終わりを願って恋が始まる。
第5話 はんぶんこ
村松遥 その5
駅へと向かう人の波に抗い、私は先ほど荻野先生と歩いてきた道を一人で引き返す。黙って足を動かすが、頭の中は騒がしい。
意味がわからない。わけがわからない。荻野先生が好きだった人が、私のパパ?そりゃあ私に似てるでしょうね。だって私のパパなんだから。
私が好きな荻野先生はパパに惚れてて。パパは荻野先生と不倫して。
なんだよそれ。それじゃあ私は、誰からも想われていない、邪魔者じゃないか。
このぐじゃぐじゃとした感情を誰かと分かち合いたいと思いながら、誰の顔も思い浮かばないまま、気づけば私は塾まで戻っていた。すでに電気が消え、誰もいない真っ暗な塾はとても寂しく思えた。
「君、ここの塾の生徒?」
影の中から声が聞こえ、目をこらすと輪郭がうっすらと見える。声は中年のそれなのに顔は大学生くらいにも見える。
ナンパ、いや不審者か、と身構えたが、私はすぐに体の力を抜いた。普段なら無視をしたり、すぐに走って逃げるが今はもうどうでもいい。
だって私は誰からも想われていない、一人だから。
「そうですけど」
「荻野って講師知らない? 関係者なんだけど」
荻野? 今一番聞きたく名前だっつーの。
「知りません」
「マジかー」
どうしよっかなー、と身体をさすっている男の人。
あれ? もしかして荻野先生と一緒に住んでる……。
「草野さん、ですか?」
「そうだけど、なんで名前……」
やっぱりそうだ、と目の前の男が不審者ではないことを無意識に安心すると同時に、一つの疑問が浮かぶ。パパのことが好きだと言う荻野先生と今現在一緒に住んでる、ってことは。
「もしかして、荻野先生の彼氏とかですか?」
「きもっ」
「え」
「俺ホモとか無理だから」
草野さんはケラケラと笑う。軽い調子でいっているが、本心なのだとわかった。だからこそわからない。
「じゃあなんで荻野先生と一緒に住んでるんですか?」
「それは別に、あいつがホモになる前から知り合ってたからセーフ、みたいな」
「セーフ……」
「てかあんまり関係ないから。俺に手出してこない限りは。出してきたら殴るけど」
関係、ないのかな。
でも不思議と草野さんの言葉には説得力があった。実際に一緒に住んでいるわけだし。何より男を好きになるとかよりも、荻野先生個人を見ているように感じた。
そう言う意味だったのか。
私は少し前の荻野先生との会話を思い出す。
『え?! 荻野先生一人暮らしじゃないんですか?』
『そうだけど』
『彼女ですか? お嫁さんですか? 先生指輪してないですよね?』
『お、男だよ。ただの友達』
『よかったー』
『いや……あぁ、やっぱいいや』
『いや? なんですか?』
『いや、ただの友達じゃなくて、大切な友達だよ……』
『うわ、先生照れてる! 可愛いね』
『そうですか』
恥ずかしそうな荻野先生の表情を思い出すと自然と笑みがこぼれた。そして私の頭にはまりの顔が思い浮かんだ。いつもの笑っている顔だ。
そうだ。そうだった。私は一人じゃない。
私にも、大切な友達がいる。
「荻野先生、駅の方にいますよ」
「もう帰ったか。じゃあいいや」
草野さんはそばに立ててあった自転車にまたがると「どうもね」と一瞥してふらつきながら夜の闇へと消えていった。
私はかじかむ指をカイロで温めながらスマートフォンを操作し、まりへ通話をかける。通話は一度のコールでつながったが、私は声が出せなかった。
今までごめん。本当はずっと謝りたかった。都合が良すぎるけど私の話を聞いて欲しい。
まりに言いたいこと、言うべきことがありすぎて喉の奥でつっかえる。すると、通話の向こうで上着を羽織る音が聞こえた。
「いつものファミレスでいい?」
私は小さく、そして強く頷いた。
荻野要 その5
酒で火照った身体を冬の夜風で冷ましながら帰路につくと家の前で潤平がうずくまっていた。
「遅い」
「なにしてんの」
「鍵忘れてさ」
呆れながら扉を開けると潤平はそそくさとこたつに潜り、コントローラーを握る。相変わらずのパワプロだ。
ピッチャーの球種を選択しながら、潤平はなんでもない感じに話す。
「さっきお前が好きな女子高生に会ったよ」
「は? なんで?」
「たまたま。確証ないけど」
「なにそれ」
これ以上聞いても潤平からはろくな情報は得られないだろうなと、長年の勘でわかった。しかし「お前『が』好きな」というとまるで俺が村松遥を好き、みたいに聞こえてしまう。
俺が好きなのは。
俺もまた、なんでもない感じを装いながら話す。
「矢崎にあったよ」
「まじ? 何年振り?」
「……いや、実はちょっと前にも会ってた」
「ふーん。元気してた?」
「元気、じゃなかったな。離婚してたし、娘には嫌われてるし」
「あらあら」
なんて他人事な相槌だ、と俺はおかしくて笑ってしまう。だからまた、ついつい喋りすぎてしまう。
「あいつが離婚した原因、俺なんだよ」
「は? なんでそうなる?」
「前に会った時、あいつからキスされて……」
「おえっ。なんだそれ、俺の周りホモばっかかよ」
「ホモじゃないって。あいつの場合は」
そう。俺とあいつは違う。俺はあいつのことが好きだが、あいつはただの寂しがりやだ。
「それで俺と不倫したって奥さんが思ってそれで離婚」
「おもしろ」
「おもしろくねーよ。あと今日付き合おって言われた」
はぁ? と流石の潤平もテレビ画面から目を離しこちらへ振り返る。
「したんじゃなくてされたの?」
うん、と頷くとやっぱりホモじゃん、と潤平は面白そうにケラケラと笑う。
「断ったけど」
「なんで」
「なんで、か」
矢崎に付き合うかと言われた時、正直に言えば嬉しかった。長年想い続けた時間が報われるような思いがした。しかし、俺を見つめる矢崎の顔を見ていると村松遥の顔が浮かんできた。
『私、荻野先生のこと好きですから』
そこで俺は気がついた。俺は矢崎の口から一度も、好きだなんて言われていないことを。
「あいつは俺のこと好きじゃないんだよ。昔から変わってない。誰でもいいからそばにいて欲しいだけ。でも、今はお前よりも傷ついている娘のことを優先しろって」
付き合おうと言われたあと、俺は矢崎に聞いた。
どうして村松遥にピアノを勧めたのか、と。
矢崎はフッと笑い、ピアノの楽しさ、難しさ、教育への良さを語り出し、それに続けて自分の娘の可愛らしさ、愛おしさについて饒舌に語った。
高校生の頃、一人で泣いていたあの頃の矢崎はもういない。
父親の顔をした矢崎にはもう俺が涙を拭いてやる必要はなく、一人で泣いている村松遥に手を差し伸べる責任があると思った。
「だからいい加減、俺の片想いもおしまいだよ」
「お前もやっと子どもから大人に成長したな」
「なにそれ。なにか関係ある?」
「片想いなんか子どもがすることなんだよ」
「知ったようなこと言いやがって」
それとさ、潤平はゲーム画面を見ながら呟いた。
「離婚の原因ってお前じゃないんじゃない? ほら、たった一回お前とチューしたとかより、矢崎が他の男とガンガンやりまくってて、それで奥さんにバレたとかの方が納得いくし」
潤平が操るキャラクターがボールを持った腕を大きく振り上げる。
「それってさ、もしかして慰めてくれてる?」
「きしょいこと言うな」
潤平から投げつけられたみかんを捕り、俺はこたつに入ってゆっくりと皮をむく。足の先からじんわりと熱が伝わり、今まで張っていた気が緩むのを感じて、俺はとっさに上を向いて目を閉じる。
「は? 泣いてんの? ダセェ」
「みかんの汁が飛んできただけ」
潤平の口の悪さに涙はすぐに引っ込み、俺は何事もなかったように皮をむく。うん。熟れたみかんはやわらくて甘い。
「やっぱ半分ちょうだい」
「嫌だよ」
画面には試合終了の文字がデカデ
駅へと向かう人の波に抗い、私は先ほど荻野先生と歩いてきた道を一人で引き返す。黙って足を動かすが、頭の中は騒がしい。
意味がわからない。わけがわからない。荻野先生が好きだった人が、私のパパ?そりゃあ私に似てるでしょうね。だって私のパパなんだから。
私が好きな荻野先生はパパに惚れてて。パパは荻野先生と不倫して。
なんだよそれ。それじゃあ私は、誰からも想われていない、邪魔者じゃないか。
このぐじゃぐじゃとした感情を誰かと分かち合いたいと思いながら、誰の顔も思い浮かばないまま、気づけば私は塾まで戻っていた。すでに電気が消え、誰もいない真っ暗な塾はとても寂しく思えた。
「君、ここの塾の生徒?」
影の中から声が聞こえ、目をこらすと輪郭がうっすらと見える。声は中年のそれなのに顔は大学生くらいにも見える。
ナンパ、いや不審者か、と身構えたが、私はすぐに体の力を抜いた。普段なら無視をしたり、すぐに走って逃げるが今はもうどうでもいい。
だって私は誰からも想われていない、一人だから。
「そうですけど」
「荻野って講師知らない? 関係者なんだけど」
荻野? 今一番聞きたく名前だっつーの。
「知りません」
「マジかー」
どうしよっかなー、と身体をさすっている男の人。
あれ? もしかして荻野先生と一緒に住んでる……。
「草野さん、ですか?」
「そうだけど、なんで名前……」
やっぱりそうだ、と目の前の男が不審者ではないことを無意識に安心すると同時に、一つの疑問が浮かぶ。パパのことが好きだと言う荻野先生と今現在一緒に住んでる、ってことは。
「もしかして、荻野先生の彼氏とかですか?」
「きもっ」
「え」
「俺ホモとか無理だから」
草野さんはケラケラと笑う。軽い調子でいっているが、本心なのだとわかった。だからこそわからない。
「じゃあなんで荻野先生と一緒に住んでるんですか?」
「それは別に、あいつがホモになる前から知り合ってたからセーフ、みたいな」
「セーフ……」
「てかあんまり関係ないから。俺に手出してこない限りは。出してきたら殴るけど」
関係、ないのかな。
でも不思議と草野さんの言葉には説得力があった。実際に一緒に住んでいるわけだし。何より男を好きになるとかよりも、荻野先生個人を見ているように感じた。
そう言う意味だったのか。
私は少し前の荻野先生との会話を思い出す。
『え?! 荻野先生一人暮らしじゃないんですか?』
『そうだけど』
『彼女ですか? お嫁さんですか? 先生指輪してないですよね?』
『お、男だよ。ただの友達』
『よかったー』
『いや……あぁ、やっぱいいや』
『いや? なんですか?』
『いや、ただの友達じゃなくて、大切な友達だよ……』
『うわ、先生照れてる! 可愛いね』
『そうですか』
恥ずかしそうな荻野先生の表情を思い出すと自然と笑みがこぼれた。そして私の頭にはまりの顔が思い浮かんだ。いつもの笑っている顔だ。
そうだ。そうだった。私は一人じゃない。
私にも、大切な友達がいる。
「荻野先生、駅の方にいますよ」
「もう帰ったか。じゃあいいや」
草野さんはそばに立ててあった自転車にまたがると「どうもね」と一瞥してふらつきながら夜の闇へと消えていった。
私はかじかむ指をカイロで温めながらスマートフォンを操作し、まりへ通話をかける。通話は一度のコールでつながったが、私は声が出せなかった。
今までごめん。本当はずっと謝りたかった。都合が良すぎるけど私の話を聞いて欲しい。
まりに言いたいこと、言うべきことがありすぎて喉の奥でつっかえる。すると、通話の向こうで上着を羽織る音が聞こえた。
「いつものファミレスでいい?」
私は小さく、そして強く頷いた。
荻野要 その5
酒で火照った身体を冬の夜風で冷ましながら帰路につくと家の前で潤平がうずくまっていた。
「遅い」
「なにしてんの」
「鍵忘れてさ」
呆れながら扉を開けると潤平はそそくさとこたつに潜り、コントローラーを握る。相変わらずのパワプロだ。
ピッチャーの球種を選択しながら、潤平はなんでもない感じに話す。
「さっきお前が好きな女子高生に会ったよ」
「は? なんで?」
「たまたま。確証ないけど」
「なにそれ」
これ以上聞いても潤平からはろくな情報は得られないだろうなと、長年の勘でわかった。しかし「お前『が』好きな」というとまるで俺が村松遥を好き、みたいに聞こえてしまう。
俺が好きなのは。
俺もまた、なんでもない感じを装いながら話す。
「矢崎にあったよ」
「まじ? 何年振り?」
「……いや、実はちょっと前にも会ってた」
「ふーん。元気してた?」
「元気、じゃなかったな。離婚してたし、娘には嫌われてるし」
「あらあら」
なんて他人事な相槌だ、と俺はおかしくて笑ってしまう。だからまた、ついつい喋りすぎてしまう。
「あいつが離婚した原因、俺なんだよ」
「は? なんでそうなる?」
「前に会った時、あいつからキスされて……」
「おえっ。なんだそれ、俺の周りホモばっかかよ」
「ホモじゃないって。あいつの場合は」
そう。俺とあいつは違う。俺はあいつのことが好きだが、あいつはただの寂しがりやだ。
「それで俺と不倫したって奥さんが思ってそれで離婚」
「おもしろ」
「おもしろくねーよ。あと今日付き合おって言われた」
はぁ? と流石の潤平もテレビ画面から目を離しこちらへ振り返る。
「したんじゃなくてされたの?」
うん、と頷くとやっぱりホモじゃん、と潤平は面白そうにケラケラと笑う。
「断ったけど」
「なんで」
「なんで、か」
矢崎に付き合うかと言われた時、正直に言えば嬉しかった。長年想い続けた時間が報われるような思いがした。しかし、俺を見つめる矢崎の顔を見ていると村松遥の顔が浮かんできた。
『私、荻野先生のこと好きですから』
そこで俺は気がついた。俺は矢崎の口から一度も、好きだなんて言われていないことを。
「あいつは俺のこと好きじゃないんだよ。昔から変わってない。誰でもいいからそばにいて欲しいだけ。でも、今はお前よりも傷ついている娘のことを優先しろって」
付き合おうと言われたあと、俺は矢崎に聞いた。
どうして村松遥にピアノを勧めたのか、と。
矢崎はフッと笑い、ピアノの楽しさ、難しさ、教育への良さを語り出し、それに続けて自分の娘の可愛らしさ、愛おしさについて饒舌に語った。
高校生の頃、一人で泣いていたあの頃の矢崎はもういない。
父親の顔をした矢崎にはもう俺が涙を拭いてやる必要はなく、一人で泣いている村松遥に手を差し伸べる責任があると思った。
「だからいい加減、俺の片想いもおしまいだよ」
「お前もやっと子どもから大人に成長したな」
「なにそれ。なにか関係ある?」
「片想いなんか子どもがすることなんだよ」
「知ったようなこと言いやがって」
それとさ、潤平はゲーム画面を見ながら呟いた。
「離婚の原因ってお前じゃないんじゃない? ほら、たった一回お前とチューしたとかより、矢崎が他の男とガンガンやりまくってて、それで奥さんにバレたとかの方が納得いくし」
潤平が操るキャラクターがボールを持った腕を大きく振り上げる。
「それってさ、もしかして慰めてくれてる?」
「きしょいこと言うな」
潤平から投げつけられたみかんを捕り、俺はこたつに入ってゆっくりと皮をむく。足の先からじんわりと熱が伝わり、今まで張っていた気が緩むのを感じて、俺はとっさに上を向いて目を閉じる。
「は? 泣いてんの? ダセェ」
「みかんの汁が飛んできただけ」
潤平の口の悪さに涙はすぐに引っ込み、俺は何事もなかったように皮をむく。うん。熟れたみかんはやわらくて甘い。
「やっぱ半分ちょうだい」
「嫌だよ」
画面には試合終了の文字がデカデ