きみがいる、この世界で。
音楽室は、職員室と同じ階の端にあった。ドアに取り付けられた小さなガラス窓から中を覗くと、教室の真ん中に置かれたピアノと、そのピアノに向かい合う男の子が視界に入る。ピアノを弾いている男子生徒の横顔は、とても真剣だった。まるで、ミスが許されないかのように、ジッと鍵盤に置く自分の指だけを見つめている。

彼しかいないのかな。部活中とかじゃないよね……?

演奏の邪魔をしないようにゆっくりとドアを開け、教室の中に入る。

喜びと感動をいっぱいに詰め込んだ曲が終わる。

最後の音が消えてしまうのを名残惜しむように、男の子がゆっくりと、ペダルから足を外す。

それと同時に顔をあげた男子生徒は、やっと私の存在に気が付いたのか慌てふためき、椅子から転げ落ちそうになった。

「ごめん、驚かせちゃって」

咄嗟に立ち上がり、男子生徒の傍へ行く。

「ごめんね。大丈夫?」

ぽかんと私を見つめる男の子に、もう一度謝る。

「今の、愛の挨拶だよね、エルガーの」

確かに視線を交わしているのに、男子生徒は私を見つめたままで、口を開かない。

「愛の挨拶、だよね…?」

大好きで何度も弾いた曲だ。絶対に間違っていないはず……だけれど、微動だにしない目の前の彼の姿に自信が持てなくなり、もう一度問いかける。
すると、男子生徒は急に大きく目を見開いて、私に頭を下げてから、教室から足早に出て行った。

「待って!」

彼の背中に呼びかけたけれど、彼が振返ることはなかった。


私、変なこと言った……?


一人残された教室で、男の子が出て行ったドアの方を見ながら呆然とする。

聞きたかったのに。

この曲を弾きながら、何を考えていたの、って。
どんな思いを込めてこの曲を弾いていたの、って。

男の子が座っていたピアノの椅子に私も座り、ソの#を押してみる。

広い音楽室に響き渡ったその音は、なんだかいつもより、寂しげに聞こえた。


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