S系外交官は元許嫁を甘くじっくり娶り落とす
膝の上に置いたバッグの持ち手をぎゅっと握る私に、エツはそこはかとない優しさを含み始めた瞳を向けている。
「急にしおらしくなってどうした」
「いつもしおらしいでしょ。若女将姿の私を忘れたの?」
「七年も見てないからな」
「あーそう。じゃあ、日本に帰ってきたら真っ先に〝ひぐれ屋〟に来てよね。思い出させてあげるから」
ひぐれ屋というのはウチの旅館の名前。彼は意地悪な笑みを浮かべて「はいはい」と適当に答えていた。
ダメだ、話が逸れている。今はこんなやり取りをしている場合じゃないのに!
宿泊料ゼロ円の宿に泊まらせてもらうべく、さらに交渉しようとしたものの、腕時計を見たエツはすっと腰を上げる。
「俺は仕事に戻るよ。休憩時間が終わる」
「あ、うん。すんごい話の途中だけどね……」
「もし飛行機が欠航になったら、午後五時までに領事館に来い」
やっぱり例の件は冗談だったか、と口の端を引きつらせていた私は、最後のひと言にぴくりと反応した。
キョトンとして振り仰ぐと、彼はスーツの内ポケットからなにかを取り出そうとしている。