ヴィーナシアンの花嫁 ~シンギュラリティが紡ぐ悠久の神話~

4-10.損得勘定の毒

 翌日、マーカス達は、マウスの際に使ったルーチンを援用して、シアンのミルク飲みプロセスを立ち上げた。
 これから実際のテストである。
 俺は、消毒した哺乳瓶でミルクを作り、人肌にまで冷ました。
「ほーらシアン、ミルクだぞ~」
 哺乳瓶の飲み口をそっと口に入れると、上手く吸い付いた……が、
 Cough(ケホッ) Cough(ケホッ)
 あぁ、気管に入ってしまったようだ。
 すかさず、クリスが、癒しの技でシアンをフォローする。
(せき)は自動で出るのにな~。なぜ飲むのは自動にならんのだ!」
 俺は、シアンをいじめてるような気がして、つい愚痴ってしまう。
 モニターで見ていたマーカスが、
「タイミング カエタ モウイチド!」 と、言ってくるので、再度チャレンジ。
 
 シアンの息をゆっくりと確認し、落ち着いたのを見計らって、再度哺乳瓶をあてがう。
 
 Glub(チュウ)……
 お、上手く飲み込んだ……かな?
「……」
 あれ? 止まっちゃった。
 
 俺は監視カメラに向かって叫ぶ。
「Hey! Marcus! The process is stopped! (止まっちゃったよ!)」
「チョット マッテネ!」
 マーカスは、エンジニアチームに何かを早口で指示している。
 
 しばらくして、シアンが動き出した。
 
 Glub(チュウ) Glub(チュウ) Glub(チュウ) Glub(チュウ)……
 Cough(ケホッ) Cough(ケホッ)
 あぁ、また気管に入ってしまった。
 クリスは素早く癒しの技を使う。
 
「Oh! チョットマッテ!」
 マーカスが、また何かキーボードをカタカタやっている。
 
 後ろで、心配そうに見ている由香ちゃんが
「見ていられないわ……」と、目に涙を浮かべ、むこうを向いてうなだれた。
 
 ママを自認する由香ちゃんとしては、自分の子供がいじられているのが、耐えられないのだろう。
 俺は由香ちゃんにそっと近づくと、
「大丈夫、こういういくつかのハードルさえ超えてしまえば、シアンは人類最高性能の天使になるんだから」
 そう、なるべくポジティブに話を持っていく。
「天使?」
 由香ちゃんはハンカチで涙を拭きながらこっちを見る。
「シアンはまさに神の使いだと、俺は感じているんだよね」
 俺が引きつり気味の笑顔でそう言うと、
「天使になんてならなくていい! 元気なかわいい子に、なってくれるだけでいいの……。目もくりぬかれちゃって……。シアンちゃん……」
 喉を詰まらせてながらそう言って、うつむいた。
 俺はかける言葉を失い、大きく息を吐いた。
 由香ちゃんは、すっかりママの視点になってしまっている。あまり感傷的になられ過ぎても実験に影響が出てしまうが、どうしたら良いのだろうか。
 
 美奈ちゃんが、ちょっと意地悪な顔で俺に耳打ちする。
「今日はハグしないの?」
 また余計なことを言ってくる。
「そう言う雰囲気じゃないよ」
 俺はひそひそ声で答えたが、由香ちゃんには聞こえていたようだ。
「もう! 二人ともあっち行って!」
 由香ちゃんは、怒って俺と美奈ちゃんを押しのけた。
 そして、シアンの所へ行き……
 涙目でシアンを愛おしそうに見つめ、シアンの口元に垂れたミルクを、ガーゼで丁寧に拭いた。
 
 追いやられた俺は、部屋の隅で美奈ちゃんに小声で怒る。
「余計な事言うから!」
 美奈ちゃんは、言い返してくるのかと思ったら、なぜかしんみりとして、
「私、ショックだった……」
 小さい声でそう言って、うち萎れてうなだれた。
「え?」
 一体どういう事だろうか。俺は美奈ちゃんの意図をつかみかねた。
 さらに美奈ちゃんは
「あのね、ショック受けたの……」
 そう言って弱々しい目で俺を見た。
「え? 何に?」
 俺がキョトンとしてると、美奈ちゃんはキッと俺を(にら)み、頬をピシッとはたいて
「バカ!」
 そう言って部屋から出て行ってしまった。
 俺は、はたかれた頬をさすりながら、呆然(ぼうぜん)とした。
 そして、
『理不尽キター』
 そう内心で叫びながら、思わず天を仰いだ。
 女難の連鎖が止まらない。
 人間は理不尽なのだから、理屈で行ってはダメなのだ。心だ、心をつなげようとしないとならないのだ。
 とは言え……どうやって?
 俺は、どうしたらよかったのかいろいろと考えてみたが……、あまりいい案が浮かばない。大きく息を吐きながら、ガックリと肩を落とした。
 
 俺には、向いていないのかもしれない……。
 
           ◇

 ミルク飲みの方は、その後何回かトライをして、ようやくシアンはコツをつかんだようだった。
 Glub(チュウ) Glub(チュウ) Glub(チュウ) Glub(チュウ)……
 順調に全部飲み干す事に成功した。
 パチパチパチ、オフィスに拍手が響く。
 俺はシアンの点滴を外すと、縦に抱きかかえ、背中をポンポンと叩いた。
「あれ? ゲップ出ないね?」
「誠さん、私に貸して」
 由香ちゃんは、シアンを受け取ると優しく抱きしめ、そして背中をポンポンと叩いた。
 
 Burp(ケプ)
 
「はい、出まちたね~。いい子でちゅね~」
 由香ちゃんは、目を瞑って幸せに包まれながら、シアンに頬ずりした。
「あー」
 シアンも心なしかうれしそうである。
 
 こういう一つ一つの交流が、AIとしてのシアンの学習にとって、とても貴重なのだ。
 生身の身体を持たない限り、この感覚は絶対に理解できない。
 人類の守護者となるためには、こういうスキンシップの一つ一つを体感し、人として真っ当な、発想の基盤を持たないとならない。
 そう言う意味で由香ちゃんは、とても大切な役割を果たしている、と言えるだろう。

          ◇

 そう言えば、怒って出て行った美奈ちゃんは、どこへ行ってしまったのか?
 メゾネットの上からオフィスを眺めたが……いない。
 うーん、どうしたものか。
 スマホを取り出し、メッセンジャーで
「いまどこ?」
 と、送ってみたが既読スルーされてしまう。
 そもそも美奈ちゃんは、マーカスと仲良くしてたわけで、俺にちょっかい出してくる事自体おかしいのだ。
 しかし、俺の気配りが足りないことも原因ではあるので、寒い中、駅前のカフェをいくつか回りながら、探し歩いた。

 テーブル席で突っ伏して寝ている美奈ちゃんを、三店目で発見。
 俺はカフェアメリカーノを持って、美奈ちゃんの隣の席に座った。
 珈琲をすすりながら、美奈ちゃんをゆっくり眺める。
 両手を組んで、突っ伏して寝る美奈ちゃんは、呼吸に合わせて少しずつ揺れている。
 わがままな女神さまも、こうしていれば、ただの可愛い女の子である。しばらく揺れている美奈ちゃんを見ながら珈琲をすすった。
 そして、意を決して、
「姫様、ディナーの時間ですよ」
 俺は耳元でささやく。
 美奈ちゃんは、顔を向こう側に動かして黙っている。
「なんか美味しいもの食べに行こうよ」
 美奈ちゃんはボソッと言う。
「要らない」
「僕、おなかすいちゃったな」
「……、勝手に食べればいいじゃん」
「姫と食べた方が美味しいんだな」
「先輩と食べた方が美味しいわよ」
 なかなかに手ごわい。
「どうしたの? 最近変だよ」
「ただの生理だから放っておいて」
 そう言われると、男には返す言葉がない。
 俺は珈琲を一口含んで目を瞑り、作戦を練る……。
「あ、あそこのイタリアンいかない? スパークリングワインが美味しかった所」
 ワインで釣ってみる。
「……」
「あそこの薄焼きのピザ、美味いんだよなぁ」
「……」
 ちょっと口元が動いたのを見逃さなかった。手ごたえ有りかな?
「あ、そうだ、今度会社のWebサイト作るじゃない? そのデザインで、美奈ちゃんの意見聞きたいんだよね」
「……」
「アドバイスしてくれると助かるんだけどな。ピザでも食べながらどう?」
「私と二人で行ったら、マズいんじゃないの?」
 美奈ちゃんはボソボソと答える。
「あー、じゃ、クリス呼ぼうか?」
 俺がそう言うと、美奈ちゃんはバッと勢いよく立ち上がると、荷物をまとめて、
「バカ! 知らない!」
 そう言って怒って出て行ってしまった。
 取り残される俺。
 周りの客の、チラチラっという視線が刺さる。痛い……。
 ほとんど成功していたのに、最後の答えに失敗してしまった。
 二人でディナーは大丈夫か、と聞かれたら、胸張って『大丈夫』と言えるほど俺には余裕も経験もない。美奈ちゃんは桁外れの美人だし、いきなりデートっぽいディナーには抵抗を感じる。
 俺は大好きだった母に捨てられた男、好きになった人に次も捨てられたら、きっと正気を保てない。俺は自分の心を守るのに精いっぱいなのだ。
 そもそも、美奈ちゃんが俺に、ちょっかいを出してくる理由が分からない。彼女の美貌ならどんな男でも選び放題だ。応京大なら将来有望なイケメンなど、幾らでもいるだろう。気の利かないエンジニアの俺にちょっかいを出して、何をやりたいのだろうか? どう考えても理屈に合わない。
 うがった見方をすれば『俺から口説かせる遊び』をしている様にすら、見えなくもない。
 
 とは言え、あんなに目立つ美人を怒らせたまま、こんな夜の街で一人で歩かせたら、面倒な事になる。
 俺は両頬をパンパンと叩いて気合を入れた。
 急いで店を出ると、美奈ちゃんは信号待ちをしていた。
 俺はそっと近づいて耳元で言う。
「今晩は姫様の言う事なんでも聞くから、機嫌直して」
「じゃぁ今すぐ死んで」
 美奈ちゃんは不機嫌そうに、前を見たまま言う。
 俺は思わず眩暈(めまい)を感じ、天を仰いだ。
「いやいや、それは……」
「なんでも聞くんじゃないの?」
 美奈ちゃんはトゲのある声で言う。
 俺は返す言葉が浮かばなかった。
 美奈ちゃんは青になった信号を渡り始める。
 俺は大きく息を吐き、少し遅れて追いかけた。
「どこ行くの?」
 そう聞いても、美奈ちゃんはカツカツとヒールを鳴らし、ツンとした表情で歩くばかりだ。
 仕方ない、ついていくしかない……。
 しばらく歩いて運河に架かる橋に出た。
 美奈ちゃんはそこで立ち止まると、欄干に手をかけて夜景を眺めた。
 運河沿いの建物の照明が、水面にキラキラと光っている。
 俺は美奈ちゃんの機嫌をうかがう……
 色白の透き通った肌に整った目鼻、綺麗な瞳……
 俺は、その瞳に映る夜景につい()き込まれる。
「正解を教えてあげるわ」
 美奈ちゃんは運河を見ながら、俺に言い放つ。
「正解?」
「誠さんはね、損得勘定ばかりだからダメなの」
「え?」
「私の狙いは何かとか、付き合う事になったら面倒くさそうだとか、周りからどう見られるかとか、そんな事ばかり計算してる」
 図星である。しかし、何も考えないわけにはいかない。
「ん? でも社会を生きていく上では、そうしないとマズいだろ?」
「全然マズくないわ。私、そんな事しないけど、困った事なんてないわ」
 冷たい視線で俺を射抜く美奈ちゃん。
「え……?」
 俺は固まった。
 思い起こせば、確かに美奈ちゃんは、やりたいことを自由にやるばかりだ。
「仕事は全部損得勘定よ、でもプライベートに損得勘定持ち込むから、心が死ぬの」
「え? 心が死ぬ?」
「そうよ、誠さんは知らず知らずのうちに、自分の心を殺してるの」
「いや、常識的に生きるというのは……」
 美奈ちゃんは俺をキッと(にら)むと、
「それよ! 何が常識よ、バカじゃないの? 常識なんて仕事でやってりゃいいのよ。人生に常識持ち込まないで」
 そう言い放った。
 俺は言葉を失った。そんなこと考えた事もなかった。
 思えば損しないように、波風立てないように、そればかり考えて生きて来てしまっていた。
 もちろん、一定の処世術と言うのは必要だろう、でも処世術だけでは、生きてる意味がなくなってしまう。
 なるほど、理不尽の正体とはこれだったのだ。心のままに生きる事、それが人間だったのだ。
 二十歳の女子大生に、そんなことを教えられてしまうなんて、俺は今まで何をやってたのか……。
 俺は目を瞑り、少しうなだれて自分を恥じた。
「まぁいいわ、誠さんはまだ若いんだから、これから修正して行けばいいわ」
 美奈ちゃんはそう言って、キラキラと水面に反射する運河の夜景を見入った。
 かなり年下の女の子に、若いとフォローされてしまった。とても情けなく感じる。
 でも……一歩、人間らしい生き方に近づけた気がした。
「なんだかすごい大切な事……教わった気がするな」
「ふふっ……」
 美奈ちゃんは得意げにほほ笑んだ。
 俺は少し、ばつの悪い笑顔で軽くうなずく。
 北風が強く吹き、街路樹がざわめいた。
「うわっ、寒い!」
 美奈ちゃんは襟元を閉じる。
 俺はそっと後ろから、美奈ちゃんにハグしようとした。
 手を回すと、美奈ちゃんは俺の手をはたいた。
「ダーメ、誠さんは、ハグする権利をもう失ったの」
 ツンとした表情で運河を見る。
 俺は、はたかれた手をゆっくりとさすりながら、
「でも、いつかまた復活する事もあるんだろ?」
 美奈ちゃんは、
「ん~、それはどうかな?」
 いたずらっ子の笑顔でこっちを見る。
 美奈ちゃんの笑顔が、いつに増して(まぶ)しく感じる。
 しばらく俺は、美奈ちゃんの琥珀(こはく)色の瞳に、キラキラ反射する夜景に惹き込まれていた。
 また強い風が吹き、美奈ちゃんの髪の毛が大きく泳ぐ。
 寒い、いつまでもこんな所にはいられない。
「家まで送るよ」
 俺はそう言って右手を出した。
 俺の目をじーっと見る美奈ちゃん……。
「……。ありがとう、でも今は一人になりたいの……」
 断りながら美奈ちゃんは、俺にそっと近づき、頬に軽くキスをした。
 暖かくやわらかな唇の感触、ふんわりと香るブルガリアンローズの香り……
「え!?」
 驚く俺に、
「また明日!」
 と、最高の笑顔を見せ、軽やかに、(きら)びやかな夜の街の中に駆け出していった。
 ネオンと雑踏の中に、静かに溶けていく美奈ちゃん。
 俺はキスの跡を指先で軽くなぞり、いつまでも美奈ちゃんが消えた方向を見ていた。
 
 街路樹のイルミネーションがチラチラと揺れ、にぎやかな光のハーモニーを放ちながら、この忘れられない夜を彩った。
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