終わりを願って恋が始まる。
第4話 愛する人との再会
村松遥 その4
荻野先生とのデートから数日が経ったが、特に進展はない。相変わらずの片想いだ。
進展がないといえば、まりとあれから口をきかないままだ。喧嘩をすることなんて珍しくもないが、ここまで長引いているのは初めてだ。もしかすれば、このまま卒業まで、いや一生話すことはないのではないかとも思う。
今日もまりは授業が終わるとすぐに塾から帰ってしまった。
それから数時間、塾が閉じる時間まで自習スペースで時間を潰した。
「一緒に帰りましょ」
「家逆だろ」
「駅に用事があるので」
「そうですか」
窓の戸締りをしながら、荻野先生は適当にそう言った。最近、先生の私に対する接し方が雑になっているように感じる。最初はもっと警戒されていたように思う。そう考えればこれも進展と言えるかもしれない。
あと、最近気づいたが「そうですか」は荻野先生の口癖だ。主に会話を打ち切りたいときに使っている。今回は納得、というより諦め、といったニュアンスだろう。
「早く行くぞ」
「はーい」
すっかり冬の空気になった町は光が澄んでみえる。街灯も、パチンコ店のネオンも、うっすらとみえるオリオン座も。
駅へと続く商店街の歩きながら私はさりげなく先生に質問する。
「そういえば荻野先生って、何歳ですか?」
「三十六だけど」
「やっぱり」
「やっぱり?」
荻野先生と話をする中で少しずつだがパーソナルな情報を得てきた。
ここが地元で、今は友人とルームシェアをしていて、私に似ているという好きだった人は先生の高校の同級生。つまり先生と同い年の人だ。
そして今、先生の年齢を知ったことで私の中の仮説が確信に変わった。
私は名探偵のごとく、先生に人差し指を突き立てる。
「先生の好きな人って、私のママなんじゃないですか?」
「え、そんな若いの」
「うん、両親、……元両親二人とも同い年で三十六歳」
「マジかぁ……同い年で高校生の子どもが……」
なにやらショックを受けている荻野先生。
思っていたリアクションとは違うが、これはこれで可愛らしいのでよしとする。
「私のママ、近くの女子高通ってて、結構モテたって言ってたからそうかなって」
「そうですか」
また口癖が出た。今度はバッサリとした否定のニュアンスだ。まだママの名前も言ってないのに。
何か情報を取りこぼしていただろうか。
考えているうちに気がつけば駅についていた。
隣を歩く荻野先生の歩幅が狭まる。振り向くと先生はポールに囲われ、布を被せられた大きな物体を不思議そうに見ていた。
「それピアノだよ」
あぁ、と先生は声を漏らす。いつからか駅に設置されたグランドピアノは昼間、誰でも自由に弾いていい。時折ピアノの音色が駅構内に響いているのを荻野先生も知っているのだろう。
「私、ここだから」
「誰かと待ち合わせ?」
「うん、パパとね……」
口に出すと、心臓の鼓動が早まるのを感じた。
今日、一ヶ月ぶりにパパと会う。
浮気をしたこと、ママを悲しませたこと、私を置いて出ていってしまったこと。
パパは私のことをどう思っているのか。それを聞くのが怖い。
もうお前のことなんかどうでもいい。もしそんな風に言われたら私は……。
無意識に漏れたため息が白く濁って宙へと消えていく。
「はい」
荻野先生が差し出してきたのは使いかけのカイロだった。
受け取るとじんわりと温かくて、私はそっと頬に当てる。
そうだ。
パパがどう思ってるかなんて、私が考えてもわからない。
私は、パパに直接あって、話をしたい。
塾で一人、涙を流した日から少しずつ心に余裕が生まれ、そう思えるようになったのは間違いなく荻野先生のおかげだった。カイロの温もりがそのまま荻野先生の優しさのように感じる。
他人にとっては無愛想なただのおじさんかもしれない。
だけどやっぱり、私は荻野先生のことが。
「あ」
人混みの中、パパがこちらへ近づいてくるのが見えた。
鼓動がさらに早まる。呼吸が浅くなる。私は手に握られたカイロをぎゅっと握りしめる。
パパは私を見てすぐに、隣に立つ先生へと目を向け、私が説明するよりも先に、パパの口が開いた。
「荻野?」
え? なんでパパが先生の名前を知っているの?
「矢崎……」
隣からポツリと、私の元の苗字であるパパの苗字を先生が呟く。
二人とも、知り合い?
そんな疑問を、荻野先生がパパを見つめる目が一瞬で払拭させた。
私はこの目を知っている。
かつて教室で泣いていた私を見つめた目と同じだ。そこで私は、自分が取りこぼしていた情報を思い出す。
『自分の子どもにピアノを習わせたいって言ってたな』
私にピアノを勧めてきたのはママじゃない。パパだ。
荻野先生が好きだった人は、私のパパ……。
え?
デートの時の記憶が蘇ると同時に、荻野先生の言葉が続けて脳内で再生された。
『ついこないだ久しぶりに会ったばかりだったから』
それってパパと会ってたってこと?
じゃあ、パパが不倫した相手の男って……。
「……私帰るね」
「遥」
掴んできたパパの手を払い、振り返るとパパの後ろに荻野先生が見えた。
「大嫌い」
訳も分からず涙が溢れ、私は走った。
荻野要 その4
矢崎と初めて会ったとき、矢崎は一人で泣いていた。
後から思えば、泣くことなんて矢崎にとっては当たり前のことだったが子どものようにボロボロと涙を流す同級生の存在に俺は面食らってしまい、無視すればいいものをとっさにハンカチを差し出してしまった。
「ありがとう」
ハンカチ越しに矢崎と触れ、俺は彼を救いたいと思った。
あの頃、矢崎の涙を拭うことが俺の存在意義になっていた。高校生という多感で、不安定な時期に突然芽生えた使命感、それを果たすことで俺は悦に浸っていた。
矢崎には俺が必要だ。それがいつしか俺には矢崎が必要になっていた。
そして俺は恋に落ちた。
しかし、矢崎の涙を拭う存在は俺だけではなかった。
かわいそうだから、ほっとけないから、可愛いから。
矢崎の周りには常に女子がいた。そのうち誰かと恋人関係になって、うまくいかなくて別れて、泣いて、また誰かと付き合って。
矢崎はどうしようもないやつだった。
「だったら、俺と付き合えよ。俺はお前を泣かせたりしない」
矢崎の涙を拭きながら、何度言おうと思ったか分からない。
だけどもし、本当に付き合えてしまったら。始まってしまえば、いつか終わりが訪れるかもしれない。そうしたら今度は誰が矢崎の涙を拭ってあげるのか。
そう思い、俺は自分の思いを口にすることはなかった。
恋人関係にはなれなくても、友人として一生そばにいよう、と心に決めたが大学進学を機に連絡は途絶え、成人式で人伝てに子どもができて大学を退学して結婚したと聞いた。
矢崎はどうしようもないやつだった。
「まだ草野と住んでるの?」
「うん」
「仲良いなお前ら」
はは、と矢崎は笑い、酒を煽る。
俺は目の前に出された酒を飲む気分にならず、手に持って揺らすばかりだ。
まさか、矢崎の娘が村松遥だったとは。
あの日、教室で一人泣いていた彼女の言葉を思い出す。
『パパは男と不倫した』
それはきっと、俺のことだろう。
少し前、突然矢崎から連絡が来て俺は舞い上がり今みたいにバーで一緒に酒を飲んだ。空白の期間を埋めるように俺たちは語らった。その時も矢崎の口から積極的に家族の話題は出していなかったように思う。俺も聞きたくなかったからあえて避けて昔話に花を咲かせた。
その帰り、矢崎は不意に俺を抱きしめ、唇を寄せてきた。
突き放せる力加減だった。顔を背けることもできた。
なのに俺は、拒まなかった。
唇が離れるとすぐに「じゃあな」と快活な表情で手を振り歩き去る矢崎を俺は呼び止めることができなかった。
あれから連絡を取らなかった。あのキスの意味を聞くのが怖かったから。しかしその間に、矢崎の家庭は壊れていた。
俺のせいで、矢崎は離婚し、村松遥は涙を流した。
「お前の娘のことだけど……」
「遥、荻野のこと好きになったのか。さすが俺の娘だな」
「は」
発言の意図がわからずに振り向くと、矢崎の目は酒のせいか潤んでおり、ほんのりと赤い。まるで、初めて会った日のように。
「俺たち付き合わないか。俺今フリーだし」
グラスの中の氷がカタリと音を立てて溶け
荻野先生とのデートから数日が経ったが、特に進展はない。相変わらずの片想いだ。
進展がないといえば、まりとあれから口をきかないままだ。喧嘩をすることなんて珍しくもないが、ここまで長引いているのは初めてだ。もしかすれば、このまま卒業まで、いや一生話すことはないのではないかとも思う。
今日もまりは授業が終わるとすぐに塾から帰ってしまった。
それから数時間、塾が閉じる時間まで自習スペースで時間を潰した。
「一緒に帰りましょ」
「家逆だろ」
「駅に用事があるので」
「そうですか」
窓の戸締りをしながら、荻野先生は適当にそう言った。最近、先生の私に対する接し方が雑になっているように感じる。最初はもっと警戒されていたように思う。そう考えればこれも進展と言えるかもしれない。
あと、最近気づいたが「そうですか」は荻野先生の口癖だ。主に会話を打ち切りたいときに使っている。今回は納得、というより諦め、といったニュアンスだろう。
「早く行くぞ」
「はーい」
すっかり冬の空気になった町は光が澄んでみえる。街灯も、パチンコ店のネオンも、うっすらとみえるオリオン座も。
駅へと続く商店街の歩きながら私はさりげなく先生に質問する。
「そういえば荻野先生って、何歳ですか?」
「三十六だけど」
「やっぱり」
「やっぱり?」
荻野先生と話をする中で少しずつだがパーソナルな情報を得てきた。
ここが地元で、今は友人とルームシェアをしていて、私に似ているという好きだった人は先生の高校の同級生。つまり先生と同い年の人だ。
そして今、先生の年齢を知ったことで私の中の仮説が確信に変わった。
私は名探偵のごとく、先生に人差し指を突き立てる。
「先生の好きな人って、私のママなんじゃないですか?」
「え、そんな若いの」
「うん、両親、……元両親二人とも同い年で三十六歳」
「マジかぁ……同い年で高校生の子どもが……」
なにやらショックを受けている荻野先生。
思っていたリアクションとは違うが、これはこれで可愛らしいのでよしとする。
「私のママ、近くの女子高通ってて、結構モテたって言ってたからそうかなって」
「そうですか」
また口癖が出た。今度はバッサリとした否定のニュアンスだ。まだママの名前も言ってないのに。
何か情報を取りこぼしていただろうか。
考えているうちに気がつけば駅についていた。
隣を歩く荻野先生の歩幅が狭まる。振り向くと先生はポールに囲われ、布を被せられた大きな物体を不思議そうに見ていた。
「それピアノだよ」
あぁ、と先生は声を漏らす。いつからか駅に設置されたグランドピアノは昼間、誰でも自由に弾いていい。時折ピアノの音色が駅構内に響いているのを荻野先生も知っているのだろう。
「私、ここだから」
「誰かと待ち合わせ?」
「うん、パパとね……」
口に出すと、心臓の鼓動が早まるのを感じた。
今日、一ヶ月ぶりにパパと会う。
浮気をしたこと、ママを悲しませたこと、私を置いて出ていってしまったこと。
パパは私のことをどう思っているのか。それを聞くのが怖い。
もうお前のことなんかどうでもいい。もしそんな風に言われたら私は……。
無意識に漏れたため息が白く濁って宙へと消えていく。
「はい」
荻野先生が差し出してきたのは使いかけのカイロだった。
受け取るとじんわりと温かくて、私はそっと頬に当てる。
そうだ。
パパがどう思ってるかなんて、私が考えてもわからない。
私は、パパに直接あって、話をしたい。
塾で一人、涙を流した日から少しずつ心に余裕が生まれ、そう思えるようになったのは間違いなく荻野先生のおかげだった。カイロの温もりがそのまま荻野先生の優しさのように感じる。
他人にとっては無愛想なただのおじさんかもしれない。
だけどやっぱり、私は荻野先生のことが。
「あ」
人混みの中、パパがこちらへ近づいてくるのが見えた。
鼓動がさらに早まる。呼吸が浅くなる。私は手に握られたカイロをぎゅっと握りしめる。
パパは私を見てすぐに、隣に立つ先生へと目を向け、私が説明するよりも先に、パパの口が開いた。
「荻野?」
え? なんでパパが先生の名前を知っているの?
「矢崎……」
隣からポツリと、私の元の苗字であるパパの苗字を先生が呟く。
二人とも、知り合い?
そんな疑問を、荻野先生がパパを見つめる目が一瞬で払拭させた。
私はこの目を知っている。
かつて教室で泣いていた私を見つめた目と同じだ。そこで私は、自分が取りこぼしていた情報を思い出す。
『自分の子どもにピアノを習わせたいって言ってたな』
私にピアノを勧めてきたのはママじゃない。パパだ。
荻野先生が好きだった人は、私のパパ……。
え?
デートの時の記憶が蘇ると同時に、荻野先生の言葉が続けて脳内で再生された。
『ついこないだ久しぶりに会ったばかりだったから』
それってパパと会ってたってこと?
じゃあ、パパが不倫した相手の男って……。
「……私帰るね」
「遥」
掴んできたパパの手を払い、振り返るとパパの後ろに荻野先生が見えた。
「大嫌い」
訳も分からず涙が溢れ、私は走った。
荻野要 その4
矢崎と初めて会ったとき、矢崎は一人で泣いていた。
後から思えば、泣くことなんて矢崎にとっては当たり前のことだったが子どものようにボロボロと涙を流す同級生の存在に俺は面食らってしまい、無視すればいいものをとっさにハンカチを差し出してしまった。
「ありがとう」
ハンカチ越しに矢崎と触れ、俺は彼を救いたいと思った。
あの頃、矢崎の涙を拭うことが俺の存在意義になっていた。高校生という多感で、不安定な時期に突然芽生えた使命感、それを果たすことで俺は悦に浸っていた。
矢崎には俺が必要だ。それがいつしか俺には矢崎が必要になっていた。
そして俺は恋に落ちた。
しかし、矢崎の涙を拭う存在は俺だけではなかった。
かわいそうだから、ほっとけないから、可愛いから。
矢崎の周りには常に女子がいた。そのうち誰かと恋人関係になって、うまくいかなくて別れて、泣いて、また誰かと付き合って。
矢崎はどうしようもないやつだった。
「だったら、俺と付き合えよ。俺はお前を泣かせたりしない」
矢崎の涙を拭きながら、何度言おうと思ったか分からない。
だけどもし、本当に付き合えてしまったら。始まってしまえば、いつか終わりが訪れるかもしれない。そうしたら今度は誰が矢崎の涙を拭ってあげるのか。
そう思い、俺は自分の思いを口にすることはなかった。
恋人関係にはなれなくても、友人として一生そばにいよう、と心に決めたが大学進学を機に連絡は途絶え、成人式で人伝てに子どもができて大学を退学して結婚したと聞いた。
矢崎はどうしようもないやつだった。
「まだ草野と住んでるの?」
「うん」
「仲良いなお前ら」
はは、と矢崎は笑い、酒を煽る。
俺は目の前に出された酒を飲む気分にならず、手に持って揺らすばかりだ。
まさか、矢崎の娘が村松遥だったとは。
あの日、教室で一人泣いていた彼女の言葉を思い出す。
『パパは男と不倫した』
それはきっと、俺のことだろう。
少し前、突然矢崎から連絡が来て俺は舞い上がり今みたいにバーで一緒に酒を飲んだ。空白の期間を埋めるように俺たちは語らった。その時も矢崎の口から積極的に家族の話題は出していなかったように思う。俺も聞きたくなかったからあえて避けて昔話に花を咲かせた。
その帰り、矢崎は不意に俺を抱きしめ、唇を寄せてきた。
突き放せる力加減だった。顔を背けることもできた。
なのに俺は、拒まなかった。
唇が離れるとすぐに「じゃあな」と快活な表情で手を振り歩き去る矢崎を俺は呼び止めることができなかった。
あれから連絡を取らなかった。あのキスの意味を聞くのが怖かったから。しかしその間に、矢崎の家庭は壊れていた。
俺のせいで、矢崎は離婚し、村松遥は涙を流した。
「お前の娘のことだけど……」
「遥、荻野のこと好きになったのか。さすが俺の娘だな」
「は」
発言の意図がわからずに振り向くと、矢崎の目は酒のせいか潤んでおり、ほんのりと赤い。まるで、初めて会った日のように。
「俺たち付き合わないか。俺今フリーだし」
グラスの中の氷がカタリと音を立てて溶け