君の秘密を聞かせて
*
私はその日の放課後、ホームルームが終わってから三十分ほど、椅子に座ってぼんやりと過ごしていた。
お喋りをしてから帰る子たちももういなくなって、部活に行く人はもうすでに教室を出ている。室内は静かで、まるで他人の家に取り残されてしまったかのように感じた。
スマホを取り出し、蓮くんから少し前に来たチャットを見返した。
〝今日は用事があって、帰り際にお見送りできないけど……気をつけて帰ってね〟
蓮くんは、今日はいない。これがうそでなければ、私をつけてくる心配もない。……そんな考え、ちょっと妄想が過ぎるかもしれないけれど。
私は今日、完全に一人だ。
少し気合いを入れると、私は鞄を持って教室を出た。下駄箱で上履きを脱ぎ、ローファーに履き替える。それから進んだ先は、駅へと向かう校門じゃなくて——中学校舎。
校舎は太陽が燃え尽きる最後の光を浴びて、真っ赤に染まっていた。
鞄を持つ、右手が震えている。それを止めるようにぐっと胸のあたりで拳を作り、目をつむった。
正直、どうしたらいいのかわからなかった。
〝これから、どうしていくべきなのか。私が修ちゃんのことを受け止めて、生きていく道があるのか〟
考えても、答えは出ない。井上さんと蓮くんには、私の立場だったらどうするかをそれぞれ聞いてみたけれど、でもその答えはどちらも私に合う答えなのかわからなかった。
でも、わからないからこそ、正面からぶつかるしかないと思った。
悪いところと向き合う。これは長谷くんの言葉。
もう、蓮くんの不安そうな顔は見たくない。蓮くんのために、そして何より自分のために、私は過去と向き合わないといけないんだ。
目を開けると、私は一歩踏み出した。
中学校舎の中は、なんだか懐かしい匂いがした。
高校よりも雑然とした、下駄箱の雰囲気。置き傘が転がっていたり、下駄箱に書かれた紙の名札プレートが曲がって取れかけてたり、廊下の奥には汚い文字の手書きポスターが貼られていたり。
高校と校舎の造りは基本同じなのに、ごちゃごちゃとしている。やんちゃで、散らかった空間も気にしなかった〝あの頃〟が今、ここに存在している。
ローファーを脱いで、記憶の通りの世界にそっと足を置く。
ひやりとした下駄箱の床に痛みに似た冷たさを感じた瞬間、どこからか声がした。
『おはよう! 芽依』
踵が折れたスニーカーを脱ぎ、修ちゃんが私をさっと追い抜いていった。
寝坊をして遅刻ぎりぎりの日は、徒競走のごとく下駄箱を走り抜ける修ちゃん。その光景を、容易に再現できた。私が普通に登校して、本鈴の前にトイレに行って戻ろうと廊下を歩いていたとき、何度も見た姿だった。
今までは、思い出すこともできなかった。
思い出すことが、怖くてたまらなかった。
「……おはよう、修ちゃん」
あの日と同じ言葉で答えると、修ちゃんは太陽みたいな笑顔を返して廊下を駆けていった。
ローファーを片隅に置かせてもらい、靴下のまま下駄箱を抜ける。誰もいない廊下は、中学の頃一番乗りで来ていた早朝の景色とよく似ていた。
いや、一番乗りじゃない。
教室に来るといつも修ちゃんが先に来ていたから、二番乗りだ。時々寝坊をしてしまうけれど、普段は朝一番で登校してしまうくらい修ちゃんは本当に学校が大好きなんだ。
だから私も、修ちゃんとお喋りをしたくて早起きするようになった。
『おはよー、芽依。なぁなぁ、今日の漢字の宿題、写させて』
一番前の席で鞄を下ろしていた修ちゃんが、私の姿を捉えてさっそく頼んでくる。
朝の会話といっても、半分は〝宿題写させて〟だったかもしれない。
「……いいけど。今度お菓子、奢ってね」
『りょーかい!』
あれは、いつの頃だっただろう。もう忘れてしまった。本当に、何度も行われた会話だったから。
トイレに行こうとすると、修ちゃんとすれ違った。
『芽依ー、さっき先生が言ってた、現国のテスト範囲あとで教えて』
「……えー、メモしてなかったの? もしかして、また寝てた?」
『昨日ゲームしすぎて眠いんだよぉ』
どんな会話も、一言一句思い出せる。無限に近い記憶が、この校舎の中には詰まっている。
『昨日駅前で、芽依んとこのおばさんに会ったよ。髪切って、なんか美人になってたなー』
『うどんの八兵衛の横にラーメン屋できたんだって。今夜行ってみようぜ』
『今日忘れ物したせいで、城島センセに仕事押し付けられたー。芽依、悪いけどこれ運ぶの手伝って!』
どこを歩いても、修ちゃんとの思い出が詰まっている。怖いくらい、私の世界は修ちゃんでいっぱいだった。
気づくと、修ちゃんがぼんやりと外を眺めていた。
一人でいるときでさえも、修ちゃんは楽しそうだった。遊びたがりの修ちゃんは部活には入っていなかったけど、窓からサッカー部の練習試合を見ているだけでも楽しそうで、いつも目をキラキラと輝かせていた。
「……修ちゃん」
その後ろ姿に話しかけた。
でも、修ちゃんは振り向かない。
私はそのまま話し続けた。
「ごめんね……。ごめん、なさい。私があの時、うちに来なくていいよって言っていれば……修ちゃんは今頃、楽しい高校生活を遅れていたのに。本当に……ごめんなさい」
そう伝えても、修ちゃんはただ楽しそうにサッカー部の試合を眺めているだけだった。
それでも、私はその背中に問いかける。
「私……どうしたらいいと思う? わからないの。自分でも、どうしたらいいのか……。私、修ちゃんの言う通りにするからさ。修ちゃんの願うように生きるからさ。……ねぇ。どうしたら、いい……?」
修ちゃんは、何も言わなかった。
当たり前だ。
だって、私の今の問いに答える記憶なんて、私の中にないのだから。
今見てる彼の幻影は、すべて過去のもの。私の記憶の中の彼。私はその日、私のことに気づかずグラウンドを眺めている修ちゃんがおもしろくて、いつ気づくのかとじっと息を殺して眺めていただけなんだから。
だから、今を生きる私の言葉に、修ちゃんが答えることはない。
それでも、問いかけてしまった。
「答えてよ……」
泣きそうになる。
修ちゃんの答えが欲しい、と思った。
修ちゃんが「芽依のことを恨んでる」って言ってくれたら、私はもうなんの迷いもなく修ちゃんの元へ行くのに。
修ちゃんが「いいんだよ」って言ってくれたら、私のこの後悔の気持ちも少しは和らぐかもしれないのに。
答えが、欲しかった。
そうだ、私はそのためにここへ来たのかもしれない。
答えを求めて。救いを求めて、ここへ来たのかもしれない。
……いや、違う。
そうじゃない。私の心は、もっと汚れて、すさんでる。
私は、彼が許してくれるのを期待していたんだ。
修ちゃんは間違いなく「いいんだよ」って言ってくれるはずだから。
優しい修ちゃんは、絶対に私を責めることはしないから。だから、修ちゃんからの優しい言葉を期待して、私は今日ここへ来たんだ。
そんなことを言われても、私がしてしまった罪は消えないのに。
あの日、私は修ちゃんを止めなかった。この後悔は胸に残り続けるのに。
その事実は何も変わらないのに、私は自分が救われたくて、ここへ来た。勝手な人間だ。
でも、もう修ちゃんはいない。
時は戻らない。後悔しても、遅い。
こんなことをしても、意味なんかない。
過去は変わらない。私の問いに答えることもない。
もう、帰ってこないんだから……。
落ちそうになる涙を堪えていると、修ちゃんがくるりと振り返った。
そして、いたのかよー、いたんなら声かけろよー、と言って笑っている。
私はその時、たしか「いつ気づくかと思って見てたの」と言って笑った。でも今はそんな気持ちになれなくて、ただただ修ちゃんの過去の笑顔を見つめていた。
ひとしきり笑ったあと、修ちゃんは笑みを浮かべたまま、またグラウンドへと視線を戻した。
『……なぁ。芽依ってさ、好きな人、いるの?』
私はその日の放課後、ホームルームが終わってから三十分ほど、椅子に座ってぼんやりと過ごしていた。
お喋りをしてから帰る子たちももういなくなって、部活に行く人はもうすでに教室を出ている。室内は静かで、まるで他人の家に取り残されてしまったかのように感じた。
スマホを取り出し、蓮くんから少し前に来たチャットを見返した。
〝今日は用事があって、帰り際にお見送りできないけど……気をつけて帰ってね〟
蓮くんは、今日はいない。これがうそでなければ、私をつけてくる心配もない。……そんな考え、ちょっと妄想が過ぎるかもしれないけれど。
私は今日、完全に一人だ。
少し気合いを入れると、私は鞄を持って教室を出た。下駄箱で上履きを脱ぎ、ローファーに履き替える。それから進んだ先は、駅へと向かう校門じゃなくて——中学校舎。
校舎は太陽が燃え尽きる最後の光を浴びて、真っ赤に染まっていた。
鞄を持つ、右手が震えている。それを止めるようにぐっと胸のあたりで拳を作り、目をつむった。
正直、どうしたらいいのかわからなかった。
〝これから、どうしていくべきなのか。私が修ちゃんのことを受け止めて、生きていく道があるのか〟
考えても、答えは出ない。井上さんと蓮くんには、私の立場だったらどうするかをそれぞれ聞いてみたけれど、でもその答えはどちらも私に合う答えなのかわからなかった。
でも、わからないからこそ、正面からぶつかるしかないと思った。
悪いところと向き合う。これは長谷くんの言葉。
もう、蓮くんの不安そうな顔は見たくない。蓮くんのために、そして何より自分のために、私は過去と向き合わないといけないんだ。
目を開けると、私は一歩踏み出した。
中学校舎の中は、なんだか懐かしい匂いがした。
高校よりも雑然とした、下駄箱の雰囲気。置き傘が転がっていたり、下駄箱に書かれた紙の名札プレートが曲がって取れかけてたり、廊下の奥には汚い文字の手書きポスターが貼られていたり。
高校と校舎の造りは基本同じなのに、ごちゃごちゃとしている。やんちゃで、散らかった空間も気にしなかった〝あの頃〟が今、ここに存在している。
ローファーを脱いで、記憶の通りの世界にそっと足を置く。
ひやりとした下駄箱の床に痛みに似た冷たさを感じた瞬間、どこからか声がした。
『おはよう! 芽依』
踵が折れたスニーカーを脱ぎ、修ちゃんが私をさっと追い抜いていった。
寝坊をして遅刻ぎりぎりの日は、徒競走のごとく下駄箱を走り抜ける修ちゃん。その光景を、容易に再現できた。私が普通に登校して、本鈴の前にトイレに行って戻ろうと廊下を歩いていたとき、何度も見た姿だった。
今までは、思い出すこともできなかった。
思い出すことが、怖くてたまらなかった。
「……おはよう、修ちゃん」
あの日と同じ言葉で答えると、修ちゃんは太陽みたいな笑顔を返して廊下を駆けていった。
ローファーを片隅に置かせてもらい、靴下のまま下駄箱を抜ける。誰もいない廊下は、中学の頃一番乗りで来ていた早朝の景色とよく似ていた。
いや、一番乗りじゃない。
教室に来るといつも修ちゃんが先に来ていたから、二番乗りだ。時々寝坊をしてしまうけれど、普段は朝一番で登校してしまうくらい修ちゃんは本当に学校が大好きなんだ。
だから私も、修ちゃんとお喋りをしたくて早起きするようになった。
『おはよー、芽依。なぁなぁ、今日の漢字の宿題、写させて』
一番前の席で鞄を下ろしていた修ちゃんが、私の姿を捉えてさっそく頼んでくる。
朝の会話といっても、半分は〝宿題写させて〟だったかもしれない。
「……いいけど。今度お菓子、奢ってね」
『りょーかい!』
あれは、いつの頃だっただろう。もう忘れてしまった。本当に、何度も行われた会話だったから。
トイレに行こうとすると、修ちゃんとすれ違った。
『芽依ー、さっき先生が言ってた、現国のテスト範囲あとで教えて』
「……えー、メモしてなかったの? もしかして、また寝てた?」
『昨日ゲームしすぎて眠いんだよぉ』
どんな会話も、一言一句思い出せる。無限に近い記憶が、この校舎の中には詰まっている。
『昨日駅前で、芽依んとこのおばさんに会ったよ。髪切って、なんか美人になってたなー』
『うどんの八兵衛の横にラーメン屋できたんだって。今夜行ってみようぜ』
『今日忘れ物したせいで、城島センセに仕事押し付けられたー。芽依、悪いけどこれ運ぶの手伝って!』
どこを歩いても、修ちゃんとの思い出が詰まっている。怖いくらい、私の世界は修ちゃんでいっぱいだった。
気づくと、修ちゃんがぼんやりと外を眺めていた。
一人でいるときでさえも、修ちゃんは楽しそうだった。遊びたがりの修ちゃんは部活には入っていなかったけど、窓からサッカー部の練習試合を見ているだけでも楽しそうで、いつも目をキラキラと輝かせていた。
「……修ちゃん」
その後ろ姿に話しかけた。
でも、修ちゃんは振り向かない。
私はそのまま話し続けた。
「ごめんね……。ごめん、なさい。私があの時、うちに来なくていいよって言っていれば……修ちゃんは今頃、楽しい高校生活を遅れていたのに。本当に……ごめんなさい」
そう伝えても、修ちゃんはただ楽しそうにサッカー部の試合を眺めているだけだった。
それでも、私はその背中に問いかける。
「私……どうしたらいいと思う? わからないの。自分でも、どうしたらいいのか……。私、修ちゃんの言う通りにするからさ。修ちゃんの願うように生きるからさ。……ねぇ。どうしたら、いい……?」
修ちゃんは、何も言わなかった。
当たり前だ。
だって、私の今の問いに答える記憶なんて、私の中にないのだから。
今見てる彼の幻影は、すべて過去のもの。私の記憶の中の彼。私はその日、私のことに気づかずグラウンドを眺めている修ちゃんがおもしろくて、いつ気づくのかとじっと息を殺して眺めていただけなんだから。
だから、今を生きる私の言葉に、修ちゃんが答えることはない。
それでも、問いかけてしまった。
「答えてよ……」
泣きそうになる。
修ちゃんの答えが欲しい、と思った。
修ちゃんが「芽依のことを恨んでる」って言ってくれたら、私はもうなんの迷いもなく修ちゃんの元へ行くのに。
修ちゃんが「いいんだよ」って言ってくれたら、私のこの後悔の気持ちも少しは和らぐかもしれないのに。
答えが、欲しかった。
そうだ、私はそのためにここへ来たのかもしれない。
答えを求めて。救いを求めて、ここへ来たのかもしれない。
……いや、違う。
そうじゃない。私の心は、もっと汚れて、すさんでる。
私は、彼が許してくれるのを期待していたんだ。
修ちゃんは間違いなく「いいんだよ」って言ってくれるはずだから。
優しい修ちゃんは、絶対に私を責めることはしないから。だから、修ちゃんからの優しい言葉を期待して、私は今日ここへ来たんだ。
そんなことを言われても、私がしてしまった罪は消えないのに。
あの日、私は修ちゃんを止めなかった。この後悔は胸に残り続けるのに。
その事実は何も変わらないのに、私は自分が救われたくて、ここへ来た。勝手な人間だ。
でも、もう修ちゃんはいない。
時は戻らない。後悔しても、遅い。
こんなことをしても、意味なんかない。
過去は変わらない。私の問いに答えることもない。
もう、帰ってこないんだから……。
落ちそうになる涙を堪えていると、修ちゃんがくるりと振り返った。
そして、いたのかよー、いたんなら声かけろよー、と言って笑っている。
私はその時、たしか「いつ気づくかと思って見てたの」と言って笑った。でも今はそんな気持ちになれなくて、ただただ修ちゃんの過去の笑顔を見つめていた。
ひとしきり笑ったあと、修ちゃんは笑みを浮かべたまま、またグラウンドへと視線を戻した。
『……なぁ。芽依ってさ、好きな人、いるの?』