ヴィーナシアンの花嫁 ~シンギュラリティが紡ぐ悠久の神話~
1-5.愛の秘密
話の流れから、こうなるのは仕方ない……。
「う、うん、実はAIのロボットを作ろう、と思ってるんだ」
俺は覚悟を決めてプランを話す。
「えっ? ロボット!?」
美奈ちゃんは驚いて、俺を見つめる。全てを見透かすような澄んだ琥珀色の瞳に、一瞬動揺してしまう。
俺は、ゆっくり息を吸い、心を落ち着けて答えた。
「そ、そうなんだ。鉄腕アトムの様な、心優しいAIロボットを、クリスと一緒に作ろうと思ってるんだ。このAIロボットを子育てや温暖化対策に活用して社会の安定化を図ろうかと」
「えっ!? そんな事できるの!?」
「い、一応これでもAIエンジニアなんだぞ!」
俺は、わざとらしく胸を張りながら言った。
「それでも……ねぇ……」
美奈ちゃんは、怪訝な眼差しで俺を見る。
「もちろん、そう簡単にはできないよ。でももう人間は、囲碁や将棋ではAIには勝てないんだ。AIは部分的には人間を凌駕してるんだよ」
「そうだけどぉ、囲碁とアトムは全然違うわよ?」
首をかしげる美奈ちゃん。
確かに簡単ではない。でも、クリスの手前、自信なさそうな事は決して言えない。
「俺は作るよ! 必ず作る!」
そう力強く言い切った。
「AIできても、本当に心優しくなんてできるの? むしろ人類を滅ぼそうとしたりするんじゃないの?」
怪訝そうな美奈ちゃん。
「そこは大丈夫! 秘策があるんだ」
俺はそう言ってニッコリと笑った。
「秘策? 本当に大丈夫ぅ?」
美奈ちゃんは、ポテトチップスをポリポリ齧りながら言う。
「大丈夫、大丈夫!」
俺はそう言って、後ろめたい気持ちに蓋をするように缶ビールをグッと呷った。
「…。で、具体的にはどうやって作るんだ?」
クリスが核心に切り込んでくる。いよいよ正念場だ。
「AIのエンジンを俺が作るので、それを育てる膨大なデータをクリスにお願いしたい」
俺はクリスの目を見て言った。
「…。誠が生んで私が育てるのか?」
「そう、AIを正しく導けるのは、クリスだけなんだ。ぜひやって欲しい」
クリスは腕を組んで、軽くのけぞって首を揺らす。
狭い部屋には洋楽のヒットナンバーが小さくスピーカーから流れている。
美奈ちゃんは興味なさげに、最後に残ったポテトチップスの破片を愛おしそうにチマチマと齧った。
「…。具体的には何をすればいいんだ?」
しばらく思案したクリスは、俺を見ながら聞いた。
俺はニコッと笑うと調子に乗って続けた。
「まずは、そもそも何で今のAIがこんなにバカなのか? という事から説明したい。なぜだと思う? 美奈ちゃん」
コンビニの袋をひっくり返して、次のおつまみ探しに夢中な美奈ちゃんがビクッとする。
「え? 何? いきなり振らないでよぉ……。なぜ馬鹿かって? うーん……コンピューターには魂が入ってないから……かな?」
「うーん、魂か。そもそも魂って何だよ? とは思うけど、当たらずとも遠からずかな、AIには世界観が無いのがダメな原因なんだ」
「世界観? どういう事?」
「例えば、『重力があって、リンゴは下に落ちますよ』って事はAIだって理解できる。でも『段差があって人が下に落ちますよ』って事はAIにはピンとこない。例えば段差が30cmなら安全だけど、3mだと危険だよね? では1mだったら?」
「1m? ちょっと怖い高さだよね」
美奈ちゃんは、首をかしげながら答える。
「そう、人間だったらピンとくる。でもAIには分からない。だって体験した事が無いんだもん。1mは若者だったら平気だけど、老人だったら危険。さらに若者でも、頭から落ちたら死んじゃうし、酔っぱらっててもヤバい。人間は自分で飛び降りたりコケたりして、体で重力の意味を覚えてるから、ピンとくるんだよね」
「そうか、体験しないと分からないのね」
ニッコリと笑って言う美奈ちゃん。
「そう! 高さだけじゃない、料理の味や香り、ジェットコースターのスリルなんて物は、体験しないと分からないんだ。この複雑な条件をひっくるめて、世界観と呼んでるんだけど、この世界観を、どうやってAIに学習させるのか? ここが今のAIの限界の原因になってるんだ」
「ふぅーん……」
曖昧な返事をしながら、美奈ちゃんは次の梅酒の缶を開ける。
シュワシュワとした炭酸に、思わず酸っぱい顔をして、目を瞑る。
そんな可愛いしぐさに見とれていると、横からクリスが突っ込む。
「…。誠よ、その世界観を学習をさせるのが、私の仕事という事か?」
俺は慌てて前を向く。いよいよここからが提案の本番だ。俺は軽く深呼吸をして言った。
「そうそう、そこをお願いしたい。そして世界観を学習するのに必要なのが……。あまり言いたくないんだけど……生身の体なんだよね。正直な所、生身の体でないと世界の理解は難しい」
俺はおずおずと核心を開陳する。
「…。人体実験に使う人体をこの私に調達しろと?」
クリスの言葉に、微かな怒気が混ざる。
言葉を選ばないと……。冷や汗が浮いてくる。
「いやいやクリス、これは言うならば献血だよ。人類の守護者に血を与える尊い行為なんだ」
軽く首を振りながらクリスは答える。
「…。物は言いようだな。で、そういう人を見つけたとして、何をやってもらうんだ?」
「脳に電極を入れて、AIと直接身体と繋がってもらう。そうすると、AIは自分の身体のように協力者の身体を動かせるので、そこで身体と世界を感じてもらう」
「…。それは、AIに身体を乗っ取られる事じゃないか!」
クリスは冷たく言い放つ。
美奈ちゃんも拒絶する。
「えー、そんなの絶対ヤダ!」
ですよね……、俺でも嫌だからな。
でも、ここで引いたら計画がお終いだ。
「もちろん、未来永劫乗っ取る訳じゃないよ、一時的に借りるだけ。終わったら元の生活に戻れるんだから……」
頑張ってみたけどクリスは、
「…。私は協力はできないな」
「私もー」
ちょっとストレートに言い過ぎたかもしれない。
ここは無理に頑張らない方がいいか……。
「そもそも私の身体を貸したら、例えば『服を脱げ』とか指令が来たら、脱いじゃうんでしょ?」
美奈ちゃんが痛い所を突っ込む。
「うっ、まぁ……理屈としては……そうだね」
「それでエッチな事、させられちゃうんでしょ?」
美奈ちゃんは警戒する風に、両腕で胸を隠す。
「いやいや、そんな事しないよ!」
「絶対?」
「エンジニアはそんな事しない!」
俺はエンジニアの誇りをかけて言い切る。
「ふーん、そんなに私の身体魅力ないの?」
不満げな美奈ちゃんは、身体をよじって首周りの服を少しずらす。
俺は、綺麗な鎖骨のラインに、目が釘付けになる。
「この身体が自由にできるのよ? 何もしない……の?」
そう言って、上目づかいで俺を見る。
「いや、ちょっと、美奈ちゃん! 梅酒飲みすぎ!」
俺は両手を美奈ちゃんの方に向け、目を背ける。
ただ…… 男には抗えない力がある事は、認めざるを得ない。
「……。参りました」
俺はそう言って、うなだれて負けを認める。
「だから私は貸せないわ、この身体は愛する人にしか触らせないの」
そう言ってニッコリと勝ち誇り、俺は言葉を失う。
「誠さんも『愛する人』になれたら……触れるかもね」
そう言ってつややかで弾力のある胸元を強調し、ウィンクする美奈ちゃん。
『さ、触れる!?』本能的に俺はつい反応してしまう。男とは本当にどうしようもない生き物である。
「お、俺にもチャンスはあるんだ?」
「誰にだってあるわ。私は『愛の秘密』を解いた人を愛すの」
そう言って、夢見る女の子になった美奈ちゃんは宙を見上げ、手のひらをゆっくり上に向けた。
「愛の秘密?」
意味不明な事を言われて聞き返す俺。
「ふふっ、そんな調子じゃ無理だわ」
美奈ちゃんは人差し指を振りながら、ニヤッと笑った。
『なんだよー! 愛なんて知らんわ!』
俺は内心毒づきながら、缶ビールを呷る。
『愛ゆえに人は傷つく。愛になんて軽々しく近づいてはならない』とねじ曲がったトラウマが耳元でささやく。親に捨てられた俺にとって、愛という言葉には警戒があるのだ。
もちろん、いつまでもこんな調子じゃ困るとは……一応、思ってはいる。
それにしても出だしから散々だ。AIの開発計画も行き詰まり、美奈ちゃんにも呆れられる……
ションボリしながらビールを呷ったが……、もう空だった。
ビールにも馬鹿にされている気がして、俺は空き缶をメキメキと潰した。
「はいはい、元気出して! 最初のプランが通らない位で、凹んでてどうすんのよ!」
美奈ちゃんはそう言いながら、次のビール缶を俺に差し出す。
「いやまぁ、そうなんだけど」
俺は受け取った缶をプシュッと開ける。
「何かやり様はあるはずよ、明日また話しましょ。はい! カンパーイ!」
「…。乾杯」「カンパイ……」
確かに、前人未到の偉業への道など、サクっと決まる訳がない。そんなに世の中甘くないのだ。
明日の俺にバトンタッチだ。
『今日の俺は十分頑張った、営業終了!』
そう気持ちを入れ替えると、俺はビールをぐっと呷った。
その後、美奈ちゃんはターゲットをクリスに絞り、言葉巧みにクリスから規格外の楽しい話を次々と引き出していった。
核ミサイルを撃ち落とした話や、津波を割って街を守った話は、それだけでも小説が書けそうだった。
こうして八丁堀の夜は、あっという間に過ぎていったのだった。
◇
美奈ちゃんは始発で帰るらしい。
帰り際、玄関に見送りに出た俺に、靴を履きながら美奈ちゃんが言った。
「男の人の家でオールなんて、よく考えたら危なかったわ」
俺はムッとして
「俺は女の子の嫌がる事は、絶対にやらないよ!」
と、胸を張って言った。
ところが――――
「うーん、だから誠さん、モテないのね」
美奈ちゃんはそう言って、肩をすくめ、天を仰いだ。
「えっ!? ちょっと、それはどういう……」
俺が言い返そうとすると、美奈ちゃんは、ピンと伸ばした人差し指で、俺の口をふさぎ、
「安全地帯に居るから大丈夫、なんて一番ダメな発想だわよ!」
そう言い放つと、軽くウィンクをして、クルっと背を向けて帰路についた。
俺は唖然としながら、後姿を見送っていると、
「また明日~」
と、美奈ちゃんは向こうを向いたまま、手を振りながらエレベーターに入っていった。
確かに俺は人との距離の取り方が下手だ。仕事での人付き合いなら事務的で簡単だが、プライベートの関係となると、踏み込んだ言動はどうしても気おくれしてしまっていた。深い関係になる事は怖い事だと、俺のトラウマがささやくのだ。
会って間もない女子大生に、そんな欠陥を一突きされた俺は、玄関口で呆然とし、立ち尽くした。
1-6.脳の無い赤ちゃん
夜は銀座でフレンチ。フレンチなんて久しぶりだ。
仲間連中は都合で来られないので、結局我々三人である。
銀座のフレンチはやはり雰囲気が違う。石をあしらった門構えに、小さな店名のプレートが一つ。知らなければレストランだとは気づかない。
店に入ると、ウェイティングルームに通された。
すでに美奈ちゃんが座っている。
美奈ちゃんは、落ち着いたオレンジのVネックフレアワンピースに身を包み、シックなインテリアの中、まるで絵画から抜け出したかのような美しい佇まいを見せ、そこだけ空気が澄んで見えた。
そして、俺たちを見つけると、ニッコリと笑い、目を輝かせて軽く手を上げた。
席に着くと、
「アペリティフは、いかがいたしましょうか?」店員に声をかけられる。
今日は暑かったので、爽やかなのがいい。
「シャンパンのカクテルがいいな」
俺がそう答えると
「ではミモザなどは、いかがでしょう?」
「あ、いいね、じゃ、それで」
「私もそれがいいな!」
美奈ちゃんはうれしそうに言う。
「…。では同じ物を」
クリスも落ち着いて答える。
「かしこまりました」
程なく、シャンパングラスが運ばれてきた。
俺が音頭を取る。
「この素敵な出会いにカンパーイ!」
「カンパーイ!」「…。乾杯」
鼻に抜ける、オレンジの爽やかな香りが心地よい。
美奈ちゃんは
「美味し~い!」 と、言って、目を大きく見開き、にこやかに笑う。
彼女の白く柔らかな耳たぶに煌めく、ピンクのハートのピアスに、俺はつい目を奪われてしまう。
店員が注文を取りに来る。
「本日のメニューがこちらです、お選びください」
「お、来た来た。美奈ちゃん何がいい? フォアグラのパイ包みとかあるよ!」
「フォアグラ? 美味しいの?」
「メッチャ美味いよ~。他には真鯛のソテーとか、牛のフィレステーキとか……」
「じゃ、フォアグラで!」
美奈ちゃんは、フォアグラにチャレンジするらしい。
「…。私は真鯛で……」
「じゃぁ俺はステーキにするか!」
メートルに注文し、ついでにワインも選んでもらう。
◇
昨晩の話で盛り上がっていると、ダイニングルームに案内された。
落ち着いて品のあるインテリア、控えめなダウンライトが雰囲気を盛り上げる。俺の人生に関わる、いや人類の未来に関わる、大切な会食にふさわしい最高の舞台だ。心臓が高鳴る。
まずは前菜が出て、ワインを注いでもらう。
「ねぇクリスぅ、昨日の誠さんのプランだけど、何かいい手はないかなぁ?」
早速、美奈ちゃんが、クリスに振ってくれる。
「…。身体を乗っ取るような事は、神は望まない」
「身体貸してくれる人が、いればいいんでしょ?」
「…。本人以外が、身体を動かすような事はダメだ」
クリスは毅然とした態度で、ダメ出しをする。
美奈ちゃんは、前菜の『季節の野菜のゼリー寄せ』をつつきながら、ちょっと考え……
「じゃ、本人がもう居なくなってしまった身体、だったら?」
「…。居ないというのはどういう?」
「例えば……脳が無い人とか……。居ないか……」
美奈ちゃんは、顎に手を当てて天を仰ぐ。
「コンソメスープでございます」
ギャルソンが、黄金色に輝くスープを持ってきた。
「美味しそう! いただきま~す!」
美奈ちゃんが、すかさずスープを口に運んだ。
「うわぁ、ナニコレ? すごぉい!」
弾んだ声が部屋に響く。ここまで喜んでくれたら、シェフもうれしいだろう。
俺も一口飲んでみる。じんわりと優しい旨味が体中に広がり、手が止まらなくなった。まるで魔法だ。どれだけこのスープには、手間がかかっているのだろうか。
俺はスープの余韻を堪能しながら、解決策を考える。
「人間は、脳が無きゃ死んじゃうからなぁ……」
そう呟きながら、スマホで『脳が無い人』と、検索してみた。
すると『無脳症』という病気がヒットした。解説を見ると、なんと脳が無くなる病気があるらしい。
「あ、居るよ居る! 無脳症という病気の赤ちゃんだ!」
俺はつい大きな声を出してしまった。
「…。脳の無い赤ちゃん?」
怪訝そうなクリスに、俺はスマホで検索した画面を見せた。そこには頭がすっぽりと無くなった、顔だけの赤ちゃんの写真が、たくさん並んでいた。
「これだよこれ、生まれてくる赤ちゃんの千人に一人は、脳が無い無脳症なんだ。そしてこの病気の子の多くは堕胎される。つまり殺されちゃうんだ。この子の身体を、AIが使わせてもらう、というのはどうだろう?」
「…。身体は健康だが脳が無い……。そして殺されてる……。人ではない事になるのか、これは……」
クリスは悩んでしまった。
確かに、勝手に身体を借りるのはダメだが、そもそも借りる以前に、身体に意識が無いのだから、借りる相手がそもそもいない事になる。
「クリス! これならいけるんじゃない?」
美奈ちゃんが無邪気にプッシュする。
クリスは腕組みをして、目を瞑ったままだ。
アコースティックギターの落ち着いた調べが静かに部屋に響く中、ギャルソンがワインボトルを手につぎ足しにやってくる。
◇
その時、時間が止まった――――
注がれるワインは空中で止まり、軽くかきあげた美奈の髪は、空中でふんわり浮き上がったまま静止している。
その、きわめて奇妙な完全なる静寂が支配する部屋で、クリスだけは頭を抱え、必死に悩み続けていた。
無脳症の赤ちゃんを使ってAIを育て、シンギュラリティを超えようとする誠の提案は全くの想定外だったのだ。人体実験など倫理面で協力するに値しないと切り捨ててきたが、確かに脳が無ければ問題はないし、魅力すらある。
クリスとしては意欲ある若者を軽くサポートするつもりで気軽に誠に付き合っていたのだが、前代未聞の提案に真剣に考えざるを得なくなった。
まず、過去の事例を洗ってみたものの、そんな奇想天外な事を手掛けたケースは全宇宙の長い歴史の中においても、全く見つからなかった。これが実現すれば相当なインパクトがある。
次にその実現性を評価したが、クリスが協力すれば実現は不可能では無さそうである。そして、こんな前代未聞の挑戦であれば、同胞の悲願実現の可能性すらあった。クリスがこの地球に関わって一万数千年、初めて見えた光明だった……。
クリスはすぐに管理局に問い合わせたが、残念ながら『過剰干渉である』との判断で許可が下りなかった。管理局はいつも、お役所仕事的な回答しかよこさないのだ。
と、なると、クリスの独断でやるしかないが、その場合、成果につながらなければこの地球は『混じり物』として最悪削除処分になってしまう。
そのリスクをあえて冒してやるか、諦めるか……、クリスは究極の選択を迫られていた。
目の前で誠は緊張した面持ちで目を瞑り、ワインを飲みながら止まっている。そんな誠を、クリスはじっと眺めた。この青年に地球の未来を、自らの一万数千年の努力を託してしまっていいのだろうか?
奇妙な生い立ちではあるものの、平凡なエンジニアである誠、だが、前例のない奇想天外なプランを提示してきた青年……。
クリスは大きく深呼吸をし、ワイングラスを持つと、東京の遥か上空へテレポートした。
真っ赤な夕陽が南アルプスの方へかかり、街にはポツポツと灯りがともり始めている。
クリスは夕陽を見ながら、初めて地球人とワインを酌み交わした一万数千年前のトルコの事を思い出していた。ワインはお世辞にも美味いとは言えない素朴な味だったが、気のいい連中と飲んだワインの鮮やかな紅色は、今でもはっきりと思い出される。
六千年前に中国で飲んだビールも、もちろん二千年前の中東のワインも全て大切な思い出だ。
これらの無数の思い出を、八十億人の人生を、何も知らないこの青年に背負わせてしまっていいのだろうか?
涼しい風が吹き抜けていく中、クリスはワインを一口含む。カシスっぽい濃厚な果実味にスミレなどの香りが華やかに沸き立つ。トルコの時に比べて味はもう圧倒的に良くなったが、夕陽はトルコの方が少し鮮やかだったように思えた。
クリスは夕陽にワイングラスを向け、揺れるワインがキラキラと輝くのを見ていた。やっても後悔、やらなくても後悔、であればどちらの後悔をとるべきか……答えは一つだった。
◇
目を開けたクリスは、大きく息を吐くと誠に言った。
「…。やはりこういうのは良くない。自然の摂理に反している!」
俺はクリスの目をじっと見つめた。
クリスは続ける。
「…。ただ……人類の未来を……我々の未来を託すという、一大事業であれば……ギリギリ……許されるかもしれない……」
クリスは苦しそうな顔をしながら、そう言った。
「やったー! カンパーイ!」
美奈ちゃんがはしゃいで、ワイングラスをぶつけてくる。
これで難関突破だ。俺はホッとして、声が出なかった。
クリスは少し後悔した様な渋い笑顔を浮かべ、軽く目を瞑る……。
そして、吹っ切れたように力強くワイングラスをぶつけてきた。
AIで人類を救うロボットを作るプロジェクト、『深層守護者計画』がこの瞬間スタートする事になった。
大学時代から、AIを研究しながら行き詰まり、悶々としていた俺は、ついに決定的な突破口を得たのだ。クリスの神の力があれば、人類初のシンギュラリティは夢じゃない。もちろん、奇跡一発で鉄腕アトムができるほど、簡単な世界じゃない。でも、どんな困難もこのチームなら解決できそうだ。
俺はワインをぐっと呷った。
フルボディのガツンとした重い渋みが口の中一杯に広がり、スミレの香りが鼻腔をくすぐる。そして、濃縮された太陽のエネルギーがじんわりと体中に染み渡っていく……、幸せだ……。
俺はAIで世界中の人を笑顔にしてみせる、ばぁちゃん見ててくれ!
そして、心の底から噴き出してきた喜びの奔流に身を任せ……、思わず、両手のこぶしを握って小さく叫んだ。
「Yes!」
俺はうれしさで体が震えていた。
「う、うん、実はAIのロボットを作ろう、と思ってるんだ」
俺は覚悟を決めてプランを話す。
「えっ? ロボット!?」
美奈ちゃんは驚いて、俺を見つめる。全てを見透かすような澄んだ琥珀色の瞳に、一瞬動揺してしまう。
俺は、ゆっくり息を吸い、心を落ち着けて答えた。
「そ、そうなんだ。鉄腕アトムの様な、心優しいAIロボットを、クリスと一緒に作ろうと思ってるんだ。このAIロボットを子育てや温暖化対策に活用して社会の安定化を図ろうかと」
「えっ!? そんな事できるの!?」
「い、一応これでもAIエンジニアなんだぞ!」
俺は、わざとらしく胸を張りながら言った。
「それでも……ねぇ……」
美奈ちゃんは、怪訝な眼差しで俺を見る。
「もちろん、そう簡単にはできないよ。でももう人間は、囲碁や将棋ではAIには勝てないんだ。AIは部分的には人間を凌駕してるんだよ」
「そうだけどぉ、囲碁とアトムは全然違うわよ?」
首をかしげる美奈ちゃん。
確かに簡単ではない。でも、クリスの手前、自信なさそうな事は決して言えない。
「俺は作るよ! 必ず作る!」
そう力強く言い切った。
「AIできても、本当に心優しくなんてできるの? むしろ人類を滅ぼそうとしたりするんじゃないの?」
怪訝そうな美奈ちゃん。
「そこは大丈夫! 秘策があるんだ」
俺はそう言ってニッコリと笑った。
「秘策? 本当に大丈夫ぅ?」
美奈ちゃんは、ポテトチップスをポリポリ齧りながら言う。
「大丈夫、大丈夫!」
俺はそう言って、後ろめたい気持ちに蓋をするように缶ビールをグッと呷った。
「…。で、具体的にはどうやって作るんだ?」
クリスが核心に切り込んでくる。いよいよ正念場だ。
「AIのエンジンを俺が作るので、それを育てる膨大なデータをクリスにお願いしたい」
俺はクリスの目を見て言った。
「…。誠が生んで私が育てるのか?」
「そう、AIを正しく導けるのは、クリスだけなんだ。ぜひやって欲しい」
クリスは腕を組んで、軽くのけぞって首を揺らす。
狭い部屋には洋楽のヒットナンバーが小さくスピーカーから流れている。
美奈ちゃんは興味なさげに、最後に残ったポテトチップスの破片を愛おしそうにチマチマと齧った。
「…。具体的には何をすればいいんだ?」
しばらく思案したクリスは、俺を見ながら聞いた。
俺はニコッと笑うと調子に乗って続けた。
「まずは、そもそも何で今のAIがこんなにバカなのか? という事から説明したい。なぜだと思う? 美奈ちゃん」
コンビニの袋をひっくり返して、次のおつまみ探しに夢中な美奈ちゃんがビクッとする。
「え? 何? いきなり振らないでよぉ……。なぜ馬鹿かって? うーん……コンピューターには魂が入ってないから……かな?」
「うーん、魂か。そもそも魂って何だよ? とは思うけど、当たらずとも遠からずかな、AIには世界観が無いのがダメな原因なんだ」
「世界観? どういう事?」
「例えば、『重力があって、リンゴは下に落ちますよ』って事はAIだって理解できる。でも『段差があって人が下に落ちますよ』って事はAIにはピンとこない。例えば段差が30cmなら安全だけど、3mだと危険だよね? では1mだったら?」
「1m? ちょっと怖い高さだよね」
美奈ちゃんは、首をかしげながら答える。
「そう、人間だったらピンとくる。でもAIには分からない。だって体験した事が無いんだもん。1mは若者だったら平気だけど、老人だったら危険。さらに若者でも、頭から落ちたら死んじゃうし、酔っぱらっててもヤバい。人間は自分で飛び降りたりコケたりして、体で重力の意味を覚えてるから、ピンとくるんだよね」
「そうか、体験しないと分からないのね」
ニッコリと笑って言う美奈ちゃん。
「そう! 高さだけじゃない、料理の味や香り、ジェットコースターのスリルなんて物は、体験しないと分からないんだ。この複雑な条件をひっくるめて、世界観と呼んでるんだけど、この世界観を、どうやってAIに学習させるのか? ここが今のAIの限界の原因になってるんだ」
「ふぅーん……」
曖昧な返事をしながら、美奈ちゃんは次の梅酒の缶を開ける。
シュワシュワとした炭酸に、思わず酸っぱい顔をして、目を瞑る。
そんな可愛いしぐさに見とれていると、横からクリスが突っ込む。
「…。誠よ、その世界観を学習をさせるのが、私の仕事という事か?」
俺は慌てて前を向く。いよいよここからが提案の本番だ。俺は軽く深呼吸をして言った。
「そうそう、そこをお願いしたい。そして世界観を学習するのに必要なのが……。あまり言いたくないんだけど……生身の体なんだよね。正直な所、生身の体でないと世界の理解は難しい」
俺はおずおずと核心を開陳する。
「…。人体実験に使う人体をこの私に調達しろと?」
クリスの言葉に、微かな怒気が混ざる。
言葉を選ばないと……。冷や汗が浮いてくる。
「いやいやクリス、これは言うならば献血だよ。人類の守護者に血を与える尊い行為なんだ」
軽く首を振りながらクリスは答える。
「…。物は言いようだな。で、そういう人を見つけたとして、何をやってもらうんだ?」
「脳に電極を入れて、AIと直接身体と繋がってもらう。そうすると、AIは自分の身体のように協力者の身体を動かせるので、そこで身体と世界を感じてもらう」
「…。それは、AIに身体を乗っ取られる事じゃないか!」
クリスは冷たく言い放つ。
美奈ちゃんも拒絶する。
「えー、そんなの絶対ヤダ!」
ですよね……、俺でも嫌だからな。
でも、ここで引いたら計画がお終いだ。
「もちろん、未来永劫乗っ取る訳じゃないよ、一時的に借りるだけ。終わったら元の生活に戻れるんだから……」
頑張ってみたけどクリスは、
「…。私は協力はできないな」
「私もー」
ちょっとストレートに言い過ぎたかもしれない。
ここは無理に頑張らない方がいいか……。
「そもそも私の身体を貸したら、例えば『服を脱げ』とか指令が来たら、脱いじゃうんでしょ?」
美奈ちゃんが痛い所を突っ込む。
「うっ、まぁ……理屈としては……そうだね」
「それでエッチな事、させられちゃうんでしょ?」
美奈ちゃんは警戒する風に、両腕で胸を隠す。
「いやいや、そんな事しないよ!」
「絶対?」
「エンジニアはそんな事しない!」
俺はエンジニアの誇りをかけて言い切る。
「ふーん、そんなに私の身体魅力ないの?」
不満げな美奈ちゃんは、身体をよじって首周りの服を少しずらす。
俺は、綺麗な鎖骨のラインに、目が釘付けになる。
「この身体が自由にできるのよ? 何もしない……の?」
そう言って、上目づかいで俺を見る。
「いや、ちょっと、美奈ちゃん! 梅酒飲みすぎ!」
俺は両手を美奈ちゃんの方に向け、目を背ける。
ただ…… 男には抗えない力がある事は、認めざるを得ない。
「……。参りました」
俺はそう言って、うなだれて負けを認める。
「だから私は貸せないわ、この身体は愛する人にしか触らせないの」
そう言ってニッコリと勝ち誇り、俺は言葉を失う。
「誠さんも『愛する人』になれたら……触れるかもね」
そう言ってつややかで弾力のある胸元を強調し、ウィンクする美奈ちゃん。
『さ、触れる!?』本能的に俺はつい反応してしまう。男とは本当にどうしようもない生き物である。
「お、俺にもチャンスはあるんだ?」
「誰にだってあるわ。私は『愛の秘密』を解いた人を愛すの」
そう言って、夢見る女の子になった美奈ちゃんは宙を見上げ、手のひらをゆっくり上に向けた。
「愛の秘密?」
意味不明な事を言われて聞き返す俺。
「ふふっ、そんな調子じゃ無理だわ」
美奈ちゃんは人差し指を振りながら、ニヤッと笑った。
『なんだよー! 愛なんて知らんわ!』
俺は内心毒づきながら、缶ビールを呷る。
『愛ゆえに人は傷つく。愛になんて軽々しく近づいてはならない』とねじ曲がったトラウマが耳元でささやく。親に捨てられた俺にとって、愛という言葉には警戒があるのだ。
もちろん、いつまでもこんな調子じゃ困るとは……一応、思ってはいる。
それにしても出だしから散々だ。AIの開発計画も行き詰まり、美奈ちゃんにも呆れられる……
ションボリしながらビールを呷ったが……、もう空だった。
ビールにも馬鹿にされている気がして、俺は空き缶をメキメキと潰した。
「はいはい、元気出して! 最初のプランが通らない位で、凹んでてどうすんのよ!」
美奈ちゃんはそう言いながら、次のビール缶を俺に差し出す。
「いやまぁ、そうなんだけど」
俺は受け取った缶をプシュッと開ける。
「何かやり様はあるはずよ、明日また話しましょ。はい! カンパーイ!」
「…。乾杯」「カンパイ……」
確かに、前人未到の偉業への道など、サクっと決まる訳がない。そんなに世の中甘くないのだ。
明日の俺にバトンタッチだ。
『今日の俺は十分頑張った、営業終了!』
そう気持ちを入れ替えると、俺はビールをぐっと呷った。
その後、美奈ちゃんはターゲットをクリスに絞り、言葉巧みにクリスから規格外の楽しい話を次々と引き出していった。
核ミサイルを撃ち落とした話や、津波を割って街を守った話は、それだけでも小説が書けそうだった。
こうして八丁堀の夜は、あっという間に過ぎていったのだった。
◇
美奈ちゃんは始発で帰るらしい。
帰り際、玄関に見送りに出た俺に、靴を履きながら美奈ちゃんが言った。
「男の人の家でオールなんて、よく考えたら危なかったわ」
俺はムッとして
「俺は女の子の嫌がる事は、絶対にやらないよ!」
と、胸を張って言った。
ところが――――
「うーん、だから誠さん、モテないのね」
美奈ちゃんはそう言って、肩をすくめ、天を仰いだ。
「えっ!? ちょっと、それはどういう……」
俺が言い返そうとすると、美奈ちゃんは、ピンと伸ばした人差し指で、俺の口をふさぎ、
「安全地帯に居るから大丈夫、なんて一番ダメな発想だわよ!」
そう言い放つと、軽くウィンクをして、クルっと背を向けて帰路についた。
俺は唖然としながら、後姿を見送っていると、
「また明日~」
と、美奈ちゃんは向こうを向いたまま、手を振りながらエレベーターに入っていった。
確かに俺は人との距離の取り方が下手だ。仕事での人付き合いなら事務的で簡単だが、プライベートの関係となると、踏み込んだ言動はどうしても気おくれしてしまっていた。深い関係になる事は怖い事だと、俺のトラウマがささやくのだ。
会って間もない女子大生に、そんな欠陥を一突きされた俺は、玄関口で呆然とし、立ち尽くした。
1-6.脳の無い赤ちゃん
夜は銀座でフレンチ。フレンチなんて久しぶりだ。
仲間連中は都合で来られないので、結局我々三人である。
銀座のフレンチはやはり雰囲気が違う。石をあしらった門構えに、小さな店名のプレートが一つ。知らなければレストランだとは気づかない。
店に入ると、ウェイティングルームに通された。
すでに美奈ちゃんが座っている。
美奈ちゃんは、落ち着いたオレンジのVネックフレアワンピースに身を包み、シックなインテリアの中、まるで絵画から抜け出したかのような美しい佇まいを見せ、そこだけ空気が澄んで見えた。
そして、俺たちを見つけると、ニッコリと笑い、目を輝かせて軽く手を上げた。
席に着くと、
「アペリティフは、いかがいたしましょうか?」店員に声をかけられる。
今日は暑かったので、爽やかなのがいい。
「シャンパンのカクテルがいいな」
俺がそう答えると
「ではミモザなどは、いかがでしょう?」
「あ、いいね、じゃ、それで」
「私もそれがいいな!」
美奈ちゃんはうれしそうに言う。
「…。では同じ物を」
クリスも落ち着いて答える。
「かしこまりました」
程なく、シャンパングラスが運ばれてきた。
俺が音頭を取る。
「この素敵な出会いにカンパーイ!」
「カンパーイ!」「…。乾杯」
鼻に抜ける、オレンジの爽やかな香りが心地よい。
美奈ちゃんは
「美味し~い!」 と、言って、目を大きく見開き、にこやかに笑う。
彼女の白く柔らかな耳たぶに煌めく、ピンクのハートのピアスに、俺はつい目を奪われてしまう。
店員が注文を取りに来る。
「本日のメニューがこちらです、お選びください」
「お、来た来た。美奈ちゃん何がいい? フォアグラのパイ包みとかあるよ!」
「フォアグラ? 美味しいの?」
「メッチャ美味いよ~。他には真鯛のソテーとか、牛のフィレステーキとか……」
「じゃ、フォアグラで!」
美奈ちゃんは、フォアグラにチャレンジするらしい。
「…。私は真鯛で……」
「じゃぁ俺はステーキにするか!」
メートルに注文し、ついでにワインも選んでもらう。
◇
昨晩の話で盛り上がっていると、ダイニングルームに案内された。
落ち着いて品のあるインテリア、控えめなダウンライトが雰囲気を盛り上げる。俺の人生に関わる、いや人類の未来に関わる、大切な会食にふさわしい最高の舞台だ。心臓が高鳴る。
まずは前菜が出て、ワインを注いでもらう。
「ねぇクリスぅ、昨日の誠さんのプランだけど、何かいい手はないかなぁ?」
早速、美奈ちゃんが、クリスに振ってくれる。
「…。身体を乗っ取るような事は、神は望まない」
「身体貸してくれる人が、いればいいんでしょ?」
「…。本人以外が、身体を動かすような事はダメだ」
クリスは毅然とした態度で、ダメ出しをする。
美奈ちゃんは、前菜の『季節の野菜のゼリー寄せ』をつつきながら、ちょっと考え……
「じゃ、本人がもう居なくなってしまった身体、だったら?」
「…。居ないというのはどういう?」
「例えば……脳が無い人とか……。居ないか……」
美奈ちゃんは、顎に手を当てて天を仰ぐ。
「コンソメスープでございます」
ギャルソンが、黄金色に輝くスープを持ってきた。
「美味しそう! いただきま~す!」
美奈ちゃんが、すかさずスープを口に運んだ。
「うわぁ、ナニコレ? すごぉい!」
弾んだ声が部屋に響く。ここまで喜んでくれたら、シェフもうれしいだろう。
俺も一口飲んでみる。じんわりと優しい旨味が体中に広がり、手が止まらなくなった。まるで魔法だ。どれだけこのスープには、手間がかかっているのだろうか。
俺はスープの余韻を堪能しながら、解決策を考える。
「人間は、脳が無きゃ死んじゃうからなぁ……」
そう呟きながら、スマホで『脳が無い人』と、検索してみた。
すると『無脳症』という病気がヒットした。解説を見ると、なんと脳が無くなる病気があるらしい。
「あ、居るよ居る! 無脳症という病気の赤ちゃんだ!」
俺はつい大きな声を出してしまった。
「…。脳の無い赤ちゃん?」
怪訝そうなクリスに、俺はスマホで検索した画面を見せた。そこには頭がすっぽりと無くなった、顔だけの赤ちゃんの写真が、たくさん並んでいた。
「これだよこれ、生まれてくる赤ちゃんの千人に一人は、脳が無い無脳症なんだ。そしてこの病気の子の多くは堕胎される。つまり殺されちゃうんだ。この子の身体を、AIが使わせてもらう、というのはどうだろう?」
「…。身体は健康だが脳が無い……。そして殺されてる……。人ではない事になるのか、これは……」
クリスは悩んでしまった。
確かに、勝手に身体を借りるのはダメだが、そもそも借りる以前に、身体に意識が無いのだから、借りる相手がそもそもいない事になる。
「クリス! これならいけるんじゃない?」
美奈ちゃんが無邪気にプッシュする。
クリスは腕組みをして、目を瞑ったままだ。
アコースティックギターの落ち着いた調べが静かに部屋に響く中、ギャルソンがワインボトルを手につぎ足しにやってくる。
◇
その時、時間が止まった――――
注がれるワインは空中で止まり、軽くかきあげた美奈の髪は、空中でふんわり浮き上がったまま静止している。
その、きわめて奇妙な完全なる静寂が支配する部屋で、クリスだけは頭を抱え、必死に悩み続けていた。
無脳症の赤ちゃんを使ってAIを育て、シンギュラリティを超えようとする誠の提案は全くの想定外だったのだ。人体実験など倫理面で協力するに値しないと切り捨ててきたが、確かに脳が無ければ問題はないし、魅力すらある。
クリスとしては意欲ある若者を軽くサポートするつもりで気軽に誠に付き合っていたのだが、前代未聞の提案に真剣に考えざるを得なくなった。
まず、過去の事例を洗ってみたものの、そんな奇想天外な事を手掛けたケースは全宇宙の長い歴史の中においても、全く見つからなかった。これが実現すれば相当なインパクトがある。
次にその実現性を評価したが、クリスが協力すれば実現は不可能では無さそうである。そして、こんな前代未聞の挑戦であれば、同胞の悲願実現の可能性すらあった。クリスがこの地球に関わって一万数千年、初めて見えた光明だった……。
クリスはすぐに管理局に問い合わせたが、残念ながら『過剰干渉である』との判断で許可が下りなかった。管理局はいつも、お役所仕事的な回答しかよこさないのだ。
と、なると、クリスの独断でやるしかないが、その場合、成果につながらなければこの地球は『混じり物』として最悪削除処分になってしまう。
そのリスクをあえて冒してやるか、諦めるか……、クリスは究極の選択を迫られていた。
目の前で誠は緊張した面持ちで目を瞑り、ワインを飲みながら止まっている。そんな誠を、クリスはじっと眺めた。この青年に地球の未来を、自らの一万数千年の努力を託してしまっていいのだろうか?
奇妙な生い立ちではあるものの、平凡なエンジニアである誠、だが、前例のない奇想天外なプランを提示してきた青年……。
クリスは大きく深呼吸をし、ワイングラスを持つと、東京の遥か上空へテレポートした。
真っ赤な夕陽が南アルプスの方へかかり、街にはポツポツと灯りがともり始めている。
クリスは夕陽を見ながら、初めて地球人とワインを酌み交わした一万数千年前のトルコの事を思い出していた。ワインはお世辞にも美味いとは言えない素朴な味だったが、気のいい連中と飲んだワインの鮮やかな紅色は、今でもはっきりと思い出される。
六千年前に中国で飲んだビールも、もちろん二千年前の中東のワインも全て大切な思い出だ。
これらの無数の思い出を、八十億人の人生を、何も知らないこの青年に背負わせてしまっていいのだろうか?
涼しい風が吹き抜けていく中、クリスはワインを一口含む。カシスっぽい濃厚な果実味にスミレなどの香りが華やかに沸き立つ。トルコの時に比べて味はもう圧倒的に良くなったが、夕陽はトルコの方が少し鮮やかだったように思えた。
クリスは夕陽にワイングラスを向け、揺れるワインがキラキラと輝くのを見ていた。やっても後悔、やらなくても後悔、であればどちらの後悔をとるべきか……答えは一つだった。
◇
目を開けたクリスは、大きく息を吐くと誠に言った。
「…。やはりこういうのは良くない。自然の摂理に反している!」
俺はクリスの目をじっと見つめた。
クリスは続ける。
「…。ただ……人類の未来を……我々の未来を託すという、一大事業であれば……ギリギリ……許されるかもしれない……」
クリスは苦しそうな顔をしながら、そう言った。
「やったー! カンパーイ!」
美奈ちゃんがはしゃいで、ワイングラスをぶつけてくる。
これで難関突破だ。俺はホッとして、声が出なかった。
クリスは少し後悔した様な渋い笑顔を浮かべ、軽く目を瞑る……。
そして、吹っ切れたように力強くワイングラスをぶつけてきた。
AIで人類を救うロボットを作るプロジェクト、『深層守護者計画』がこの瞬間スタートする事になった。
大学時代から、AIを研究しながら行き詰まり、悶々としていた俺は、ついに決定的な突破口を得たのだ。クリスの神の力があれば、人類初のシンギュラリティは夢じゃない。もちろん、奇跡一発で鉄腕アトムができるほど、簡単な世界じゃない。でも、どんな困難もこのチームなら解決できそうだ。
俺はワインをぐっと呷った。
フルボディのガツンとした重い渋みが口の中一杯に広がり、スミレの香りが鼻腔をくすぐる。そして、濃縮された太陽のエネルギーがじんわりと体中に染み渡っていく……、幸せだ……。
俺はAIで世界中の人を笑顔にしてみせる、ばぁちゃん見ててくれ!
そして、心の底から噴き出してきた喜びの奔流に身を任せ……、思わず、両手のこぶしを握って小さく叫んだ。
「Yes!」
俺はうれしさで体が震えていた。