好きとか愛とか
 “壱はまったく、壱矢君に行かせるなんて”

そう言われる方がいつも通りで、自分の感情も言葉もコントロールしやすい。

 「言わないでください。無かったことにして早く忘れたいんです。母はあんなですから、いつまでもしつこく引きずります。それが面倒なんです。無事だったんだからからいいんです。だからお願いします、黙っていてください」

私は無事だった。
ちょっと怖い思いをしただけ。
あとは何も変わらない。
頭を下げてお願いする。
忘れたい。
今日の事も明日の事も何もかも全部、考えたくない。

 「お願いします…」

余計なことにもう気も配りたくない。
どんな僅かなことでも、今より酷い状況に陥ることに耐えられそうになかった。
下げた頭の重みに耐えられずふらついた私を、壱矢が躊躇いがちに支える。

 「今日は話さないよ」

顔を上げると、切なげに目を細めた壱矢が私を見ていた。
暗い中でも、不本意であることと、なにか引っ掛かっていることが分かる表情が貼り付いている。
しかし、拒否されなかったことに嫌な緊張が解れた。

 「でも、今のところは黙ってるけど、俺が知らせた方がいいと判断したときは迷わず喜美子さんに報告する。それでいい?」

ここで受け入れないと、いい方には進まない。
私の方が無理を言っているのだから、ここは私が妥協するところ。

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