ヴィーナシアンの花嫁 ~シンギュラリティが紡ぐ悠久の神話~
4-6.ママという称号
年が明け、新年を祝う時期となった。街のいたるところから雅な『春の海』が流れ、破魔矢を持った和服の女性がちらほらと歩いている。そんな浮かれた雰囲気の中、俺はコンビニ弁当を買って会社へ向かった。赤ちゃんの世話は休むわけにはいかないのだ。
赤ちゃんは思いのほか順調に育ち、今や身長は40センチを超えている。覗いてみると、透明なバッグの中で元気にキックを繰り返している。
「シアン!」
と声をかけると、聞こえてるのか、ぴくぴくと反応するのが可愛い。
◇
さらに二週間ほどして、いよいよ出産の日が来た。
出産と言っても、羊水バッグから取り出すだけなんだけれども。
テーブルに大きなタライを用意して、人肌のお湯で満たす。
そして人工胎盤に繋がってる点滴やら人工肺やら透析装置を、全部止めて外した。
もう戻れない――――
「いやぁドキドキするぅ!」
由香ちゃんが少し離れたところで作業を見つめている。組んだ両手には凄い力が入っているようだ。俺も足元がふわふわしている。
クリスが祈りをささげ、シアンはバッグから取り出された。
シアンは、何が起こったのか良く分からず、蠢いている。
俺は大きなクリップで、へその緒をお腹の前で止め、余った所をはさみで切る。
Clack!
その瞬間、シアンは大きな声で泣いた。
ほっぎゃぁ、ほっぎゃぁ!
かわいい声を出して、大きく泣いた。
田町のオフィスで、今、一つの命がこの世に解き放たれたのだ。
たった十グラムしかなかった、ピンクの小さな生き物は今、三キロの赤ちゃんとなって目の前で元気に泣いている。人類の命運を背負って産まれた、この特別な赤ちゃんの泣き声を、俺は一生忘れないだろう。
クリスが、ゆっくりとシアンをお湯の中に漬け、俺がタオルで全身をぬぐう。
肌には、白い垢がいっぱいついているので、丁寧にとっていく。
そして、綿でできた真っ白なベビー服の上に乗せ、袖を通して前を閉じた。
シアンは泣き止んで、可愛く口をくちゅくちゅと動かす。
抱き上げるとずっしりと両腕にかかる重みは、無事産まれた安堵を、命を預かる重みへと変える。俺は高揚感の中、腕の中でキックを繰り返す可愛い存在を、神妙な面持ちで見つめていた。
いよいよ取り返しのつかない、本当のチャレンジが始まる――――
俺は目を瞑り、大きく息を吐いた。
自分が言い出したことではあるが、実際に赤ちゃんを腕に抱くと、何ともいい知れない不安と迷いが俺を苛む。
しかし、もはや退路などない。この赤ちゃんの力を借りてシンギュラリティを超える、そこにしか活路はないのだった。
俺はキュッと抱きしめて、その温かくふかふかのマシュマロのような肌にそっと頬ずりをした。
◇
シアンは無脳症、首から上は顔しかない。頭の部分がすっぽりと無くなっている。
美奈ちゃんは
「ほんと、頭無いのね……」
と、眉間にしわを寄せて、グロテスクなシアンを、まじまじと見つめた。
さすがに、このままだと困ることになりそうなので、サイズを測って、人工の頭を付けてやらないとならない。
由香ちゃんは少し離れたところで、心配そうにシアンを見ている。
三か月もの間、血を提供してくれた功労者をねぎらう意味を込めて、俺はシアンを由香ちゃんに渡す。
由香ちゃんは、おっかなびっくり受け取ると、
「うわ、思ったより重いですねぇ!」と、言いながら、ぎこちなく抱いた。
シアンは一瞬目を開けると、次はゆっくりとあくびをして、口をもごもごと動かした。
「うわ、可愛いかも!」
思わず笑みをこぼす由香ちゃん。
「先輩、私も~!」
と、美奈ちゃんが手を伸ばしてきたので、そーっと渡す。
「ほんとだ、重~い!」
「私と誠さんの血の重みですよ!」
そう言って胸を張る由香ちゃん。
にこやかだった美奈ちゃんの眉がピクッと動いた。
「シアンちゃん、ママでちゅよ~!」
ワザとらしい笑顔で、美奈ちゃんはシアンに声をかける。
「え~、ママは私です! 返して!」
由香ちゃんはそう言いながら、奪うように美奈ちゃんからシアンを取り返した。
血をあげ続けた自負があるらしい。
「うふふ、じゃ、パパは誠さんかな~?」
いたずらっ子の表情でからかう美奈ちゃん。
「えっ? そ、そういう意味じゃ……」
そう言って、シアンを抱きながら頬を赤らめる由香ちゃん。
俺も思わず赤くなる。
赤ちゃんを通じて、可愛い女子大生と縁がある、何とも不思議な事態だ。
シアンは口を大きく開け、ちゅくちゅくと唇を動かす。
「ママのおっぱいが欲しいのかな~?」
また余計なことを言う美奈ちゃん。
由香ちゃんはハッとした表情で、胸に抱きかかえたシアンを見つめ……
「うぅ、ママ失格かも……」
そう言いながら肩を落とし、うなだれてしまった。すっかりママになった気でいるようだ。
「先輩ほど立派な胸なら、出るんじゃない?」
『どうしてそう余計な事を言うかな、美奈ちゃんは……』
俺は眉をひそめる。
由香ちゃんはちょっと自分の胸を触って、
「なんか本当に出そうな気になってきたわ……」
と、まじめな顔して言っている。
『おいおい、そう簡単には母乳なんて出ないぞ……』と、思ったが、保育園の保育士が母乳出た、って話は聞いた事あるし、本心から『自分がママだ』と思い込めたら出てくるのかもしれない。
「誠さん、揉んであげなさいよ!」
いきなり、とんでもない事を言い出す美奈ちゃん。
由香ちゃんは、赤くなってうつむいている。
俺は焦って
「ハイ! セクハラ! レッドカード!!」
そう言って腕を×にして却下した。
セクハラ呼ばわりに気を悪くした美奈ちゃんは、
「なによ! だったらまた私の胸揉む?」
そう言って、俺に向かって胸を突き出したポーズで挑発してくる。クリーム色のニットを形よく盛り上げる胸は、由香ちゃんほどの大きさではないものの、まぶしいほどの魅力を放って俺に迫ってきた。
「う……」
すっかり圧倒され、頭が真っ白になる俺。
「ほれほれ!」
調子に乗って、胸を近づけてくる美奈ちゃん。
情けない事に返す言葉が浮かばない。
「も、も、揉むって……」
「ははは、冗談よ! 意気地なし~!」
美奈ちゃんは俺の額を人差し指で押して、ケラケラ笑いながら部屋を出て行った。
唖然とする俺たち。
「うーん、困った姫様だな……」
折角のおめでたいシアンの誕生が、変な事になってしまった。
俺は思わず大きく息を吐いた。
すると由香ちゃんは、シアンをゆっくりと揺らしながら、
「『意気地なし』って事は、本音は『口説いて欲しい』って事でしょうか?」
と、真面目に美奈ちゃんの言葉を考えている。
「いや、そんな深い意味ないと思うよ。口説いて口説けるとも思えないしね」
「口説けたら口説きたいんですか?」
由香ちゃんが無表情で俺をじっと見て、鋭く突っ込んでくる。
「う……」
また言葉に窮する俺。
「さ、さぁどうかなぁ……」
「ふぅん、否定はしないんですね」
由香ちゃんはそう言って、シアンをベビーベッドの方に持っていって、寝かしつけた。
「誠さんはもういいですよ、私が夕方まで様子見てるので」
淡々と事務的に言う由香ちゃん。
「あ、そ、そう? じゃ、お願い」
居場所を失った俺は、そう言ってトボトボとオフィスの方へ降りて行く。
どこかで言葉を間違えた気がするのだが……どこをどう間違ったのかが分からない。
モヤモヤする。
今は、シアンが無事生まれた事を、素直に喜ぶべきなのだが……。
何だろうこれは……すごい負けた気がする。
それも、誰にどう負けたのかすら、わからない負け方に、俺は途方に暮れた。
4-7.心肺停止に女の勘
その晩、シアンに付き添っていたクリスから電話があった。
シアンの容体が急変し、心臓が止まりかけているらしい。青くなった俺は急いでシアンの部屋へと走る。
保育器の中のシアンはぐったりとし、測定機器がピーピーと、けたたましく警告音をたてている。
無脳症の症状が出てきてしまったようだ。
俺はその光景に思わず足がすくみ、心の底からドバっと冷たいものが湧き上がるのを感じた。
「こっ、これはヤバいね。何が原因だろう?」
俺は必死に動揺を抑えて言う。
「…。見たところ、内臓周りに異常は見られない。やはり脳周りの問題だろう」
「では、手術をして原因を特定する……しかない?」
冷や汗を流す俺を見て、ゆっくりとうなずくクリス。
緊急手術に突入である。
急いで簡易無菌室を展開し、マニュピレーターを起動し、メスなどの機材一式を消毒してそろえた。
誕生したその日に、手術台に乗せることになるとは……。
俺は自然と湧き上がってくる涙を袖で拭きながら、シアンに小さな酸素マスクを着けた。
「シアン、ごめんな、頑張れよ」
そう言って、俺は無菌室に用意した小さなベッドに、そーっとシアンを横たえた。
まずは手術の方針についてブリーフィング、切開カ所の決定と調査部位の確認を行う。 俺はペンで、シアンの顔の裏の切開位置に、丁寧に線を描き、メスを入れやすくした。
クリスは手術服を身にまとい、ゴム手袋の手を前に掲げながら、淡々と無言で無菌室に入っていく。
連絡を受けたメンバーが、次々に部屋に集まってくる。
由香ちゃんは入ってくるなり、部屋の物々しい様子に驚いて両手で口を覆い、涙目で固まっている。
俺は優しくハグをした。
小刻みに震える柔らかな由香ちゃんの身体、ふんわりと立ち上る甘く優しい匂い。
俺は自分に言い聞かせるように、小さな声で、
「大丈夫、クリスがちゃんと解決してくれるから」
そう伝えた。
由香ちゃんはぎこちなく、小さくうなずいた。
◇
無脳症とは言え、脳が全く無い訳ではない。だから羊水内では、内臓の管理などは出来ていた訳だが、誕生して負荷が大きくなったことで、耐えられなくなったのかもしれない。
内臓の管理もAI側でやらなければならないとなると、事実上難しい。例えば血糖値が上がったら、すい臓からインスリンを分泌させるとか、そういう制御を無数にやらないとならない。それにはデータもノウハウも全く足りていないので不可能だ。何とか生命維持部分が復活してくれると良いのだが……。
クリスは目を瞑って、何かを感じながら慎重にシアンに麻酔薬を注入していく。
続いて、ペンでマークした位置にメスを入れた。表皮を切開し、クリップで固定する。
そしてマニュピレーターに付属の顕微鏡カメラで、観察しながら奥に進み、状況を丁寧に見ていく。
俺達も、外部に繋げたモニターを使って、クリスの手術をリアルタイムで見ていく。
クリスは、器用にマニュピレーターを操って切開していく。神経線維を傷つけないように少しずつ、組織を繋いでる膜を丁寧に、マイクロ・ハサミでチョンチョンと切り開くのだ。
膜を切ると神経線維に沿って少し奥に進み、また膜を切るを繰り返し、異常の原因を探っていく。
美奈ちゃんは椅子に座って、神妙にクリスの技を見ている。
こんな美奈ちゃんは見たことがない。
「どうしたの?」
俺が聞くと
「昼間バカな事で騒いじゃったからね、ちょっと反省してるの」
そう言いながら目を瞑り、うつむいた。
俺は美奈ちゃんの背中をポンポンと叩き、
「今は手術の成功を祈ろう」
そう言って励ました。
「そうね」
美奈ちゃんはぎこちなく笑った。
静けさのなか、クリスのマニュピレーターだけが淡々と働いていた。
「あっ!」
美奈ちゃんが突然声を上げる。
「その右上の組織、何か変よ」
「え? どれ?」
確かに何か白っぽいが……俺は医者じゃないから、何とも分からない。
クリスがマニュピレーターで、その組織を指して答える。
「…。これかな? 確かに何かちょっと変ですね」
クリスはマイクロ・ハサミで、その組織を軽く切ってみた。
すると白い組織がドピュっと飛び出してきた。
「うわぁ!」「うぇ!」
ギャラリーから声が上がる。
「…。あー、これが原因かもしれませんね」
どうもこの白い組織は腫瘍で、これが膨らんで神経線維を圧迫していたらしい。
「おぉ、美奈ちゃんお手柄じゃないか!」
「うふふ、やる時にはやるのよ!」
そう言って本当にうれしそうに微笑んだ。
「なんで医療の知識なんかあるの?」
「そんなのないわよ! 勘よ勘! 女の勘をバカにしちゃダメよ!」
ドヤ顔でにやりと笑う美奈ちゃん。
「美奈ちゃんすごい……。私、全然分からなかった……」
しょげる由香ちゃん。
「先輩は、もっと場数踏んで女の勘を鍛えなきゃだわ!」
「場数……」
後輩に指導される由香ちゃん。でも、こんなのを見つけられる方が異常だ。美奈ちゃんは、一体どんな場数を踏んできたのだろうか? 女子大生に踏める場数など、たかが知れていると思うのだが……。謎が多い娘だと改めて思う。
クリスは騒ぐ外野を無視して、淡々と白い組織を切除し、吸い取っていく。
十分くらいで腫瘍は全部吸い取り終わった。
「…。手術は完了です」
さて、効果はあったか……。
皆、祈る思いで、バイタルの数値の変化を見守った――――
「あ、ちょっと上がった!」
由香ちゃんが、数字が変わったのを見て声を上げる。
「いや、まだまだ分からない」
案の定また数値は落ちてしまった。
「あぁぁぁ……シアンちゃん! 頑張って!」
由香ちゃんの想いは、思わず声に出てしまう。合わせた手にすごい力が入っていて、ヤバい感じである。
由香ちゃんが見つめるメーターの数字は、上がったり下がったりを繰り返していたが、やがて徐々に改善していくようになった。
「大丈夫? もう大丈夫なの?」
由香ちゃんが今にも泣きそうな顔で俺に聞く
俺がにっこりガッツポーズをすると、
「良かった――――!」
と、由香ちゃんはぐったりと脱力し、その拍子に椅子からズリ落ちた。
ガンッ! ガラガラ
椅子が倒れて音を立てる。
「おいおい! 由香ちゃん大丈夫!?」
見ると、由香ちゃんは床で仰向けになって、幸せそうな表情を浮かべている。
「良かったぁ……」
涙がポロリとこぼれた。
そこまでシアンの事を思っているとは……、もう心は完全にママなのだろう。
三か月間ずっと、血液を与え続けて来た事は、由香ちゃんにとっては単なる献血ではなく、自分の一部を赤ちゃんと共有する尊い営みだったのだ。
「ありがとう」
俺はそう言って、優しく由香ちゃんを引き起こした。
赤ちゃんは思いのほか順調に育ち、今や身長は40センチを超えている。覗いてみると、透明なバッグの中で元気にキックを繰り返している。
「シアン!」
と声をかけると、聞こえてるのか、ぴくぴくと反応するのが可愛い。
◇
さらに二週間ほどして、いよいよ出産の日が来た。
出産と言っても、羊水バッグから取り出すだけなんだけれども。
テーブルに大きなタライを用意して、人肌のお湯で満たす。
そして人工胎盤に繋がってる点滴やら人工肺やら透析装置を、全部止めて外した。
もう戻れない――――
「いやぁドキドキするぅ!」
由香ちゃんが少し離れたところで作業を見つめている。組んだ両手には凄い力が入っているようだ。俺も足元がふわふわしている。
クリスが祈りをささげ、シアンはバッグから取り出された。
シアンは、何が起こったのか良く分からず、蠢いている。
俺は大きなクリップで、へその緒をお腹の前で止め、余った所をはさみで切る。
Clack!
その瞬間、シアンは大きな声で泣いた。
ほっぎゃぁ、ほっぎゃぁ!
かわいい声を出して、大きく泣いた。
田町のオフィスで、今、一つの命がこの世に解き放たれたのだ。
たった十グラムしかなかった、ピンクの小さな生き物は今、三キロの赤ちゃんとなって目の前で元気に泣いている。人類の命運を背負って産まれた、この特別な赤ちゃんの泣き声を、俺は一生忘れないだろう。
クリスが、ゆっくりとシアンをお湯の中に漬け、俺がタオルで全身をぬぐう。
肌には、白い垢がいっぱいついているので、丁寧にとっていく。
そして、綿でできた真っ白なベビー服の上に乗せ、袖を通して前を閉じた。
シアンは泣き止んで、可愛く口をくちゅくちゅと動かす。
抱き上げるとずっしりと両腕にかかる重みは、無事産まれた安堵を、命を預かる重みへと変える。俺は高揚感の中、腕の中でキックを繰り返す可愛い存在を、神妙な面持ちで見つめていた。
いよいよ取り返しのつかない、本当のチャレンジが始まる――――
俺は目を瞑り、大きく息を吐いた。
自分が言い出したことではあるが、実際に赤ちゃんを腕に抱くと、何ともいい知れない不安と迷いが俺を苛む。
しかし、もはや退路などない。この赤ちゃんの力を借りてシンギュラリティを超える、そこにしか活路はないのだった。
俺はキュッと抱きしめて、その温かくふかふかのマシュマロのような肌にそっと頬ずりをした。
◇
シアンは無脳症、首から上は顔しかない。頭の部分がすっぽりと無くなっている。
美奈ちゃんは
「ほんと、頭無いのね……」
と、眉間にしわを寄せて、グロテスクなシアンを、まじまじと見つめた。
さすがに、このままだと困ることになりそうなので、サイズを測って、人工の頭を付けてやらないとならない。
由香ちゃんは少し離れたところで、心配そうにシアンを見ている。
三か月もの間、血を提供してくれた功労者をねぎらう意味を込めて、俺はシアンを由香ちゃんに渡す。
由香ちゃんは、おっかなびっくり受け取ると、
「うわ、思ったより重いですねぇ!」と、言いながら、ぎこちなく抱いた。
シアンは一瞬目を開けると、次はゆっくりとあくびをして、口をもごもごと動かした。
「うわ、可愛いかも!」
思わず笑みをこぼす由香ちゃん。
「先輩、私も~!」
と、美奈ちゃんが手を伸ばしてきたので、そーっと渡す。
「ほんとだ、重~い!」
「私と誠さんの血の重みですよ!」
そう言って胸を張る由香ちゃん。
にこやかだった美奈ちゃんの眉がピクッと動いた。
「シアンちゃん、ママでちゅよ~!」
ワザとらしい笑顔で、美奈ちゃんはシアンに声をかける。
「え~、ママは私です! 返して!」
由香ちゃんはそう言いながら、奪うように美奈ちゃんからシアンを取り返した。
血をあげ続けた自負があるらしい。
「うふふ、じゃ、パパは誠さんかな~?」
いたずらっ子の表情でからかう美奈ちゃん。
「えっ? そ、そういう意味じゃ……」
そう言って、シアンを抱きながら頬を赤らめる由香ちゃん。
俺も思わず赤くなる。
赤ちゃんを通じて、可愛い女子大生と縁がある、何とも不思議な事態だ。
シアンは口を大きく開け、ちゅくちゅくと唇を動かす。
「ママのおっぱいが欲しいのかな~?」
また余計なことを言う美奈ちゃん。
由香ちゃんはハッとした表情で、胸に抱きかかえたシアンを見つめ……
「うぅ、ママ失格かも……」
そう言いながら肩を落とし、うなだれてしまった。すっかりママになった気でいるようだ。
「先輩ほど立派な胸なら、出るんじゃない?」
『どうしてそう余計な事を言うかな、美奈ちゃんは……』
俺は眉をひそめる。
由香ちゃんはちょっと自分の胸を触って、
「なんか本当に出そうな気になってきたわ……」
と、まじめな顔して言っている。
『おいおい、そう簡単には母乳なんて出ないぞ……』と、思ったが、保育園の保育士が母乳出た、って話は聞いた事あるし、本心から『自分がママだ』と思い込めたら出てくるのかもしれない。
「誠さん、揉んであげなさいよ!」
いきなり、とんでもない事を言い出す美奈ちゃん。
由香ちゃんは、赤くなってうつむいている。
俺は焦って
「ハイ! セクハラ! レッドカード!!」
そう言って腕を×にして却下した。
セクハラ呼ばわりに気を悪くした美奈ちゃんは、
「なによ! だったらまた私の胸揉む?」
そう言って、俺に向かって胸を突き出したポーズで挑発してくる。クリーム色のニットを形よく盛り上げる胸は、由香ちゃんほどの大きさではないものの、まぶしいほどの魅力を放って俺に迫ってきた。
「う……」
すっかり圧倒され、頭が真っ白になる俺。
「ほれほれ!」
調子に乗って、胸を近づけてくる美奈ちゃん。
情けない事に返す言葉が浮かばない。
「も、も、揉むって……」
「ははは、冗談よ! 意気地なし~!」
美奈ちゃんは俺の額を人差し指で押して、ケラケラ笑いながら部屋を出て行った。
唖然とする俺たち。
「うーん、困った姫様だな……」
折角のおめでたいシアンの誕生が、変な事になってしまった。
俺は思わず大きく息を吐いた。
すると由香ちゃんは、シアンをゆっくりと揺らしながら、
「『意気地なし』って事は、本音は『口説いて欲しい』って事でしょうか?」
と、真面目に美奈ちゃんの言葉を考えている。
「いや、そんな深い意味ないと思うよ。口説いて口説けるとも思えないしね」
「口説けたら口説きたいんですか?」
由香ちゃんが無表情で俺をじっと見て、鋭く突っ込んでくる。
「う……」
また言葉に窮する俺。
「さ、さぁどうかなぁ……」
「ふぅん、否定はしないんですね」
由香ちゃんはそう言って、シアンをベビーベッドの方に持っていって、寝かしつけた。
「誠さんはもういいですよ、私が夕方まで様子見てるので」
淡々と事務的に言う由香ちゃん。
「あ、そ、そう? じゃ、お願い」
居場所を失った俺は、そう言ってトボトボとオフィスの方へ降りて行く。
どこかで言葉を間違えた気がするのだが……どこをどう間違ったのかが分からない。
モヤモヤする。
今は、シアンが無事生まれた事を、素直に喜ぶべきなのだが……。
何だろうこれは……すごい負けた気がする。
それも、誰にどう負けたのかすら、わからない負け方に、俺は途方に暮れた。
4-7.心肺停止に女の勘
その晩、シアンに付き添っていたクリスから電話があった。
シアンの容体が急変し、心臓が止まりかけているらしい。青くなった俺は急いでシアンの部屋へと走る。
保育器の中のシアンはぐったりとし、測定機器がピーピーと、けたたましく警告音をたてている。
無脳症の症状が出てきてしまったようだ。
俺はその光景に思わず足がすくみ、心の底からドバっと冷たいものが湧き上がるのを感じた。
「こっ、これはヤバいね。何が原因だろう?」
俺は必死に動揺を抑えて言う。
「…。見たところ、内臓周りに異常は見られない。やはり脳周りの問題だろう」
「では、手術をして原因を特定する……しかない?」
冷や汗を流す俺を見て、ゆっくりとうなずくクリス。
緊急手術に突入である。
急いで簡易無菌室を展開し、マニュピレーターを起動し、メスなどの機材一式を消毒してそろえた。
誕生したその日に、手術台に乗せることになるとは……。
俺は自然と湧き上がってくる涙を袖で拭きながら、シアンに小さな酸素マスクを着けた。
「シアン、ごめんな、頑張れよ」
そう言って、俺は無菌室に用意した小さなベッドに、そーっとシアンを横たえた。
まずは手術の方針についてブリーフィング、切開カ所の決定と調査部位の確認を行う。 俺はペンで、シアンの顔の裏の切開位置に、丁寧に線を描き、メスを入れやすくした。
クリスは手術服を身にまとい、ゴム手袋の手を前に掲げながら、淡々と無言で無菌室に入っていく。
連絡を受けたメンバーが、次々に部屋に集まってくる。
由香ちゃんは入ってくるなり、部屋の物々しい様子に驚いて両手で口を覆い、涙目で固まっている。
俺は優しくハグをした。
小刻みに震える柔らかな由香ちゃんの身体、ふんわりと立ち上る甘く優しい匂い。
俺は自分に言い聞かせるように、小さな声で、
「大丈夫、クリスがちゃんと解決してくれるから」
そう伝えた。
由香ちゃんはぎこちなく、小さくうなずいた。
◇
無脳症とは言え、脳が全く無い訳ではない。だから羊水内では、内臓の管理などは出来ていた訳だが、誕生して負荷が大きくなったことで、耐えられなくなったのかもしれない。
内臓の管理もAI側でやらなければならないとなると、事実上難しい。例えば血糖値が上がったら、すい臓からインスリンを分泌させるとか、そういう制御を無数にやらないとならない。それにはデータもノウハウも全く足りていないので不可能だ。何とか生命維持部分が復活してくれると良いのだが……。
クリスは目を瞑って、何かを感じながら慎重にシアンに麻酔薬を注入していく。
続いて、ペンでマークした位置にメスを入れた。表皮を切開し、クリップで固定する。
そしてマニュピレーターに付属の顕微鏡カメラで、観察しながら奥に進み、状況を丁寧に見ていく。
俺達も、外部に繋げたモニターを使って、クリスの手術をリアルタイムで見ていく。
クリスは、器用にマニュピレーターを操って切開していく。神経線維を傷つけないように少しずつ、組織を繋いでる膜を丁寧に、マイクロ・ハサミでチョンチョンと切り開くのだ。
膜を切ると神経線維に沿って少し奥に進み、また膜を切るを繰り返し、異常の原因を探っていく。
美奈ちゃんは椅子に座って、神妙にクリスの技を見ている。
こんな美奈ちゃんは見たことがない。
「どうしたの?」
俺が聞くと
「昼間バカな事で騒いじゃったからね、ちょっと反省してるの」
そう言いながら目を瞑り、うつむいた。
俺は美奈ちゃんの背中をポンポンと叩き、
「今は手術の成功を祈ろう」
そう言って励ました。
「そうね」
美奈ちゃんはぎこちなく笑った。
静けさのなか、クリスのマニュピレーターだけが淡々と働いていた。
「あっ!」
美奈ちゃんが突然声を上げる。
「その右上の組織、何か変よ」
「え? どれ?」
確かに何か白っぽいが……俺は医者じゃないから、何とも分からない。
クリスがマニュピレーターで、その組織を指して答える。
「…。これかな? 確かに何かちょっと変ですね」
クリスはマイクロ・ハサミで、その組織を軽く切ってみた。
すると白い組織がドピュっと飛び出してきた。
「うわぁ!」「うぇ!」
ギャラリーから声が上がる。
「…。あー、これが原因かもしれませんね」
どうもこの白い組織は腫瘍で、これが膨らんで神経線維を圧迫していたらしい。
「おぉ、美奈ちゃんお手柄じゃないか!」
「うふふ、やる時にはやるのよ!」
そう言って本当にうれしそうに微笑んだ。
「なんで医療の知識なんかあるの?」
「そんなのないわよ! 勘よ勘! 女の勘をバカにしちゃダメよ!」
ドヤ顔でにやりと笑う美奈ちゃん。
「美奈ちゃんすごい……。私、全然分からなかった……」
しょげる由香ちゃん。
「先輩は、もっと場数踏んで女の勘を鍛えなきゃだわ!」
「場数……」
後輩に指導される由香ちゃん。でも、こんなのを見つけられる方が異常だ。美奈ちゃんは、一体どんな場数を踏んできたのだろうか? 女子大生に踏める場数など、たかが知れていると思うのだが……。謎が多い娘だと改めて思う。
クリスは騒ぐ外野を無視して、淡々と白い組織を切除し、吸い取っていく。
十分くらいで腫瘍は全部吸い取り終わった。
「…。手術は完了です」
さて、効果はあったか……。
皆、祈る思いで、バイタルの数値の変化を見守った――――
「あ、ちょっと上がった!」
由香ちゃんが、数字が変わったのを見て声を上げる。
「いや、まだまだ分からない」
案の定また数値は落ちてしまった。
「あぁぁぁ……シアンちゃん! 頑張って!」
由香ちゃんの想いは、思わず声に出てしまう。合わせた手にすごい力が入っていて、ヤバい感じである。
由香ちゃんが見つめるメーターの数字は、上がったり下がったりを繰り返していたが、やがて徐々に改善していくようになった。
「大丈夫? もう大丈夫なの?」
由香ちゃんが今にも泣きそうな顔で俺に聞く
俺がにっこりガッツポーズをすると、
「良かった――――!」
と、由香ちゃんはぐったりと脱力し、その拍子に椅子からズリ落ちた。
ガンッ! ガラガラ
椅子が倒れて音を立てる。
「おいおい! 由香ちゃん大丈夫!?」
見ると、由香ちゃんは床で仰向けになって、幸せそうな表情を浮かべている。
「良かったぁ……」
涙がポロリとこぼれた。
そこまでシアンの事を思っているとは……、もう心は完全にママなのだろう。
三か月間ずっと、血液を与え続けて来た事は、由香ちゃんにとっては単なる献血ではなく、自分の一部を赤ちゃんと共有する尊い営みだったのだ。
「ありがとう」
俺はそう言って、優しく由香ちゃんを引き起こした。