君の秘密を聞かせて
 *



 午後の授業を受けながら、私はぼんやりと外を眺めていた。

 チョークが黒板を叩く音と、みんなが黒板の文章を書き記す音。それらが響く教室で、私は一人だけ、遠い世界に旅立っているようだった。

 いつもの授業。いつもの景色。

 当たり前に過ぎていく日々の中で、私は今日も当たり前のように生きている。

 数ヶ月前、それを終わらせようと思って駅のホームに立ったのに。私はいつまでも同じことに悩みながら、足踏みをしたままここにいる。

 結局、私はどうしたいんだろう。

 生きていく道を選ぶとするなら、どう生きていけばいいんだろう。

 そのことについて、考えていきたいと私は蓮くんに伝えた。でも、どう考えたらいいのかわからない。私が修ちゃんにしたことを自分で受け止めて、生きていける道なんて本当にあるのか……。

 やっぱりそんな道、ない気がしていた。

 井上さんは〝その人の分まで幸せに生きる〟なんて言っていたけれど、やっぱり無理だ。私にはその道は選べない。だって、あの親睦会の最中だって、私は修ちゃんのことを思い出しては自己嫌悪に陥ってたんだから。

 そして、井上さんと長谷くんにそのことを打ち明けられず、言葉に詰まって……。

〝相澤さ。中学のときはそんなんじゃなかっただろ〟

 ……長谷くん、気づいてたんだ。中学の頃と高校生になったあとの、私の変化に。

 いや、それはそうだろう。中学から一緒だった人ならわかる。あの日から、私は急に変わってしまったのだから。

 中学三年の二月に修ちゃんが亡くなって、私は心を閉ざすようになった。長谷くんとはこれまでほとんど話してはこなかったけれど、クラスメイトの変わりようにはさすがに気づく。長谷くんと同じクラスになったのは中学一年生の時以来だから、その時と比べると別人と感じるだろう。

 でも、だからって。

 私は今の私を変えられない……。

 窓の席、首を大きく曲げて、背後の景色を見つめた。

 そこには、中学校舎があった。

 三年間通っていたあの場所。体をひねれば、この席からでも見えるんだ、と今気づいた。

 いや、きっと、気づかないふりをしていただけだ。

 だって私は——あの頃の思い出に、ずっと目を背けてきたんだから。



 帰りのホームルームが終わると、私はそのまま校門には向かわず、校舎をなぞるようにしていつもと違う道を進んだ。

 少し歩いて、到着したのは中学校舎。

 茜色に染まる校舎の中は、あまり人気は感じられない。中学は高校よりも早く終わるから、部活をしている生徒以外はもう帰宅しているのだろう。

 懐かしい校舎。ほんの一年前にはここに通っていたなんて思えないくらい、すごく昔のことのように思えた。

 ここには、修ちゃんとのたくさんの思い出があった。

 たくさん話したな……。

 クラスが一緒になっても、離れても、どこかで見かければ必ず声をかけられた。廊下の先に私が歩いていれば、追いかけてきてまでちょっかいを出された。

 少ないけれど、仲のいい友達に囲まれて、修ちゃんもそばにいて。もしかしたら、あの頃が一番楽しかったかもしれない。

 それを思い出すのが怖くて、私は高校に上がってからは中学校舎を視界に入れることさえも避けていた。

 涙ぐみそうになって、はぁ、と大きく息を吐きながら下を向く。

 そして、帰ろうと歩き出した瞬間。

『おはよ、芽依!』

 頭上から声がした。

 見上げると、二階の窓から身を乗り出すようにして、男の子が手を振っている姿が見えた。

 息を呑んで、駆け寄る。

「……修ちゃん!」

 そう声に出し、瞬きをしたその一瞬に、修ちゃんの姿は消えてしまった。

 それでも、驚きのあまりその姿を探し続けた。でも教室には誰もいない。電気はついていないし、奥までは見えないにしても誰か人がいるような気配は感じられない。

 何よりも、先ほどまで開かれてカーテンが揺れていたと思った窓が今は、ぴたりと閉じられている。

 ……まぼろし。

 小さくため息をついた。

 いつも、修ちゃんは私の姿を見つけては手を振っていた。窓の向こうからでも。今見たのは、私のいつかの記憶だったんだ。

 いない。

 もう、修ちゃんはいない。

 ——でも、会いたい。

 記憶の中の彼でもいい。もう一度、会いたい。

 でも、どうしても体が動かなかった。

 校舎の中へ、一歩、足を踏み入れることさえできない。

 あの、蓮くんとのデートの日と同じだ。

 〝三笠駅へ行きたい〟——勇気を振り絞ってようやく言えたのに。最後の最後、私は結局行くことを拒否してしまった。せっかく中学校舎の入り口まで来れたのに、中に入れない今と同じ。

 申し訳なくて。怖くて。

 修ちゃんがそこにいたという現実と向かい合ったら、もうどうしようもなくなる気がして。

 私はずっと、逃げてきた。

 逃げて、逃げて、逃げ続けて……。

 私はいったい、どこに行くのだろう。

「おーい、優馬!」

 その時、聞き慣れた名前が背後から響いてきて、跳び上がりそうになった。

 長谷くんだ。

 つい、ツツジの茂みの裏に隠れてしまう。そこからそっと覗いて、高校の校舎の方角を見つめる。

 昇降口を出たところに、長谷くんと、それを追いかけているクラスメイトの男子たちが見えた。

 この学校は高校側と中学側にひとつずつ校門がある。電車組とバス組によって向かう方向が変わるのだけれど、長谷くんは中学校舎側の校門を使う人らしく、こちらに向かってくる。

 歩きながら、クラスメイトの一人が長谷くんをつついた。

「この時間に優馬を見かけるって珍しいなー。部活サボってどこ行くの? もしかして、優馬にもとうとう……彼女かぁー?」

「ばか、ちげーよ。ちょっと用事があって、今日だけは休ませてもらってるだけ」

「なんだ、つまんねーの。お前って本当、野球ばっかで浮いた話ないよなー」

 じっとツツジの裏でやり過ごす。男子四人がわいわいと楽しそうに通り過ぎるのを、息を殺しながら待った。

 そうしながら、ふと、長谷くんに話しかけたい衝動に駆られていた。

 今しかない。この前の親睦会の時のことを謝るのは、今しか。

 長谷くんは私にさして興味もなかったはずなのに、井上さんに呼ばれてそのまま帰らず、ちゃんとあの場にいてくれた。

 そして、私の話を聞こうとしてくれた。……それも、かなり突っ込んだ話を。

 私、やっぱり謝りたい。

 この機会を逃したら、もう話しかけることなんて無理かもしれない。

 高校ではクラス替えはないから、このままだとずっと長谷くんに対してわだかまりを残しながら過ごすことになってしまう。そんなこと、できない。

 なによりも長谷くんは、高校に上がってから数少ない、私とまともに話してくれたクラスメイトだ。

 本当は、私にはクラスの子と仲よくする資格なんか、ないかもしれないけど……。

 それでも。もし長谷くんがあの瞬間、私のせいでモヤモヤした気持ちになったなら、そのことだけはもう一度、謝りたい。

 中学校舎を見上げた。

 そこに、修ちゃんの姿はなかった。やっぱり誰もいない。ぴったりと閉じられたガラス窓の向こうには、灰色の天井が見えるだけ。

「……ごめんなさい、修ちゃん」

 呟くと、私は長谷くんたちのあとを追った。


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