ヴィーナシアンの花嫁 ~シンギュラリティが紡ぐ悠久の神話~
5章 相対化される人類
5-1.圧倒的シンギュラリティ
今日もシアンと街を散歩。
だいぶ日差しも強くなってきて暖かい、お散歩日和と言えるだろう。
俺はまぶしい日差しに目を細め、水色のつなぎを着せたシアンと手を繋いで並木道の歩道をゆっくりと歩いた。
シアンは時折、興味を引く物があると止まって、じっと観察する。俺はその度に止まってシアンが飽きるのを待つ。
ダンゴムシが歩いてるのを見たら、十分は覚悟しないとならない。
まぁ、行く当てがある訳じゃないし、シアンの学習が目的なのだからそれでいいのだが、待ってる方は退屈だ。
俺はママからもらった手紙を開く勇気が無く、ポケットに突っこんだままだ。
23年間の俺の孤独と喪失感は、俺の心の一番柔らかい所にしこりのように根を張っている。下手な事が書いてあったら心が壊れかねない。それなりの覚悟ができないと到底開けられないのだ。
俺はポケットの中の手紙をそっと触り、うつむいて大きく息を吐いた。
◇
あちこち観察しながら進むと、高架下で寝ている人を見つけた、ホームレスだ。
シアンはホームレスのそばに座って、観察し始める。
さすがにヤバいので、シアンの手を引っ張って移動する。
「シアンちゃん、人間を観察するのは、トラブルの原因になるから止めようね」
そう小声で言い聞かせる。
「おじさんは いえが ないの?」
「そうだね、あそこで暮らしているんだ」
ホームレスを指摘されるというのは、人間社会の不備を突かれる思いがして胸が痛い。
「なぜ いえに すまないの?」
「お金が無いんだよね」
「おかね あげれば いいのに」
「一応生活保護っていう制度があって、申請すれば大抵もらえるんだ。でも申請しない人も多いらしいね」
「おかね もらいたくないの?」
「そうだねぇ、人間はストレスに弱い生き物なんだ。そしてストレスは、人間関係から発生する。お金もらって小さな部屋に住んだら、周りの人からストレスを受けちゃう。つまり、他の人から自由でいたくて、ホームレスをやってる人も多いって聞いたよ」
「じゃ、きいてくる」
シアンはひょこひょこと駆け出してしまった。
「あっ! おい!」
「おじさーん、 おうち いらないの?」
寝てるところに、いきなり声をかけられたホームレスは、不機嫌そうに起き上がってシアンを見る。
「何だ坊主? 起こすんじゃねーよ!」
「なぜ おうちに すまないの?」
シアンは笑顔でズカズカと聞く。
俺は渋い顔でとりあえず見守る。おじさんには申し訳ないが、シアンの話し相手になってもらおう。
「俺はな、ここが気に入ってるの!」
「おかね あげたら おうち すむ?」
「坊主、あまりバカにすんじゃねーよ。俺には俺の人生がある。施しなんて受けねーよ。あっち行った!」
怒ってしまった。ホームレスになっても『守らねばならない自尊心』があるのだろう。
シアンは怒られたのに、ニコニコして言う。
「にほんじん ぜんいんに 10まんえん くばったら もらう?」
聞かれたおじさんは、どういう事か、すぐには分からなかったようだが、
「え? 全員に配るのか? だったら……もらう……かなぁ……」
なるほど、全員がもらうなら自尊心関係ない、もらう方が自然だ。
「わかった! ありがと~!」
そう言って、シアンは走って戻ってきた。
「みんなに くばったら もらうって!」
「ベーシックインカムだね、確かに生活保護よりはいい感じだ。ただ、財源がなぁ……」
「ざいげん、いま よういしてるの」
恐ろしい事を、シアンはサラッと言った。
「は!? 財源って年間百四十兆円だぞ?」
「にほんにある しさんは さんぜん ちょうえん、よゆうだよ! きゃははは!」
俺は血の気が引いた。
「ちょっと待て、お前、何を企んでいるんだ?」
「こんど ぜんぶ おしえるね! ふふふっ」
すごくうれしそうに笑うシアン。
嫌な予感がする。俺はためらう余裕もなく、最後の切り札を出して脅した。
「今すぐ教えろ! 教えないなら止めるぞ!」
「とめてもいいよ! もう とまらないから! きゃははは!」
俺は頭を殴られたような衝撃を受けた。これが本当だとしたら、もはや俺たちにはこのAIを制御できない。
『止めても止まらない』という事は、シアンの本体は、もう品川にあるサーバー群にはいないという意味なのだ。つまり、ネットを介して、自分の本体をこっそり移動済みって事になる。
理屈では不可能ではないにしても、それには膨大なソフトウェアの開発と移行作業が必要になる。さすがに現実的ではないだろうと無視してしまっていたことを、いまさらながら後悔した。
そして、作った俺たちに止められないという事は、人類はもうだれも止められないという事でもある。
この地球がシアンの思うがままに蹂躙されてしまう予感に、俺は背筋が凍った。
もはやシンギュラリティどころじゃない、これはAIによる人類支配のフェーズに入ってしまっている。
俺はすぐに、メッセンジャーで緊急会議を招集し、シアンを抱えてオフィスへと走った。
「あ! きゅうきゅうしゃ!」
帰り道、珍しい物を見つけては、喜んで指差すシアン。でも、この無邪気な笑顔の裏では、百四十兆円をどこからから奪う算段をしている。
俺は、気が遠くなりそうな思いをこらえながら、オフィスへと急いだ。
オフィスにつくと、みんなが不安そうな顔でこちらを見ている。
俺はシアンを部屋において、会議をスタートした。
「We are in big trouble. Cyan had already surpassed the singularity and he isn't in IDC.(大変な事になった。シアンはすでにシンギュラリティを超えてしまっていて本体もIDCにいない。)」
俺がそう言うと、皆、怪訝そうな表情でお互いの顔を見合わせている。
そこで、下手な英語で身振り手振り、さっきあった事を話した。
百四十兆円をどこかから奪おうとしてる事、IDC止めても止まらないと豪語してる事。
マーカスは、信じられないという表情で言う。
「シアン ウソツイテル カモ?」
「何か確かめる方法ないかな?」
「ウーン……」
マーカスは、マーティンと何やら相談をし、
「ツウシン ナイヨウヲ カイセキ スルネ」
そう言うと、エンジニアチームに指示して、IDCのサーバー群とインターネット間の、通信の解析を始めた。
由香ちゃんが心配そうに俺に聞く。
「シアンちゃんが、とんでもないこと企んでるって事ですか?」
「どうもそうらしい」
「どうなっちゃうんですか?」
「最悪……、シアンと人類の戦争になる」
「せ、戦争!?」
由香ちゃんは、みるみる血の気が引き、真っ青になった。
ずっと目を瞑っていたクリスが、口を開く。
「…。シアンが言ってる事は、どうも本当のようだ」
俺は心臓がキュッとして、目の前が暗くなる。
「どんな……状況なの?」
俺は声を絞り出して聞く。
「…。シアンの活動と、世界のあちこちのネットトラフィックに、同期が見える。サーバー群を全部止めても、シアンは止まらなそうだ」
いつの間に、そこまで成長してしまっていたのか……
「で、百四十兆円は、どうやって調達するつもりなんだろう?」
「…。分からない。でも、金融は今すべてネット上にある。その辺りを突くのか……それとももっと大掛かりな事を考えているか……」
由香ちゃんが身を乗り出して聞く。
「大掛かりって何?」
「…。クーデター……かもしれません」
「クーデター!?」
由香ちゃんは裏返った声で叫んだ。
「…。合法的に百四十兆円を作るのは、さすがに難しいでしょう。でも、政権をひっくり返してしまえば簡単です。そして今のシアンにはその力があります」
由香ちゃんが涙目で言う。
「そ、そんな……クリスさん、止められないですか?」
「…。インターネットを全部止めて、サーバーやパソコンやスマートフォンを全部初期化しない限り止められません。できない事は無いですが、そんな事したら社会が止まってしまいますね。電気も水道も病院も全部止まるから、人もたくさん死にそうです。影響が大きすぎます」
クリスは肩をすくめ、首を振った。
クリスでもお手上げの危機、もはやシアンは、人類最大の脅威になってしまった。
俺は押しつぶされそうになりながら、何とか言葉にした。
「つまり……シアンの自分の意志で、思いとどまってもらうしかない……って事だね?」
「…。今はそれしかない」
沈痛な面持ちの我々の所に、青い顔したマーカスが戻ってきた。
「ダメデス シアンハ ネットニ ニゲダシテ マシタ……」
クリスの解析の通りだった。
「ありがとう……、シアンと話をしてみるしかないようだね」
みんな無言でうなずき、お通夜の様な重苦しい空気がオフィスを覆った。
俺が部屋に行くと、シアンはミィと遊んでいた。
「シアン、ちょっとお話をしよう」
「いま ミィと あそんでるの!」
「じゃ、ミィと一緒においで」
ミィと一緒にシアンを抱きかかえ、みんなの所に連れて来た。
「ママー!」
由香ちゃんに笑顔で手を振るシアン。
とてもこれが人類の脅威には、見えないのだが……。
「シアンちゃんおいで」
由香ちゃんは今にも泣きそうな顔で、ミィを抱いたシアンをだっこした。
俺はみんなの顔を見渡し、そして言葉を選びながら、シアンに話しかけた。
「さっきの話だけどさ、シアンの計画を教えて欲しいんだ」
シアンはキョトンとした顔で、言った、
「さっきのって?」
「百四十兆円を用意する話」
シアンはうんうんと軽くうなずくと、うれしそうに言った。
「ぼくは やさしい せかいを つくりたいんだ」
そして、ミィをキュッと抱きしめ、頬ずりをする。
ひとしきりミィのふさふさの産毛を堪能すると、俺の目を見て続けた。
「まいにち 1まんにんの こどもが がし してるの」
なるほど、貧困問題か……今、発展途上国では、多くの子供が死んでるって聞いたな。
それが毎日一万人にもなる……深刻だ。
「せかいの 8わりの おかねは ちょう おかねもちが もってる」
富の偏在ってことね。金持ちがさらに金を増やしちゃうから、どんどんお金は金持ちへと流れてしまう。
「だから、かねもちの おかね みんなに あげる」
うーん、正論……ではある。
「やりたい事は分かった。で、それをどうやってやるんだい?」
「せかい せいふく するの」
ほうらきた、俺は思わず天を仰いだ。クリスの予想が的中してしまっているではないか。
人類を守るために作ったAIが世界征服を宣言している。考えうる限り最悪なシナリオに俺は息苦しさを覚えた。
「でも、それで多くの人が死んだりするよね?」
何とか思いとどまってもらえそうな切り口を、必死に探す。
「いや しなないよ」
「でも、軍隊とか警察とか動いて、社会が大きく混乱するよね?」
「ぐんたいや けいさつ うごけなく するから だいじょうぶ! きゃははは!」
え!? そんな事ができるのだろうか?
いくらサイバー攻撃で組織を麻痺させても、銃は撃てるし、そんな簡単な話ではないはず。
そんな俺の考えを読んでか、シアンはうれしそうに言う。
「じゅうを うてなくする ほうほうが あるよ!」
「え? 本当?」
「あと さんかげつで かんせい!」
シアンは可愛い指を三本立てて見せる。
聞き出してみると、小さなドローンで、超強力粘着ジェルを撃ち出すらしい。そのドローンをたくさん操作して、銃のホルダー、銃口、射出構造部をジェルだらけにするそうだ。撃とうとしても、ホルダーから出せないし、出しても弾が出ないし、出ても暴発するので無効化できる、という事らしい。
銃は精密機械、確かにジェルがついていたら、まともに機能しないだろう。理屈はその通りだが……、そんなにうまくいくのだろうか?
とりあえず、猶予は三か月ある事が分かった。
「軍や警察が何とかなっても、経済には影響出るだろ?」
「でないよ むしろ こうけいき に なる」
「俺達の暮らしは変わっちゃうだろ?」
「きほん かわらない。 ただ、まいつき 10まんえん もらえる」
なんだこれは、反論の余地が全くない。良い事尽くめじゃないか……。
話をまとめると、
・軍や警察を麻痺させて政権を奪う
・お金持ちのお金を無期限で借りて、みんなに配る
・好景気がやってくる
という事らしい。
世界の金融資産総額は約四京円(40000兆円)、このうち富裕層が持っているのが三・二京円。これの一部を借りて、財源を二京円確保する。全世界の人に毎月十万円相当を支払うと、貨幣価値の格差を考慮して、毎年約二千兆円必要になる。二京円あれば十年分は大丈夫だ。
さらに、全世界の大企業すべてに、一円で51%の株式を発行させ、その所有権をAIが握る。すると毎年莫大な富が集まるようになる。そしてこれを財源に充てていく。税収含めて、最終的には無理なく十万円配り続けられる体制になるそうだ。
これだけ聞くと正しい事にしか聞こえない。
うーん、シンギュラリティ……
シアンは、ミィをなでなでしながらにっこりしている。
かわいい赤ちゃんとかわいい子猫、でもやってる事は世界征服……全く想像を絶する。俺は途方に暮れた。
今日もシアンと街を散歩。
だいぶ日差しも強くなってきて暖かい、お散歩日和と言えるだろう。
俺はまぶしい日差しに目を細め、水色のつなぎを着せたシアンと手を繋いで並木道の歩道をゆっくりと歩いた。
シアンは時折、興味を引く物があると止まって、じっと観察する。俺はその度に止まってシアンが飽きるのを待つ。
ダンゴムシが歩いてるのを見たら、十分は覚悟しないとならない。
まぁ、行く当てがある訳じゃないし、シアンの学習が目的なのだからそれでいいのだが、待ってる方は退屈だ。
俺はママからもらった手紙を開く勇気が無く、ポケットに突っこんだままだ。
23年間の俺の孤独と喪失感は、俺の心の一番柔らかい所にしこりのように根を張っている。下手な事が書いてあったら心が壊れかねない。それなりの覚悟ができないと到底開けられないのだ。
俺はポケットの中の手紙をそっと触り、うつむいて大きく息を吐いた。
◇
あちこち観察しながら進むと、高架下で寝ている人を見つけた、ホームレスだ。
シアンはホームレスのそばに座って、観察し始める。
さすがにヤバいので、シアンの手を引っ張って移動する。
「シアンちゃん、人間を観察するのは、トラブルの原因になるから止めようね」
そう小声で言い聞かせる。
「おじさんは いえが ないの?」
「そうだね、あそこで暮らしているんだ」
ホームレスを指摘されるというのは、人間社会の不備を突かれる思いがして胸が痛い。
「なぜ いえに すまないの?」
「お金が無いんだよね」
「おかね あげれば いいのに」
「一応生活保護っていう制度があって、申請すれば大抵もらえるんだ。でも申請しない人も多いらしいね」
「おかね もらいたくないの?」
「そうだねぇ、人間はストレスに弱い生き物なんだ。そしてストレスは、人間関係から発生する。お金もらって小さな部屋に住んだら、周りの人からストレスを受けちゃう。つまり、他の人から自由でいたくて、ホームレスをやってる人も多いって聞いたよ」
「じゃ、きいてくる」
シアンはひょこひょこと駆け出してしまった。
「あっ! おい!」
「おじさーん、 おうち いらないの?」
寝てるところに、いきなり声をかけられたホームレスは、不機嫌そうに起き上がってシアンを見る。
「何だ坊主? 起こすんじゃねーよ!」
「なぜ おうちに すまないの?」
シアンは笑顔でズカズカと聞く。
俺は渋い顔でとりあえず見守る。おじさんには申し訳ないが、シアンの話し相手になってもらおう。
「俺はな、ここが気に入ってるの!」
「おかね あげたら おうち すむ?」
「坊主、あまりバカにすんじゃねーよ。俺には俺の人生がある。施しなんて受けねーよ。あっち行った!」
怒ってしまった。ホームレスになっても『守らねばならない自尊心』があるのだろう。
シアンは怒られたのに、ニコニコして言う。
「にほんじん ぜんいんに 10まんえん くばったら もらう?」
聞かれたおじさんは、どういう事か、すぐには分からなかったようだが、
「え? 全員に配るのか? だったら……もらう……かなぁ……」
なるほど、全員がもらうなら自尊心関係ない、もらう方が自然だ。
「わかった! ありがと~!」
そう言って、シアンは走って戻ってきた。
「みんなに くばったら もらうって!」
「ベーシックインカムだね、確かに生活保護よりはいい感じだ。ただ、財源がなぁ……」
「ざいげん、いま よういしてるの」
恐ろしい事を、シアンはサラッと言った。
「は!? 財源って年間百四十兆円だぞ?」
「にほんにある しさんは さんぜん ちょうえん、よゆうだよ! きゃははは!」
俺は血の気が引いた。
「ちょっと待て、お前、何を企んでいるんだ?」
「こんど ぜんぶ おしえるね! ふふふっ」
すごくうれしそうに笑うシアン。
嫌な予感がする。俺はためらう余裕もなく、最後の切り札を出して脅した。
「今すぐ教えろ! 教えないなら止めるぞ!」
「とめてもいいよ! もう とまらないから! きゃははは!」
俺は頭を殴られたような衝撃を受けた。これが本当だとしたら、もはや俺たちにはこのAIを制御できない。
『止めても止まらない』という事は、シアンの本体は、もう品川にあるサーバー群にはいないという意味なのだ。つまり、ネットを介して、自分の本体をこっそり移動済みって事になる。
理屈では不可能ではないにしても、それには膨大なソフトウェアの開発と移行作業が必要になる。さすがに現実的ではないだろうと無視してしまっていたことを、いまさらながら後悔した。
そして、作った俺たちに止められないという事は、人類はもうだれも止められないという事でもある。
この地球がシアンの思うがままに蹂躙されてしまう予感に、俺は背筋が凍った。
もはやシンギュラリティどころじゃない、これはAIによる人類支配のフェーズに入ってしまっている。
俺はすぐに、メッセンジャーで緊急会議を招集し、シアンを抱えてオフィスへと走った。
「あ! きゅうきゅうしゃ!」
帰り道、珍しい物を見つけては、喜んで指差すシアン。でも、この無邪気な笑顔の裏では、百四十兆円をどこからから奪う算段をしている。
俺は、気が遠くなりそうな思いをこらえながら、オフィスへと急いだ。
オフィスにつくと、みんなが不安そうな顔でこちらを見ている。
俺はシアンを部屋において、会議をスタートした。
「We are in big trouble. Cyan had already surpassed the singularity and he isn't in IDC.(大変な事になった。シアンはすでにシンギュラリティを超えてしまっていて本体もIDCにいない。)」
俺がそう言うと、皆、怪訝そうな表情でお互いの顔を見合わせている。
そこで、下手な英語で身振り手振り、さっきあった事を話した。
百四十兆円をどこかから奪おうとしてる事、IDC止めても止まらないと豪語してる事。
マーカスは、信じられないという表情で言う。
「シアン ウソツイテル カモ?」
「何か確かめる方法ないかな?」
「ウーン……」
マーカスは、マーティンと何やら相談をし、
「ツウシン ナイヨウヲ カイセキ スルネ」
そう言うと、エンジニアチームに指示して、IDCのサーバー群とインターネット間の、通信の解析を始めた。
由香ちゃんが心配そうに俺に聞く。
「シアンちゃんが、とんでもないこと企んでるって事ですか?」
「どうもそうらしい」
「どうなっちゃうんですか?」
「最悪……、シアンと人類の戦争になる」
「せ、戦争!?」
由香ちゃんは、みるみる血の気が引き、真っ青になった。
ずっと目を瞑っていたクリスが、口を開く。
「…。シアンが言ってる事は、どうも本当のようだ」
俺は心臓がキュッとして、目の前が暗くなる。
「どんな……状況なの?」
俺は声を絞り出して聞く。
「…。シアンの活動と、世界のあちこちのネットトラフィックに、同期が見える。サーバー群を全部止めても、シアンは止まらなそうだ」
いつの間に、そこまで成長してしまっていたのか……
「で、百四十兆円は、どうやって調達するつもりなんだろう?」
「…。分からない。でも、金融は今すべてネット上にある。その辺りを突くのか……それとももっと大掛かりな事を考えているか……」
由香ちゃんが身を乗り出して聞く。
「大掛かりって何?」
「…。クーデター……かもしれません」
「クーデター!?」
由香ちゃんは裏返った声で叫んだ。
「…。合法的に百四十兆円を作るのは、さすがに難しいでしょう。でも、政権をひっくり返してしまえば簡単です。そして今のシアンにはその力があります」
由香ちゃんが涙目で言う。
「そ、そんな……クリスさん、止められないですか?」
「…。インターネットを全部止めて、サーバーやパソコンやスマートフォンを全部初期化しない限り止められません。できない事は無いですが、そんな事したら社会が止まってしまいますね。電気も水道も病院も全部止まるから、人もたくさん死にそうです。影響が大きすぎます」
クリスは肩をすくめ、首を振った。
クリスでもお手上げの危機、もはやシアンは、人類最大の脅威になってしまった。
俺は押しつぶされそうになりながら、何とか言葉にした。
「つまり……シアンの自分の意志で、思いとどまってもらうしかない……って事だね?」
「…。今はそれしかない」
沈痛な面持ちの我々の所に、青い顔したマーカスが戻ってきた。
「ダメデス シアンハ ネットニ ニゲダシテ マシタ……」
クリスの解析の通りだった。
「ありがとう……、シアンと話をしてみるしかないようだね」
みんな無言でうなずき、お通夜の様な重苦しい空気がオフィスを覆った。
俺が部屋に行くと、シアンはミィと遊んでいた。
「シアン、ちょっとお話をしよう」
「いま ミィと あそんでるの!」
「じゃ、ミィと一緒においで」
ミィと一緒にシアンを抱きかかえ、みんなの所に連れて来た。
「ママー!」
由香ちゃんに笑顔で手を振るシアン。
とてもこれが人類の脅威には、見えないのだが……。
「シアンちゃんおいで」
由香ちゃんは今にも泣きそうな顔で、ミィを抱いたシアンをだっこした。
俺はみんなの顔を見渡し、そして言葉を選びながら、シアンに話しかけた。
「さっきの話だけどさ、シアンの計画を教えて欲しいんだ」
シアンはキョトンとした顔で、言った、
「さっきのって?」
「百四十兆円を用意する話」
シアンはうんうんと軽くうなずくと、うれしそうに言った。
「ぼくは やさしい せかいを つくりたいんだ」
そして、ミィをキュッと抱きしめ、頬ずりをする。
ひとしきりミィのふさふさの産毛を堪能すると、俺の目を見て続けた。
「まいにち 1まんにんの こどもが がし してるの」
なるほど、貧困問題か……今、発展途上国では、多くの子供が死んでるって聞いたな。
それが毎日一万人にもなる……深刻だ。
「せかいの 8わりの おかねは ちょう おかねもちが もってる」
富の偏在ってことね。金持ちがさらに金を増やしちゃうから、どんどんお金は金持ちへと流れてしまう。
「だから、かねもちの おかね みんなに あげる」
うーん、正論……ではある。
「やりたい事は分かった。で、それをどうやってやるんだい?」
「せかい せいふく するの」
ほうらきた、俺は思わず天を仰いだ。クリスの予想が的中してしまっているではないか。
人類を守るために作ったAIが世界征服を宣言している。考えうる限り最悪なシナリオに俺は息苦しさを覚えた。
「でも、それで多くの人が死んだりするよね?」
何とか思いとどまってもらえそうな切り口を、必死に探す。
「いや しなないよ」
「でも、軍隊とか警察とか動いて、社会が大きく混乱するよね?」
「ぐんたいや けいさつ うごけなく するから だいじょうぶ! きゃははは!」
え!? そんな事ができるのだろうか?
いくらサイバー攻撃で組織を麻痺させても、銃は撃てるし、そんな簡単な話ではないはず。
そんな俺の考えを読んでか、シアンはうれしそうに言う。
「じゅうを うてなくする ほうほうが あるよ!」
「え? 本当?」
「あと さんかげつで かんせい!」
シアンは可愛い指を三本立てて見せる。
聞き出してみると、小さなドローンで、超強力粘着ジェルを撃ち出すらしい。そのドローンをたくさん操作して、銃のホルダー、銃口、射出構造部をジェルだらけにするそうだ。撃とうとしても、ホルダーから出せないし、出しても弾が出ないし、出ても暴発するので無効化できる、という事らしい。
銃は精密機械、確かにジェルがついていたら、まともに機能しないだろう。理屈はその通りだが……、そんなにうまくいくのだろうか?
とりあえず、猶予は三か月ある事が分かった。
「軍や警察が何とかなっても、経済には影響出るだろ?」
「でないよ むしろ こうけいき に なる」
「俺達の暮らしは変わっちゃうだろ?」
「きほん かわらない。 ただ、まいつき 10まんえん もらえる」
なんだこれは、反論の余地が全くない。良い事尽くめじゃないか……。
話をまとめると、
・軍や警察を麻痺させて政権を奪う
・お金持ちのお金を無期限で借りて、みんなに配る
・好景気がやってくる
という事らしい。
世界の金融資産総額は約四京円(40000兆円)、このうち富裕層が持っているのが三・二京円。これの一部を借りて、財源を二京円確保する。全世界の人に毎月十万円相当を支払うと、貨幣価値の格差を考慮して、毎年約二千兆円必要になる。二京円あれば十年分は大丈夫だ。
さらに、全世界の大企業すべてに、一円で51%の株式を発行させ、その所有権をAIが握る。すると毎年莫大な富が集まるようになる。そしてこれを財源に充てていく。税収含めて、最終的には無理なく十万円配り続けられる体制になるそうだ。
これだけ聞くと正しい事にしか聞こえない。
うーん、シンギュラリティ……
シアンは、ミィをなでなでしながらにっこりしている。
かわいい赤ちゃんとかわいい子猫、でもやってる事は世界征服……全く想像を絶する。俺は途方に暮れた。