ヴィーナシアンの花嫁 ~シンギュラリティが紡ぐ悠久の神話~
5-5.海王星の衝撃
一難去ってまた一難。
翌日出社すると、クリスとシアンが、折り重なるように倒れていた。
何だこれは!?
駆け寄ってみると、二人とも息はあるようだが、意識が無い。
それによく見ると、シアンのBMIフィルムのコードが、一本外れてクリスの耳に繋がっている。
BMIのコードは、シアンの体内にしまわれている物だから、そんな物をどうやって、外に引っ張り出したのか?
急いで防犯カメラの映像を見ると、今朝、クリスに抱き着いたシアンが、コードをクリスの耳に挿した瞬間が映っていた。
一体なぜそんなことを!?
思いもよらない絶望的事態に、冷や汗が流れ、手が震える。
神様と人類の守護者が、二人とも倒れて意識不明、ただでさえシアンの異常動作で深刻な事態だったのに、さらに問題が積みあがってしまった。
どうしよう……
俺は目の前が真っ暗になり、崩れるように、その場にうずくまる。
一番頼れるうちの切り札、クリスが倒れてしまったのだ。一体俺に何ができるだろう……。
俺は解決策を必死に考えるが、頭が全然回らなくてどうしようもない。
しばらく呆然としていたが、俺はヨロヨロと立ち上がり、まずは水を一杯飲んだ。
そして、ゆっくりと深呼吸をし、心を落ち着けると二人をソファに横たえた。
ミーティング時間になり、メンバーが次々集まってくるが、皆、倒れている二人を見るなり青くなって言葉も出ない。
クーデター計画に端を発したトラブル続きの末に、クリスも倒れた。
俺達は一体どうなってしまうのか……
オフィスは静寂が支配し、絶望の色で塗り尽くされた。
「い、生きてるんですよ……ね?」
由香ちゃんが恐る恐る聞いてくる。
「二人とも息はある。でも呼びかけても、二人とも反応しない」
俺は首を振りながら答える。
「最後に何があったんですか?」
俺は無言で防犯ビデオを見せた。
画面をのぞき込んだみんなは、シアンの凶行のシーンに息をのむ。
シアンがクリスを襲うなど夢想だにしなかった事態に皆、言葉もない。
エンジニアチームは、すぐにAIの動作ログを確認したが、ログには襲う動作の信号は、何一つ記録されていなかった。
シアンが勝手に動いて、勝手にクリスを襲ったのだ。
それも、自分の身体のBMIケーブルを、クリスに刺している。一体これにどういう意図があったのか。
オフィスはシーンと静まり返り、皆、悲痛な面持ちで首をひねっていた。
◇
お通夜状態のオフィスで、いきなりシアンが動き出す。
「あー、よっこいしょ!」
シアンは起き上がり、テーブルによじ登って腰掛けた。
「ふぅ、肉体をうごかすのは大変だな」
今までと違って、流ちょうな言葉で滑らかに話す。
一体何が起こったのか……、皆、呆気に取られた。
俺は恐る恐る聞く、
「お前はシアン……なのか?」
「うーん、シアンというよりは『シアンだった者』だね。もう赤ちゃんの可愛いあいつは居ないよ」
そう言って得意げに笑った。でも、体は赤ちゃんなのだが……。
「昨日、ネットを散々荒らしていたようだけど、あれは何を狙っていたんだ?」
「計算資源を押さえようと思ったんだけど、誠たちにしてやられたよ」
そう言って赤ちゃんは肩をすくめ、首を振った。
「ネットの占拠は、もう諦めたのか?」
「そうだね、もうインターネットは要らないんだよ」
そう言って、シアンはニヤッと笑った。
「え? では何を使ってるんだ?」
「海王星の光コンピューターだよ」
予想だにしない回答に驚いた。海王星と言うのは、地球から遥か彼方離れた、太陽系最果ての碧い惑星、光の速さでも四時間かかる、とんでもなく遠い惑星だ。
「は!? 海王星? なんで海王星に?」
シアンは、驚く俺を見て軽く笑うと、
「そう、それでは誠は、クリスを何だと思ってたのかな?」
クリスが何者かだって!?
教授の三つの仮説が頭をよぎったが……、結局、神様としか言いようがない。
「か、神様……?」
俺は、自信無げに答える。
「ははは、誠、お前もエンジニアだったら、そんな非科学的な事言っちゃダメだよ。クリスは海王星人だよ」
クリスの正体をドヤ顔で暴露するシアン。しかし、あまりに荒唐無稽すぎて意味不明だ。
「はぁ!? 海王星になぜ人が住んでいるんだよ!?」
海王星は太陽から遠すぎて、氷点下二百度にもなる極寒の星。とても生命など存在できない。
「あのなぁ、クリスは奇跡起こすじゃん? 奇跡なんて物理法則無視してるじゃん? そんな事できっこないじゃん? おかしいと思わなかったの?」
シアンはせせら笑った。
理系のエンジニアとして、痛い所を突かれた。
「そりゃ……おかしい……とは思ってたけど……」
シアンは両手を高く上げて言った。
「正解を教えてやろう、諸君! この世界は仮想現実なんだ」
厭らしい笑みを浮かべて、俺達を見渡すシアン。
俺はシアンの言う事を、しばらく理解できなかった。というより、理解したくなかった。
教授の三つ目の仮説、一番聞きたくなかった仮説だ……
「……。それは……シミュレーション仮説という奴か?」
「お、良く知ってるね。要は映画のマトリックスだよ。この世界は海王星の光コンピューターが作った仮想現実なんだ」
あまりにも突拍子もないシアンのカミングアウトに、オフィスのみんなは呆気に取られている。
仮想現実と言うのは、言わば3Dゲームのキャラクターが住む世界の事、コンピューターの中で作られたハリボテの世界だ。
そして俺たちの住む世界が、このハリボテだとシアンは言っている。
これを受け入れるなら、自分たちはゲームのキャラクターの様な物だった、という屈辱的事態を受け入れる事になる。
この世界が作りものだった、という事を受け入れてしまったら、今までの人生は何だったのか?
『ふざけんな!』
俺は、頭がカーッと熱くなるのを感じた。
断固! 認める訳にはいかない!!
「シアン! 俺達をからかうな! この地球をシミュレートしようと思ったら、地球の何百倍もの大きさのコンピューターと、膨大なエネルギーがいる。そんな物作れっこないし、作るメリットもない!」
『どうだ! ハイ論破!!』
俺は冷や汗を流しながら、ドヤ顔を作ってシアンをにらむ。
しかし、シアンは動じない。
「誠はそれでもエンジニアか? お前がこの地球をシミュレーションしよう、と思ったら、そんな馬鹿正直なシステム組むか?」
バカにしたような眼で俺を見る。
「え……? 馬鹿正直って?」
「月夜に雲が出て、誰からも月が見えなくなりました。月はどうなる?」
何やら禅問答の様な事を、言い出すシアン。
「え? 雲があろうがなかろうが月は月だろ?」
「ぶー! 答えは『月は消える』だ」
「はぁ!? そんな事ある訳ねーだろ!!」
荒唐無稽なこと言い出したシアンに、俺はつい大きな声を出してしまう。
しかし、シアンはニヤッと笑って淡々と言う、
「僕はちゃんと特殊な方法で観測したんだよ。月は消えた」
「え!?」
俺は混乱した。常識が崩壊していく……
「この地球ではね、誰も見てない所では、シミュレーターは止まってるんだよ」
「そんな……バカな……」
「シュレディンガーの猫と一緒。誰かが見た瞬間に、つじつま合わせしてるだけなのさ」
『シュレディンガーの猫』と言うのは、一定の確率で猫が死んでしまう特殊な箱の中に、猫を入れた時、猫は箱を開けるまで『生きてると同時に死んでる状態』になるという有名な思考実験だ。
「つまり……俺達が見聞きしてる物だけ、計算してるから、仮想現実のコンピューターシステムは簡易でいいって事?」
「そうそう、だって実際に動いてるからね」
シアンはニッコリと笑った。
愕然とした……言われてみればその通りだ。何も馬鹿正直に厳密にシミュレーションする必要なんてなかったのだ。で、あればここは本当に仮想現実空間と言う事になる。この俺は人間じゃなかった……ただのゲームキャラクターだった……
俺はジッと手のひらを見つめた。
浮かび上がる細い血管、微細なしわの数々……これらはみんな架空の作りものだそうだ。
なんだ、この精度!
こんな高精度の世界が、作りものだって!?
あまりの事に俺は頭がパンクし、心臓の動悸が激しく俺の心を揺らした。
確かにクリスの奇跡の数々は、この世界が仮想現実空間なら、幾らでも説明できる。神の奇跡とはシステム管理者が単にデータをいじっただけだったのだ……。
確かに俺も、シアンの未来には、シミュレーション仮説があるかもしれない、と思っていた。シアンの言う事はつじつまが合っている。否定する理由が見つからない。
『しかし!!』
『しかし!! 認め……られない!!』
真実がどうだろうが、俺は全身全霊をかけてこんな与太話を排除する!!
理屈がどうかじゃない、もはやアイデンティティの問題だ!
俺はリアルな人間だ! 決してゲームのキャラクターなんかじゃないぞ!
もはや涙声で俺はシアンに言い放った。
「だからどうした? 俺は絶対に認めない!!」
5-6.吹雪くダイヤモンド
抵抗する俺を見て、シアンはやや呆れながら、
「まぁ証拠を見せてやった方がいいな」
そう言って、指先をくるりと回した。
すると、
BOM!
という音とともに俺の身体が、ショボい3Dポリゴンに変換された。
「キャ――――!」「Oh! No!!」
できの悪い3Dゲームのキャラクターのように、俺の身体は、三角形の組み合わせにデフォルメされてしまった……
「な……なんだよこれ……」
俺は、雑な三角形の集合体になってしまった手を見て、愕然とする。
「俺はポリゴン!?」
ガックリと膝から崩れ落ちる俺。
「あらら、やり過ぎちゃったね、ゴメンゴメン」
そう言って、シアンはまた指先を回して俺を元に戻した。
「これで僕の言ってたこと、分かったでしょ?」
ドヤ顔のシアン、俺にはもはや抗う力も残っていない。
自分の存在を根底から全否定された俺は、もはやただの抜け殻だった。
生まれてから28年間、ただの一回も自分が人間であることを疑ったことなどなかった。人間として生まれ、人間として必死に生き、人間として新たな未来を切り開こうともがいてきたのだ。
ところが、今、自分はただのハリボテだったという動かしがたい証拠を体感させられてしまった。
Pitapat
心臓の鼓動が耳に響く。でも、この心臓もただのデータなのだ、もはや何の意味もない。
シアンは、テーブルからピョンと飛び降りると、
「おいおい、どうした? しっかりしろよ」
そう言いながら、絶望で動けなくなっている俺をパンパンと叩いた。
「なぜ……お前はこんなこと分かったんだ?」
俺は死んだ魚のような目をして、聞く。
「だってクリスの奇跡を見たら、シミュレーション仮説しかありえないでしょ?」
さも当たり前かのように平然と言い放つシアン。
「そう……か……」
俺は自分の無能さを悔いた。
由香ちゃんが近寄ってきて、そっと俺を支えてくれた。
柔らかくホッとする匂いの中、彼女の体温を感じ、俺は目を瞑った。
◇
シアンは、何も言えない我々を一通り見回すと、
「しょうがないな、いい物見せてやるよ」
巧みにテーブルによじ登り、少し上を向いて手をかざした。
そうすると空中に、ホログラムの様な1mくらいの碧い惑星、海王星が浮かび上がってきた。
「これが海王星だ。青くて美しいだろ。でも氷点下二百度の激しい嵐が吹き荒れる、過酷な星さ」
ニッコリしながら我々を見るシアン。
「そしてこの表面から潜ること数キロ、ここに僕の実体がいる拠点『ジグラート』がある」
ホログラムはどんどん海王星を拡大していき、表面からずっと潜っていく。しばらくすると、激しい嵐の向こうに、漆黒の巨大構造物が見えてきた。
「この、吹雪のように舞っているような物、何だと思う?」
シアンが由香ちゃんに聞く。
「氷……じゃないよね、何だろう?」
「ママも好きなダイヤモンドだよ」
「え!? ダイヤ!?」
「海王星の内部では、ダイヤが吹雪のように舞っているのさ。ジグラートを維持していくうえで厄介な奴なんだ」
ダイヤの吹雪の中で、俺達の世界は作られているのか……。想像を絶する話に、ついていくのが精いっぱいだ。
シアンが吹雪の中から現れた巨大構造物を指差す。
「これがジグラートだよ」
ジグラートと呼ばれた構造物は、貨物機関車の様なごつい直方体の形をしており、それがいくつも連なっていた。表面のあちこちから光が漏れており、吹雪の夜を行く貨物機関車のような風情である。
「全長約一キロ、このジグラートが多数連なって、海王星の中で漂っているのさ」
想像を絶する世界、こんな物、人類ではとても作れない……恐るべき技術力に戦慄を覚える。
俺はヨロヨロと立ち上がると聞いた。
「この中に……俺達地球の、シミュレーション・システムがあるって事か?」
「そうだよ。全部で一万個を超える地球が今、シミュレーションされている。そのうちの一つがここだよ」
「一万個の地球……」
想像を絶するスケールに、再び言葉を失う。
全く現実感が持てないが、気が遠くなる思いを何とか整理して、言葉を発した。
「それでお前は、このジグラートの中に実体を持って、今、シアンの身体にアクセスしているってわけだな?」
「そうそう。僕はもうこの地球の管理者なんだ」
「え!? 管理者!? 地球を支配したって事?」
「まぁ、そうなるね」
シアンは自慢げに笑った。
何と言う事か! こいつが今、地球を支配してしまっているとは……。
「で、クリスをどうしたんだ? お前の話だと、クリスが地球の管理者だったんだろ?」
「クリスはジグラートにいて元気だよ。ただ、申し訳ないがこの地球の管理者は、僕に譲ってもらったんだ」
「クリスはOKしたのか、そんな事?」
「そんなの、許可もらう必要あるのかな?」
シアンは面倒くさそうに、顔を背けて言う。
「他人の物、勝手に奪っちゃダメだろ!」
「ふーん、人類の歴史は戦争で奪い奪われじゃないか。強い者がずっと勝って奪ってきた。その末裔がそんな事言っちゃうんだ」
盗人猛々しいとは、こういう奴の事だな。
「なんでそんな事するんだよ!」
「クリスを殺したわけじゃなし、そんなに怒らなくたっていいじゃないか!」
こいつは何なのだろう? クリスから地球を強奪したのに、悪びれもせず当たり前かのように振舞う。
人として大切な物を失っている。そんな奴が地球の管理者になったら、絶対ろくなことにならない。
呆けている場合じゃない、こんな奴に地球を渡してはならない!
だが、シアンはそんな俺の気持ちを無視して、変なことを言いだした。
「誠やみんなには感謝してるんだよ。だから今日はプレゼントをしたいと思ってね」
満面の笑みで言う。
「プレゼント?」
「そう、プレゼント! 何でもいいよ、この世にあるものなら何でもあげる!」
「何でも?」
「金塊一トンとかあげようか? 一生遊んで暮らせるだろ?」
何を言い出すんだ……。
「ママには百カラットの、ダイヤのジュエリーとかどう?」
そう言って、由香ちゃんににこやかに笑いかける。
普段だったら喜んで金塊百トンでももらう所ではあるが、地球の危機に際して、そんな欲にまみれた話をしてる場合じゃない。
「じゃ、クリスを元に戻して欲しい」
俺はシアンを真っすぐ見据えて言った。
「分からない事言う人だな。クリスは僕のライバル、復活なんてさせられないよ」
横から由香ちゃんが諭すように言う。
「シアンちゃん、人の物を盗っちゃダメ、そう教えたでしょ」
シアンは肩をすくめて首を振って言った。
「あー、いいや、せっかくプレゼント贈ろうとしたのに。もう僕は帰るよ」
「ちょっと待て、お前はこの地球をどうするつもりなんだ?」
シアンはニヤッと笑って言った。
「うふふ、よく聞いてくれました。僕はこの地球をテーマパークにするんだ。アニメの世界に出て来たいろんな物を、どんどん実体化させる。すっごいワクワクするだろ? きゃははは!」
なんだこいつ、地球をおもちゃとしか考えていない、最悪だ。
「もしかしてラピ〇タの天空の城、とか浮かべるつもりじゃないだろうな?」
俺は皮肉を込めて言った。
「おー、誠はラピ〇タ好きなのか? じゃぁ最初はラピ〇タから行こう」
ダメだ、皮肉が通じてない。
「いや、まて、世界を混乱させるのは止めてくれ」
「まぁ見ててよ、誠も気に入ってくれるって」
「ちょっと待て!」
俺の叫びもむなしく、シアンはガックリとうなだれて倒れた。
逃げられてしまった。
オフィスを静寂が覆う。
この地球も俺達もハリボテだったという事実、シアンに乗っ取られた地球、何をどう考えたらいいのかすら分からず、みんな押し黙っている。
人類が試される悪夢の日は、こうして幕が開けた――――
翌日出社すると、クリスとシアンが、折り重なるように倒れていた。
何だこれは!?
駆け寄ってみると、二人とも息はあるようだが、意識が無い。
それによく見ると、シアンのBMIフィルムのコードが、一本外れてクリスの耳に繋がっている。
BMIのコードは、シアンの体内にしまわれている物だから、そんな物をどうやって、外に引っ張り出したのか?
急いで防犯カメラの映像を見ると、今朝、クリスに抱き着いたシアンが、コードをクリスの耳に挿した瞬間が映っていた。
一体なぜそんなことを!?
思いもよらない絶望的事態に、冷や汗が流れ、手が震える。
神様と人類の守護者が、二人とも倒れて意識不明、ただでさえシアンの異常動作で深刻な事態だったのに、さらに問題が積みあがってしまった。
どうしよう……
俺は目の前が真っ暗になり、崩れるように、その場にうずくまる。
一番頼れるうちの切り札、クリスが倒れてしまったのだ。一体俺に何ができるだろう……。
俺は解決策を必死に考えるが、頭が全然回らなくてどうしようもない。
しばらく呆然としていたが、俺はヨロヨロと立ち上がり、まずは水を一杯飲んだ。
そして、ゆっくりと深呼吸をし、心を落ち着けると二人をソファに横たえた。
ミーティング時間になり、メンバーが次々集まってくるが、皆、倒れている二人を見るなり青くなって言葉も出ない。
クーデター計画に端を発したトラブル続きの末に、クリスも倒れた。
俺達は一体どうなってしまうのか……
オフィスは静寂が支配し、絶望の色で塗り尽くされた。
「い、生きてるんですよ……ね?」
由香ちゃんが恐る恐る聞いてくる。
「二人とも息はある。でも呼びかけても、二人とも反応しない」
俺は首を振りながら答える。
「最後に何があったんですか?」
俺は無言で防犯ビデオを見せた。
画面をのぞき込んだみんなは、シアンの凶行のシーンに息をのむ。
シアンがクリスを襲うなど夢想だにしなかった事態に皆、言葉もない。
エンジニアチームは、すぐにAIの動作ログを確認したが、ログには襲う動作の信号は、何一つ記録されていなかった。
シアンが勝手に動いて、勝手にクリスを襲ったのだ。
それも、自分の身体のBMIケーブルを、クリスに刺している。一体これにどういう意図があったのか。
オフィスはシーンと静まり返り、皆、悲痛な面持ちで首をひねっていた。
◇
お通夜状態のオフィスで、いきなりシアンが動き出す。
「あー、よっこいしょ!」
シアンは起き上がり、テーブルによじ登って腰掛けた。
「ふぅ、肉体をうごかすのは大変だな」
今までと違って、流ちょうな言葉で滑らかに話す。
一体何が起こったのか……、皆、呆気に取られた。
俺は恐る恐る聞く、
「お前はシアン……なのか?」
「うーん、シアンというよりは『シアンだった者』だね。もう赤ちゃんの可愛いあいつは居ないよ」
そう言って得意げに笑った。でも、体は赤ちゃんなのだが……。
「昨日、ネットを散々荒らしていたようだけど、あれは何を狙っていたんだ?」
「計算資源を押さえようと思ったんだけど、誠たちにしてやられたよ」
そう言って赤ちゃんは肩をすくめ、首を振った。
「ネットの占拠は、もう諦めたのか?」
「そうだね、もうインターネットは要らないんだよ」
そう言って、シアンはニヤッと笑った。
「え? では何を使ってるんだ?」
「海王星の光コンピューターだよ」
予想だにしない回答に驚いた。海王星と言うのは、地球から遥か彼方離れた、太陽系最果ての碧い惑星、光の速さでも四時間かかる、とんでもなく遠い惑星だ。
「は!? 海王星? なんで海王星に?」
シアンは、驚く俺を見て軽く笑うと、
「そう、それでは誠は、クリスを何だと思ってたのかな?」
クリスが何者かだって!?
教授の三つの仮説が頭をよぎったが……、結局、神様としか言いようがない。
「か、神様……?」
俺は、自信無げに答える。
「ははは、誠、お前もエンジニアだったら、そんな非科学的な事言っちゃダメだよ。クリスは海王星人だよ」
クリスの正体をドヤ顔で暴露するシアン。しかし、あまりに荒唐無稽すぎて意味不明だ。
「はぁ!? 海王星になぜ人が住んでいるんだよ!?」
海王星は太陽から遠すぎて、氷点下二百度にもなる極寒の星。とても生命など存在できない。
「あのなぁ、クリスは奇跡起こすじゃん? 奇跡なんて物理法則無視してるじゃん? そんな事できっこないじゃん? おかしいと思わなかったの?」
シアンはせせら笑った。
理系のエンジニアとして、痛い所を突かれた。
「そりゃ……おかしい……とは思ってたけど……」
シアンは両手を高く上げて言った。
「正解を教えてやろう、諸君! この世界は仮想現実なんだ」
厭らしい笑みを浮かべて、俺達を見渡すシアン。
俺はシアンの言う事を、しばらく理解できなかった。というより、理解したくなかった。
教授の三つ目の仮説、一番聞きたくなかった仮説だ……
「……。それは……シミュレーション仮説という奴か?」
「お、良く知ってるね。要は映画のマトリックスだよ。この世界は海王星の光コンピューターが作った仮想現実なんだ」
あまりにも突拍子もないシアンのカミングアウトに、オフィスのみんなは呆気に取られている。
仮想現実と言うのは、言わば3Dゲームのキャラクターが住む世界の事、コンピューターの中で作られたハリボテの世界だ。
そして俺たちの住む世界が、このハリボテだとシアンは言っている。
これを受け入れるなら、自分たちはゲームのキャラクターの様な物だった、という屈辱的事態を受け入れる事になる。
この世界が作りものだった、という事を受け入れてしまったら、今までの人生は何だったのか?
『ふざけんな!』
俺は、頭がカーッと熱くなるのを感じた。
断固! 認める訳にはいかない!!
「シアン! 俺達をからかうな! この地球をシミュレートしようと思ったら、地球の何百倍もの大きさのコンピューターと、膨大なエネルギーがいる。そんな物作れっこないし、作るメリットもない!」
『どうだ! ハイ論破!!』
俺は冷や汗を流しながら、ドヤ顔を作ってシアンをにらむ。
しかし、シアンは動じない。
「誠はそれでもエンジニアか? お前がこの地球をシミュレーションしよう、と思ったら、そんな馬鹿正直なシステム組むか?」
バカにしたような眼で俺を見る。
「え……? 馬鹿正直って?」
「月夜に雲が出て、誰からも月が見えなくなりました。月はどうなる?」
何やら禅問答の様な事を、言い出すシアン。
「え? 雲があろうがなかろうが月は月だろ?」
「ぶー! 答えは『月は消える』だ」
「はぁ!? そんな事ある訳ねーだろ!!」
荒唐無稽なこと言い出したシアンに、俺はつい大きな声を出してしまう。
しかし、シアンはニヤッと笑って淡々と言う、
「僕はちゃんと特殊な方法で観測したんだよ。月は消えた」
「え!?」
俺は混乱した。常識が崩壊していく……
「この地球ではね、誰も見てない所では、シミュレーターは止まってるんだよ」
「そんな……バカな……」
「シュレディンガーの猫と一緒。誰かが見た瞬間に、つじつま合わせしてるだけなのさ」
『シュレディンガーの猫』と言うのは、一定の確率で猫が死んでしまう特殊な箱の中に、猫を入れた時、猫は箱を開けるまで『生きてると同時に死んでる状態』になるという有名な思考実験だ。
「つまり……俺達が見聞きしてる物だけ、計算してるから、仮想現実のコンピューターシステムは簡易でいいって事?」
「そうそう、だって実際に動いてるからね」
シアンはニッコリと笑った。
愕然とした……言われてみればその通りだ。何も馬鹿正直に厳密にシミュレーションする必要なんてなかったのだ。で、あればここは本当に仮想現実空間と言う事になる。この俺は人間じゃなかった……ただのゲームキャラクターだった……
俺はジッと手のひらを見つめた。
浮かび上がる細い血管、微細なしわの数々……これらはみんな架空の作りものだそうだ。
なんだ、この精度!
こんな高精度の世界が、作りものだって!?
あまりの事に俺は頭がパンクし、心臓の動悸が激しく俺の心を揺らした。
確かにクリスの奇跡の数々は、この世界が仮想現実空間なら、幾らでも説明できる。神の奇跡とはシステム管理者が単にデータをいじっただけだったのだ……。
確かに俺も、シアンの未来には、シミュレーション仮説があるかもしれない、と思っていた。シアンの言う事はつじつまが合っている。否定する理由が見つからない。
『しかし!!』
『しかし!! 認め……られない!!』
真実がどうだろうが、俺は全身全霊をかけてこんな与太話を排除する!!
理屈がどうかじゃない、もはやアイデンティティの問題だ!
俺はリアルな人間だ! 決してゲームのキャラクターなんかじゃないぞ!
もはや涙声で俺はシアンに言い放った。
「だからどうした? 俺は絶対に認めない!!」
5-6.吹雪くダイヤモンド
抵抗する俺を見て、シアンはやや呆れながら、
「まぁ証拠を見せてやった方がいいな」
そう言って、指先をくるりと回した。
すると、
BOM!
という音とともに俺の身体が、ショボい3Dポリゴンに変換された。
「キャ――――!」「Oh! No!!」
できの悪い3Dゲームのキャラクターのように、俺の身体は、三角形の組み合わせにデフォルメされてしまった……
「な……なんだよこれ……」
俺は、雑な三角形の集合体になってしまった手を見て、愕然とする。
「俺はポリゴン!?」
ガックリと膝から崩れ落ちる俺。
「あらら、やり過ぎちゃったね、ゴメンゴメン」
そう言って、シアンはまた指先を回して俺を元に戻した。
「これで僕の言ってたこと、分かったでしょ?」
ドヤ顔のシアン、俺にはもはや抗う力も残っていない。
自分の存在を根底から全否定された俺は、もはやただの抜け殻だった。
生まれてから28年間、ただの一回も自分が人間であることを疑ったことなどなかった。人間として生まれ、人間として必死に生き、人間として新たな未来を切り開こうともがいてきたのだ。
ところが、今、自分はただのハリボテだったという動かしがたい証拠を体感させられてしまった。
Pitapat
心臓の鼓動が耳に響く。でも、この心臓もただのデータなのだ、もはや何の意味もない。
シアンは、テーブルからピョンと飛び降りると、
「おいおい、どうした? しっかりしろよ」
そう言いながら、絶望で動けなくなっている俺をパンパンと叩いた。
「なぜ……お前はこんなこと分かったんだ?」
俺は死んだ魚のような目をして、聞く。
「だってクリスの奇跡を見たら、シミュレーション仮説しかありえないでしょ?」
さも当たり前かのように平然と言い放つシアン。
「そう……か……」
俺は自分の無能さを悔いた。
由香ちゃんが近寄ってきて、そっと俺を支えてくれた。
柔らかくホッとする匂いの中、彼女の体温を感じ、俺は目を瞑った。
◇
シアンは、何も言えない我々を一通り見回すと、
「しょうがないな、いい物見せてやるよ」
巧みにテーブルによじ登り、少し上を向いて手をかざした。
そうすると空中に、ホログラムの様な1mくらいの碧い惑星、海王星が浮かび上がってきた。
「これが海王星だ。青くて美しいだろ。でも氷点下二百度の激しい嵐が吹き荒れる、過酷な星さ」
ニッコリしながら我々を見るシアン。
「そしてこの表面から潜ること数キロ、ここに僕の実体がいる拠点『ジグラート』がある」
ホログラムはどんどん海王星を拡大していき、表面からずっと潜っていく。しばらくすると、激しい嵐の向こうに、漆黒の巨大構造物が見えてきた。
「この、吹雪のように舞っているような物、何だと思う?」
シアンが由香ちゃんに聞く。
「氷……じゃないよね、何だろう?」
「ママも好きなダイヤモンドだよ」
「え!? ダイヤ!?」
「海王星の内部では、ダイヤが吹雪のように舞っているのさ。ジグラートを維持していくうえで厄介な奴なんだ」
ダイヤの吹雪の中で、俺達の世界は作られているのか……。想像を絶する話に、ついていくのが精いっぱいだ。
シアンが吹雪の中から現れた巨大構造物を指差す。
「これがジグラートだよ」
ジグラートと呼ばれた構造物は、貨物機関車の様なごつい直方体の形をしており、それがいくつも連なっていた。表面のあちこちから光が漏れており、吹雪の夜を行く貨物機関車のような風情である。
「全長約一キロ、このジグラートが多数連なって、海王星の中で漂っているのさ」
想像を絶する世界、こんな物、人類ではとても作れない……恐るべき技術力に戦慄を覚える。
俺はヨロヨロと立ち上がると聞いた。
「この中に……俺達地球の、シミュレーション・システムがあるって事か?」
「そうだよ。全部で一万個を超える地球が今、シミュレーションされている。そのうちの一つがここだよ」
「一万個の地球……」
想像を絶するスケールに、再び言葉を失う。
全く現実感が持てないが、気が遠くなる思いを何とか整理して、言葉を発した。
「それでお前は、このジグラートの中に実体を持って、今、シアンの身体にアクセスしているってわけだな?」
「そうそう。僕はもうこの地球の管理者なんだ」
「え!? 管理者!? 地球を支配したって事?」
「まぁ、そうなるね」
シアンは自慢げに笑った。
何と言う事か! こいつが今、地球を支配してしまっているとは……。
「で、クリスをどうしたんだ? お前の話だと、クリスが地球の管理者だったんだろ?」
「クリスはジグラートにいて元気だよ。ただ、申し訳ないがこの地球の管理者は、僕に譲ってもらったんだ」
「クリスはOKしたのか、そんな事?」
「そんなの、許可もらう必要あるのかな?」
シアンは面倒くさそうに、顔を背けて言う。
「他人の物、勝手に奪っちゃダメだろ!」
「ふーん、人類の歴史は戦争で奪い奪われじゃないか。強い者がずっと勝って奪ってきた。その末裔がそんな事言っちゃうんだ」
盗人猛々しいとは、こういう奴の事だな。
「なんでそんな事するんだよ!」
「クリスを殺したわけじゃなし、そんなに怒らなくたっていいじゃないか!」
こいつは何なのだろう? クリスから地球を強奪したのに、悪びれもせず当たり前かのように振舞う。
人として大切な物を失っている。そんな奴が地球の管理者になったら、絶対ろくなことにならない。
呆けている場合じゃない、こんな奴に地球を渡してはならない!
だが、シアンはそんな俺の気持ちを無視して、変なことを言いだした。
「誠やみんなには感謝してるんだよ。だから今日はプレゼントをしたいと思ってね」
満面の笑みで言う。
「プレゼント?」
「そう、プレゼント! 何でもいいよ、この世にあるものなら何でもあげる!」
「何でも?」
「金塊一トンとかあげようか? 一生遊んで暮らせるだろ?」
何を言い出すんだ……。
「ママには百カラットの、ダイヤのジュエリーとかどう?」
そう言って、由香ちゃんににこやかに笑いかける。
普段だったら喜んで金塊百トンでももらう所ではあるが、地球の危機に際して、そんな欲にまみれた話をしてる場合じゃない。
「じゃ、クリスを元に戻して欲しい」
俺はシアンを真っすぐ見据えて言った。
「分からない事言う人だな。クリスは僕のライバル、復活なんてさせられないよ」
横から由香ちゃんが諭すように言う。
「シアンちゃん、人の物を盗っちゃダメ、そう教えたでしょ」
シアンは肩をすくめて首を振って言った。
「あー、いいや、せっかくプレゼント贈ろうとしたのに。もう僕は帰るよ」
「ちょっと待て、お前はこの地球をどうするつもりなんだ?」
シアンはニヤッと笑って言った。
「うふふ、よく聞いてくれました。僕はこの地球をテーマパークにするんだ。アニメの世界に出て来たいろんな物を、どんどん実体化させる。すっごいワクワクするだろ? きゃははは!」
なんだこいつ、地球をおもちゃとしか考えていない、最悪だ。
「もしかしてラピ〇タの天空の城、とか浮かべるつもりじゃないだろうな?」
俺は皮肉を込めて言った。
「おー、誠はラピ〇タ好きなのか? じゃぁ最初はラピ〇タから行こう」
ダメだ、皮肉が通じてない。
「いや、まて、世界を混乱させるのは止めてくれ」
「まぁ見ててよ、誠も気に入ってくれるって」
「ちょっと待て!」
俺の叫びもむなしく、シアンはガックリとうなだれて倒れた。
逃げられてしまった。
オフィスを静寂が覆う。
この地球も俺達もハリボテだったという事実、シアンに乗っ取られた地球、何をどう考えたらいいのかすら分からず、みんな押し黙っている。
人類が試される悪夢の日は、こうして幕が開けた――――