重なった手を引こうとする。でも彼にギュッ握られてしまい叶わなかった。
「圭一郎さ……」
「澪、俺は君と結婚してよかったと思ってる。……愛してるよ」
ハッとして目を見開くと、圭一郎が繋いだ手にキスを落とした。
「君が誰よりも大切だ。この気持ちが、愛おしいってことなんだろう? この歳になって恥ずかしいが、はじめて知る感情だ。正直いってまだ戸惑ってる部分もあるけど、これだけははっきりとわかる。俺は君を愛してる」
「圭一郎さん……」
はじめて顔を合わせた時の冷たい目をした彼はもうどこにもいなかった。心のこもった嘘偽りのない彼の想いが、澪の胸を貫いて、痛いくらいに熱くなる。
澪だって、まったく同じ気持ちだった。
彼のことが大切で、愛おしい。
彼を誰より愛してる。
でもそれを言葉にしようとする澪の唇はどうしても開かなかった。
この真っ直ぐな想いを受け止める資格は自分にあるのかと、もうひとりの自分が囁いた。
——彼を裏切っているくせに。
「圭一郎さん、私……」
言えない言葉の代わりのように熱い涙が頬を伝う。胸が苦しくてつらかった。どうすればいいか、わからない。
圭一郎が頬の滴を、そっと人差し指ですくう。
「澪、俺は三日後にドイツに立つ。戻りは一カ月くらい先になる」
「ドイツに……?」
「ああ、ちょっとトラブルがあってね。戻ってきたら、君にもうひとつ大切な話がある。……君の気持ちは、その時に聞かせてくれ」
なにかを決意したように彼は言う。今の話とドイツ行き、どう関係があるのか詳細はわからないままに、澪はこくんと頷いた。
一カ月。
彼に会えないのは寂しいけれど、その間に自分も覚悟を決めなくては。
なんとかすると伯父は言ったけれど、澪の裏切りはいつかバレるだろう。
だったら自分から告げるべきだと澪は思う。もしかしたら彼ならば、受け止めてくれるかもしれない。
ただ、今はまだその勇気が持てなかった。
「澪」
呼ばると同時に彼の腕に包まれる。目を閉じると胸に広がる幸せな想い。この想いを守るために、やるべきことはひとつだと確信する。
「澪、愛してる。待っていてくれ」
耳に囁かれる温かい言葉。
彼の香りに頬を寄せて澪はこくんと頷いた。
窓の外はいつのまにか日が落ちて煌びやかな夜景が広がっている。記憶を辿ると、夕方ベッドのシーツを交換したところで記憶が途切れていた。どうやら、ひと休みしているうちに寝てしまったようだ。
時計を見るともう午後の八時を過ぎている。圭一郎が帰ってきたのだと思い澪は青ざめた。
どうしよう、まったく夕食の準備ができていない。今夜は家で食べるというメッセージを昼間に受け取っていたのに。
慌てて澪がベッドから降りた時、寝室のドアが開いて圭一郎が入ってきた。
「なんだ、ここにいたのか」
「お、おかえりなさい……」
気まずい思いで澪は言う。
「ただいま」
頷いて圭一郎はウォークインクローゼットに向かった。その背中に、恐る恐る呼びかけた。
「あの……圭一郎さん?」
圭一郎が振り返り瞬きをした。
「実は今日、ちょっと夕方に寝てしまって、夕食の準備ができていないんです。今日は家で食べるって聞いていたのに。……すみません」
「なんだそんなことか」
圭一郎がふわりと微笑んだ。
「深刻な顔をするからなにかあったのかと思ったよ。夕食なんて気にしなくていい、なにか頼めばいいじゃないか」
こともなげに言う。
「すみません」
謝りつつも澪は胸を撫でおろした。
彼がいいと言うならば、本当にそう思っているとわかっているからだ。
彼と結婚して一緒に生活をするうちに、澪は彼の言葉には裏がないことに気がついた。一度口にしたことについて、後からあれこれ言ったりしない。見合いの時こそ偽りの姿を演じていたが、本来の彼はこっちの姿なのだと澪は思う。
「でも寝てたって……珍しいな体調でも悪いのか?」
澪のもとへやって来て、心配そうに顔を覗き込んだ。
「いえ、そうじゃないです。ちょっと疲れただけで」
澪は慌てて答えるが、彼はそれで納得しなかった。澪の顔を確認するようにジッと見ている。
「……顔色がよくないな。結婚からこっちずっと忙しくしていたから、疲れが出たんだろう。そういう時は、夕食作りも家事も無理しなくていい。そもそも俺は今まですべてテイクアウトか、外食だったんだから。なんなら家事すべて外注してくれてもかまわないよ」
澪が引っ越してくる前は、彼はそうしていたのだという。彼のスケジュールは普通では考えられないくらい多忙なのだから当然だ。だけど結婚した今、専業主婦として澪が家にいるのに、それはさすがにそれはもったいないだろう。でもその言葉を澪はグッと呑み込んだ。
そして少し考えて、あたり障りのない言葉を口にする。
「か、考えてみます……」
こうして、お嬢さまのフリをするのも随分と慣れた。当初よりは、失言は減ったはずだ。
けれど心は重かった。彼の方は夫として誠実に接してくれているのに、仕方がないこととはいえ、自分はまったくその逆だ。
圭一郎がそんな澪をジッと見つめて、少し考えてから口を開いた。
「澪、ちょっとそこに座ってくれる? 話があるんだ」
そう言ってベットを指し示す。
「え? ……はい」
突然どうしたのだろうと思いながら澪は言う通りにした。圭一郎が隣に座り、優しい眼差しで澪を見つめた。
「澪、君は以前……あの見合いの日、この結婚で幸せになりたいと言ったね」
確認するような彼の言葉に、澪はこくんと頷いた。
「俺はそれに協力すると答えた。でも正直言ってあの時はまだ半信半疑だったんだ。君の言葉に興味を持ったのは事実だが本当にそんなことができるのかと疑っていたんだよ。君自身に不安があったわけじゃない。ただ俺が幸せな家庭というものを知らないからだ」
少し意外な彼の話に、瞬きをして澪は耳を傾けた。
「うちの両親は、家と家の利害だけで結婚をしたいわゆる政略結婚というやつなんだ。だからお互いに愛情はない。昔から母親は一年のほとんどを海外に行ったままだったし、親父も愛人と住むもうひとつの家を持っている。家族で楽しく過ごしたという記憶は俺にはない」
圭一郎の過去についての話を聞きながら、澪は結婚式での彼らの様子を思い出していた。並んで、にこやかに招待客をもてなしてはいたけれど、そういえば互いに言葉を交わしていた記憶はない。
「それを今さらどうこう思ったりはしないけど、俺がこの年になっても結婚というものに興味が持てかったのは、そのせいだとも思う。君の言う幸せな夫婦というものは俺にとってはフィクションの中だけの言葉だったんだ」
だから彼は、ビジネスのための結婚にまったく抵抗がなかったのだと澪は今更納得をする。そもそも彼の両親がそうだったのだ。
「でも今は違う」
そう言って圭一郎は、真っ直ぐな目で澪を見つめた。
「この三カ月弱、君と過ごしてみて、君のご両親の話を聞いて、幸せな家庭というものが、少しだけれどわかったような気がするよ。今は、君となら信頼し合い……愛し合う夫婦になれると思っている」
「圭一郎さん……」
「だから澪」
圭一郎が膝に置いた澪の手に自らの手を重ねた。
「君も家では肩の力を抜いてそのままの君でいてほしい」
「そのままの……?」
彼の言葉の意図するところが、すぐには理解できなくて、澪は戸惑い瞬きをする。
圭一郎が重ねた手に力を込めた。
「適切な表現がわからないから、率直に言う。他意はないから悪く受け取らないでほしいんだが。……君は、坪井頭取の家のように極端に裕福な家庭で育ったわけでない。いわゆる嬢さまではなくて、普通の幸せな家庭の出身だ。だから、贅沢には慣れていないし、無駄な買い物はしなくないと思う。そうだろう?」
圭一郎からの確認にどきりとして、澪は黙り込んだ。
やはりバレていたのだ。
でも考えみれば当然だ。結婚してから今までに澪は何回も失言しているし、そもそも澪の父親が銀行経営に関わっていないことも彼は知っている。さらにいうとつい最近、澪の実家を訪れているのだから……。
とはいえ、どう答えるべきかはわからなかった。
黙り込み答えられずにいる澪を安心させるように圭一郎が優しい声を出した。
「澪、俺は君がお嬢さまだから結婚したわけではない。黙っていたことを責めているわけじゃない。ただ君に無理をしてほしくないと思っただけなんだ」
「圭一郎さん……」
自分を見つめる真摯な彼の眼差しに励まされるような気持ちになって、澪はようやく口を開いた。
「……その通りです。嘘をついていてごめんなさい。家は坪井本家とは違ってごく普通の一般家庭です。生活に困るようなことはありませんでしたけど、いわゆるお金持ちというわけではありませんでした。お見合いするにあたって……その、圭一郎さんのお家はすごく立派なお家ですから、釣り合いが取れるようにそういうフリをした方がいいと……伯父さまと相談してそうすることにしたんです。すみません……」
言い終えて澪はふうと息を吐いた。
心の中の重石がひとつ、どこかへ消えてなくなるのを感じていた。もちろん澪にはまだ秘密はあってそちらの方が重要だから、彼を裏切っていることには変わりはないけれど。
圭一郎が首を横に振った。
「いや、気にしなくていい。さっきも言ったけど、責めてるわけじゃないだ。この結婚で坪井家と向坂家に繋がりができた。それで祖父は五菱銀行との関係再開に納得したんだから、君には感謝している。だからもう無理はしないで、思ったことをそのまま言っていいんだよ」
「圭一郎さん、……ありがとうございます」
涙が出そうになるのを、なんとかこらえて澪は言う。そんな澪を圭一郎は優しい眼差しで見つめている。
「いや……」
でもそこで、突然なにかを思い出したように首を傾げて、しばらく考えてから思わずといった様子で吹き出した。そしてそのまま、くっくと肩を揺らして笑っている。
「圭一郎さん……?」
意外な彼の行動に、澪は目をパチパチさせる。
すると圭一郎は、笑いながら口をひらいた。
「君は……! 本当にお嬢さまのフリをするつもりはあったのか? ボロが出まくりだったけど」
「え? なっ……!」
その言葉に、澪の頬が熱くなった。
「も、もちろんです! す、すごく頑張ったんですよ……!」
目を剥いてそう反論をするが、それを圭一郎は一蹴する。
「本当に? だとしても、演技が下手すぎるだろう!」
「へ、下手⁉︎ だだだだって……! そ、そもそも圭一郎さんの感覚がちょっと桁違いだと思います。旅行だって……あんなに高級なホテル、私、あることも知らなかったんですから!」
結婚してからの三カ月間一生懸命だったのに、演技が下手だとまで言われてしまい、自分が嘘をついていたことも忘れて、澪は反撃をする。
「それは申し訳なかったよ。……でも、くくく、ははは!」
それなのに圭一郎が笑い続けるものだから、澪は頬を膨らませた。
「なによ、もう……。だいたい、気がついてたなら、もっと早く言ってくれればよかったのに。黙ってるなんて、悪趣味だわ」
その頬を、圭一郎が目を細めて突いた。
「ごめんごめん。一生懸命な姿が可愛いかったからさ。なんか、もう少し見ていたいと思ったんだ」
「なっ……!」
突然彼の口から出た思ってもみなかった言葉に、澪の頭はプチパニック状態になってしまう。
今彼が言った"可愛い"はあくまでも弾みで出た言葉で、深い意味などないとわかっていても胸がドキドキとするのを抑えることはできなかった。
だって澪はもう彼を好きだとはっきり自覚しているのだ。その人に可愛いなどと言われて、冷静でいられるわけがない。
「だだだだからって……」
言いながら重なった手を引こうとする。でも彼にギュッ握られてしまい叶わなかった。
「圭一郎さ……」
「澪、俺は君と結婚してよかったと思ってる。……愛してるよ」
ハッとして目を見開くと、圭一郎が繋いだ手にキスを落とした。
「君が誰よりも大切だ。この気持ちが、愛おしいってことなんだろう? この歳になって恥ずかしいが、はじめて知る感情だ。正直いってまだ戸惑ってる部分もあるけど、これだけははっきりとわかる。俺は君を愛してる」
「圭一郎さん……」
はじめて顔を合わせた時の冷たい目をした彼はもうどこにもいなかった。心のこもった嘘偽りのない彼の想いが、澪の胸を貫いて、痛いくらいに熱くなる。
澪だって、まったく同じ気持ちだった。
彼のことが大切で、愛おしい。
彼を誰より愛してる。
でもそれを言葉にしようとする澪の唇はどうしても開かなかった。
この真っ直ぐな想いを受け止める資格は自分にあるのかと、もうひとりの自分が囁いた。
——彼を裏切っているくせに。
「圭一郎さん、私……」
言えない言葉の代わりのように熱い涙が頬を伝う。胸が苦しくてつらかった。どうすればいいか、わからない。
圭一郎が頬の滴を、そっと人差し指ですくう。
「澪、俺は三日後にドイツに立つ。戻りは一カ月くらい先になる」
「ドイツに……?」
「ああ、ちょっとトラブルがあってね。戻ってきたら、君にもうひとつ大切な話がある。……君の気持ちは、その時に聞かせてくれ」
なにかを決意したように彼は言う。今の話とドイツ行き、どう関係があるのか詳細はわからないままに、澪はこくんと頷いた。
一カ月。
彼に会えないのは寂しいけれど、その間に自分も覚悟を決めなくては。
なんとかすると伯父は言ったけれど、澪の裏切りはいつかバレるだろう。
だったら自分から告げるべきだと澪は思う。もしかしたら彼ならば、受け止めてくれるかもしれない。
ただ、今はまだその勇気が持てなかった。
「澪」
呼ばると同時に彼の腕に包まれる。目を閉じると胸に広がる幸せな想い。この想いを守るために、やるべきことはひとつだと確信する。
「澪、愛してる。待っていてくれ」
耳に囁かれる温かい言葉。
彼の香りに頬を寄せて澪はこくんと頷いた。