仮面夫婦のはずが、冷血御曹司の激愛で懐妊いたしました
母の口ぐせ
追いかけるように玄関まで伯父を見送ってから客間へ戻ってみると、父は椅子から立つことができずに、頭を抱えて項垂れていた。
澪が隣に腰を下ろすと、「すまない」と声を絞りだした。
「お父さん、お父さんのせいじゃないよ。全部私のためにしてくれたことでしょう?」
学水院へ澪が通っていたのは父が澪を養子にするにあたって、今は亡き父の両親と坪井本家から出された条件だったという。
澪の本当の父親は澪が生まれてすぐに事故で亡くなった。乳児を抱えて仕事もできずに途方に暮れていた母を支えたのが父治彦だった。もともと実父とは親友だったという話だから見ていられなかったのだろう。
そしてそのうちに、お互いに愛し合うようになったのだ。澪は物心がついた頃からこの家にいて、母と父と三人で暮らしていた。父のこともあたりまえのように"お父さん"と呼んでいたけれど、本当のところふたりは籍を入れていなかった。
父の両親から反対されていたからだ。
いくら分家といえども、元華族の家柄の長男が、シングルマザーと結婚するなど、許される時代ではなかったのだ。それでも実家とは距離をおきながら、ふたりそのままの形で幸せな家庭を築いていた。なにごともなければ、それでもよかったはずだった。
でも母に病気が発覚し、余命宣告されたことで状況が変わった。
母亡き後、父と澪がふたりで生きていくためには、ふたりの間に法的な関係がなくてはならない。すなわち澪を父の養子にすることが必要だった。
もちろん坪井本家や父の両親の承諾を得なくても澪を養子にすることはできる。だが残り少ない命の母を安心させるため、父は坪井家と両親の同意にこだわったのだという。
そして本家から出された条件が、坪井家の娘として恥ずかしくないように、澪に教育を受けさせること、それでいて余所者であることはしっかりと認識させ、本家には出入りさせないことだったという。
その条件に従って、澪は中学から学水院に通うことになったのだ。家庭環境の違いすぎるクラスメイトとの関係は、ひと筋縄ではいかなかったけれど、それよりも父といられることが嬉しかった。
でも今から考えてみれば、研究員の給料であそこの学費が払えるわけがないという伯父の話はもっともだ。一度だけ、大学に進学する時に学費について尋ねてみたことはあるものの、『大丈夫』という父の話を鵜呑みにしていた自分が恥ずかしい。
飾り棚の上の母の写真に向かって、父がうめくような声を出した。
「澪を必ず幸せにすると、母さんと約束したのに……」
その姿に澪の胸は締め付けられた。
もう十分してもらったと澪は思う。
学水院への入学は澪の希望ではなかったけれど、父の養子となり母を安心させるためには必要だった。それは両親だけでなく澪自身も望んだことだ。十分な教育を受け無事に就職することができた。これからは親孝行をしつつ結婚し、ささやかでも幸せに生きていこう。
そう思っていた。
そうなるはずだったのだ。
……今日、伯父が来るまでは。
「澪、今からでも断ろう。この家を売ることになったとしてもお前の幸せには代えられない。母さんもそれを……!」
「お父さん」
お腹にぐっと力を入れて、澪はきっぱりと首を横に振った。血の繋がらない娘を父は今日まで愛情たっぷりに育ててくれた。これ以上苦労を負わせたくはない。思い出の詰まったこの家でいつまでも心穏やかに暮らしてほしかった。
「確かに伯父さんの話はめちゃくちゃよ。私には理解できない。でも難しい話は抜きにして、その結婚で私が幸せになれないとは限らないじゃない」
意識して明るい声を出すと、父がゆっくりと顔を上げた。
「だって私、今彼氏はいないのよ。できる気配もない。それなのに、一足飛びで結婚できるなんて。しかもお相手の方は本当なら一生会うこともないくらいのお金持ちなんでしょう? 考えようによっちゃ、ラッキーよ。同僚に言ったら、羨ましがると思う」
本当はそんなことこれっぽっちも思ってはいないけれど澪はそれらしいことを言って一生懸命父を励ました。父の罪悪感を少しでも軽くしたい一心だった。
「澪……」
「ほら、お父さん。笑顔、笑顔! そんな顔していたら、お母さんに叱られるよ」
飾り棚の母を指差すと、父がそちらに視線を送り、少しだけ表情を緩ませた。
「……お前は母さんそっくりだな」
「ふふふ、でしょ? だからなにがあっても大丈夫、笑顔でいれば必ず幸せになれるはず」
母のことを思い出して、澪は微笑んだ。
澪の母は、自身の両親を早くに亡くしさらに夫も子供が産まれてすぐに失うという苦難の人生を歩んだ人だ。はたから見れば、不幸な寂しい人生だったかもしれない。
でも彼女は澪の記憶にある限りいつも笑顔だった。
『澪、笑顔の魔法よ。つらい時こそ微笑んで』
どんな状況も自分の心持ち次第だ、笑顔でいればきっと幸せになれるはず。
亡くなる直前までそう言い続けてきた母の言葉を胸に、澪は今まで生きてきた。
この状況を不幸だとただ嘆くことこそ、母が悲しむことだと思う。
「お父さん、私きっと幸せになる。この選択が正しかったと証明してみせるから!」
そう言い切って父の目をジッと見つめると、父は小さく頷いた。
「じゃ、これ片付けるね」
澪はテーブルの上の湯呑みを手にリビングを出る。台所へ行き流しに置いて顔を上げると、窓から庭の紫陽花が見えた。いつのまにか降り出した音のない雨の中、凛として咲いている。
同じ場所、同じ土、同じ環境でもそれぞれ違う色と形で咲く紫陽花の花。人の一生もまた、同様なのかもしれない。どんな花を咲かせるかは、自分次第なのだ。
だとしたら自分は、あの紫の花のようでありたいと澪は思う。
意に染まぬ結婚でも、幸せになれないとは限らないじゃないか。夫となる人を愛し、愛されるよう努力すれば、幸せになれるはず。そうすれば、株の真ん中で誇らしげに咲く、あの鮮やかな紫色の花になれるのだ。
次第に強くなる雨にも負けず美しくて咲く花を、流しに手をついて澪はジッと見つめていた。
澪が隣に腰を下ろすと、「すまない」と声を絞りだした。
「お父さん、お父さんのせいじゃないよ。全部私のためにしてくれたことでしょう?」
学水院へ澪が通っていたのは父が澪を養子にするにあたって、今は亡き父の両親と坪井本家から出された条件だったという。
澪の本当の父親は澪が生まれてすぐに事故で亡くなった。乳児を抱えて仕事もできずに途方に暮れていた母を支えたのが父治彦だった。もともと実父とは親友だったという話だから見ていられなかったのだろう。
そしてそのうちに、お互いに愛し合うようになったのだ。澪は物心がついた頃からこの家にいて、母と父と三人で暮らしていた。父のこともあたりまえのように"お父さん"と呼んでいたけれど、本当のところふたりは籍を入れていなかった。
父の両親から反対されていたからだ。
いくら分家といえども、元華族の家柄の長男が、シングルマザーと結婚するなど、許される時代ではなかったのだ。それでも実家とは距離をおきながら、ふたりそのままの形で幸せな家庭を築いていた。なにごともなければ、それでもよかったはずだった。
でも母に病気が発覚し、余命宣告されたことで状況が変わった。
母亡き後、父と澪がふたりで生きていくためには、ふたりの間に法的な関係がなくてはならない。すなわち澪を父の養子にすることが必要だった。
もちろん坪井本家や父の両親の承諾を得なくても澪を養子にすることはできる。だが残り少ない命の母を安心させるため、父は坪井家と両親の同意にこだわったのだという。
そして本家から出された条件が、坪井家の娘として恥ずかしくないように、澪に教育を受けさせること、それでいて余所者であることはしっかりと認識させ、本家には出入りさせないことだったという。
その条件に従って、澪は中学から学水院に通うことになったのだ。家庭環境の違いすぎるクラスメイトとの関係は、ひと筋縄ではいかなかったけれど、それよりも父といられることが嬉しかった。
でも今から考えてみれば、研究員の給料であそこの学費が払えるわけがないという伯父の話はもっともだ。一度だけ、大学に進学する時に学費について尋ねてみたことはあるものの、『大丈夫』という父の話を鵜呑みにしていた自分が恥ずかしい。
飾り棚の上の母の写真に向かって、父がうめくような声を出した。
「澪を必ず幸せにすると、母さんと約束したのに……」
その姿に澪の胸は締め付けられた。
もう十分してもらったと澪は思う。
学水院への入学は澪の希望ではなかったけれど、父の養子となり母を安心させるためには必要だった。それは両親だけでなく澪自身も望んだことだ。十分な教育を受け無事に就職することができた。これからは親孝行をしつつ結婚し、ささやかでも幸せに生きていこう。
そう思っていた。
そうなるはずだったのだ。
……今日、伯父が来るまでは。
「澪、今からでも断ろう。この家を売ることになったとしてもお前の幸せには代えられない。母さんもそれを……!」
「お父さん」
お腹にぐっと力を入れて、澪はきっぱりと首を横に振った。血の繋がらない娘を父は今日まで愛情たっぷりに育ててくれた。これ以上苦労を負わせたくはない。思い出の詰まったこの家でいつまでも心穏やかに暮らしてほしかった。
「確かに伯父さんの話はめちゃくちゃよ。私には理解できない。でも難しい話は抜きにして、その結婚で私が幸せになれないとは限らないじゃない」
意識して明るい声を出すと、父がゆっくりと顔を上げた。
「だって私、今彼氏はいないのよ。できる気配もない。それなのに、一足飛びで結婚できるなんて。しかもお相手の方は本当なら一生会うこともないくらいのお金持ちなんでしょう? 考えようによっちゃ、ラッキーよ。同僚に言ったら、羨ましがると思う」
本当はそんなことこれっぽっちも思ってはいないけれど澪はそれらしいことを言って一生懸命父を励ました。父の罪悪感を少しでも軽くしたい一心だった。
「澪……」
「ほら、お父さん。笑顔、笑顔! そんな顔していたら、お母さんに叱られるよ」
飾り棚の母を指差すと、父がそちらに視線を送り、少しだけ表情を緩ませた。
「……お前は母さんそっくりだな」
「ふふふ、でしょ? だからなにがあっても大丈夫、笑顔でいれば必ず幸せになれるはず」
母のことを思い出して、澪は微笑んだ。
澪の母は、自身の両親を早くに亡くしさらに夫も子供が産まれてすぐに失うという苦難の人生を歩んだ人だ。はたから見れば、不幸な寂しい人生だったかもしれない。
でも彼女は澪の記憶にある限りいつも笑顔だった。
『澪、笑顔の魔法よ。つらい時こそ微笑んで』
どんな状況も自分の心持ち次第だ、笑顔でいればきっと幸せになれるはず。
亡くなる直前までそう言い続けてきた母の言葉を胸に、澪は今まで生きてきた。
この状況を不幸だとただ嘆くことこそ、母が悲しむことだと思う。
「お父さん、私きっと幸せになる。この選択が正しかったと証明してみせるから!」
そう言い切って父の目をジッと見つめると、父は小さく頷いた。
「じゃ、これ片付けるね」
澪はテーブルの上の湯呑みを手にリビングを出る。台所へ行き流しに置いて顔を上げると、窓から庭の紫陽花が見えた。いつのまにか降り出した音のない雨の中、凛として咲いている。
同じ場所、同じ土、同じ環境でもそれぞれ違う色と形で咲く紫陽花の花。人の一生もまた、同様なのかもしれない。どんな花を咲かせるかは、自分次第なのだ。
だとしたら自分は、あの紫の花のようでありたいと澪は思う。
意に染まぬ結婚でも、幸せになれないとは限らないじゃないか。夫となる人を愛し、愛されるよう努力すれば、幸せになれるはず。そうすれば、株の真ん中で誇らしげに咲く、あの鮮やかな紫色の花になれるのだ。
次第に強くなる雨にも負けず美しくて咲く花を、流しに手をついて澪はジッと見つめていた。