訳あり精霊と秘密の約束を~世話焼き聖獣も忘れずに~
12 境界
セネカの家には惶牙がやって来ていた。シルヴェストルが言ったとおり、彼も惶牙も海音が手当てを受けるのを側で見ていてくれた。
さすがに箱庭に戻った夜には熱も出たが、二人と一緒だと思うと気持ちは安らいだ。
しばらく箱庭で療養していた間、セネカの家にはアレンからの見舞いの品が毎日のように届いた。蓋を開けて、海音は思わず傍らの惶牙を見る。
「こんなに高そうなものもらっていいのかな」
「いいんだって。お前は恩人なんだろ」
果物や服に靴、シルヴェストルに宛てたものと思われる酒などもあった。海音はセネカに渡せるものは渡して、子ども用のものは大切にしまっておくことにした。
ようやくシルヴェストルから学校へ行く許しが出たのは、二週間が経った頃だった。海音はまだ包帯で腕を固定したまま、鞄を下げて出発した。
「おはよう、ございます」
教室の扉を開くと、子どもたちが一斉に海音を振り向く。
(え?)
あいさつくらいはしていたが、こんな凝視するような視線はなかった。海音がたじろぐと、子どもたちはわっと声を上げて海音を取り囲む。
「公子様を体張って守ったんだって?」
「すげぇな! お前ちっこいけど根性あるんだ!」
男の子も女の子も目をきらきらさせながら海音に詰め寄ってくるので、海音は目を瞬かせた。
(どうしてみんな知ってるんだろ)
海音はぐいぐいと服を引っ張ってくる子どもたちを何とか宥めながら言う。
「矢、当たった。僕、何も、してない」
「公子様を庇ったって言ってたよ」
子どもたちにそれを話した人を海音が問おうとして、後ろから肩を叩かれた。
「葵さん」
「もう来て大丈夫なの?」
心配そうに屈みこんで訊ねた葵に、海音は微笑み返す。
「もう、平気、です。ありがとう、ございます」
「セネカの家に何度か行ったんだけどあなたには会わせられないって言われて。本当に平気? 無理して来てるんじゃない?」
なお心配そうな葵に、海音は繰り返しうなずく。
「それより、葵さん、どうして、ここ」
「ああ。私はたまに算術を教えに来てるの。ここに通ってる子は将来商人になる子が多いから」
チリンと鈴の音が響いた。いつもの先生が教壇に立っていて、皆に席につくように合図を送る。
「おはよう、アキラ」
海音も席について、隣の席のアキラに声をかけた。
なぜかアキラはそっけなくうなずいただけで前を向いてしまった。海音は首を傾げたものの、前に視線を移す。
午前中は葵による算術だった。故郷とは全く単位が違っていて、学ぶのが楽しかった。
「この計算、ですが……」
「これはね、桁を一つあげて」
先生が葵だと、質問もしやすい。葵はどの生徒にも丁寧に教えてくれたが、海音はみんなより年下で、特に時間をかけてくれる。
「葵さん、質問」
「ちょっと待ってね。すぐ行くから」
横で手を挙げたアキラに、葵は笑い返して海音の方を優先した。アキラが露骨に顔をしかめたのは、海音は計算に集中していて気づかなかった。
「お弁当持ってきてあるの。一緒に食べましょ」
昼になると、葵は当然のように海音を昼食に誘った。海音はいつものようにアキラを振り返る。
「アキラ。一緒に」
「俺はいい」
海音は素直にうなずいて離れた。その背を、アキラは睨むような目で見ていた。
青い空の下で、葵と弁当を広げて昼食を楽しむ。
「アレンが心配してたわ。メディラ氏にはなかなか会えないからって」
「あ、えと。ご主人、人付き合い、苦手で」
「そう見えたわね。行商人なのに、あんまり商売っ気もない人ね」
「はい……でも、優しい、人」
熱を出したこの数日間も、側にいて額の布を代えたり果物の皮をむいてくれたりしてくれた。
「でも、とんでもないことになっちゃうかもね」
「え?」
葵が苦笑混じりに言った意味がわからず、海音は首を傾げる。
聞き返した海音に、葵はふふっと笑う。
「アレンはね、ちょっと変な奴だけど人を見る目はあるのよ。有望な子は放っておけないの」
「ゆうぼう……?」
「優秀、才能のある子」
海音はやっと意味を理解して、慌てて首を横に振る。
「偶然、です」
「とっさに庇うなんて普通はできないわ。慣れた傭兵でも体は竦むものよ」
「言葉も、片言で」
「一月程度でそこまで話せるようになった。ヴェルグでも仕事を覚えるのが早かったし、あなたは頭がいいと思うわ」
海音は考えをめぐらせて、ふと顔を上げる。
「もしかして、僕の休み、みんな、話した、葵さん?」
「そうよ。いけなかった?」
さらりと言われると、海音はとっさに次の言葉に詰まる。
「あなた、将来はメディラ氏の手伝いをしようと考えてない?」
「はい……」
自分を守り育ててくれる精霊と聖獣の力になりたい。もちろんそう願っている。
けれど葵はそんな海音に首を横に振った。
「公国は生まれで未来は決まらない。貴族の子だって職務を怠れば資産は減るし、平民だって努力と才によっては大公の傍らにまで行ける。あなたは賢い子なんだから、やりたいことだって自分で考えてごらんなさい」
海音は初めて聞く考え方に驚いていた。
宵月では、親の仕事をそのまま受け継ぐのが当たり前だった。ここに来てからも、将来は親代わりのシルヴェストルの手伝いをするものだと無意識に決めていた。
「あなたはあまりに大人びてるわ。今は夢をみる時なのよ」
「夢……」
「何でもいいの。あなたの夢は何?」
海音は考えたこともない質問に黙る。葵の言っていることは知らない国の話のようで、どこから考えていいのかもわからなかった。
「今はいっぱい遊んで、いっぱい勉強しなさい」
海音の頭を叩いて葵は笑った。その横顔に海音は思わず見惚れてしまった。
「葵さん、さすが、大人」
「まだ一族には子ども扱いなんだけどね」
「かわいい、から」
葵はくすくすと笑って、照れたように海音の髪を撫でた。
「おだてるのが上手ね。将来はうちに婿に来る?」
海音もにっこりと笑って、少し楽しくなった。
商人になって、お姉さんみたいな葵と一緒に働く。それもいいかもしれないと思った。
授業が終わると海音は早速男の子に声をかけられた。
「今から暇? 遊びにいこうよ」
「あ……うん!」
今まで遊びに声をかけてくれたのはアキラだけだった。海音は嬉しくてこくんとうなずく。
「アキラ」
「俺はいい」
振り向いてアキラに声をかけたが、彼はぷいと顔を背けた。
「忙しい、の? 調子、悪い?」
心配そうに海音が覗き込むと、アキラは黙る。海音は誘ってくれた男の子に訊ねる。
「遊び、どこ?」
「北の森にさ、狩りに行くんだ。よく競争するんだぜ」
女の子たちは興味なさそうに教室の隅で話している。野蛮とませた調子で言う声も聞こえた。どうやら男の子だけの遊びらしい。
「アキラ、行こう。北の森、近い」
「……わかったよ」
渋々といった様子でアキラはうなずいた。それに力を得て、海音は男の子たちに振り返った。
「僕、弓、取ってくる。どこ、待ち合わせ?」
海音は一旦箱庭に戻って、関所で子どもたちと合流した。
五人の子どもたちは、皆それぞれ使い込まれたナイフや弓を持っていた。
「あ、葵さん。どうして」
「監督のためよ。大きい獲物に手を出しそうになったら止めるの」
葵はそう言ったが、年長の男の子だと葵と数歳も変わらないから、見張り程度なのだろう。
「公国の子、よく、する遊び?」
「そうね。傭兵になる子もいるから、武器の扱い方をこれで慣らすの」
宵月の子はどうと訊かれて、海音は言葉につまった。
(同年代の子とは遊んだことなかったからな。どうだったんだろう)
「うさぎ、なら」
「どこでも似たような遊びをするのね」
ちょっとあいまいに言うと、葵は興味深そうに頷く。
街道から森に入ると、葵は子どもたちを見回しながら言った。
「人に当たると大変だから、一人ずつよ。小鹿より大きい生き物には手を出さないこと」
海音は凍土のマナトから貰った弓を撫でながら少し楽しみにしていた。ここへ来てから動物はすべて惶牙が獲ってくれたから、これを使う機会は一度もなかった。
「いい弓ね。ご主人からもらったの?」
「ともだち、から」
アルトは、まだ学校では誰とも話したことがなかった頃の海音に贈り物をくれた。最初の友達といえるかもしれない。
「友達なんていたんだ?」
アキラの剣呑な調子に海音は首を傾げて、葵はきっと目を細めた。
「失礼よ、アキラ。そういう言い方は」
「だって本当のことじゃん」
葵を不満げに見上げたアキラの表情に焦りを見て取って、海音は唐突に閃いた。
(そっか。たぶん今まではアキラの方が世話してもらったんだ)
いくら海音が年少で、ヴェルグでのこともあっても、傍から見れば海音は葵にひいきしてもらっているように見えるだろう。
海音はアキラの不機嫌の理由がわかった気がして、そっと葵の側から離れた。
「じゃ、俺から」
茂みの中に身を潜めて、子どもたちは狩りを始めた。
最初はアキラで、子どもたちもわくわくしながらそれを見守る
「……あ」
海音の耳に小さな響きが聞こえた。小柄な草食動物の足音だった。
「アキラ。あっちに何かいる」
海音が指で方向を示すと、アキラは気に食わなさそうに口元を引き締めたが、そちらに移動する。
茂みの中から飛び出してきたのは、まだ小さな鹿だった。
音を立てないように移動しながら、アキラは弓をつがえた。その動作の慣れ方で、海音はアキラが弓を練習してきたことを知った。
始めの一つは外した。すぐさま二本目の矢をつがえる。
「やった!」
ヒュッと風を切って、矢は小鹿の足に突き刺さった。
しかし小鹿は素早く茂みに飛びこんで姿をくらました。子どもたちはアキラを先頭に追いかけたが、獣道に入ってしまった動物をもう一度みつけることはできなかった。
「あーあ」
「駄目じゃん。何ですぐもう一本打ち込まなかったんだよ」
子どもたちは不服そうな顔で口々に言う。
「ちっ」
舌打ちして汗を拭ったアキラに、海音はそっと言う。
「惜しい。でも、よく、当たった。小鹿、当てる、難しい」
真面目な顔で言った海音に、アキラは変な顔をした。
「お前、笑わないんだな」
「え?」
笑うような所はなかったと、海音は思う。アキラは手を抜いたわけではないし、射撃も悪くなかったのだから。
「まあいいや。次オレね」
別の子どもが手を挙げて、今度は短剣を取り出した。
それから順番に子どもたちは狩りをした。多くは短剣と手を使って小動物を取っていて、弓を使ったのは最年長の男の子だけだったが、いずれも獲物を取ることはできなかった。
「今日はなんか森が静かだな」
誰かがぽつりと零した言葉に、海音も同意する。
北の森の奥には箱庭があるため、海音は毎日のようにここを通っている。いつも鳥や動物で賑やかな森だ。しかし確かに今日の森は静まり返っていて、夕暮れに近づくにつれてほとんど動物を見かけなくなっていた。
(どうしたんだろう……?)
「次、お前だよ」
肩を叩かれて、海音ははっとする。
「あ、うん」
海音は弓を持ち直して走り出した。子どもたちがついてこれるように、少し速度を落としながら、注意深く辺りの気配を窺う。
(うさぎくらいにしよう。持って帰って夕食にできるから)
大物を仕留めても持ち帰れないし、第一最年少の海音が仕留めるのは不自然だ。
「無理しないのよ。最初から当たるわけないんだから」
「そうですね」
一番足の速い葵が追いついてきて言う。海音はそれに微笑んで頷く。
ふいに風の匂いが変わった気がした。生き物の気配を強烈に感じる。
(五、十……え、何体いるんだ?)
森の開けた場所にたどり着いた時、海音は思わず立ち竦んだ。
「な……」
そこにあったのはあまりに異常な光景だった。
鼠、うさぎ、鹿、野犬、猫、熊……森のあらゆる生き物が、そこにずらりと並んでいた。
空を見上げれば木の幹には一面に鳥がとまっている。手に乗るような小鳥から鷹のような猛禽類まで、その種類は数え切れない。
(静かな目だ……)
不思議なことに、海音はその光景に恐怖を感じなかった。動物たちは皆一様に海音をじっとみつめているが、襲い掛かってくるような気配は全くない。
「え、うわ!」
「こ、これ……!」
後からやって来た葵や子どもたちは声を上げて後ずさる。彼らは海音とは違って恐れを感じたらしい。なかには涙声で喉を詰らせる子もいたように思う。
海音は動物たちから目が離せなかった。ぐるりと見回すと、どの生き物も海音を真っ直ぐに見ていることに気づく。
――いいよ。
海音の耳に、掠れた女の子のような声が響いた。
――あなたは公国のマナトだね。精霊に選ばれた者。
その声はだんだんと近づいてくる。身動きもできない海音の方へ、一歩ずつ。
見ると、足に矢が刺さった小鹿が中から進み出てくるところだった。耳は力なく伏せられ、けれど綺麗なこげ茶の瞳で海音をみつめてくる。
「もしかして、君の声……」
海音は気がついたら言霊を話していた。自然と喉から零れ落ちた。
――この傷ではもう弱って死ぬしかない。とどめをさして。
小鹿は海音の前で頭を下げる。海音の手はカタカタと震え始めていた。
こんなことは初めてだった。シルヴェストルと惶牙以外の言霊が聞き取れることなど今までなかった。
――マナトに狩られるなら幸せだから。
――私たちの肉を食べて、皮で身を守って。
ざわざわと木々がざわめくように、海音を無数の言霊が包み込む。
「で……できないよ!」
海音は耳を押さえてうずくまった。
マナトであるということをこれほど実感したことはない。……それが恐ろしいと感じたのも初めてだった。
「君、手当てするから!」
海音は小鹿の体に腕を回して矢を抜こうとする。たじろぐ気配と共に、小さな女の子の声が再び聞こえてきた。
――マナト?
「助けるから。元通りに走れるようにする!」
必死に矢を引き抜き、服を裂いて足に巻きつける海音に、後ろから声がかかる。
「海音、何してんだ! アキラの獲物だぞ!」
押しのけるように肩を引かれて、海音は後ろに倒れる。そのまま短剣を振りかざそうとする男の子に気づいて、海音は慌てて起き上がった。
「だ、だめ!」
「何言ってるんだ。おまえの獲物じゃない!」
「違う、この子、まだ、小さい!」
海音は小鹿の前に手を広げて立ちふさがる。
「皆も何してるんだ。こんなにたくさんいるならチャンスだぞ。売ればどれだけの金になると思ってる!」
一番年長の子どもの言葉に、子どもたちの目に光が戻る。注意深く武器を構えて、今にでも飛びかかれる準備を整える。
「どけ、海音!」
「嫌だ!……逃げるんだ、早く!」
大声で叫ぶ。一度聞こえた声は簡単には耳から消えず、海音にはもう彼らを狩ることはできなかった。
子どもたちの目がぎらつく。海音を憎んでいるようにも感じた。葵すら、困ったように眉を寄せている。
学校の子どもたちは皆そう豊かな家の生まれではない。これだけの動物を狩って売りに出す利益を考えれば、海音だけが馬鹿なことをしているのはわかっている。
「わかんない奴だな!」
押しのけられそうになって、海音は身を捻って避けた。その間に子どもの一人がうさぎを狩ろうとナイフを振りかざしているのが見えて、海音は飛びつくようにその腕を掴む。
「離せよ!」
「だめ!」
もみあいになり、海音の腕や頬をナイフが掠めた。海音は一瞬痛みに顔をしかめたが、男の子の手からナイフを叩き落す。
「海音!」
葵が怪我に気づいて駆け寄ろうとする前に、他の子どもたちに取り押さえられた。みんな海音より年長で体格もいい。海音は体重をかけて地面に押し付ける。
「は、なせ……!」
一つの方向に猛進している集団の力は強い。海音は息が詰ったが、それでも拘束を解こうともがく。暴れた拍子に腕や足に打ち身を作っているのにも気づかなかった。
――殺していいよ。
静かな声がまだ耳に木霊する。それに、海音は喉元から何かがこみあげてくる思いがした。
「そんなの、だめ……!」
いつの間にか涙で前が見えなくなっていた。それを拭う手も押さえつけられていて動かない。
(人の世界から外れるっていうのは、こういうことなんだ……)
人の世界の常識とは別の価値を持ってしまう。名誉や金銭欲や家族愛よりも優先してしまうものを見出してしまう。
「おい、やめろよ!」
最初に叫んだのはアキラだった。続いて葵もはっとして子どもたちを引き剥がしにかかる。
狂気に侵されたように海音に襲い掛かる子どもたちを、二人は懸命に止めようとする。
けれど今の海音にはそんなアキラと葵の姿すら目に映ってはいなかった。
「やめて……!」
力の限り叫んだ時、突風が吹いた。
海音を押さえていた子どもたちが吹き飛ばされている。葵でさえ尻餅をつき、アキラも膝をついていた。
次の瞬間、豪雨が降り注いだ。叩きつけるような雨が森を覆い、一斉に動物たちが森の奥に逃げていく。たった一体、小さな小鹿を残して。
来ると海音が感じた瞬間、その衝撃はあった。
海音たちの四方に、唐突に雷が落ちた。雨の中であるのに、それは真っ赤な炎を上げて燃え上がる。
――貴様ら。
轟くような声が響いた。
空気がビリビリと震えていた。怒っている。……人にあらざるものの怒りが大気を取り巻いている。誰もがそれを理解した。
――私のマナトに何をしてくれた。
人の数倍はあろうかという顔が空に浮かびあがっていた。公国の空と同じであった碧の瞳を禍々しい赤でぎらつかせている、精霊の姿だった。
「ひっ……」
息を呑んで後ずさった子どもたちを追い詰めるように、再び近くの木に雷が落ちる。それは轟音を上げて雨の中木霊した。
海音は体が重いことにようやく気づいた。目だけを動かすと、破れた服に、あちこちに擦り傷や切り傷、当て身ができている惨めな自分の体があった。
精霊はマナトに対しては全く別の激しい感情を持っているもの……という、ゼノンの言葉をふと思い出す。
雨はますます激しくなる。立っていることもできないような強さで降り注ぐ。
「シヴ、よせ!」
森の中から惶牙が現れて、空に向かって叫ぶ。
「相手は子どもだ!」
海音は痛む体を起こして、精霊を仰ぎ見る。
「……シヴ様」
息をするのも苦しかったが、海音は喉から絞り出すように言った。
「お怒りをお収めください……お願いします」
それだけ口にするのがやっとだった。
海音は地面に倒れこむ。視界が端から段々と暗くなるのがわかった。
そのまま疲労と痛みに意識を失う。雨の音だけが耳の奥に響いていた。
さすがに箱庭に戻った夜には熱も出たが、二人と一緒だと思うと気持ちは安らいだ。
しばらく箱庭で療養していた間、セネカの家にはアレンからの見舞いの品が毎日のように届いた。蓋を開けて、海音は思わず傍らの惶牙を見る。
「こんなに高そうなものもらっていいのかな」
「いいんだって。お前は恩人なんだろ」
果物や服に靴、シルヴェストルに宛てたものと思われる酒などもあった。海音はセネカに渡せるものは渡して、子ども用のものは大切にしまっておくことにした。
ようやくシルヴェストルから学校へ行く許しが出たのは、二週間が経った頃だった。海音はまだ包帯で腕を固定したまま、鞄を下げて出発した。
「おはよう、ございます」
教室の扉を開くと、子どもたちが一斉に海音を振り向く。
(え?)
あいさつくらいはしていたが、こんな凝視するような視線はなかった。海音がたじろぐと、子どもたちはわっと声を上げて海音を取り囲む。
「公子様を体張って守ったんだって?」
「すげぇな! お前ちっこいけど根性あるんだ!」
男の子も女の子も目をきらきらさせながら海音に詰め寄ってくるので、海音は目を瞬かせた。
(どうしてみんな知ってるんだろ)
海音はぐいぐいと服を引っ張ってくる子どもたちを何とか宥めながら言う。
「矢、当たった。僕、何も、してない」
「公子様を庇ったって言ってたよ」
子どもたちにそれを話した人を海音が問おうとして、後ろから肩を叩かれた。
「葵さん」
「もう来て大丈夫なの?」
心配そうに屈みこんで訊ねた葵に、海音は微笑み返す。
「もう、平気、です。ありがとう、ございます」
「セネカの家に何度か行ったんだけどあなたには会わせられないって言われて。本当に平気? 無理して来てるんじゃない?」
なお心配そうな葵に、海音は繰り返しうなずく。
「それより、葵さん、どうして、ここ」
「ああ。私はたまに算術を教えに来てるの。ここに通ってる子は将来商人になる子が多いから」
チリンと鈴の音が響いた。いつもの先生が教壇に立っていて、皆に席につくように合図を送る。
「おはよう、アキラ」
海音も席について、隣の席のアキラに声をかけた。
なぜかアキラはそっけなくうなずいただけで前を向いてしまった。海音は首を傾げたものの、前に視線を移す。
午前中は葵による算術だった。故郷とは全く単位が違っていて、学ぶのが楽しかった。
「この計算、ですが……」
「これはね、桁を一つあげて」
先生が葵だと、質問もしやすい。葵はどの生徒にも丁寧に教えてくれたが、海音はみんなより年下で、特に時間をかけてくれる。
「葵さん、質問」
「ちょっと待ってね。すぐ行くから」
横で手を挙げたアキラに、葵は笑い返して海音の方を優先した。アキラが露骨に顔をしかめたのは、海音は計算に集中していて気づかなかった。
「お弁当持ってきてあるの。一緒に食べましょ」
昼になると、葵は当然のように海音を昼食に誘った。海音はいつものようにアキラを振り返る。
「アキラ。一緒に」
「俺はいい」
海音は素直にうなずいて離れた。その背を、アキラは睨むような目で見ていた。
青い空の下で、葵と弁当を広げて昼食を楽しむ。
「アレンが心配してたわ。メディラ氏にはなかなか会えないからって」
「あ、えと。ご主人、人付き合い、苦手で」
「そう見えたわね。行商人なのに、あんまり商売っ気もない人ね」
「はい……でも、優しい、人」
熱を出したこの数日間も、側にいて額の布を代えたり果物の皮をむいてくれたりしてくれた。
「でも、とんでもないことになっちゃうかもね」
「え?」
葵が苦笑混じりに言った意味がわからず、海音は首を傾げる。
聞き返した海音に、葵はふふっと笑う。
「アレンはね、ちょっと変な奴だけど人を見る目はあるのよ。有望な子は放っておけないの」
「ゆうぼう……?」
「優秀、才能のある子」
海音はやっと意味を理解して、慌てて首を横に振る。
「偶然、です」
「とっさに庇うなんて普通はできないわ。慣れた傭兵でも体は竦むものよ」
「言葉も、片言で」
「一月程度でそこまで話せるようになった。ヴェルグでも仕事を覚えるのが早かったし、あなたは頭がいいと思うわ」
海音は考えをめぐらせて、ふと顔を上げる。
「もしかして、僕の休み、みんな、話した、葵さん?」
「そうよ。いけなかった?」
さらりと言われると、海音はとっさに次の言葉に詰まる。
「あなた、将来はメディラ氏の手伝いをしようと考えてない?」
「はい……」
自分を守り育ててくれる精霊と聖獣の力になりたい。もちろんそう願っている。
けれど葵はそんな海音に首を横に振った。
「公国は生まれで未来は決まらない。貴族の子だって職務を怠れば資産は減るし、平民だって努力と才によっては大公の傍らにまで行ける。あなたは賢い子なんだから、やりたいことだって自分で考えてごらんなさい」
海音は初めて聞く考え方に驚いていた。
宵月では、親の仕事をそのまま受け継ぐのが当たり前だった。ここに来てからも、将来は親代わりのシルヴェストルの手伝いをするものだと無意識に決めていた。
「あなたはあまりに大人びてるわ。今は夢をみる時なのよ」
「夢……」
「何でもいいの。あなたの夢は何?」
海音は考えたこともない質問に黙る。葵の言っていることは知らない国の話のようで、どこから考えていいのかもわからなかった。
「今はいっぱい遊んで、いっぱい勉強しなさい」
海音の頭を叩いて葵は笑った。その横顔に海音は思わず見惚れてしまった。
「葵さん、さすが、大人」
「まだ一族には子ども扱いなんだけどね」
「かわいい、から」
葵はくすくすと笑って、照れたように海音の髪を撫でた。
「おだてるのが上手ね。将来はうちに婿に来る?」
海音もにっこりと笑って、少し楽しくなった。
商人になって、お姉さんみたいな葵と一緒に働く。それもいいかもしれないと思った。
授業が終わると海音は早速男の子に声をかけられた。
「今から暇? 遊びにいこうよ」
「あ……うん!」
今まで遊びに声をかけてくれたのはアキラだけだった。海音は嬉しくてこくんとうなずく。
「アキラ」
「俺はいい」
振り向いてアキラに声をかけたが、彼はぷいと顔を背けた。
「忙しい、の? 調子、悪い?」
心配そうに海音が覗き込むと、アキラは黙る。海音は誘ってくれた男の子に訊ねる。
「遊び、どこ?」
「北の森にさ、狩りに行くんだ。よく競争するんだぜ」
女の子たちは興味なさそうに教室の隅で話している。野蛮とませた調子で言う声も聞こえた。どうやら男の子だけの遊びらしい。
「アキラ、行こう。北の森、近い」
「……わかったよ」
渋々といった様子でアキラはうなずいた。それに力を得て、海音は男の子たちに振り返った。
「僕、弓、取ってくる。どこ、待ち合わせ?」
海音は一旦箱庭に戻って、関所で子どもたちと合流した。
五人の子どもたちは、皆それぞれ使い込まれたナイフや弓を持っていた。
「あ、葵さん。どうして」
「監督のためよ。大きい獲物に手を出しそうになったら止めるの」
葵はそう言ったが、年長の男の子だと葵と数歳も変わらないから、見張り程度なのだろう。
「公国の子、よく、する遊び?」
「そうね。傭兵になる子もいるから、武器の扱い方をこれで慣らすの」
宵月の子はどうと訊かれて、海音は言葉につまった。
(同年代の子とは遊んだことなかったからな。どうだったんだろう)
「うさぎ、なら」
「どこでも似たような遊びをするのね」
ちょっとあいまいに言うと、葵は興味深そうに頷く。
街道から森に入ると、葵は子どもたちを見回しながら言った。
「人に当たると大変だから、一人ずつよ。小鹿より大きい生き物には手を出さないこと」
海音は凍土のマナトから貰った弓を撫でながら少し楽しみにしていた。ここへ来てから動物はすべて惶牙が獲ってくれたから、これを使う機会は一度もなかった。
「いい弓ね。ご主人からもらったの?」
「ともだち、から」
アルトは、まだ学校では誰とも話したことがなかった頃の海音に贈り物をくれた。最初の友達といえるかもしれない。
「友達なんていたんだ?」
アキラの剣呑な調子に海音は首を傾げて、葵はきっと目を細めた。
「失礼よ、アキラ。そういう言い方は」
「だって本当のことじゃん」
葵を不満げに見上げたアキラの表情に焦りを見て取って、海音は唐突に閃いた。
(そっか。たぶん今まではアキラの方が世話してもらったんだ)
いくら海音が年少で、ヴェルグでのこともあっても、傍から見れば海音は葵にひいきしてもらっているように見えるだろう。
海音はアキラの不機嫌の理由がわかった気がして、そっと葵の側から離れた。
「じゃ、俺から」
茂みの中に身を潜めて、子どもたちは狩りを始めた。
最初はアキラで、子どもたちもわくわくしながらそれを見守る
「……あ」
海音の耳に小さな響きが聞こえた。小柄な草食動物の足音だった。
「アキラ。あっちに何かいる」
海音が指で方向を示すと、アキラは気に食わなさそうに口元を引き締めたが、そちらに移動する。
茂みの中から飛び出してきたのは、まだ小さな鹿だった。
音を立てないように移動しながら、アキラは弓をつがえた。その動作の慣れ方で、海音はアキラが弓を練習してきたことを知った。
始めの一つは外した。すぐさま二本目の矢をつがえる。
「やった!」
ヒュッと風を切って、矢は小鹿の足に突き刺さった。
しかし小鹿は素早く茂みに飛びこんで姿をくらました。子どもたちはアキラを先頭に追いかけたが、獣道に入ってしまった動物をもう一度みつけることはできなかった。
「あーあ」
「駄目じゃん。何ですぐもう一本打ち込まなかったんだよ」
子どもたちは不服そうな顔で口々に言う。
「ちっ」
舌打ちして汗を拭ったアキラに、海音はそっと言う。
「惜しい。でも、よく、当たった。小鹿、当てる、難しい」
真面目な顔で言った海音に、アキラは変な顔をした。
「お前、笑わないんだな」
「え?」
笑うような所はなかったと、海音は思う。アキラは手を抜いたわけではないし、射撃も悪くなかったのだから。
「まあいいや。次オレね」
別の子どもが手を挙げて、今度は短剣を取り出した。
それから順番に子どもたちは狩りをした。多くは短剣と手を使って小動物を取っていて、弓を使ったのは最年長の男の子だけだったが、いずれも獲物を取ることはできなかった。
「今日はなんか森が静かだな」
誰かがぽつりと零した言葉に、海音も同意する。
北の森の奥には箱庭があるため、海音は毎日のようにここを通っている。いつも鳥や動物で賑やかな森だ。しかし確かに今日の森は静まり返っていて、夕暮れに近づくにつれてほとんど動物を見かけなくなっていた。
(どうしたんだろう……?)
「次、お前だよ」
肩を叩かれて、海音ははっとする。
「あ、うん」
海音は弓を持ち直して走り出した。子どもたちがついてこれるように、少し速度を落としながら、注意深く辺りの気配を窺う。
(うさぎくらいにしよう。持って帰って夕食にできるから)
大物を仕留めても持ち帰れないし、第一最年少の海音が仕留めるのは不自然だ。
「無理しないのよ。最初から当たるわけないんだから」
「そうですね」
一番足の速い葵が追いついてきて言う。海音はそれに微笑んで頷く。
ふいに風の匂いが変わった気がした。生き物の気配を強烈に感じる。
(五、十……え、何体いるんだ?)
森の開けた場所にたどり着いた時、海音は思わず立ち竦んだ。
「な……」
そこにあったのはあまりに異常な光景だった。
鼠、うさぎ、鹿、野犬、猫、熊……森のあらゆる生き物が、そこにずらりと並んでいた。
空を見上げれば木の幹には一面に鳥がとまっている。手に乗るような小鳥から鷹のような猛禽類まで、その種類は数え切れない。
(静かな目だ……)
不思議なことに、海音はその光景に恐怖を感じなかった。動物たちは皆一様に海音をじっとみつめているが、襲い掛かってくるような気配は全くない。
「え、うわ!」
「こ、これ……!」
後からやって来た葵や子どもたちは声を上げて後ずさる。彼らは海音とは違って恐れを感じたらしい。なかには涙声で喉を詰らせる子もいたように思う。
海音は動物たちから目が離せなかった。ぐるりと見回すと、どの生き物も海音を真っ直ぐに見ていることに気づく。
――いいよ。
海音の耳に、掠れた女の子のような声が響いた。
――あなたは公国のマナトだね。精霊に選ばれた者。
その声はだんだんと近づいてくる。身動きもできない海音の方へ、一歩ずつ。
見ると、足に矢が刺さった小鹿が中から進み出てくるところだった。耳は力なく伏せられ、けれど綺麗なこげ茶の瞳で海音をみつめてくる。
「もしかして、君の声……」
海音は気がついたら言霊を話していた。自然と喉から零れ落ちた。
――この傷ではもう弱って死ぬしかない。とどめをさして。
小鹿は海音の前で頭を下げる。海音の手はカタカタと震え始めていた。
こんなことは初めてだった。シルヴェストルと惶牙以外の言霊が聞き取れることなど今までなかった。
――マナトに狩られるなら幸せだから。
――私たちの肉を食べて、皮で身を守って。
ざわざわと木々がざわめくように、海音を無数の言霊が包み込む。
「で……できないよ!」
海音は耳を押さえてうずくまった。
マナトであるということをこれほど実感したことはない。……それが恐ろしいと感じたのも初めてだった。
「君、手当てするから!」
海音は小鹿の体に腕を回して矢を抜こうとする。たじろぐ気配と共に、小さな女の子の声が再び聞こえてきた。
――マナト?
「助けるから。元通りに走れるようにする!」
必死に矢を引き抜き、服を裂いて足に巻きつける海音に、後ろから声がかかる。
「海音、何してんだ! アキラの獲物だぞ!」
押しのけるように肩を引かれて、海音は後ろに倒れる。そのまま短剣を振りかざそうとする男の子に気づいて、海音は慌てて起き上がった。
「だ、だめ!」
「何言ってるんだ。おまえの獲物じゃない!」
「違う、この子、まだ、小さい!」
海音は小鹿の前に手を広げて立ちふさがる。
「皆も何してるんだ。こんなにたくさんいるならチャンスだぞ。売ればどれだけの金になると思ってる!」
一番年長の子どもの言葉に、子どもたちの目に光が戻る。注意深く武器を構えて、今にでも飛びかかれる準備を整える。
「どけ、海音!」
「嫌だ!……逃げるんだ、早く!」
大声で叫ぶ。一度聞こえた声は簡単には耳から消えず、海音にはもう彼らを狩ることはできなかった。
子どもたちの目がぎらつく。海音を憎んでいるようにも感じた。葵すら、困ったように眉を寄せている。
学校の子どもたちは皆そう豊かな家の生まれではない。これだけの動物を狩って売りに出す利益を考えれば、海音だけが馬鹿なことをしているのはわかっている。
「わかんない奴だな!」
押しのけられそうになって、海音は身を捻って避けた。その間に子どもの一人がうさぎを狩ろうとナイフを振りかざしているのが見えて、海音は飛びつくようにその腕を掴む。
「離せよ!」
「だめ!」
もみあいになり、海音の腕や頬をナイフが掠めた。海音は一瞬痛みに顔をしかめたが、男の子の手からナイフを叩き落す。
「海音!」
葵が怪我に気づいて駆け寄ろうとする前に、他の子どもたちに取り押さえられた。みんな海音より年長で体格もいい。海音は体重をかけて地面に押し付ける。
「は、なせ……!」
一つの方向に猛進している集団の力は強い。海音は息が詰ったが、それでも拘束を解こうともがく。暴れた拍子に腕や足に打ち身を作っているのにも気づかなかった。
――殺していいよ。
静かな声がまだ耳に木霊する。それに、海音は喉元から何かがこみあげてくる思いがした。
「そんなの、だめ……!」
いつの間にか涙で前が見えなくなっていた。それを拭う手も押さえつけられていて動かない。
(人の世界から外れるっていうのは、こういうことなんだ……)
人の世界の常識とは別の価値を持ってしまう。名誉や金銭欲や家族愛よりも優先してしまうものを見出してしまう。
「おい、やめろよ!」
最初に叫んだのはアキラだった。続いて葵もはっとして子どもたちを引き剥がしにかかる。
狂気に侵されたように海音に襲い掛かる子どもたちを、二人は懸命に止めようとする。
けれど今の海音にはそんなアキラと葵の姿すら目に映ってはいなかった。
「やめて……!」
力の限り叫んだ時、突風が吹いた。
海音を押さえていた子どもたちが吹き飛ばされている。葵でさえ尻餅をつき、アキラも膝をついていた。
次の瞬間、豪雨が降り注いだ。叩きつけるような雨が森を覆い、一斉に動物たちが森の奥に逃げていく。たった一体、小さな小鹿を残して。
来ると海音が感じた瞬間、その衝撃はあった。
海音たちの四方に、唐突に雷が落ちた。雨の中であるのに、それは真っ赤な炎を上げて燃え上がる。
――貴様ら。
轟くような声が響いた。
空気がビリビリと震えていた。怒っている。……人にあらざるものの怒りが大気を取り巻いている。誰もがそれを理解した。
――私のマナトに何をしてくれた。
人の数倍はあろうかという顔が空に浮かびあがっていた。公国の空と同じであった碧の瞳を禍々しい赤でぎらつかせている、精霊の姿だった。
「ひっ……」
息を呑んで後ずさった子どもたちを追い詰めるように、再び近くの木に雷が落ちる。それは轟音を上げて雨の中木霊した。
海音は体が重いことにようやく気づいた。目だけを動かすと、破れた服に、あちこちに擦り傷や切り傷、当て身ができている惨めな自分の体があった。
精霊はマナトに対しては全く別の激しい感情を持っているもの……という、ゼノンの言葉をふと思い出す。
雨はますます激しくなる。立っていることもできないような強さで降り注ぐ。
「シヴ、よせ!」
森の中から惶牙が現れて、空に向かって叫ぶ。
「相手は子どもだ!」
海音は痛む体を起こして、精霊を仰ぎ見る。
「……シヴ様」
息をするのも苦しかったが、海音は喉から絞り出すように言った。
「お怒りをお収めください……お願いします」
それだけ口にするのがやっとだった。
海音は地面に倒れこむ。視界が端から段々と暗くなるのがわかった。
そのまま疲労と痛みに意識を失う。雨の音だけが耳の奥に響いていた。