きみがいる、この世界で。
【ピアノを弾いている間は、曲の世界に入り込める。他の人と違うっていうことも忘れられるから】
「高橋くん……」
彼が紡いでいく音は、穏やかで優しくて。
それなのに、高橋くんはそんな悲しい理由でピアノを弾いているの?
生きづらさを忘れるために、ピアノを弾いているの?
そんなの。そんなのって。
何も言えない私に、高橋くんは【ごめん】と謝罪の文字を見せる。
【こんなこと言われても、困っちゃうよね】
弱々しく首を振る。
困ってはいない。困ってはいないのだけれど。
唇を噛んで彼から視線を逸らすと、トントンと肩を叩かれた。
【ピアノ、好きだと言ってくれてありがとう。嬉しかった】
私が頷いたのを見てから、高橋くんは背中を向ける。
「待って!!」
彼の腕を引っ張る。
振り向いた彼に、両手の指を広げ、「待って」とジェスチャーで伝える。高橋くんは困惑気味に頷いた。
【明後日か明明後日、一緒に出かけない?学校お休みでしょ】
自分らしくない。
ずっと親友でいると思っていた人たちから突然嫌がらせを受けるようになったあの日から、
もう、自分から交友関係を積極的に作るのはやめようと決めたのに、
もう、自分から誰かと深い関係を築くように働きかけるのはやめようと決めたのに、
それでも、どうしても高橋くんのことが気になる。
自分で決めたはずの約束を最も簡単に破りたくなるほど、”そうさせる何か”が高橋くんの音楽には確かにあった。
高橋くんは、少しだけ首を傾けながら、自分を指差す。
ゆっくりと頷いた私に、高橋くんは不安と警戒が混ざった表情をした。
【どうして?】
【高橋くんのこと、もっと知りたいから】
【俺のこと知っても、何も面白くないよ】
高橋くんは困ったように笑う。
自分を否定したくなる気持ちも、自分を無意味な存在だと思う気持ちも、そういうのを全てひっくるめてなんともないように振る舞うために作られた笑顔だということをよく知っているから、余計に辛くなる。
【私はもっと高橋くんのことが知りたいよ】
【でも俺、耳、聞こえない。話せない人と一緒にいても楽しくないよ】
強い線引きが込められている気がした。目と手を使って会話をする自分と、耳と口を使って会話をする私は、別の世界に住む人だ、と。「こっちに来るな」と言われているような気さえした。
穏やかな雰囲気を持つのに、ドキッとしてしまうほど強い主張をぶつけられる。ほんの一瞬、競り負けそうになりながらも、
【今、私たち、話しているよ。ちゃんと話している。文字を使って話しているよ】
私の返事を、高橋くんはじっと見つめた。
少し長すぎる沈黙の後、【わかった。俺、週末、どっちも空いてるよ】と彼は返してくれた。
これは、良いってことだよね? 一緒に出かけてくれるってことだよね?
嬉しくて、勢いよく彼を見つめる。
高橋くんは「しょうがないなあ」と言いたそうに笑った。
【ありがとう! どこか行きたい場所ある?】
【泉本さんに任せるよ】
【わかった!!】
手でOKマークを作ると、あまりに張り切っていたことが伝わったのか、高橋くんは小さく吹き出した。