就活か魔王か!? 殺虫剤無双で愛と世界の謎を解け!~異世界でドジっ子と一緒に無双してたら世界の深淵へ~
1章 鏡の中の異世界
1-1. ドジっ子の危機
サークルの先輩に言われた方法で鏡の中に入ったら、そこはダンジョンだった――――。
「いやぁぁぁ! やめてぇぇぇ!」
女の子の悲痛な叫びが洞窟の中にこだましている。
俺は洞窟の通路を急ぎ、広間をそーっとのぞいた。
すると、女の子が緑色の異形な生き物たちに組みしかれて、服を破られているではないか。背が低く耳と鼻の尖った造形……もしかしたらゴブリンと呼ばれる魔物かもしれない。俺は初めて見るファンタジーな存在に目を疑った。
「グギャケケケ!」「グルグルグル!」「グギャ――――!」
ゴブリンたちは彼女の服をはぎ取ると口々に歓声を上げる。女の子は十六歳くらいだろうか? 金髪に美しい碧眼、整った目鼻立ちに透き通るような白い肌……、ドキッとするくらいの可愛さだった。
「やぁぁぁ! ダメぇぇぇ!」
優美な曲線を描く白い肌が露わになり、女の子が泣き叫ぶ。
ゴブリンたちは人間の女の子を犯して孕み袋にすると言う話を聞いたことがある。何とかしたい……、が、俺は就活に行こうと思っていた学生だ。リクルートスーツ姿で武器なんか何も持ってない。ゴブリンは小柄で力はそれほど強くはなさそうだが、五匹も居る。戦闘経験などない素手の学生が何とか出来る感じではない。どうしよう……。
俺が逡巡していると、一匹のゴブリンがいよいよ女の子の両足を持ち上げた。
「やめてぇぇぇ!」
女の子が暴れてゴブリンを蹴り飛ばす。もんどり打って転がるゴブリン。
「ガルグギャァ!」「ギャギャッ!」
しかし、周りのゴブリンにボコボコと殴られてしまう。
女の子が酷い目に遭うのを黙って見ている訳にもいかない。
このやろぉぉぉ!!
俺は後先考えずダッシュしていた。
ゴブリンたちは白い肌の女の子に注意がいっていて、俺に気づくのが遅れる。
俺はゴブリンが落としていた短剣を拾うと、ゴブリンの脳天に突き立てた。
ズブリという生々しい手ごたえが伝わってくる。
「グギャッ!」
緑色の血をまき散らしながら倒れるゴブリン。
俺はさらに隣のゴブリンの首めがけて短剣を振り抜く。
が、ゴブリンは腕で避け、致命傷には至らなかった。
「ギャッ!」
血を流し、怒りをあらわにするゴブリン。
「グギャッ!」「グググガ――――!」「グギャ――――!」
ゴブリンたちは武器を手に立ち上がってきた。マズい。
俺はダッシュで逃げだした。
来た道を必死に走る。
「ギャッギャッ!」「ギャゥッ!」
二匹ほどが追いかけてくる。
思ったより足が速い。
ヘッドライトで照らす洞窟の通路を命がけの必死の逃走――――。
しかし、ここのところの運動不足で足がもたつき、俺は無様にも転倒してしまう。
「うわぁぁぁ!」
カン、カン、カラン……。
すっ飛んで行ってしまう短剣。
ヤバい!
はぁはぁ言いながら振り向くと、ゴブリンが迫っていた。
「ギャギャッ!」
獲物を追い詰め勝利を確信したゴブリンは、いやらしい笑みを浮かべながら短剣を振りかざした。絶体絶命である。
何かないかと探したが、武器になりそうな物など何もない。ジャケットの内ポケットに入れておいた小さな殺虫剤の缶しかなかった。
こうなったら目くらましだと、半ばヤケクソになって俺はゴブリンに殺虫剤を噴射する。
プシュ――――!
すると、短剣を振り下ろそうとしたゴブリンは、
「グギャァッ!」
と断末魔の悲鳴を上げ、ドス黒く変色し……、次の瞬間溶け落ちて行った。
「え……?」
驚く俺と後ろのゴブリン。
コンコン……。
溶けたゴブリンの跡にはエメラルド色に輝く小さな石が転がった。
俺は何が起こったのか良く分からなかったが、固まっているゴブリンにも殺虫剤を吹き付ける。
プシュ――――!
「ギャギャッ!」
すると、二匹目も変色し、溶け落ちて行くではないか。
なんと、ゴブリンには殺虫剤が効くのだ! 先輩に言われて持っていた殺虫剤。まさかこんな効果があるとは!
「やめてぇぇ!」
遠くで女の子の声がする。まだゴブリンは二匹残っていたのだ、女の子が危ない!
俺は全力でダッシュした。
広間に来ると、女の子は身をよじって必死にあがいている。
「お前らふざけんなよ!」
俺は叫びながらゴブリンに迫り、殺虫剤を思いっきり吹き付けてやった。
身構えたゴブリンだったが、殺虫剤を浴びるとやはりドス黒く変色し、溶け落ちて行く。
コン、コン……。
エメラルド色の光る石が二つ転がった。
ひっ!
女の子はおびえた目で俺を見て、両手で胸を隠す。
「だ、大丈夫だよ。何もしないから」
俺はそう言って、投げ捨てられた彼女の服を拾い、そっと彼女にかけてあげた。
「うわぁぁぁん!」
女の子は服で顔を隠し、丸くなって号泣した。
「恐かったね、もう大丈夫だよ……」
俺は優しく声をかける。
彼女はすすり泣きながら服をずらして俺のことをジッと見つめる。
「ケガは大丈夫? みせてごらん」
俺は微笑んで言った。
すると彼女はいきなり立ち上がり……、
「うぇぇぇん!」
と、号泣しながら抱き着いてきた。
「えっ!?」
可愛い全裸の女の子に抱き着かれ、俺は激しく動転する。ふんわりと甘酸っぱい女の子の匂いに包まれ、俺は頭が真っ白になった。
女の子との接触なんて全くない人生で、いきなり生まれたままの姿で抱き着かれている。一体どうしたらいいのだろうか?
「うっうっうっ……」
洞窟の広間に響く彼女の嗚咽。
俺はなだめようとそっと抱きしめる。しっとりと柔らかい背中の生々しい手触りは刺激が強すぎるが、それでも大きく息をつき、目をつぶって彼女の心の傷がいやされるように祈った。
1-2. その者、青き筒を掲げ
しばらくして彼女も落ち着いてきたので、服を着てもらう。
破かれてしまった服だが、彼女は上手にリボンを結び、うまく身体を包んだ。
彼女はモジモジし、そして、意を決するようにして俺を見あげると、言った。
「あ、ありがとうです……。私はエステル……、あなたは?」
丁寧に編み込まれた金髪に、透き通る青が美しい瞳、そして柔らかく白い肌……ただ、ゴブリンに殴られたところが赤く腫れてしまって痛々しい。
「俺は水瀬颯汰……。あー、ソータって呼んで」
可愛い子に見つめられることなんて全く慣れてない俺は、赤くなりながら答えた。
「ソータ……、いい名前です……」
そう言ってエステルはちょっと恥ずかし気に下を向いた。
「ケガ……痛くない?」
俺が心配して言うと、
「あ、今治すです!」
そう言って、エステルは転がっていた木製の杖を拾った。
「治す?」
俺が怪訝に思っていると、エステルは手のひらを殴られたところに当て、目をつぶって、
「ヒール!」
と、唱えた。
エステルの身体が幻想的にぼうっと淡い水色に光り……、手のひらからは美しい金色の光が噴き出す。
なんと! 魔法である! 俺はあっけにとられた。
しばらくすると、腫れは引き、透き通るような美しい肌が戻ってきた。
俺は生まれて初めて見た魔法に圧倒される。現代科学では不可能な治癒の魔法。それを女の子が当たり前のようにやってしまったのだ。
一体この世界はどうなっているのだろうか?
「す、すごいねそれ……」
俺が感嘆していると、
「こ、これは一番初歩の治癒魔法です、恥ずかしいです……」
そう言って赤くなり、うつむいた。
現代科学で不可能な事も初歩だそうだ。異世界恐るべし。
広間を見渡すと、奥には祭壇らしき物があるが、長く使われていないようで、あちこち崩れ、廃墟のようになっている。
「エステルはこんなところで何やってたの?」
女の子一人で居るようなところじゃない。不思議に思ってきいてみた。
「最近魔物の大群が街を襲うようになってしまって、今、元気な若者はダンジョンで修行させられるんです。それで私もパーティを組んでダンジョンに来たんですが……、間違えて落とし穴に一人だけ落ちてしまったんです……私ドジなんですぅ」
なるほど、ここは魔物が出るダンジョンなのか。ファンタジーなゲームそのままの世界に驚かされる。
「他のみんなは?」
「多分、上層にいると思うんですが、連絡の取りようもないのでもう帰っちゃったかと……」
「そうか……、じゃあ安全なところまで付き添わないといけないなぁ……」
自分の事で手いっぱいなのに、さらに面倒ごとをしょい込んでしまった。思わずため息をつく。
「ごめんなさい、助かるです」
エステルは申し訳そうな顔で俺に手を合わせる。
その時だった、通路の奥からいきなりドタドタドタっと多くの足音が聞こえてきた。
「あぁっ! この足音は!」
エステルはひどくおびえ、顔が真っ青になる。
俺が振り向くと、何かがドヤドヤと広間に入ってきているのが見えた。エステルをかばいながら目を凝らすと、それは犬の頭をした背の低い魔物だった。確か漫画やゲームではコボルトと言われていた魔物ではないだろうか?
手には短剣を持ち、にやけ顔で口を開けて牙を見せ、長い舌をだらりとたらしながらこちらを見ている。どうやらこちらを獲って喰うつもりのようだ。俺はゴブリンの落とした剣を急いで拾ったが、多勢に無勢、まともに戦ってはこちらに勝機はない。殺虫剤がコボルトにも効いてくれることに期待するしかないが、どうか。
タラリと冷や汗が垂れてくるのを感じる。
「ソータさぁん……、ど、どうしましょう……」
俺にしがみつき震えるエステル。
「な、何か魔法無いの?」
「私は侍僧なので白魔法しか使えないです。それにもう魔力ないですぅ……」
泣きそうになるエステル。
「グルルルル!」「グワゥゥゥゥ!」
のどを鳴らしながら近づいてくるコボルトたち。絶体絶命である。
「効いてくれよ!」
俺は祈りながら殺虫剤を噴射した。
プシュ――――!
コボルトたちは変な霧を吹きつけられ、怪訝そうな表情を見せる。そして、次の瞬間、グオォォ! と断末魔の叫びを残し、見る見るうちにドス黒い色に変色するとドロリと溶け落ち、次々と消えていった。
「ええっ!?」
目を丸くするエステル。
「おぉ、効いたみたいだ」
俺はホッとして胸をなでおろす。
コボルトたちが消えた跡には、茶色い光る石がコロコロと転がるだけだった。
エステルはキラキラとした瞳で俺を見つめ、手を合わせ、つぶやきながらにじり寄ってきた。
「その者、青き筒を掲げ、我が地に降り立ち、邪なるものを塵芥へと滅ぼす……」
「ど、どうしたんだエステル?」
気圧され、後ずさりする俺。
「ソータ様! あなたが伝説の稀人なのです!」
俺の腕をガシッとつかむ。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。なんだそれは?」
「神託です! 神託! 教会でシスターに聞いたです。女神様が私たちに予言をくだされたのです。この魔物はびこる、人類滅亡の危機に唯一託された希望! 稀人! それがソータ様なのです!」
「いやいやいや……。俺はただの学生! そしてこれはただの殺虫剤! 人類を救うとか何言ってんの!?」
「青き筒ですよね?」
確かにこの殺虫剤のスプレー缶には青い印刷が施されているが、『殺虫剤』とちゃんと書いてある。
「いやいや、ここ読んで! ただの殺虫剤だよ、ほら」
俺は殺虫剤のスプレー缶を見せた。
「殺虫剤……?」
「虫を殺す薬だよ!」
エステルは首をひねっている。
「もしかして……、そういうの無いの?」
「虫はパンっと叩いて殺すものですよ?」
エステルはまっすぐに俺を見て言う。
俺は考え込んでしまった。
おかしな洞窟に、次々出てくる魔物に、襲われる侍僧に、異常に効く殺虫剤。一体ここは何なんだ?
「殺虫剤でもなんでも、ソータ様は『青き筒』で魔物の群れを一瞬で倒されました! 神託の稀人に間違いないです。ぜひ、世界をお救いください!」
エステルはそう言って俺にひざまずいた。
「世界を……救う?」
俺は思わず天を仰ぎ、何だか面倒な事に巻き込まれてしまったことにクラクラした。
俺は就活地獄の大学四年生。ついさっきまで俺は自宅で面接に行く準備をしていたのに、一体なぜこんなことになってしまったのか。
トホホ。
1-3. 時空を超える鏡
時をさかのぼる事数十分、俺は東京のワンルームの自宅にいた――――。
今日も面接。リクルートスーツを着込み、最後に鏡でチェックをする。でも、鏡を見ながら俺は、
「行きたくねーなぁ……」
と、つぶやいていた。どうせまた人格否定されて落とされるのだ。もう何十通もお祈りメールをもらってきた俺には全て分かるのだ。俺は大きくため息をつき、鏡の向こうの疲れ切った顔をしばらくボーっと見ていた。
その時ふと、昨晩飲み会でサークルの美人の先輩に言われたことを思い出した。
『就活が嫌になったら、殺虫剤持って、鏡に【φ】って書いてトントンと二回叩くといいわ。就活しなくてよくなるから』
先輩はニヤッと笑いながら、俺を見ていた。なんともおかしな話である。
その時は、相当酔っぱらっていて、
『なんすかそれ! そんなんで就活しなくてよくなるなら、みんなやってますよ! なんすか殺虫剤って!?』
と、食ってかかったのを覚えている。先輩は在学中にベンチャーを起業したらしいから、就活の苦しさが分かってないのだろう。
おまじないでも何でもやってみるか……。
「えーっと、殺虫剤持って、【φ】書いてトントンね」
就活地獄で心身ともにボロボロな俺は、藁にもすがりたい気分でやってみた。
直後、鏡はピカッと閃光を放ち、俺は目がくらんだ。
「ぐわぁ!」
何だこのおまじないは!? 俺は混乱した。一体何が起こったんだ……!?
目が徐々に戻ってきて、俺はそーっと目を開ける。鏡は……、鏡だ。別に変ったところはない。何かが出てくるわけでもなく、ただ、細長い姿見の鏡がリビングのドアの隣にあるだけだ。
俺は不審に思い、そっと鏡面に触れてみる。
すると、鏡面はまるで水面のようにスッと指を受け入れ、波紋が広がった。
「はぁ!?」
鏡が液体みたいになっている!
一体こんなことあっていいんだろうか? 物理的にあり得るのか? 俺は想像を絶する事態にうろたえた。
もしかして心労がたたって幻想を見てるだけかも……。しかし、何度触っても鏡は液体のままだった。
俺は好奇心が湧いてきて腕をズーっと鏡の中に入れてみる。どこまでも入ってしまう。鏡の裏側を見てみたが、腕はどこにもない。腕はどこに消えたのか?
空間が跳んでいる、つまり、別空間へのトンネルが開いたと考える他なかった。
『就活しなくてよくなるから』っていうのは、内定が出るって意味じゃなくて、どこか別世界へ行けるっていう意味らしい。あの先輩何を考えているのか……。
俺は意を決してそっと頭から鏡に潜ってみた……。暗い。真っ暗だ。
棚からアウトドアで使っていたヘッドライトを取り出して点け、再度潜ってみる。
しかし、ライトをつけても暗い……。どうも洞窟みたいな岩肌が見える。濡れて黒光りするカビ臭い洞窟。
ちょっと、これ、どうしたらいいのだろうか? とても嫌な予感がする。
「『君子危うきに近寄らず』だ。大人しく面接に行こう」
そうつぶやいて、顔を引っ込めようとした時だった。
「きゃぁぁぁ!」
かすかに女の子の悲鳴が聞こえた。
どうしよう……。
空耳……、空耳だということにしたい……が、女の子の悲痛な叫びを無視できるほど俺は冷酷にはなれなかった。
俺は急いで靴を履き、殺虫剤をポケットに入れると鏡の中に潜ったのだった。
1-4. 就活か魔王か
「ソータ様! それでは世界を救いに行くです!」
エステルは興奮して両手で俺の手を熱く握る。
「いやいや、世界を救うって誰から救うんだい?」
「魔王ですよ! 魔王! 悪の魔王がどんどん魔物を生み出して街に攻めてくるんです! ソータ様のお力で魔王を倒すです!」
「え――――! 俺は就活があるんだよ。内定取れなきゃ人生終わりだ。そんな事協力できないよ」
「シューカツ? 何ですかそれ?」
「説明会行って、エントリーシート出して、お祈りメールもらって……って、分からないよね、ゴメンね」
「お祈りなら教会が協力してくれるです!」
うれしそうなエステル。
「いや、そのお祈りじゃないんだよ……」
俺は天をあおぐ。
「でも、ソータ様が魔王倒してくれないと世界滅んじゃうんですぅ……」
泣きそうな顔で俺をジッと見るエステル。
稀人だか何だか知らないが、人類を救うとか以前に就活何とかしたいんですが俺は。
転んで汚れ、破けたリクルートスーツを見ながら俺は大きくため息をついた。もう一着買わないと……。
そもそももう面接には間に合わないじゃないか……。
俺は腕時計を見てガックリとした。
「で、エステルはこれからどうするの?」
「もちろん、ソータ様に付いて行くです! 私はソータ様の付き人です。何なりとお申し付けください!」
キラキラとした瞳で俺を見つめるエステルに、俺はちょっと気が遠くなる。
「まぁ、このままここに居ても仕方ない。一旦俺んちに戻るよ」
「はいっ!」
うれしそうなエステル。
俺は洞窟を歩き、鏡から出てきた場所へと移動した。
そこには姿見があり、出てきた時のまま洞窟に立てかけてあった。
鏡面はと言うと……、触ると波紋が広がり、まだ通り抜けられそうだ。
俺はエステルの手を引きながら鏡を通り抜け、ワンルームへと戻った。
「靴は玄関へやってね」
そう言いながら靴を脱いだ。
「ここが……、ソータ様のおうち……です?」
エステルが不思議そうにベッドが置かれた狭いワンルームをきょろきょろと見回す。
「狭くてゴメンね。これでも月に八万円もするんだ……って、お金の話しても分からないよね」
エステルは首をかしげる。
「ベッドしかないですよ? お部屋はどこにあるんです?」
俺をジッと見つめるエステル。
俺は何と答えていいか分からなくなり、
「ここは寝るための家なんだよ」
と、目をつぶって答えた。
「あー、ちょっとおいで」
俺はベランダにエステルを連れて行って東京の景色を見せる。
「えぇ――――っ!? なんですかこれ!?」
目の前に広がるビルの森、通りを走るたくさんの車たち、そして遠くに見える真っ赤な東京タワー……。エステルには、全てが初めて目にする訳分からない存在だった。
「ここが俺の住む街だよ。エステルの世界とは全然違うだろ?」
エステルは真ん丸に目を見開きながらつぶやいた。
「さすが……、ソータ様……」
何だか誤解をしているような気がする。
と、その時、
グルグルグルギュ――――。
景気のいい音が鳴り、エステルが真っ赤になってしゃがみこんだ。
「あ、お腹すいたの? カップ麺しかないけど食べる?」
「恥ずかしいです。こんなはしたない……」
エステルは恥ずかしそうにうつむいた。
「ははは、それだけダンジョンで苦労したんだろ、一緒に食べよう」
そう言って部屋に戻り、俺はエステルをベッドに座らせた。
「シーフードとカレーと普通のどれがいい?」
「わ、私は何でも……」
「じゃぁ、普通のにするか。俺はカレーで……」
俺はキッチンでお湯を沸かす。
◇
カップ麺を持って部屋に戻ってくると、エステルが真っ赤になってカチカチになっていた。
何だろうと思って手元を見ると……エロ同人誌を持っていた。
「あっ……」
棚にそのまま置いておいたのは失敗だった……。
「ソ、ソータ様は……こ、このようなご奉仕が……良いですか?」
真っ赤になってうつむきながら、一生懸命絞り出すように聞くエステル。
「あ、いや、それは……」
何と説明したらいいか俺も真っ赤になってしまう。
すると、エステルは目をグルグルさせながら必死になって言う。
「わ、私……胸もこんなにはなく、経験もないですが、ゴブリンに穢されるところを助けてもらった身。ご、ご要望とあれば、それは……」
そう言って、エロ同人誌を握り締めた。
「な、何を言ってるんだ。そういうのは好きな人とやるものだよ。自分の身体をもっと大切にしなさい。いいから食べるよ」
俺はそう言って同人誌を取り上げると、小さなテーブルにカップ麺を並べた。
「そ、そうですよね……。ソータ様に好いてもらえるように頑張るです!」
そう言ってエステルはこぶしを握り締めた。
俺は彼女が何を言ってるのか良く分からなかったが、救世主だとの誤解は早めに解かねばなと思った。
1-5. 異世界に就職!?
カップ麺のふたを開けると美味そうな匂いが立ち上ってくる。
「うわぁ! いい匂いですぅ!」
目を輝かせるエステル。
割り箸を渡したものの、エステルはお箸を見て怪訝そうな表情をする。お箸の文化が無いようなので、フォークを取ってきて渡した。
エステルは麺を一本引っ張り出し、フーフーと冷まして口に入れる。
「うーん、美味しいですぅ!」
エステルは幸せそうに目を閉じた。口に合ったようで何より。
俺が麺をズルズルとすすっていると、エステルが不思議そうに、
「ソータ様はなぜこんなに熱い物を一気に食べられるですか?」
と言って、首をかしげた。
「え? すすりながら食べると熱くても大丈夫……、みたいだね?」
そう言って、ズズーっとすすって食べた。
エステルも真似してすすろうとして……、
ゲホッゲホッと咳込んだ。どうも麺をすする事が出来ないらしい。
本当に異世界の人なのだ。
「無理しなくていいよ、少しずつ食べて」
「はい……」
そう言って、また一本ずつ食べ始めた。
「ソータ様はお料理上手なんですねっ!」
エステルはカップ麺がいたく気に入った様子でニコニコしながら言う。
「あー、これはお湯を入れただけなんだよ」
「ふぅん、それでも嬉しいですぅ」
エステルはニッコリと笑った。
俺はキラキラとした美しいエステルの笑顔についドキッとしてしまう。可愛い女の子にこんなに好意的に接してもらったことなんて、生まれて初めてかもしれない。
とは言え、俺がやったことなんて殺虫剤撒いてカップ麺にお湯入れた位だ。思いあがらないようにしなくてはならないな、と思った。
カップ麺を食べながらこれからどうしようか考える。とりあえず、ダンジョンを脱出して家に送り届けるまでは、ついて行ってやらないとマズいだろう。しかし、魔物が次々と出てくるダンジョン、全てに殺虫剤が効く保証もない。となると、それなりの装備が必要だ。殺虫剤もたくさん調達しないといけなそうだし、服装も冒険に合った物にしないといけない……。ただでさえ金欠なのに、と気が重くなる。
と、ここで、あの魔物が落とした光る石を思い出した。俺はポケットから石を出して聞いた。
「これ? 何かに使えるの?」
「魔石はギルドで買い取ってもらえるですよ! これだけあれば銀貨三枚くらいですね」
銀貨の価値が良く分からないが、魔物を倒すと金になる……、これはもしかしてチャンスなのでは?
「え? じゃ、もしかして、強い魔物を倒したらもっとお金になるの?」
「そうです。金貨何十枚にもなる魔物もいるです!」
エステルは嬉しそうに言う。
「金貨!?」
俺は驚いた。もし、そんな魔物も殺虫剤で瞬殺なら、金儲けになるのではないだろうか? 金貨一枚を日本で五万円で買い取ってもらえるとしたら魔物一体で……、百万円!? え!?
俺は皮算用をして仰天した。救世主的な事は全く興味なかったが、金になるのであれば話は全然変わる。金貨をじゃんじゃん稼いでこっちで換金できたら俺、就活しなくていいのではないだろうか? サラリーマンなんかよりも、圧倒的に稼げる道を見つけてしまったかもしれない。
ここでようやく先輩の言った意味が分かった。日本でダメなら異世界で稼げばいいのだ!
俺は思わずこぶしを握った。が、先輩はなぜそんなことを知っていたのだろう? 今度会ったら聞かねばと思った。
◇
俺がそんなことを考え、一人で盛り上がっていると、エステルがうつらうつらしている。ダンジョンでひどい目に遭って疲れたのだろう。
「はい、じゃ、ここで横になってね」
俺は優しくエステルをベッドに寝かせた。
すぐに寝入っていったエステルの綺麗にカールしたまつげを、俺はボーっと見る。女っ気の全くなかった俺の部屋で、透き通るような白い肌の美少女がすやすやと寝ている。一体これはどう理解したらいいものかちょっと戸惑った。
異世界、美少女、そして金貨。就活地獄の中にいきなり現れたこの僥倖を何とかモノにしてやろうと俺は野望に燃えた。
1-6. 物干しざおの戦士
ホームセンターへ行っていろんなタイプの殺虫剤、防刃ベストにヘルメットを選ぶ。そして、最後に武器になりそうなものを探した。
刃物は扱いなれてないとむしろ危険だし、そもそも戦闘に使えそうな刃物などホームセンターには売っていない。困っていると物干しざおを見つけた。やっぱり男は棒が大好きなのだ。中国拳法の人みたいに試しにブンブンと振り回してみると、結構しっくりとくる。これならゴブリンくらいなら打ち据えられそうだ。結局一番頑丈そうなステンレスの物干しざおを選んだ。
荷物をどっさりと抱え帰宅すると、ほのかに甘い匂いがする。女の子が自宅にいるってなんて素敵な事だろうか。別に恋人でも何でもないのについドキドキしてしまう。
そっと部屋に入ると、夕暮れの薄暗がりの中、まだエステルは熟睡している。相当疲れているようだ。
俺は起こさないように気を付けながらコーヒーを入れた。部屋中に広がるコーヒーの香ばしい匂い、とても癒される。
俺はコーヒーを飲みながら買ってきたものをチェック、整理する。エステルと出会わなかったら一生買わなかったものばかりだ。
続いて、使える状態にして装備してみた。まるでスズメバチ退治に行くようないで立ちになったが、俺はこの装備で一攫千金を目指し、もしかしたら世界を救ってしまうのかもしれない……。
「世界を救う……?」
冷静に考えると、あまりに荒唐無稽すぎる話にちょっとめまいがした。ベッドでエステルが寝ていなかったら、バカバカしくなって放り出してしまうレベルだった。
金髪の美少女は気持ちよさそうに寝息を立て、さっきの戦闘が夢や妄想ではなかったことを教えてくれる。
俺はエステルの寝顔をジーっと見つめた。こんな可愛い女の子まで戦闘に駆り出されるなんて一体異世界はどういう状況なのだろうか? また、倒さねばならない魔王とはどういう存在なのだろうか? 殺虫剤で即死してくれるほどぬるい存在でいてくれるのだろうか?
俺は深くため息をついた。今日は結局、企業研究も面接対策も何もやっていない。就活をほっぽり出して物干しざおを物色してて本当に良かったのだろうか?
悩み事は尽きない。
俺は姿見を見つめ……、近づいてもう一度鏡面を触ってみた。波紋が広がる。まだ液体のままだ。
試しに俺は【φ】を描いてトントンと叩いてみた。すると、鏡面は元の鏡に戻った。そして再度【φ】を描くと……鏡面は光り輝き、またダンジョンにつながった。
俺はダンジョンへ移動し、鏡面を持ち運んでみた。移動させても鏡面は液体のままだった。そして、中をのぞくと俺の部屋のままだった。
その後いろいろやってみたところ、鏡面は持ち運んでも空間は接続され続けるが、【φ】を描くと空間の接続はオンオフされ、一度オフにすると次の接続先は最初に戻るようだった。
で、あるならば、鏡面は持ち歩いて、ヤバくなったら鏡面に逃げ込んで接続をオフにするという作戦が使えそうだ。エステルには鏡面担当をやってもらい、常に持ち歩いて、危なくなったら先に逃げてもらえばバッチリだ。
俺は段ボールで姿見のケースを作り、背負えるように紐を付けた。エステルには頑張って持ち運んでもらおう。
いろいろやっているうちに夜になってしまった。冷凍パスタをチンして軽く夕食を食べたが……、エステルはまだ起きない。今日はもう寝るしかないが……、一体どこで寝たらいいのだろうか?
幸せそうにスヤスヤと寝るエステルを、俺はぼーっと眺めた。サラサラとした金髪が美しく輝き、透き通るような白い肌は寝息に合わせて無防備にゆっくりと上下を繰り返す。少女から大人の女性へと脱皮していくような確かな生命力を感じ、俺はグッと来てしまう。
「可愛いよなぁ……」
つい本音が漏れる。
詰めたら二人で寝られるかもしれないが……、こんな美少女と一緒に寝るなんて、絶対にロクな事にならない。そもそも眠れないだろう。諦めて床で寝ることにした。
毛布を出し、座布団を工夫して寝床を作り、電気を消す。
ちょっと床に腰の骨が当たって痛いが仕方ない。
スースーというエステルの寝息を聞きながら、俺は意識が薄れていった。
おやすみ……、エステル……。
1-7. 重なる二人
「ソータ様! 申し訳ございません!」
耳元で大きな声がして、俺は目が覚めた。
「ん?」
寝ぼけ眼で辺りを見回すと、明るくなり始めた部屋の中でエステルが土下座している。
「ど、どうしたの?」
俺が目をこすりながら体を起こすと、
「ソータ様の寝床を奪ってしまいました! 付き人としてこの不手際、何なりと罰をお申し付けください!」
と、エステルはひどく恐縮している。
「ふぁーあ……。そんなのは後でいいから今は寝かせて……」
俺は毛布に潜り込む。
「ダメです! ベッドで寝るです!」
「いいから寝かせて……」
「ベッドでー」
エステルは俺を起こそうとして、足が滑って俺の上に倒れ込む。
「きゃぁ!」「うわっ!」
エステルが俺の上に抱き着いた格好になり、俺は反射的に彼女の身体を両手で抱きかかえた。甘酸っぱい少女の香りが俺を包み、柔らかな胸のふくらみが俺に押し付けられる。
いきなりやってきた予想もしない展開に俺は言葉を失う。
エステルも、どうしたらいいかわからなくなって固まっている。
気まずい沈黙の時間が流れた……。
エステルの甘い吐息が俺の耳にかかり、ドクドクと速く打つ心臓の音が聞こえる。
俺は横にゴロンと転がって、エステルの上になる。
エステルは目をギュッと閉じた。プックリとした果実のような赤い唇がキュッと動く。
このままエステルを……。おれはそっと柔らかくすべすべとしたエステルの頬をなでる。と、その時、エステルが震えている事に気が付いた。
俺は正気を取り戻す。震えている女の子に手を出してはダメだ。俺は大きく息をつき……、体を起こすとベッドに転がった。
「危ないから気を付けてね」
俺はそう言って毛布をかぶった。
「ご……、ごめんな……さい」
エステルは真っ赤になりながらそーっと身体を起こし、正座してうつむく。
「はしたないことしてしまいました……。付き人失格ですぅ……」
エステルはひどくしょげている。
俺は眠ろうとしたが、すっかり目が覚めてしまって眠るどころではなくなっていた。どうしたものかと悩んでいると、
「あのぉ……」
と、エステルが声をかけてくる。
俺は毛布をそっとずらしてエステルを見る。なぜか真っ赤になってモジモジしている。
「どうしたの?」
怪訝に思って聞いた。
「お、おトイレ……、どこ……です?」
そう言って、エステルは恥ずかしそうにうつむいた。
「あ、ごめんごめん。こっちだよ。シャワーも浴びてね」
俺は立ち上がって玄関わきのユニットバスに案内した。
そして、ウォシュレットとシャワーの使い方を簡単に教えてあげる。
しばらくすると、
「ひゃぅっ!」
というエステルの叫び声が聞こえた。きっとウォシュレットにビックリしているのだろう。
もう眠れる気もしないので、朝食にすることにした。
エステルがシャワーを浴びている間、俺はパンを焼いてミニトマトを洗い、ヘタをとった。
◇
朝食をとりながら、作戦会議をする。目標はエステルを家まで届けることと、ダンジョンと魔物の情報をなるべく集めることだ。
前衛は俺、物干しざおと殺虫剤で戦闘を担当する。後衛はエステル。索敵とマッピングと逃げ場所確保担当。ケガした時の治療もお願いする。
そして、安全第一で、少しでもヤバかったらすぐに鏡に逃げ込むことをエステルに厳命した。
「分かったです!」
エステルは子リスのようにミニトマトをほお張りながら、うれしそうに答えた。
1-8. もう一つの就活
食べ終わると俺は皿を軽く洗い、リュックに荷物を詰め、防刃ベストを着込んで装備を整えた。
「それでは行くです!」
エステルはやる気満々でこぶしを握り、ニッコリと笑った。
俺は物干しざおを左手に、殺虫剤を右手に持ってダンジョンに乗り込む。
いよいよ、俺のもう一つの就活が始まる。金貨だ、金貨を確保する道を見つけ出すのだ!
エステルは背中に鏡を背負って、鉛筆で洞窟の地図を作りながら俺についてくる。
洞窟はいぜんジメジメとしてカビ臭く、足場は悪い。
歩きながらエステルにワナの見つけ方を教えてもらう。でも、エステル自身ワナにはまって落ちているので信憑性は微妙なのだが。
昨日は気が付かなかったが、壁面には淡く光る石が含まれていて、ライトを消しても月明かりの夜程度の明るさにはなっていた。でも、月明かり程度ではワナは見抜けないので基本ヘッドライトは点けて進む。
程なくエステルが襲われていた広間についた。魔物もおらずシーンとしている。
「付近に魔物の反応はないです」
エステルは索敵の魔法を使って教えてくれた。頼りになる。
「ではこっちから行ってみるか……」
俺はコボルトが出てきた洞窟の方へ足を進める。
ワナに警戒しながらゆっくりと進んでいくと、エステルが小声で言った。
「ソータ様! この先に魔物がいるです!」
「え? どんなの?」
「良く分かりませんが……、一匹です。コボルトやゴブリンよりは強そうです」
いよいよ戦闘である。
俺はヘッドライトを消し、殺虫剤のロックを解除し、物干しざおを構えながらソロリソロリと進んでいく。
洞窟が大きく左に曲がるところでそーっとのぞくと、二十メートルほど先に何者かが立っていた。人間より一回り大きく、コボルトやゴブリンとは異なる圧を感じる。
まだこちらには気づいていないようだ。
俺は殺虫剤をできるだけ前にして、プシューっと吹きつけてみた。届かないだろうが、洞窟の中をなるべく薬剤で満たしたかったのだ。
いきなり変な音がして驚いた魔物は、
ムォォォ!
と、叫ぶとこちらに駆けだしてくる……。顔はイノシシ……、オークと呼ばれている魔物だろうか?
ドスドスドスと重厚な足音を響かせながら、すごい速度で迫ってくる。
俺は冷や汗をかきながら後退しつつ、殺虫剤を噴射し続けた。
「頼むから効いてくれよ……」
物干しざおを握る手が震える。効かなかったらこのまま鏡へ飛び込むだけではあるが、それでも魔物は恐い。
果たして、魔物は走ってくる途中で、ギャウゥゥ! という断末魔の悲鳴をあげると、溶けていった。光る石がコンコンと音を立てて転がってくる。
「さすが、ソータ様! 今のはオークですよ、オーク! 新人冒険者たちの多くはあれにやられちゃうんです!」
後ろで鏡を準備していたエステルが興奮している。
俺はふぅ、と大きく息をつき、オレンジ色に光り輝く魔石を拾った。
「これなら銀貨一枚ですよ!」
エステルが嬉しそうに言う。
銀貨は十枚で金貨になるそうなので、これで五千円くらいだろうか?
確かに慣れてきたらいい商売になるかもしれない。
◇
俺たちはさらに洞窟を進んでいく。階段を見つけないと地上へは出られない。エステルに頑張ってマップを描いてもらいながら探索範囲を広げていく。
「あ、何かいるです!」
エステルが声を上げる。
「オークくらいのが一匹です」
「了解!」
俺はまたライトを消してそーっと歩いて行く。
洞窟がくねくねとしているので、慎重にゆっくりと様子をうかがいながら進んでいく……。
しかし、何もいない……。
「おーい、エステル、何もいないぞ」
俺が振り返ると、なんと巨大なテントのような球が洞窟をふさいでいた。
「な、なんだこれは!?」
あわててライトをつけると、なんとそれはスライムだった。どうやら天井に張り付き、エステルの上に落ちてきたようだった。
その透明な巨体の中で、エステルがもがきながら溺れている。衣服はすでに消化が始まっていて、白い肌があちこちからのぞいている。
俺はエステルが今まさに食べられているという事実に、心臓が止まりそうになった。
1-9. 捕食された少女
「うわ――――っ! エステル――――!」
俺が駆け寄ろうとすると、いきなり足を取られた。スライムの粘液が周りにまかれていたのだ。
「おわぁ!」
俺は派手にすっ転んで殺虫剤がふっ飛んでいく。
カランッ、カラカラ……
さらにスライムは俺に向けて刺激臭のする粘液をピュッピュと浴びせかけてくる。何という嫌な奴だろうか。
「ぐわっ! ペッペ!」
この間にもエステルは消化されて行ってしまう。一刻を争う。急げ! 急げ!
俺は後ろを向いて予備の殺虫剤を取り出すと、急いでロックを外し、プシューっと吹きかけた。
効果はてきめん。
グモモモ……。
異様な音がして、スライムは溶けて崩れていく……。
そして、エステルがドサッと落ちてきて地面に転がった。
駆け寄ってみると、力なく横たわり、微動だにしない。服はもうボロボロで、美しい透き通った素肌があちこちからのぞいていた。
「おい! エステル! 大丈夫か!?」
俺は抱き起して頬を叩いてみるが返事がない。これはマズい!
俺は急いでみぞおちの上に両手を重ねると、エイエイエイっと胸骨圧迫をおこなってみた。綺麗な形に膨らんだ白い胸が丸見えだが、今はそんなことにこだわっている場合ではない。
「エステル――――! エステル!」
叫びながら何度も何度も必死に押す。
ドジっ子だが可愛いこの少女を失う訳にはいかない。
「おい! 戻ってこい!」
俺は必死に胸を押し続けた。
俺が不注意だった、全部俺のせいだ……。
「エステルぅ……」
涙がポトポトたれてくる。
するとエステルは、
「うぅ……」
と言って、苦しそうな顔をした。
「あっ! エステル!」
俺が叫ぶと、エステルはボコボコっと水を吐いて、
ケホッケホッっと咳をした。
俺は急いでエステルを横向きにして背中を撫でる。
「うぅーん……」
と、声を出し、エステルは目を開ける。
「おぉ! エステル! 大丈夫か!?」
エステルは軽くうなずくとまた、ケホッケホッっと咳をした。
俺は鏡を取り出すと急いでエステルを抱き上げて部屋へと運ぶ。
そしてバスタオルで全身を拭いて毛布でくるみ、ベッドに寝かせた。
弱ってベッドで眠るエステル……。
俺はその横顔を見つめながら、手を握って回復を祈った。
やはりダンジョンは一筋縄ではいかないのだ。
魔物だってバカじゃない、あの手この手で我々を狙ってくるのだ。俺は自らの浅はかさを恥じた。
しばらくすると、エステルは目を開き、こっちを向いた。
「ソータ様、申し訳ございません……」
泣きそうな目でそういうエステル。
俺は首を振って、
「俺が不注意だった。ごめんね」
と、謝り、そっと美しい金髪をなでた。
その後、治癒魔法をかけたいということで一旦ダンジョンへと移動する事になった。どうも日本では魔法が使えないらしい。しかし、服はボロボロ、実質全裸である。俺はTシャツとスエットパンツを棚から掘り出して、エステルに渡した。
フラフラとしながら着替えるエステル。
「うふふ、ソータ様の匂いがしますぅ」
と、力なく笑う。
少しは余裕が出てきたようでホッとした。
エステルはブカブカのスエットパンツのすそを折りたたむと、鏡の向こうをじっくりと偵察する。そして杖を持ってヨロヨロとダンジョンへと入って行った。
しばらくすると、鏡から顔を出して
「もう大丈夫です! 先を行きましょう!」
と、元気に笑った。
俺はホッと胸をなでおろした。
だが……、俺はちょっと疲れてしまって、いったん休憩を入れることにする。
◇
コンビニに行って、おにぎりやジュースなどを買い込む。異世界人は何を喜ぶのか良く分からなかったので、種類多めにして買ってみた。
「エステル、戻ったよー!」
部屋のドアを開けると……、いない……。
「おい! エステル!」
声をかけるが返事がない。トイレにもベランダにもいない。
見ると靴もない。もしかして一人でダンジョンへ行ってしまったのでは?
折角生き返ったのに、一体何をやってるんだあいつは! 俺はまたエステルを失うかもしれない恐怖に真っ青になった。
1-10. モンスターハウス
急いで鏡に頭を突っ込んでみると……。
「いやぁぁぁ! やめてぇぇぇ!」
エステルがまたゴブリンたちに囲まれていた。
「グギャケケケ!」「グルグルグル!」「グギャ――――!」
ゴブリンたちはうれしそうにエステルを取り囲んで雄たけびを上げる。
エステルは殺虫剤を持っていて、ゴブリンたちに吹きかけているのだが……、全然効いていない。一体なぜだ?
俺は急いで物干しざおと殺虫剤を手に取るとゴブリンたちに駆け寄り、殺虫剤をプシューっと噴霧した。
すると、ゴブリンたちは
「グギャァッ!」「ギャァッ!」
と断末魔の悲鳴を上げ、次々とドス黒く変色し……、溶け落ちて行った。
やっぱり殺虫剤は効くのだ。しかし、同じ製品の殺虫剤をエステルがかけても効かなかった……。こんな事あるのだろうか?
俺はいぶかしく思いながらも、エステルに駆け寄った。
「ソータ様ぁ! うわぁぁぁぁん!」
エステルは思いっきり抱き着いてくる。
俺もホッとしてエステルをしっかりと抱きしめた。
温かく、そして柔らかい細身の身体。俺はそれを全身で感じ、無事を喜んだ。
「ヒックヒック……、ごめんなさい、描いた地図を洞窟に落としたままだったので、ちょっと拾おうと出ただけなんです。そしたらいきなりゴブリンが湧いて……」
エステルは泣きながら説明する。
「これからは一人でダンジョンへ行くのは禁止な」
俺はぎゅっと抱きしめて言った。
「は、はい……」
ふんわりと立ち上ってくる甘酸っぱい優しい匂いに包まれて、俺は心から安堵した。
◇
部屋に戻り、オレンジジュースを一口飲んで、エステルが言った。
「私の殺虫剤は効きませんでした……。やっぱりソータ様でないとダメなんです。ソータ様は世界を救う稀人だったんです……」
キラキラとした瞳で俺をジッと見つめるエステル。
「いやぁ、そんなことってあるのかな? 誰がかけたって殺虫剤の成分は同じだよ」
「実際、私は効きませんでしたよ!」
「うん、俺も見てた……。なんでかなぁ?」
「ソータ様が稀人ってことです!」
エステルは両手のこぶしを握って興奮気味に言う。
「うーん、良く分からないけど、エステルは引き続き後衛な。俺が殺虫剤担当で」
「はいっ! 次は天井にも注意するです!」
エステルはうれしそうに言った。
◇
食後にダンジョンに再エントリーする事にした。
エステルには俺のパーカーを着せてみる。さすがにブカブカなのでそでを折って着てもらう。エステルはパーカーの匂いをクンクン嗅いでうれしそうにニコニコしている。大丈夫だろうか?
ダンジョンに潜ると、スライムのいたところに出る。暗闇の危険性はよく分かったので、エステルに照明の魔法を使ってもらい、明るい中を移動していく。
次々と出てくるコボルトやオーク、ゴブリンを難なく倒しながら進んでいくと、壁面に大きな扉が現れた。
「あー、これはモンスターハウスかもです……」
エステルが言う。
「何それ?」
「モンスターがうじゃうじゃ大量にいる小部屋の事ですよ。宝も多いですが皆さん結構倒すのに苦労しているです」
「宝!?」
俺は聞き捨てならない単語に色めき立った。
「そうです、宝箱の中に金貨とかポーションとか、武器とかあるです」
「欲しい! 欲しい! 行こうよ!」
「えー!? ソータ様、安全第一で行くって言ってたじゃないですか」
「殺虫剤が効くなら何とかなるよ。ダメだったら鏡に逃げよう」
「うーん、そうです?」
エステルは気乗りしない様子だった。でも、お宝を前に素通りはできない。俺は就活をほっぽり出してダンジョンに来ているのだ。何らかの成果を上げない限り、就活に戻らざるを得なくなる。もう『無い内定』の人なんて周りに数えるほどしかいないのだ。
「さぁ、やるぞ!」
俺はそう言って、くん煙式殺虫剤『バルザン』を取り出した。家全体を煙でいぶすタイプの殺虫剤だ。俺はふたを開けて点火場所をこすって火を起こす……。
しばらく待っているとブシューと煙が噴き出し始めたので、ドアを少しだけ開けてバルザンを放り込んだ。
そしてドアを閉め、輪っかになってる取っ手の所に物干しざおを突っ込み、閂のようにしてドアが開かないようにした。
少し離れて様子を見ていると、ドアが内側から激しい勢いでガンガン! と叩かれ、ドアがきしむ。
「いやぁ!」
エステルがビビって俺にしがみつく。
ここは物干しざおに頑張ってもらうしかない。
魔物の叩く勢いでドアがギシギシと揺れている。
「頼むぞ、物干しざお……」
俺は手に汗を握りながら推移を見守った……。
「ソータ様ぁ……」
エステルが震えているので、俺は手をギュッとにぎってあげながらドアをにらんだ。
徐々に音は弱々しくなり、やがて何の音もしなくなった。
さて、どうなりましたやら……。
俺はそっと近づくと物干しざおを抜いた。
サークルの先輩に言われた方法で鏡の中に入ったら、そこはダンジョンだった――――。
「いやぁぁぁ! やめてぇぇぇ!」
女の子の悲痛な叫びが洞窟の中にこだましている。
俺は洞窟の通路を急ぎ、広間をそーっとのぞいた。
すると、女の子が緑色の異形な生き物たちに組みしかれて、服を破られているではないか。背が低く耳と鼻の尖った造形……もしかしたらゴブリンと呼ばれる魔物かもしれない。俺は初めて見るファンタジーな存在に目を疑った。
「グギャケケケ!」「グルグルグル!」「グギャ――――!」
ゴブリンたちは彼女の服をはぎ取ると口々に歓声を上げる。女の子は十六歳くらいだろうか? 金髪に美しい碧眼、整った目鼻立ちに透き通るような白い肌……、ドキッとするくらいの可愛さだった。
「やぁぁぁ! ダメぇぇぇ!」
優美な曲線を描く白い肌が露わになり、女の子が泣き叫ぶ。
ゴブリンたちは人間の女の子を犯して孕み袋にすると言う話を聞いたことがある。何とかしたい……、が、俺は就活に行こうと思っていた学生だ。リクルートスーツ姿で武器なんか何も持ってない。ゴブリンは小柄で力はそれほど強くはなさそうだが、五匹も居る。戦闘経験などない素手の学生が何とか出来る感じではない。どうしよう……。
俺が逡巡していると、一匹のゴブリンがいよいよ女の子の両足を持ち上げた。
「やめてぇぇぇ!」
女の子が暴れてゴブリンを蹴り飛ばす。もんどり打って転がるゴブリン。
「ガルグギャァ!」「ギャギャッ!」
しかし、周りのゴブリンにボコボコと殴られてしまう。
女の子が酷い目に遭うのを黙って見ている訳にもいかない。
このやろぉぉぉ!!
俺は後先考えずダッシュしていた。
ゴブリンたちは白い肌の女の子に注意がいっていて、俺に気づくのが遅れる。
俺はゴブリンが落としていた短剣を拾うと、ゴブリンの脳天に突き立てた。
ズブリという生々しい手ごたえが伝わってくる。
「グギャッ!」
緑色の血をまき散らしながら倒れるゴブリン。
俺はさらに隣のゴブリンの首めがけて短剣を振り抜く。
が、ゴブリンは腕で避け、致命傷には至らなかった。
「ギャッ!」
血を流し、怒りをあらわにするゴブリン。
「グギャッ!」「グググガ――――!」「グギャ――――!」
ゴブリンたちは武器を手に立ち上がってきた。マズい。
俺はダッシュで逃げだした。
来た道を必死に走る。
「ギャッギャッ!」「ギャゥッ!」
二匹ほどが追いかけてくる。
思ったより足が速い。
ヘッドライトで照らす洞窟の通路を命がけの必死の逃走――――。
しかし、ここのところの運動不足で足がもたつき、俺は無様にも転倒してしまう。
「うわぁぁぁ!」
カン、カン、カラン……。
すっ飛んで行ってしまう短剣。
ヤバい!
はぁはぁ言いながら振り向くと、ゴブリンが迫っていた。
「ギャギャッ!」
獲物を追い詰め勝利を確信したゴブリンは、いやらしい笑みを浮かべながら短剣を振りかざした。絶体絶命である。
何かないかと探したが、武器になりそうな物など何もない。ジャケットの内ポケットに入れておいた小さな殺虫剤の缶しかなかった。
こうなったら目くらましだと、半ばヤケクソになって俺はゴブリンに殺虫剤を噴射する。
プシュ――――!
すると、短剣を振り下ろそうとしたゴブリンは、
「グギャァッ!」
と断末魔の悲鳴を上げ、ドス黒く変色し……、次の瞬間溶け落ちて行った。
「え……?」
驚く俺と後ろのゴブリン。
コンコン……。
溶けたゴブリンの跡にはエメラルド色に輝く小さな石が転がった。
俺は何が起こったのか良く分からなかったが、固まっているゴブリンにも殺虫剤を吹き付ける。
プシュ――――!
「ギャギャッ!」
すると、二匹目も変色し、溶け落ちて行くではないか。
なんと、ゴブリンには殺虫剤が効くのだ! 先輩に言われて持っていた殺虫剤。まさかこんな効果があるとは!
「やめてぇぇ!」
遠くで女の子の声がする。まだゴブリンは二匹残っていたのだ、女の子が危ない!
俺は全力でダッシュした。
広間に来ると、女の子は身をよじって必死にあがいている。
「お前らふざけんなよ!」
俺は叫びながらゴブリンに迫り、殺虫剤を思いっきり吹き付けてやった。
身構えたゴブリンだったが、殺虫剤を浴びるとやはりドス黒く変色し、溶け落ちて行く。
コン、コン……。
エメラルド色の光る石が二つ転がった。
ひっ!
女の子はおびえた目で俺を見て、両手で胸を隠す。
「だ、大丈夫だよ。何もしないから」
俺はそう言って、投げ捨てられた彼女の服を拾い、そっと彼女にかけてあげた。
「うわぁぁぁん!」
女の子は服で顔を隠し、丸くなって号泣した。
「恐かったね、もう大丈夫だよ……」
俺は優しく声をかける。
彼女はすすり泣きながら服をずらして俺のことをジッと見つめる。
「ケガは大丈夫? みせてごらん」
俺は微笑んで言った。
すると彼女はいきなり立ち上がり……、
「うぇぇぇん!」
と、号泣しながら抱き着いてきた。
「えっ!?」
可愛い全裸の女の子に抱き着かれ、俺は激しく動転する。ふんわりと甘酸っぱい女の子の匂いに包まれ、俺は頭が真っ白になった。
女の子との接触なんて全くない人生で、いきなり生まれたままの姿で抱き着かれている。一体どうしたらいいのだろうか?
「うっうっうっ……」
洞窟の広間に響く彼女の嗚咽。
俺はなだめようとそっと抱きしめる。しっとりと柔らかい背中の生々しい手触りは刺激が強すぎるが、それでも大きく息をつき、目をつぶって彼女の心の傷がいやされるように祈った。
1-2. その者、青き筒を掲げ
しばらくして彼女も落ち着いてきたので、服を着てもらう。
破かれてしまった服だが、彼女は上手にリボンを結び、うまく身体を包んだ。
彼女はモジモジし、そして、意を決するようにして俺を見あげると、言った。
「あ、ありがとうです……。私はエステル……、あなたは?」
丁寧に編み込まれた金髪に、透き通る青が美しい瞳、そして柔らかく白い肌……ただ、ゴブリンに殴られたところが赤く腫れてしまって痛々しい。
「俺は水瀬颯汰……。あー、ソータって呼んで」
可愛い子に見つめられることなんて全く慣れてない俺は、赤くなりながら答えた。
「ソータ……、いい名前です……」
そう言ってエステルはちょっと恥ずかし気に下を向いた。
「ケガ……痛くない?」
俺が心配して言うと、
「あ、今治すです!」
そう言って、エステルは転がっていた木製の杖を拾った。
「治す?」
俺が怪訝に思っていると、エステルは手のひらを殴られたところに当て、目をつぶって、
「ヒール!」
と、唱えた。
エステルの身体が幻想的にぼうっと淡い水色に光り……、手のひらからは美しい金色の光が噴き出す。
なんと! 魔法である! 俺はあっけにとられた。
しばらくすると、腫れは引き、透き通るような美しい肌が戻ってきた。
俺は生まれて初めて見た魔法に圧倒される。現代科学では不可能な治癒の魔法。それを女の子が当たり前のようにやってしまったのだ。
一体この世界はどうなっているのだろうか?
「す、すごいねそれ……」
俺が感嘆していると、
「こ、これは一番初歩の治癒魔法です、恥ずかしいです……」
そう言って赤くなり、うつむいた。
現代科学で不可能な事も初歩だそうだ。異世界恐るべし。
広間を見渡すと、奥には祭壇らしき物があるが、長く使われていないようで、あちこち崩れ、廃墟のようになっている。
「エステルはこんなところで何やってたの?」
女の子一人で居るようなところじゃない。不思議に思ってきいてみた。
「最近魔物の大群が街を襲うようになってしまって、今、元気な若者はダンジョンで修行させられるんです。それで私もパーティを組んでダンジョンに来たんですが……、間違えて落とし穴に一人だけ落ちてしまったんです……私ドジなんですぅ」
なるほど、ここは魔物が出るダンジョンなのか。ファンタジーなゲームそのままの世界に驚かされる。
「他のみんなは?」
「多分、上層にいると思うんですが、連絡の取りようもないのでもう帰っちゃったかと……」
「そうか……、じゃあ安全なところまで付き添わないといけないなぁ……」
自分の事で手いっぱいなのに、さらに面倒ごとをしょい込んでしまった。思わずため息をつく。
「ごめんなさい、助かるです」
エステルは申し訳そうな顔で俺に手を合わせる。
その時だった、通路の奥からいきなりドタドタドタっと多くの足音が聞こえてきた。
「あぁっ! この足音は!」
エステルはひどくおびえ、顔が真っ青になる。
俺が振り向くと、何かがドヤドヤと広間に入ってきているのが見えた。エステルをかばいながら目を凝らすと、それは犬の頭をした背の低い魔物だった。確か漫画やゲームではコボルトと言われていた魔物ではないだろうか?
手には短剣を持ち、にやけ顔で口を開けて牙を見せ、長い舌をだらりとたらしながらこちらを見ている。どうやらこちらを獲って喰うつもりのようだ。俺はゴブリンの落とした剣を急いで拾ったが、多勢に無勢、まともに戦ってはこちらに勝機はない。殺虫剤がコボルトにも効いてくれることに期待するしかないが、どうか。
タラリと冷や汗が垂れてくるのを感じる。
「ソータさぁん……、ど、どうしましょう……」
俺にしがみつき震えるエステル。
「な、何か魔法無いの?」
「私は侍僧なので白魔法しか使えないです。それにもう魔力ないですぅ……」
泣きそうになるエステル。
「グルルルル!」「グワゥゥゥゥ!」
のどを鳴らしながら近づいてくるコボルトたち。絶体絶命である。
「効いてくれよ!」
俺は祈りながら殺虫剤を噴射した。
プシュ――――!
コボルトたちは変な霧を吹きつけられ、怪訝そうな表情を見せる。そして、次の瞬間、グオォォ! と断末魔の叫びを残し、見る見るうちにドス黒い色に変色するとドロリと溶け落ち、次々と消えていった。
「ええっ!?」
目を丸くするエステル。
「おぉ、効いたみたいだ」
俺はホッとして胸をなでおろす。
コボルトたちが消えた跡には、茶色い光る石がコロコロと転がるだけだった。
エステルはキラキラとした瞳で俺を見つめ、手を合わせ、つぶやきながらにじり寄ってきた。
「その者、青き筒を掲げ、我が地に降り立ち、邪なるものを塵芥へと滅ぼす……」
「ど、どうしたんだエステル?」
気圧され、後ずさりする俺。
「ソータ様! あなたが伝説の稀人なのです!」
俺の腕をガシッとつかむ。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。なんだそれは?」
「神託です! 神託! 教会でシスターに聞いたです。女神様が私たちに予言をくだされたのです。この魔物はびこる、人類滅亡の危機に唯一託された希望! 稀人! それがソータ様なのです!」
「いやいやいや……。俺はただの学生! そしてこれはただの殺虫剤! 人類を救うとか何言ってんの!?」
「青き筒ですよね?」
確かにこの殺虫剤のスプレー缶には青い印刷が施されているが、『殺虫剤』とちゃんと書いてある。
「いやいや、ここ読んで! ただの殺虫剤だよ、ほら」
俺は殺虫剤のスプレー缶を見せた。
「殺虫剤……?」
「虫を殺す薬だよ!」
エステルは首をひねっている。
「もしかして……、そういうの無いの?」
「虫はパンっと叩いて殺すものですよ?」
エステルはまっすぐに俺を見て言う。
俺は考え込んでしまった。
おかしな洞窟に、次々出てくる魔物に、襲われる侍僧に、異常に効く殺虫剤。一体ここは何なんだ?
「殺虫剤でもなんでも、ソータ様は『青き筒』で魔物の群れを一瞬で倒されました! 神託の稀人に間違いないです。ぜひ、世界をお救いください!」
エステルはそう言って俺にひざまずいた。
「世界を……救う?」
俺は思わず天を仰ぎ、何だか面倒な事に巻き込まれてしまったことにクラクラした。
俺は就活地獄の大学四年生。ついさっきまで俺は自宅で面接に行く準備をしていたのに、一体なぜこんなことになってしまったのか。
トホホ。
1-3. 時空を超える鏡
時をさかのぼる事数十分、俺は東京のワンルームの自宅にいた――――。
今日も面接。リクルートスーツを着込み、最後に鏡でチェックをする。でも、鏡を見ながら俺は、
「行きたくねーなぁ……」
と、つぶやいていた。どうせまた人格否定されて落とされるのだ。もう何十通もお祈りメールをもらってきた俺には全て分かるのだ。俺は大きくため息をつき、鏡の向こうの疲れ切った顔をしばらくボーっと見ていた。
その時ふと、昨晩飲み会でサークルの美人の先輩に言われたことを思い出した。
『就活が嫌になったら、殺虫剤持って、鏡に【φ】って書いてトントンと二回叩くといいわ。就活しなくてよくなるから』
先輩はニヤッと笑いながら、俺を見ていた。なんともおかしな話である。
その時は、相当酔っぱらっていて、
『なんすかそれ! そんなんで就活しなくてよくなるなら、みんなやってますよ! なんすか殺虫剤って!?』
と、食ってかかったのを覚えている。先輩は在学中にベンチャーを起業したらしいから、就活の苦しさが分かってないのだろう。
おまじないでも何でもやってみるか……。
「えーっと、殺虫剤持って、【φ】書いてトントンね」
就活地獄で心身ともにボロボロな俺は、藁にもすがりたい気分でやってみた。
直後、鏡はピカッと閃光を放ち、俺は目がくらんだ。
「ぐわぁ!」
何だこのおまじないは!? 俺は混乱した。一体何が起こったんだ……!?
目が徐々に戻ってきて、俺はそーっと目を開ける。鏡は……、鏡だ。別に変ったところはない。何かが出てくるわけでもなく、ただ、細長い姿見の鏡がリビングのドアの隣にあるだけだ。
俺は不審に思い、そっと鏡面に触れてみる。
すると、鏡面はまるで水面のようにスッと指を受け入れ、波紋が広がった。
「はぁ!?」
鏡が液体みたいになっている!
一体こんなことあっていいんだろうか? 物理的にあり得るのか? 俺は想像を絶する事態にうろたえた。
もしかして心労がたたって幻想を見てるだけかも……。しかし、何度触っても鏡は液体のままだった。
俺は好奇心が湧いてきて腕をズーっと鏡の中に入れてみる。どこまでも入ってしまう。鏡の裏側を見てみたが、腕はどこにもない。腕はどこに消えたのか?
空間が跳んでいる、つまり、別空間へのトンネルが開いたと考える他なかった。
『就活しなくてよくなるから』っていうのは、内定が出るって意味じゃなくて、どこか別世界へ行けるっていう意味らしい。あの先輩何を考えているのか……。
俺は意を決してそっと頭から鏡に潜ってみた……。暗い。真っ暗だ。
棚からアウトドアで使っていたヘッドライトを取り出して点け、再度潜ってみる。
しかし、ライトをつけても暗い……。どうも洞窟みたいな岩肌が見える。濡れて黒光りするカビ臭い洞窟。
ちょっと、これ、どうしたらいいのだろうか? とても嫌な予感がする。
「『君子危うきに近寄らず』だ。大人しく面接に行こう」
そうつぶやいて、顔を引っ込めようとした時だった。
「きゃぁぁぁ!」
かすかに女の子の悲鳴が聞こえた。
どうしよう……。
空耳……、空耳だということにしたい……が、女の子の悲痛な叫びを無視できるほど俺は冷酷にはなれなかった。
俺は急いで靴を履き、殺虫剤をポケットに入れると鏡の中に潜ったのだった。
1-4. 就活か魔王か
「ソータ様! それでは世界を救いに行くです!」
エステルは興奮して両手で俺の手を熱く握る。
「いやいや、世界を救うって誰から救うんだい?」
「魔王ですよ! 魔王! 悪の魔王がどんどん魔物を生み出して街に攻めてくるんです! ソータ様のお力で魔王を倒すです!」
「え――――! 俺は就活があるんだよ。内定取れなきゃ人生終わりだ。そんな事協力できないよ」
「シューカツ? 何ですかそれ?」
「説明会行って、エントリーシート出して、お祈りメールもらって……って、分からないよね、ゴメンね」
「お祈りなら教会が協力してくれるです!」
うれしそうなエステル。
「いや、そのお祈りじゃないんだよ……」
俺は天をあおぐ。
「でも、ソータ様が魔王倒してくれないと世界滅んじゃうんですぅ……」
泣きそうな顔で俺をジッと見るエステル。
稀人だか何だか知らないが、人類を救うとか以前に就活何とかしたいんですが俺は。
転んで汚れ、破けたリクルートスーツを見ながら俺は大きくため息をついた。もう一着買わないと……。
そもそももう面接には間に合わないじゃないか……。
俺は腕時計を見てガックリとした。
「で、エステルはこれからどうするの?」
「もちろん、ソータ様に付いて行くです! 私はソータ様の付き人です。何なりとお申し付けください!」
キラキラとした瞳で俺を見つめるエステルに、俺はちょっと気が遠くなる。
「まぁ、このままここに居ても仕方ない。一旦俺んちに戻るよ」
「はいっ!」
うれしそうなエステル。
俺は洞窟を歩き、鏡から出てきた場所へと移動した。
そこには姿見があり、出てきた時のまま洞窟に立てかけてあった。
鏡面はと言うと……、触ると波紋が広がり、まだ通り抜けられそうだ。
俺はエステルの手を引きながら鏡を通り抜け、ワンルームへと戻った。
「靴は玄関へやってね」
そう言いながら靴を脱いだ。
「ここが……、ソータ様のおうち……です?」
エステルが不思議そうにベッドが置かれた狭いワンルームをきょろきょろと見回す。
「狭くてゴメンね。これでも月に八万円もするんだ……って、お金の話しても分からないよね」
エステルは首をかしげる。
「ベッドしかないですよ? お部屋はどこにあるんです?」
俺をジッと見つめるエステル。
俺は何と答えていいか分からなくなり、
「ここは寝るための家なんだよ」
と、目をつぶって答えた。
「あー、ちょっとおいで」
俺はベランダにエステルを連れて行って東京の景色を見せる。
「えぇ――――っ!? なんですかこれ!?」
目の前に広がるビルの森、通りを走るたくさんの車たち、そして遠くに見える真っ赤な東京タワー……。エステルには、全てが初めて目にする訳分からない存在だった。
「ここが俺の住む街だよ。エステルの世界とは全然違うだろ?」
エステルは真ん丸に目を見開きながらつぶやいた。
「さすが……、ソータ様……」
何だか誤解をしているような気がする。
と、その時、
グルグルグルギュ――――。
景気のいい音が鳴り、エステルが真っ赤になってしゃがみこんだ。
「あ、お腹すいたの? カップ麺しかないけど食べる?」
「恥ずかしいです。こんなはしたない……」
エステルは恥ずかしそうにうつむいた。
「ははは、それだけダンジョンで苦労したんだろ、一緒に食べよう」
そう言って部屋に戻り、俺はエステルをベッドに座らせた。
「シーフードとカレーと普通のどれがいい?」
「わ、私は何でも……」
「じゃぁ、普通のにするか。俺はカレーで……」
俺はキッチンでお湯を沸かす。
◇
カップ麺を持って部屋に戻ってくると、エステルが真っ赤になってカチカチになっていた。
何だろうと思って手元を見ると……エロ同人誌を持っていた。
「あっ……」
棚にそのまま置いておいたのは失敗だった……。
「ソ、ソータ様は……こ、このようなご奉仕が……良いですか?」
真っ赤になってうつむきながら、一生懸命絞り出すように聞くエステル。
「あ、いや、それは……」
何と説明したらいいか俺も真っ赤になってしまう。
すると、エステルは目をグルグルさせながら必死になって言う。
「わ、私……胸もこんなにはなく、経験もないですが、ゴブリンに穢されるところを助けてもらった身。ご、ご要望とあれば、それは……」
そう言って、エロ同人誌を握り締めた。
「な、何を言ってるんだ。そういうのは好きな人とやるものだよ。自分の身体をもっと大切にしなさい。いいから食べるよ」
俺はそう言って同人誌を取り上げると、小さなテーブルにカップ麺を並べた。
「そ、そうですよね……。ソータ様に好いてもらえるように頑張るです!」
そう言ってエステルはこぶしを握り締めた。
俺は彼女が何を言ってるのか良く分からなかったが、救世主だとの誤解は早めに解かねばなと思った。
1-5. 異世界に就職!?
カップ麺のふたを開けると美味そうな匂いが立ち上ってくる。
「うわぁ! いい匂いですぅ!」
目を輝かせるエステル。
割り箸を渡したものの、エステルはお箸を見て怪訝そうな表情をする。お箸の文化が無いようなので、フォークを取ってきて渡した。
エステルは麺を一本引っ張り出し、フーフーと冷まして口に入れる。
「うーん、美味しいですぅ!」
エステルは幸せそうに目を閉じた。口に合ったようで何より。
俺が麺をズルズルとすすっていると、エステルが不思議そうに、
「ソータ様はなぜこんなに熱い物を一気に食べられるですか?」
と言って、首をかしげた。
「え? すすりながら食べると熱くても大丈夫……、みたいだね?」
そう言って、ズズーっとすすって食べた。
エステルも真似してすすろうとして……、
ゲホッゲホッと咳込んだ。どうも麺をすする事が出来ないらしい。
本当に異世界の人なのだ。
「無理しなくていいよ、少しずつ食べて」
「はい……」
そう言って、また一本ずつ食べ始めた。
「ソータ様はお料理上手なんですねっ!」
エステルはカップ麺がいたく気に入った様子でニコニコしながら言う。
「あー、これはお湯を入れただけなんだよ」
「ふぅん、それでも嬉しいですぅ」
エステルはニッコリと笑った。
俺はキラキラとした美しいエステルの笑顔についドキッとしてしまう。可愛い女の子にこんなに好意的に接してもらったことなんて、生まれて初めてかもしれない。
とは言え、俺がやったことなんて殺虫剤撒いてカップ麺にお湯入れた位だ。思いあがらないようにしなくてはならないな、と思った。
カップ麺を食べながらこれからどうしようか考える。とりあえず、ダンジョンを脱出して家に送り届けるまでは、ついて行ってやらないとマズいだろう。しかし、魔物が次々と出てくるダンジョン、全てに殺虫剤が効く保証もない。となると、それなりの装備が必要だ。殺虫剤もたくさん調達しないといけなそうだし、服装も冒険に合った物にしないといけない……。ただでさえ金欠なのに、と気が重くなる。
と、ここで、あの魔物が落とした光る石を思い出した。俺はポケットから石を出して聞いた。
「これ? 何かに使えるの?」
「魔石はギルドで買い取ってもらえるですよ! これだけあれば銀貨三枚くらいですね」
銀貨の価値が良く分からないが、魔物を倒すと金になる……、これはもしかしてチャンスなのでは?
「え? じゃ、もしかして、強い魔物を倒したらもっとお金になるの?」
「そうです。金貨何十枚にもなる魔物もいるです!」
エステルは嬉しそうに言う。
「金貨!?」
俺は驚いた。もし、そんな魔物も殺虫剤で瞬殺なら、金儲けになるのではないだろうか? 金貨一枚を日本で五万円で買い取ってもらえるとしたら魔物一体で……、百万円!? え!?
俺は皮算用をして仰天した。救世主的な事は全く興味なかったが、金になるのであれば話は全然変わる。金貨をじゃんじゃん稼いでこっちで換金できたら俺、就活しなくていいのではないだろうか? サラリーマンなんかよりも、圧倒的に稼げる道を見つけてしまったかもしれない。
ここでようやく先輩の言った意味が分かった。日本でダメなら異世界で稼げばいいのだ!
俺は思わずこぶしを握った。が、先輩はなぜそんなことを知っていたのだろう? 今度会ったら聞かねばと思った。
◇
俺がそんなことを考え、一人で盛り上がっていると、エステルがうつらうつらしている。ダンジョンでひどい目に遭って疲れたのだろう。
「はい、じゃ、ここで横になってね」
俺は優しくエステルをベッドに寝かせた。
すぐに寝入っていったエステルの綺麗にカールしたまつげを、俺はボーっと見る。女っ気の全くなかった俺の部屋で、透き通るような白い肌の美少女がすやすやと寝ている。一体これはどう理解したらいいものかちょっと戸惑った。
異世界、美少女、そして金貨。就活地獄の中にいきなり現れたこの僥倖を何とかモノにしてやろうと俺は野望に燃えた。
1-6. 物干しざおの戦士
ホームセンターへ行っていろんなタイプの殺虫剤、防刃ベストにヘルメットを選ぶ。そして、最後に武器になりそうなものを探した。
刃物は扱いなれてないとむしろ危険だし、そもそも戦闘に使えそうな刃物などホームセンターには売っていない。困っていると物干しざおを見つけた。やっぱり男は棒が大好きなのだ。中国拳法の人みたいに試しにブンブンと振り回してみると、結構しっくりとくる。これならゴブリンくらいなら打ち据えられそうだ。結局一番頑丈そうなステンレスの物干しざおを選んだ。
荷物をどっさりと抱え帰宅すると、ほのかに甘い匂いがする。女の子が自宅にいるってなんて素敵な事だろうか。別に恋人でも何でもないのについドキドキしてしまう。
そっと部屋に入ると、夕暮れの薄暗がりの中、まだエステルは熟睡している。相当疲れているようだ。
俺は起こさないように気を付けながらコーヒーを入れた。部屋中に広がるコーヒーの香ばしい匂い、とても癒される。
俺はコーヒーを飲みながら買ってきたものをチェック、整理する。エステルと出会わなかったら一生買わなかったものばかりだ。
続いて、使える状態にして装備してみた。まるでスズメバチ退治に行くようないで立ちになったが、俺はこの装備で一攫千金を目指し、もしかしたら世界を救ってしまうのかもしれない……。
「世界を救う……?」
冷静に考えると、あまりに荒唐無稽すぎる話にちょっとめまいがした。ベッドでエステルが寝ていなかったら、バカバカしくなって放り出してしまうレベルだった。
金髪の美少女は気持ちよさそうに寝息を立て、さっきの戦闘が夢や妄想ではなかったことを教えてくれる。
俺はエステルの寝顔をジーっと見つめた。こんな可愛い女の子まで戦闘に駆り出されるなんて一体異世界はどういう状況なのだろうか? また、倒さねばならない魔王とはどういう存在なのだろうか? 殺虫剤で即死してくれるほどぬるい存在でいてくれるのだろうか?
俺は深くため息をついた。今日は結局、企業研究も面接対策も何もやっていない。就活をほっぽり出して物干しざおを物色してて本当に良かったのだろうか?
悩み事は尽きない。
俺は姿見を見つめ……、近づいてもう一度鏡面を触ってみた。波紋が広がる。まだ液体のままだ。
試しに俺は【φ】を描いてトントンと叩いてみた。すると、鏡面は元の鏡に戻った。そして再度【φ】を描くと……鏡面は光り輝き、またダンジョンにつながった。
俺はダンジョンへ移動し、鏡面を持ち運んでみた。移動させても鏡面は液体のままだった。そして、中をのぞくと俺の部屋のままだった。
その後いろいろやってみたところ、鏡面は持ち運んでも空間は接続され続けるが、【φ】を描くと空間の接続はオンオフされ、一度オフにすると次の接続先は最初に戻るようだった。
で、あるならば、鏡面は持ち歩いて、ヤバくなったら鏡面に逃げ込んで接続をオフにするという作戦が使えそうだ。エステルには鏡面担当をやってもらい、常に持ち歩いて、危なくなったら先に逃げてもらえばバッチリだ。
俺は段ボールで姿見のケースを作り、背負えるように紐を付けた。エステルには頑張って持ち運んでもらおう。
いろいろやっているうちに夜になってしまった。冷凍パスタをチンして軽く夕食を食べたが……、エステルはまだ起きない。今日はもう寝るしかないが……、一体どこで寝たらいいのだろうか?
幸せそうにスヤスヤと寝るエステルを、俺はぼーっと眺めた。サラサラとした金髪が美しく輝き、透き通るような白い肌は寝息に合わせて無防備にゆっくりと上下を繰り返す。少女から大人の女性へと脱皮していくような確かな生命力を感じ、俺はグッと来てしまう。
「可愛いよなぁ……」
つい本音が漏れる。
詰めたら二人で寝られるかもしれないが……、こんな美少女と一緒に寝るなんて、絶対にロクな事にならない。そもそも眠れないだろう。諦めて床で寝ることにした。
毛布を出し、座布団を工夫して寝床を作り、電気を消す。
ちょっと床に腰の骨が当たって痛いが仕方ない。
スースーというエステルの寝息を聞きながら、俺は意識が薄れていった。
おやすみ……、エステル……。
1-7. 重なる二人
「ソータ様! 申し訳ございません!」
耳元で大きな声がして、俺は目が覚めた。
「ん?」
寝ぼけ眼で辺りを見回すと、明るくなり始めた部屋の中でエステルが土下座している。
「ど、どうしたの?」
俺が目をこすりながら体を起こすと、
「ソータ様の寝床を奪ってしまいました! 付き人としてこの不手際、何なりと罰をお申し付けください!」
と、エステルはひどく恐縮している。
「ふぁーあ……。そんなのは後でいいから今は寝かせて……」
俺は毛布に潜り込む。
「ダメです! ベッドで寝るです!」
「いいから寝かせて……」
「ベッドでー」
エステルは俺を起こそうとして、足が滑って俺の上に倒れ込む。
「きゃぁ!」「うわっ!」
エステルが俺の上に抱き着いた格好になり、俺は反射的に彼女の身体を両手で抱きかかえた。甘酸っぱい少女の香りが俺を包み、柔らかな胸のふくらみが俺に押し付けられる。
いきなりやってきた予想もしない展開に俺は言葉を失う。
エステルも、どうしたらいいかわからなくなって固まっている。
気まずい沈黙の時間が流れた……。
エステルの甘い吐息が俺の耳にかかり、ドクドクと速く打つ心臓の音が聞こえる。
俺は横にゴロンと転がって、エステルの上になる。
エステルは目をギュッと閉じた。プックリとした果実のような赤い唇がキュッと動く。
このままエステルを……。おれはそっと柔らかくすべすべとしたエステルの頬をなでる。と、その時、エステルが震えている事に気が付いた。
俺は正気を取り戻す。震えている女の子に手を出してはダメだ。俺は大きく息をつき……、体を起こすとベッドに転がった。
「危ないから気を付けてね」
俺はそう言って毛布をかぶった。
「ご……、ごめんな……さい」
エステルは真っ赤になりながらそーっと身体を起こし、正座してうつむく。
「はしたないことしてしまいました……。付き人失格ですぅ……」
エステルはひどくしょげている。
俺は眠ろうとしたが、すっかり目が覚めてしまって眠るどころではなくなっていた。どうしたものかと悩んでいると、
「あのぉ……」
と、エステルが声をかけてくる。
俺は毛布をそっとずらしてエステルを見る。なぜか真っ赤になってモジモジしている。
「どうしたの?」
怪訝に思って聞いた。
「お、おトイレ……、どこ……です?」
そう言って、エステルは恥ずかしそうにうつむいた。
「あ、ごめんごめん。こっちだよ。シャワーも浴びてね」
俺は立ち上がって玄関わきのユニットバスに案内した。
そして、ウォシュレットとシャワーの使い方を簡単に教えてあげる。
しばらくすると、
「ひゃぅっ!」
というエステルの叫び声が聞こえた。きっとウォシュレットにビックリしているのだろう。
もう眠れる気もしないので、朝食にすることにした。
エステルがシャワーを浴びている間、俺はパンを焼いてミニトマトを洗い、ヘタをとった。
◇
朝食をとりながら、作戦会議をする。目標はエステルを家まで届けることと、ダンジョンと魔物の情報をなるべく集めることだ。
前衛は俺、物干しざおと殺虫剤で戦闘を担当する。後衛はエステル。索敵とマッピングと逃げ場所確保担当。ケガした時の治療もお願いする。
そして、安全第一で、少しでもヤバかったらすぐに鏡に逃げ込むことをエステルに厳命した。
「分かったです!」
エステルは子リスのようにミニトマトをほお張りながら、うれしそうに答えた。
1-8. もう一つの就活
食べ終わると俺は皿を軽く洗い、リュックに荷物を詰め、防刃ベストを着込んで装備を整えた。
「それでは行くです!」
エステルはやる気満々でこぶしを握り、ニッコリと笑った。
俺は物干しざおを左手に、殺虫剤を右手に持ってダンジョンに乗り込む。
いよいよ、俺のもう一つの就活が始まる。金貨だ、金貨を確保する道を見つけ出すのだ!
エステルは背中に鏡を背負って、鉛筆で洞窟の地図を作りながら俺についてくる。
洞窟はいぜんジメジメとしてカビ臭く、足場は悪い。
歩きながらエステルにワナの見つけ方を教えてもらう。でも、エステル自身ワナにはまって落ちているので信憑性は微妙なのだが。
昨日は気が付かなかったが、壁面には淡く光る石が含まれていて、ライトを消しても月明かりの夜程度の明るさにはなっていた。でも、月明かり程度ではワナは見抜けないので基本ヘッドライトは点けて進む。
程なくエステルが襲われていた広間についた。魔物もおらずシーンとしている。
「付近に魔物の反応はないです」
エステルは索敵の魔法を使って教えてくれた。頼りになる。
「ではこっちから行ってみるか……」
俺はコボルトが出てきた洞窟の方へ足を進める。
ワナに警戒しながらゆっくりと進んでいくと、エステルが小声で言った。
「ソータ様! この先に魔物がいるです!」
「え? どんなの?」
「良く分かりませんが……、一匹です。コボルトやゴブリンよりは強そうです」
いよいよ戦闘である。
俺はヘッドライトを消し、殺虫剤のロックを解除し、物干しざおを構えながらソロリソロリと進んでいく。
洞窟が大きく左に曲がるところでそーっとのぞくと、二十メートルほど先に何者かが立っていた。人間より一回り大きく、コボルトやゴブリンとは異なる圧を感じる。
まだこちらには気づいていないようだ。
俺は殺虫剤をできるだけ前にして、プシューっと吹きつけてみた。届かないだろうが、洞窟の中をなるべく薬剤で満たしたかったのだ。
いきなり変な音がして驚いた魔物は、
ムォォォ!
と、叫ぶとこちらに駆けだしてくる……。顔はイノシシ……、オークと呼ばれている魔物だろうか?
ドスドスドスと重厚な足音を響かせながら、すごい速度で迫ってくる。
俺は冷や汗をかきながら後退しつつ、殺虫剤を噴射し続けた。
「頼むから効いてくれよ……」
物干しざおを握る手が震える。効かなかったらこのまま鏡へ飛び込むだけではあるが、それでも魔物は恐い。
果たして、魔物は走ってくる途中で、ギャウゥゥ! という断末魔の悲鳴をあげると、溶けていった。光る石がコンコンと音を立てて転がってくる。
「さすが、ソータ様! 今のはオークですよ、オーク! 新人冒険者たちの多くはあれにやられちゃうんです!」
後ろで鏡を準備していたエステルが興奮している。
俺はふぅ、と大きく息をつき、オレンジ色に光り輝く魔石を拾った。
「これなら銀貨一枚ですよ!」
エステルが嬉しそうに言う。
銀貨は十枚で金貨になるそうなので、これで五千円くらいだろうか?
確かに慣れてきたらいい商売になるかもしれない。
◇
俺たちはさらに洞窟を進んでいく。階段を見つけないと地上へは出られない。エステルに頑張ってマップを描いてもらいながら探索範囲を広げていく。
「あ、何かいるです!」
エステルが声を上げる。
「オークくらいのが一匹です」
「了解!」
俺はまたライトを消してそーっと歩いて行く。
洞窟がくねくねとしているので、慎重にゆっくりと様子をうかがいながら進んでいく……。
しかし、何もいない……。
「おーい、エステル、何もいないぞ」
俺が振り返ると、なんと巨大なテントのような球が洞窟をふさいでいた。
「な、なんだこれは!?」
あわててライトをつけると、なんとそれはスライムだった。どうやら天井に張り付き、エステルの上に落ちてきたようだった。
その透明な巨体の中で、エステルがもがきながら溺れている。衣服はすでに消化が始まっていて、白い肌があちこちからのぞいている。
俺はエステルが今まさに食べられているという事実に、心臓が止まりそうになった。
1-9. 捕食された少女
「うわ――――っ! エステル――――!」
俺が駆け寄ろうとすると、いきなり足を取られた。スライムの粘液が周りにまかれていたのだ。
「おわぁ!」
俺は派手にすっ転んで殺虫剤がふっ飛んでいく。
カランッ、カラカラ……
さらにスライムは俺に向けて刺激臭のする粘液をピュッピュと浴びせかけてくる。何という嫌な奴だろうか。
「ぐわっ! ペッペ!」
この間にもエステルは消化されて行ってしまう。一刻を争う。急げ! 急げ!
俺は後ろを向いて予備の殺虫剤を取り出すと、急いでロックを外し、プシューっと吹きかけた。
効果はてきめん。
グモモモ……。
異様な音がして、スライムは溶けて崩れていく……。
そして、エステルがドサッと落ちてきて地面に転がった。
駆け寄ってみると、力なく横たわり、微動だにしない。服はもうボロボロで、美しい透き通った素肌があちこちからのぞいていた。
「おい! エステル! 大丈夫か!?」
俺は抱き起して頬を叩いてみるが返事がない。これはマズい!
俺は急いでみぞおちの上に両手を重ねると、エイエイエイっと胸骨圧迫をおこなってみた。綺麗な形に膨らんだ白い胸が丸見えだが、今はそんなことにこだわっている場合ではない。
「エステル――――! エステル!」
叫びながら何度も何度も必死に押す。
ドジっ子だが可愛いこの少女を失う訳にはいかない。
「おい! 戻ってこい!」
俺は必死に胸を押し続けた。
俺が不注意だった、全部俺のせいだ……。
「エステルぅ……」
涙がポトポトたれてくる。
するとエステルは、
「うぅ……」
と言って、苦しそうな顔をした。
「あっ! エステル!」
俺が叫ぶと、エステルはボコボコっと水を吐いて、
ケホッケホッっと咳をした。
俺は急いでエステルを横向きにして背中を撫でる。
「うぅーん……」
と、声を出し、エステルは目を開ける。
「おぉ! エステル! 大丈夫か!?」
エステルは軽くうなずくとまた、ケホッケホッっと咳をした。
俺は鏡を取り出すと急いでエステルを抱き上げて部屋へと運ぶ。
そしてバスタオルで全身を拭いて毛布でくるみ、ベッドに寝かせた。
弱ってベッドで眠るエステル……。
俺はその横顔を見つめながら、手を握って回復を祈った。
やはりダンジョンは一筋縄ではいかないのだ。
魔物だってバカじゃない、あの手この手で我々を狙ってくるのだ。俺は自らの浅はかさを恥じた。
しばらくすると、エステルは目を開き、こっちを向いた。
「ソータ様、申し訳ございません……」
泣きそうな目でそういうエステル。
俺は首を振って、
「俺が不注意だった。ごめんね」
と、謝り、そっと美しい金髪をなでた。
その後、治癒魔法をかけたいということで一旦ダンジョンへと移動する事になった。どうも日本では魔法が使えないらしい。しかし、服はボロボロ、実質全裸である。俺はTシャツとスエットパンツを棚から掘り出して、エステルに渡した。
フラフラとしながら着替えるエステル。
「うふふ、ソータ様の匂いがしますぅ」
と、力なく笑う。
少しは余裕が出てきたようでホッとした。
エステルはブカブカのスエットパンツのすそを折りたたむと、鏡の向こうをじっくりと偵察する。そして杖を持ってヨロヨロとダンジョンへと入って行った。
しばらくすると、鏡から顔を出して
「もう大丈夫です! 先を行きましょう!」
と、元気に笑った。
俺はホッと胸をなでおろした。
だが……、俺はちょっと疲れてしまって、いったん休憩を入れることにする。
◇
コンビニに行って、おにぎりやジュースなどを買い込む。異世界人は何を喜ぶのか良く分からなかったので、種類多めにして買ってみた。
「エステル、戻ったよー!」
部屋のドアを開けると……、いない……。
「おい! エステル!」
声をかけるが返事がない。トイレにもベランダにもいない。
見ると靴もない。もしかして一人でダンジョンへ行ってしまったのでは?
折角生き返ったのに、一体何をやってるんだあいつは! 俺はまたエステルを失うかもしれない恐怖に真っ青になった。
1-10. モンスターハウス
急いで鏡に頭を突っ込んでみると……。
「いやぁぁぁ! やめてぇぇぇ!」
エステルがまたゴブリンたちに囲まれていた。
「グギャケケケ!」「グルグルグル!」「グギャ――――!」
ゴブリンたちはうれしそうにエステルを取り囲んで雄たけびを上げる。
エステルは殺虫剤を持っていて、ゴブリンたちに吹きかけているのだが……、全然効いていない。一体なぜだ?
俺は急いで物干しざおと殺虫剤を手に取るとゴブリンたちに駆け寄り、殺虫剤をプシューっと噴霧した。
すると、ゴブリンたちは
「グギャァッ!」「ギャァッ!」
と断末魔の悲鳴を上げ、次々とドス黒く変色し……、溶け落ちて行った。
やっぱり殺虫剤は効くのだ。しかし、同じ製品の殺虫剤をエステルがかけても効かなかった……。こんな事あるのだろうか?
俺はいぶかしく思いながらも、エステルに駆け寄った。
「ソータ様ぁ! うわぁぁぁぁん!」
エステルは思いっきり抱き着いてくる。
俺もホッとしてエステルをしっかりと抱きしめた。
温かく、そして柔らかい細身の身体。俺はそれを全身で感じ、無事を喜んだ。
「ヒックヒック……、ごめんなさい、描いた地図を洞窟に落としたままだったので、ちょっと拾おうと出ただけなんです。そしたらいきなりゴブリンが湧いて……」
エステルは泣きながら説明する。
「これからは一人でダンジョンへ行くのは禁止な」
俺はぎゅっと抱きしめて言った。
「は、はい……」
ふんわりと立ち上ってくる甘酸っぱい優しい匂いに包まれて、俺は心から安堵した。
◇
部屋に戻り、オレンジジュースを一口飲んで、エステルが言った。
「私の殺虫剤は効きませんでした……。やっぱりソータ様でないとダメなんです。ソータ様は世界を救う稀人だったんです……」
キラキラとした瞳で俺をジッと見つめるエステル。
「いやぁ、そんなことってあるのかな? 誰がかけたって殺虫剤の成分は同じだよ」
「実際、私は効きませんでしたよ!」
「うん、俺も見てた……。なんでかなぁ?」
「ソータ様が稀人ってことです!」
エステルは両手のこぶしを握って興奮気味に言う。
「うーん、良く分からないけど、エステルは引き続き後衛な。俺が殺虫剤担当で」
「はいっ! 次は天井にも注意するです!」
エステルはうれしそうに言った。
◇
食後にダンジョンに再エントリーする事にした。
エステルには俺のパーカーを着せてみる。さすがにブカブカなのでそでを折って着てもらう。エステルはパーカーの匂いをクンクン嗅いでうれしそうにニコニコしている。大丈夫だろうか?
ダンジョンに潜ると、スライムのいたところに出る。暗闇の危険性はよく分かったので、エステルに照明の魔法を使ってもらい、明るい中を移動していく。
次々と出てくるコボルトやオーク、ゴブリンを難なく倒しながら進んでいくと、壁面に大きな扉が現れた。
「あー、これはモンスターハウスかもです……」
エステルが言う。
「何それ?」
「モンスターがうじゃうじゃ大量にいる小部屋の事ですよ。宝も多いですが皆さん結構倒すのに苦労しているです」
「宝!?」
俺は聞き捨てならない単語に色めき立った。
「そうです、宝箱の中に金貨とかポーションとか、武器とかあるです」
「欲しい! 欲しい! 行こうよ!」
「えー!? ソータ様、安全第一で行くって言ってたじゃないですか」
「殺虫剤が効くなら何とかなるよ。ダメだったら鏡に逃げよう」
「うーん、そうです?」
エステルは気乗りしない様子だった。でも、お宝を前に素通りはできない。俺は就活をほっぽり出してダンジョンに来ているのだ。何らかの成果を上げない限り、就活に戻らざるを得なくなる。もう『無い内定』の人なんて周りに数えるほどしかいないのだ。
「さぁ、やるぞ!」
俺はそう言って、くん煙式殺虫剤『バルザン』を取り出した。家全体を煙でいぶすタイプの殺虫剤だ。俺はふたを開けて点火場所をこすって火を起こす……。
しばらく待っているとブシューと煙が噴き出し始めたので、ドアを少しだけ開けてバルザンを放り込んだ。
そしてドアを閉め、輪っかになってる取っ手の所に物干しざおを突っ込み、閂のようにしてドアが開かないようにした。
少し離れて様子を見ていると、ドアが内側から激しい勢いでガンガン! と叩かれ、ドアがきしむ。
「いやぁ!」
エステルがビビって俺にしがみつく。
ここは物干しざおに頑張ってもらうしかない。
魔物の叩く勢いでドアがギシギシと揺れている。
「頼むぞ、物干しざお……」
俺は手に汗を握りながら推移を見守った……。
「ソータ様ぁ……」
エステルが震えているので、俺は手をギュッとにぎってあげながらドアをにらんだ。
徐々に音は弱々しくなり、やがて何の音もしなくなった。
さて、どうなりましたやら……。
俺はそっと近づくと物干しざおを抜いた。
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