好きとか愛とか
しかし、こういう場面でさえ泣けない自分が惨めで仕方がない。
もし泣ければ、少しは弱い立場を演出できたかもしれないのに。
フリさえできない。

 「壱…」

私を見かねたのか、あわれだと思ったのか、壱矢が剥き出しの腕に優しく触れた。
そして自分側へ引き寄せる。

 「やだっ、離して!やだっ!いやっ!」

壱矢の顔が至近距離まで近づいて、両腕で自分の顔隠した。
見られたくない。
今の私はもう、醜い夜叉のようなどす黒い顔を貼り付けているただの愚かな生き物だ。
こんな顔見られたら、きっと嫌がられるに決まっている。

あの日、あの月明かりが美しく、何もかもが清らかだった夜。
お互いがお互いを見つめて、暖かだった瞬間を過ごした私はどこにもいない。
あんなに安らげた私を知っているのはもうこの人だけ。
だから見ないで。

もし私を好きだと言ったのが本当で、今まで見てきた私に何らかの感情があるのだとしたら、その記憶だけを覚えていて欲しい。
もう、このままどこかへ消えてしまいたい。

 「壱…おいで」

自分から近づいて、暴れる私をいつものように強く抱き締める。
壱矢の香りが、私の全てを包んだ。
壱矢が私を抱き締める姿に、困惑した二人の呼吸が聞こえた。

慰める声が痛い。
どこまでも穏やかな声が痛い。
抱き締める暖かな体温が苦しい。
この優しさは私には勿体ない。
壱矢の温もりに身を委ねて、自分を預けてしまえればどんなに楽だろうか。

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