S系外交官は元許嫁を甘くじっくり娶り落とす
「もうすぐ若旦那も入りますので。わかっているでしょうが、お客様よりあの子のことを見ていてはいけませんよ」
『若旦那』という呼び名が出た途端、仲居の女性陣はぱっと表情を明るくして色めき立った声を上げる。母は「そわそわしない!」と一喝するが、これは毎度お馴染みのやり取りだ。
若旦那というのは、弟の祥のこと。そういえば、今日はなんの用事もないから大学が終わったら手伝いに入ると言っていたっけ。彼にとってはバイト感覚なのが悩ましいけれど、手伝ってくれるだけありがたい。
祥は着物に羽織をまとった姿で働く。贔屓目に見ても容姿はいいほうだと思うくらいなので、やはり仲居さんたちにもお客様にも人気で、彼が入る時は今のように女性陣のテンションが三割増しになるのだ。
中でも一番喜んでいるのは、旅館に併設されている茶房で働く祥の彼女だろう。
二十二歳の一柳棗ちゃんは名家のお嬢様であり、茶道ではなく急須でお茶を淹れる煎茶道を学んでいて、とても美味しいお茶でもてなしてくれている。
茶房は昼はお茶とお菓子、夜はお酒とおつまみを楽しめる場所。煎茶道の作法を振る舞える棗ちゃんは、最初はバイトとして働き始めたものの、今やここになくてはならない存在だ。