きみがいる、この世界で。
「この世界とは違う、別の世界に行ってみませんか」
突然聞こえてきた声に、反射的に振り向く。
「誰……?」
さっきまで誰もいなかったはずなのに、私の後ろには、スーツを着た男の人が立っていた。
年齢は、お父さんと同じ40代後半だろうか。纏っている落ち着いた雰囲気が、こんな時なのに親近感を覚えさせた。
男の人は私の問いかけに答えることなく、微笑みながら言った。
「この宇宙には、もう一つ世界が存在します。その世界を、旅してみませんか?」
「どういうことですか」
「今お伝えした通りです。この世界には、もう一つ世界が存在するんです。その世界に行ってみませんか?」
もう一つ世界が存在する?
この人、何を言っているんだろう。
そんな非現実的なこと……ああ、そうか。
「私、死んだんですね」
「いえ、まだ生きています。なんなら飛び降りてもいません」
男の人は、私の背後をチラッと見る。
つられるように私も自分の後ろの海を見ると、夕日の一部が、水平線の下に隠れていくところだった。
「泉本涼音さん」
「どうして私の名前を……」
「すみません。調べさせてもらいました」
男の人の言葉と態度には、全く悪びれた感じを感じない。
彼は私のため息を気にせずに続けた。
「今、死にたいって思っていましたよね?」
「それは……」
「誤魔化さなくていいですよ。あなたの状況も調べさせてもらっていますから」
男の人は「それで」と私に笑いかけた。
「死ぬ前に、別の世界を旅してみませんか?」
「いや、いいです」
さすがに、きっと普通の精神状態じゃない私でもわかる。
「私、宗教とか興味ないんで。無宗教だし」
「宗教? 宗教じゃないですよ」
「あれですよね、ほら、毎日祈れば極楽浄土に行けるとか……」
「ああ、違います違います。本当にこの世界とは、別の世界があるんですよ」
男の人は、私の言葉にケラケラと笑った。
明らか私の言葉を面白がっている様子に、少しだけ腹が立つ。
「その、別の世界って、パラレルワールド的なものですか」
「パレレルワールドとは少し違います。あちらの世界には、あちらの世界の住人がいます」
「はあ……」
全くよくわからない。
全くよくわらかないけれど。
「お断りします」
「ええ、どうして!? せっかく選ばれた人しか行けないのに」
「どうしてって……行くことに私に何のメリットがあるんですか」
少しの沈黙の後、男の人は穏やかな笑みを浮かべて、静かに告げた。
「生きたい、と思うかもしれませんよ」
”生きたい”と思う? 今こんなに消えてしまいたいのに?
「今、あなたは生きるのを辞めたいと思っている。その決断は、試してみてからでもいいんじゃないですか。別世界を」
この男の人が言う、”別世界”に生きたいわけじゃない。
でも、死なずにどこかに逃げられるのなら、それだけでいいのかもしれない。
「あの」
視線を合わせると、男の人はふわりと笑った。まるで、この先の私の言葉がわかっているかのように。
「行かせてもらえますか。その、”別の世界に”」