仮面夫婦のはずが、冷血御曹司の激愛で懐妊いたしました
幸せの庭
「あ、くもさんのシャンデリア」
 木槿の木と紫陽花の株の間に、キラキラと輝く雫をこれでもかというくらいぶら下げた蜘蛛の巣がかかっているのを見つけて澪は思わず呟いた。そよそよと吹く風に日の光を反射させながら揺れているのが綺麗だった。
 振り返ると縁側に、圭一郎と一カ月前に生まれたばかりの息子の彰(あきら)を抱いた父が並んで座っている。ふたりとも彰に視線を奪われて澪の呟きはまったく耳に入っていないようだ。
 小さな小さな彰に、大きな身体の大人がふたり夢中になっているのがおかしくて、澪はくすりと笑みを漏らした。
 この日澪は、出産後はじめて実家を訪れた。産後の経過も順調で、彰の一カ月検診も終え、医者からこれからは気候のいい時に外出してよいと言われたからだ。
 父はもうすでに何回もマンションに彰を見にきているが、母と彰を会わせたかったのである。
 空を見上げると昨日の雨が嘘のように晴れわたっている。また風が吹いて、イロハ紅葉の木がざざざと揺れる。母が喜んでいるような気がした。
"くものシャンデリアを見つけたから、今日はいいことがあった"
 そんな声が聞こえてくるようだった。
「お母さん、ありがとう」
 空に向かって澪は言う。
 母の笑顔の魔法はいつだって澪を支えてくれた。そこに姿はなくたってずっとずっと見守られていた。
「これからも、見ていてね」
 そう言うと、青い空にぷかぷかと浮かぶ白い雲が微笑んだような気がした。その雲に澪が微笑み返していると。
 あ、あー!
 縁側の方で彰が泣き出す声がする。
「おー! どうした、どうした」
 父がデレデレした様子で彰に向かって聞いている。
「オムツでしょう。さっきミルクを飲んだばかりだし」
 圭一郎が律儀に答えているのがなんだかおかしかった。彰が泣いている理由はおそらく彼の言う通りだ。が、澪はその場を動かなかった。
 ふたりは、よしよしと言いながら部屋の中へ入る。圭一郎が畳の上にオムツシーツを広げると父が優しくそこへ寝かせる。ふたりの息がぴったりなのもおかしくてたまらなかった。
 澪はそのまま庭をゆっくりと一周する。花柄を積んだり雑草を抜いたりしながら縁側へ戻ってきてみるとオムツを替えてもらってご機嫌になった彰が今度は圭一郎に抱かれていた。
「また外に出してる」
 小言を言いながら澪は圭一郎の隣に座る。いくら外出していいと言われたとはいえ、この家についてからずっと彼は縁側にいる。
「いいじゃないか」
 圭一郎がそう答えて、彰の頬を人差し指でそっと撫でた。
「すごく気持ちよさそうだ」
 そして圭一郎の腕をキックする可愛い足に視線を送る。
「早く自分の足でこの庭を散歩したいって」
「そう? なら草取りしなきゃ」
 ふふふと笑って澪は言った。澪が来られなかった一カ月半の間、あいかわらず父は庭のことはあまりなにもしなかったようだ。久しぶりに来てみるとあちらこちら草が伸び放題だった。
 臨月まで澪は庭仕事を続けた。
 妊娠の経過は順調だったし、重い物を持ったり無理をしなければ、身体を動かすのはむしろいいことだと産院の先生にも言われていたからだ。
 なにより、圭一郎が休みの日にこの家に来たがった。ここへ来ると彼はなにをするわけでもなく、縁側に座り庭仕事をする澪を見ている。そして夜は父に付き合ってノンアルコールビールで晩酌をするのだ。
 そんなふたりはもはや本当の親子のようだった。
「でも、庭仕事も今までみたいにはやれないかな。彰を連れてじゃ、やれることは限られるし」
 澪が言うと圭一郎が肩をすくめた。
「まあそれはそうかもしれないけど。でも俺が一緒の時は今まで通りにやればいい。彰は俺がみてるから」
 そう言って彼はぽやぽやとしか生えていない柔らかな髪に頬を寄せて目を細めた。
 確かに彼はこの一カ月で彰に関するすべてのことをマスターした。オムツの替え方、ミルクの作り方、わけもわからずに泣いている時はただただ抱いているだけでいいこともなにもかもわかっている。彼がみててくれるなら澪は安心して庭仕事に熱中できるだろう。
「でも、圭一郎さんは普段は仕事があるのに、せっかくの休みがそれじゃリラックスできないんじゃない?」
「そんなことないよ」
 圭一郎が首を横に振った。
「俺は庭仕事をする澪を見るのが好きなんだ。庭仕事をしている君が一番綺麗だと思う」
「え? そ、そうかな……」
 思いがけず彼から出た褒め言葉に、澪は目を丸くつつ頬を染めた。
「汗かいたりしてどろどろだけど……」
 照れかくしにそう言うと、圭一郎が目を細めた。
「新婚旅行の日、この庭の話をする君が美しいと思ったんだ。きっといい庭なんだろうなと思ったんだけど、その通りだったよ」
「圭一郎さん……」
 彼の言葉に、あの日のことを思い出し澪の胸が熱くなった。
「そういえばあの時、圭一郎さんが庭の手入れを続けていいって言ってくれて、私すごく嬉しかった。圭一郎さんと結婚できてよかったって思った」
 あれからもうすぐ一年、あの時の思いは今もまったく変わっていない。それどころか強くなるばかりだった。
 圭一郎が片腕で彰をしっかりと抱いて、もう一方の手で澪の頬を柔らかく包んだ。
「あの時俺は、いつか庭仕事をする君を自分の目で見たいと感じたんだ。それが叶ったんだから、これ以上の幸せはない」
「圭一郎さん……」
 本当なら出会うはずのなかったふたりが出会えたことは奇跡だった。でもそれだってもしかしたら、今のこの幸せには繋がらなかったのかもしれないのだ。自分はずっと、亡き母のこの庭に見守られていたのかもしれない。
「圭一郎さん、私」
 ——でもその時。
 ごほんごほんという咳払いが耳に飛び込んできてハッとする。彼の向こうで父が気まずそうにあさっての方向を向いていた。そういえば、つい思い出に浸って頭から抜けてたけれど、父もいたのだ。
「さて、麦茶でも淹れてこようかな」
 呟いて、台所の方へ消えていく。残された澪と圭一郎は顔を見合わせてぷっと吹き出しそのままくすくす笑い合った。
「もう、圭一郎さんが変なこと言うから……」
「でも本当のことだろう?」
 言い合いながらふたりの距離は近づいて……短いけれど幸せなキスを交わす。
 胸の中が幸せな思いでいっぱいになった。
 この思いはいつまでも続いていくと澪は確信する。彼とふたりならば、どんな困難も絶対に乗り越えられるはず。
 そんなふたりをまるで祝福するかのように、心地のいい風が縁側を吹き抜ける。
 その風は、圭一郎の腕の中の彰の頬を優しく撫でた。彰が気持ちよさそうに目を細めて、可愛らしいあくびをした。

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