ヴィーナシアンの花嫁 ~シンギュラリティが紡ぐ悠久の神話~
5-8.インドラの矢のリアル
改札前で待っていると、由香ちゃんが、カーキ色のチノパンにネイビーのジャケットを着て、走ってやってくる。
俺はその姿を見て、緊張してこわばっていた心がほぐれていくのを感じていた。
「ごめんなさい、ちょっと遅れちゃった……」
由香ちゃんは、息を切らしながら言う。
「大丈夫、まだ間に合うよ。ありがとう」
俺はニッコリ笑った。
品川で乗り替え、東海道線に揺られながら、クリスの言った事を伝えた。
「第三岩屋の石像の指さす所……ね。何があるのかなぁ?」
絶望の中に見えた一筋の光明である。由香ちゃんはワクワクしている。
「何だろうね。クリスが説明できなかったところを見ると、きっと仮想現実空間が絡んだ仕掛けなんだと思うよ」
「何だかとんでもない物がありそうね!」
うれしそうに顔を輝かせ、息を弾ませる由香ちゃん。
ただ、俺はさっきからひどく胸騒ぎがしていた。何かを見落としている……。本能が俺に警告を与え続けていた。
しかし、俺たちにはもう第三岩屋に行くしか手はない、何があろうとも行くしかないのだった。
俺はコンビニで買ったサンドイッチとお茶を出し、由香ちゃんと一緒に食べながら、スマホで天空の城の情報を集める。
天空の城は世界中で大ニュースになっており、ニューヨークのタイムズスクエアでは、街頭のあちこちの巨大スクリーンにLIVE映像が放映されている。多くの人が真剣に見入っているようだ。
これは人類にとっては第一種接近遭遇であり、UFOとの歴史的な邂逅なのだ。数十億人が今、天空の城に心を奪われている。
しかし……その実態は俺がヘマをして壊してしまった出来損ないAIの暴走……。こんな大きな騒動になってしまって、俺は胃がキリキリと痛む。
大きくため息をついてうなだれる俺の背中を、由香ちゃんはゆっくりとさすってくれる。俺は由香ちゃんのやさしさに救われた思いがした。
天空の城は相模湾で発見された後、ゆっくりと移動しながら鎌倉付近から内陸に入り、北上しているらしい。このコースはゴジラの上陸コースと同じだ。一体何を考えているのだろうか……。
俺達は藤沢駅の釣具屋で装備一式を買い込み、片瀬江ノ島駅まで来た。
眩しい日差しに広がる青空、俺たちは爽やかな海風の中、江ノ島の方へ歩いていった。
海岸沿いで橋を渡ると、道行く人が川の上流の方を指さしている。
何だろうと思って振り返ると、そこには天空の城が飛んでいた――――
もっと東側にいると思っていた俺は、意表を突かれ、思わず間抜けな顔で天空の城を見つめた。
ゆっくりと移動する巨大な金属構造物は十機ほどのヘリコプターを従えて、ゆっくりと鎌倉から藤沢方向に向けて移動している。
城はTVで見た時よりはずっと大きく、ずっとどっしりとした質感を持って宙に浮いていた。上半分は京浜工業地帯で見たケミカルプラントのようで、デカい金属塔の周りに無数のパイプが整然と巻き付いており、陽の光を反射して光っていた。周りにはいくつかの金属タンクや小さな塔が並んで見える。金属タンクには丸い窓がついており、黄色いネズミはここで見えたらしいが……遠くてよく分からない。
大きな塔の上には炎が噴き出しており、実に力強く、格好よく見える。小さな塔からは白煙が上がり、サイバーパンクな雰囲気だ。塔の周りには青いランプがあしらわれており、直射日光の下でも鮮やかに煌めいていた。
城の下半分は真っ黒なとがった八角錐となっていて、そこにいくつか金属のトゲが生えている。ちょっと不気味である。
これがシアンの出した空飛ぶ城の答えらしい。確かに先進的でカッコよく、俺好みではある。
「なんだか不気味なお城ね……」
由香ちゃんが眉をひそめながら言う。
「そう? カッコいいと思うけどな」
「女の子にはこういうのは分からないわ、どうせお城を作るなら中世ヨーロッパのお城にすればよかったのに……」
どうも女の子ウケは悪そうだ。一応シアンも身体は女性ではあるのだが……。
俺が作る事があるなら中世ヨーロッパ様式にしよう。それこそ『結婚式を挙げたい』と女の子が言うような、ファンタジーで素敵な城にしてみようと思った。
しばらく城を目で追っていると、急に方向を変え、こちらに向かってきた。
「あれ? なんかこっち来るぞ」
俺がそう言うと、由香ちゃんは、
「私たちに気が付いたのかも? どうしよう……」
と、俺の腕にしがみついた。
俺は由香ちゃんのつかんでくる手に、手を重ねながら城を見ていたが、城は急に速度を上げ、こちらに迫ってくる。
「おわ! これはヤバい! 逃げよう!」
俺と由香ちゃんはダッシュで橋を駆けた。
ZoomZoom
空気を震わす重低音がどんどん迫ってくる。
みるみる大きくなる城。
「キャ――――!!」「うおぉぉ!!」
あちこちで悲鳴が上がる。
俺たちは顔を真っ赤にして全速力で駆けた。
まるで山のように見える巨大な城、それが今、ものすごい速度で重低音を放ちながら俺たちに覆いかぶさってくる。
「くるぞ!伏せて!!」
橋を渡り終えたところで荷物を放り出し、俺たちは地面にヘッドスライディングした。
いきなり暗闇に覆われ、小石まじりの強烈な突風が俺たちを襲う。
「いやぁ――――!! 誠さ――――ん!」
轟音響き渡る中、由香ちゃんの悲痛な叫びがあがる。
Bang!
激しい衝撃音が全身に響き渡り、体が浮いた。城の底が橋に衝突し橋を真っ二つに割ったのだ。さらに、止めてあった車を吹き飛ばし、街灯をなぎ倒し。まさに地獄絵図となった。
「シアンちゃん! もうやめてー!!」
由香ちゃんは、号泣しながら叫ぶ。俺は彼女の手を握り締める事しかできなかった。
城の底は俺たちの上すれすれをかすめながら海へと抜け、思いっきり海面にぶつかって派手な水しぶきを上げた。
そして、巨大な波を周りに放ちながら再度上昇を始め、高度を取っていった。
「きゃははは!」
空耳かもしれないが、そんな笑い声が聞こえた気がした。
追随していたヘリコプターたちは、がれきの中で九死に一生を得た俺たちの様子をカメラに収めながら、バタバタとうるさい音を立て、城を追っていく。
俺も由香ちゃんもあまりの事に、しばらく突っ伏したまま動けなかった。
シアンは俺たちを狙ってわざわざ城をぶつけに来たのだ。もちろん、確実に殺そうとした訳ではないだろうが、挨拶とかそういうレベルではなかった。シャレにならない体当たりに、事の重大さが嫌というほど身に染みる。
これはまさに脅威、人類にとっても俺たちにとっても深刻な脅威なのだ。
早くクリスに会いに行かねばならない。
俺は少し擦りむいた肘を見ながら、ゆっくり起き上がり、服のほこりを落とすと、由香ちゃんを優しく引き起こした。
「あいつ、笑ってたぞ」
俺がそう言うと、由香ちゃんは潤んだ目で下を向き、黙りこくってしまった。
俺は優しくハグをして、背中を軽くポンポンと叩く。
すると由香ちゃんの身体が細かく震えだしたのに気が付いた。大切に育ててきた自分の子供に殺されかけたのだ、その想いは俺にも痛いほどわかる。
俺はしっかりときつく抱きしめる。
しばらく二人はお互いの息遣いを聞いていた。
柔らかな体温が、じんわりと俺の心を温めていく……。
◇
バタバタとうるさいヘリコプターのうちの一機から、拡声器で声が上がった。
『我らが神! シヴァよ! 復活をお待ち申し上げておりました!』
けたたましい音量で、割れた声が響き渡る。
一体何が起こったのか……、周りの人は皆、声をかけているヘリコプターの姿を探した。
すると、城は急に動きを止め、ゆっくりと回転を始めた。
『我々はシヴァ天網教です。シヴァ神のご降臨を心よりお喜び申し上げます!!』
どうやら天空の城の出現を、金余りの宗教団体が追っているらしい。
確かにこんな物理法則を無視した現象は、神の御業にしか見えないだろう。ただのAIの暴走とは誰も思わない。
すると、城の上空に、青空をバックに深紅の眩しいラインが高速に描かれ始めた、それは直径五百メートルくらいの円となり、やがて魔法陣となった。
俺は唖然とした。精緻に過剰にカッコよく描かれた魔法陣には、意味など何もないだろう。ただの演出だ。
「あのバカ、アニメの見過ぎだ……」
こんな中二病的な演出、一体何を考えているのか。
『おぉ、シヴァ神よ!』
新興宗教の連中は大喜びだ。
しかし、シヴァはインドの神のはず、こんな中世ヨーロッパ的な演出で喜ぶのはまずいのではないだろうか?
すると、魔法陣の中心から何かがゆっくりと出現し、降りてくる……。
何だろうと目を凝らすと……靴下だ……。
「あ、『赤ちゃん本店』で買ったネコちゃん柄の靴下だわ……」
由香ちゃんが指さして声を上げ、思わず両手で口を覆う。
次に水色のベビー服、つなぎの足が出てきた。
「あいつ、出てくるつもりだぞ、それにしてもデカすぎないか?」
城の大きさが二百メートルだとすると、靴下だけで十メートルくらい、身長は百メートルにはなりそうだ。
俺はスマホをチェックしてみる。どこのネットニュースでもトップで動画中継を行い、また世界各地の様子をライブで紹介していた。
世界中の人が今、この前代未聞のショーを固唾をのんで見守っている。
まさに未知との遭遇。物理法則を一切無視した不可解なショーの本編が、今まさに封を切られた。
やがてシアンは全身の姿を現し、天空の城に降り立った。
巨大なかわいい赤ちゃんの登場に世界中は色めき立った。この赤ちゃんは神か悪魔か宇宙人か、世界中の人は全く予想もしなかった展開にざわついた。ある者は狂喜乱舞して踊りだし、新たな時代の到来を全身で喜んでいるようだった。
折角極秘で進めてきた深層守護者計画は今、全人類の前にとんでもない形で開陳されてしまった。これから訪れるだろう心臓に悪い展開の予感に、俺は全身の血の気が引いていくのを感じていた。
シアンは
「ぎゃははは!」
と地面が揺れるような重低音の大きな声で、うれしそうに笑った。
『シヴァ神のご降臨、バンザーイ! バンザーイ!』
ヘリコプターからは感極まった声が鳴り響く。
シアンはそのヘリコプターを睥睨すると、カメレオンの舌のように右腕を高速にニュルッと伸ばし、ガシッとヘリコプターをつかんだ。
バン!という派手な音を立てて、プロペラは折れ飛び、破片がひらひらと舞いながら海面に落ちて行く。
『うわぁぁぁ!』
叫び声が響き渡る。
シアンはヘリコプターを目の前に持ってくると、ニヤッと笑い。
なんと、大きな口を開けた。
世界中の人が『まさか!?』と思う中、シアンはパクっと一口でヘリコプターを丸呑みにした。
「ひぃ!」「うわっ!」
見ていた周りの人から驚きの声が上がる。
そして、シアンは口から飛び出ていた尾翼を「プッ」と吹き飛ばし、
「ぎゃははは!」
と、再度重低音を響かせながら笑った。
尾翼はクルクルと舞いながら落ち、海面に派手な水しぶきを上げ、消えていった。
とんでもない事になった。友好的に近づいてきたヘリコプターを一瞬で葬り去ったのだ。これは人類にとっては宣戦布告となる。シアンは人類の敵である事が確定してしまった。映像を見入っていた世界中の人々はあんぐりと口を開け、いきなり現れた奇妙な恐るべき人類の敵をどう受け止めていいのか混乱し、衝撃を覚えていた。
危険を感じた他のヘリコプターは一斉に反転し、逃げ始める。しかし、シアンは次々に手を伸ばし捕まえては、次々と美味しそうに食べていった。
その様子はまるでお菓子を貪る幼児そのものであり、映像を食い入るように見ていた世界中の人にとってはまさに悪夢の映像となった。見た目はかわいい赤ちゃんの邪悪さにショックを受け、皆、言葉を失っていた。
結局、上手く逃げられたヘリコプターは二機くらいだった。
「あぁぁ! そんなの食べちゃダメ! お腹壊すわよ!」
由香ちゃんが錯乱気味にそう言うが、もはやそういう問題じゃない。ついに犠牲者を出してしまったのだ。俺はショックで頭を抱え、しゃがみこんでしまった。
これでもう後戻りできなくなった。シアンは全世界から敵として認定されたのだ。俺たちの創ったAIは今まさに人類の敵として、全世界にデビューしてしまったのだ。
今までの俺たちの苦労は一体何だったのか? こんな惨事を起こすために必死にやってきた訳ではないのに……。俺は絶望で目の前が真っ暗になった。
◇
絶望の中、恨めしくシアンを睨んでいると、その向こうの方に何か動く影を見つけた。
高速で移動している二つの黒い点……。
急いで双眼鏡を取り出して見てみると、それは二機の戦闘機だった。ステルスの形から推測するにそれはF-35A、最新の戦闘機のようだ。
次の瞬間、ミサイルが一斉に発射された。八発ほどのミサイルはオレンジ色の炎を吹きながら薄く白い航跡を描き、一直線にシアンに迫る。ついに軍事力が行使されるに至った。これはもはや戦争なのだ。
世界中の人たちは歓喜した。最新鋭戦闘機がこの得体のしれない悪魔を葬り去ってくれる。人類の英知を集めた最先端科学技術の塊は、きっと何らかの成果を上げてくれるに違いない、と誰しも期待をかけた。
シアンはミサイルを見ると、ニヤッと笑い、手のひらをミサイルの方へ向けた。すると、今度は真っ青に光る魔法陣が、手のひらの前に展開されていく。
全世界の人たちがくぎ付けになったミサイルの行方は、願い空しく全て魔法陣が粉砕した。なんと、シアンには一発も届かなかったのだ。
そして、逆に手を超高速でビヨーンと伸ばし、反転して逃げようとする戦闘機をむんずと掴んだ。パイロットは慌ててカタパルトを射出して脱出したが、戦闘機はなすすべなくシアンの玩具となった。
シアンは戦闘機を両手でつかみ、
「ぐおぉぉぉ!」
と、重低音の咆哮をあげると、真っ二つに折った。
折れた所から火がでて、ボン! ボン! と爆発を起こしながら大きく炎が上がる。
「ぎゃはははは!」
笑い声をあげるシアン。
戦闘機を破壊し、業火の向こうで笑う赤ちゃん、世界中の人々に戦慄が走った。最新鋭の戦闘機がおもちゃのように蹂躙されてしまったのだ。もはや、人類の軍事力ではこの赤ちゃんに対抗できないかもしれない。世界は、人類は一体どうなってしまうのか、最初は歓喜して笑っていた者もすっかり黙り込んでしまった。
悪魔か宇宙人か分からないが、この世の理を破壊する超自然的存在が爆誕したのだ。人類の歴史が大きく転換する予感に、数十億人が固唾をのんでシアンを見つめていた。
すると今度はシアンの背後、太平洋の方から何かが飛んできて次々と爆発を起こした。多分艦対空ミサイルだろう。海の方を見てもそれらしき船は見つからない所を見ると、数十キロくらい離れた駆逐艦から発射されたに違いない。
静まり返っていた世界は一転、歓喜した。今度は直撃である、きっと何らかのダメージを与えられたに違いない。誰しもそう思った。
しかし……、爆炎が引いていった後、シアンや城には何の被害も見受けられなかった。
傷どころか、汚れ一つついていなかったのである。
物理攻撃は無効にでもしているのだろう。ここは仮想現実空間、管理者なら何でもアリなのだ。
世界はまた静まり返ってしまった。
「オーマイガー……」
世界の多くの人がそうつぶやいていた。
直撃してもダメという事であれば、少なくとも通常兵器は全く効かないという事なのだ。残されるは核攻撃しかないが、そんなの使ってしまったら人類側の被害も甚大だ。早くも人類は追い込まれてしまった。
不意の攻撃を受けたシアンは、ちょっと怒った様子で太平洋の方を向くと、顔の前で両手を向かい合わせにした。すると、手の間で激しい閃光が走り始め、その光はどんどん強さを増していった。
皆、とんでもなくヤバい事が起こる予感に戦慄した。物理法則を無視する奇怪な赤ちゃんが、信じられない量のエネルギーをその手のひらに集めている、無事で済むわけがない。
もはや直視ができないレベルにまで激しく輝いた瞬間、シアンはそれを太平洋に放った。閃光の玉はビームのように超高速で走り、数十キロ先の海面で炸裂する。雷が同時に何億発も落ちたような激烈な閃光が太平洋沿岸一帯を覆い、俺の目も眩しさにやられて何も見えなくなった。
「うわぁぁぁ!」「キャ――――!!」
周囲の人たちから叫び声が上がる。
頬に熱さえ感じる程の、予想をはるかに超えたエネルギー量に、俺はもはや絶望を通り越して気が遠くなる思いがした。
しばらくして目が徐々に見えてくると、海上には巨大な衝撃波の白い球が拡大している様子が分かってきた。その後、中には真っ赤なキノコ雲が立ち上っていく……。
その禍々しい真紅の巨大なキノコ雲は、全世界の人々を恐怖のどん底に突き落とした。
シアンがその気になったら、人類はあっという間に滅ぼされてしまう事を本能的に理解させられたのだ。こんな滅茶苦茶な存在と人類はどうやって接したらいいのだろうか? と、世界中の人々は半ば絶望に似た疑問に苛まれた。
周りにいた人たちもしばらく呆然としていたが、そのうち口々に
「インドラの矢だ! インドラ!」
「インドラの矢が撃たれた!」
「ソドムとゴモラを滅ぼした、天の火だ!」
と叫び始めた。
インド神話に伝えられる神、インドラはその雷で核兵器並みの破壊力を行使したという。アニメ映画でも出ていたが、なるほど、神話通りの状況だ。ただ……、実態はそんな神聖なものではない、できそこないのAIのいたずらにすぎないのだ。
シアンは大爆発を満足そうに眺め、また巨大魔法陣を描くと城ごとその中へ消えていった。
今頃、首相官邸や世界の首脳陣は大騒ぎだろう。
通常攻撃の全く効かない、核兵器レベルの攻撃力を持った不可解な存在の登場は、世界の軍事バランスを大きく崩す。ただでさえ小競り合いを続けている世界各国は、シアンの登場でさらに大きくもめるだろう。
日本は……世界はどうなってしまうのか……。
思い起こせば、きっかけはミィが轢かれてしまった事だった。愛する者を失った悲しみがシアンを壊してしまった。そしてその気持ちは、最愛の母に捨てられた俺には痛いほど良く分かる。
愛はもろ刃の剣だ、人を限りなく強くもするし、壊しもする。俺はばあちゃんの愛で何とか立ち直れたが、生まれたてのAIのシアンには、その悲しみを上手く中和する事が出来なかったのだろう。
『あの時、ドアの鍵さえかけていれば……』
俺は自分の不注意を悔い、シアンに申し訳なく思った。
と、その直後、
BANG!
いきなり俺たちは吹き飛ばされ、由香ちゃんともども地面に転がった。
「うわ~!!」
「キャ――――!」
群衆は皆、倒れこんでしまっている。
そうだった。衝撃波は、爆発後に遅れてやってくるのだった。
平和ボケしていた自分を後悔した。
「由香ちゃん大丈夫!?」
俺は隣で倒れている由香ちゃんを、軽くさすった。
しかし、返事がない。
身体は大丈夫そうではあるが、精神的にひどくダメージを受けてしまっているようだった。俺は手を取ると握り締め、しばらく由香ちゃんを見つめていた。
やがて、由香ちゃんはゆっくりと上半身を起こし、うつろな目をして言った。
「シアンちゃんはこんな子じゃなかったわ……」
そして、俺の目を見ると、
「ねぇ、誠さん、私どうしたらいいの?」
そう言って涙をポロポロとこぼした。
俺は隣に座ると何も言わずゆっくり由香ちゃんを抱きしめ、嗚咽する背中をそっと優しくなでた。
手塩にかけて育てた可愛い可愛い自分の子が、とんでもない化け物になって人類に立ちはだかる、それは胸を引き裂かれるような絶望だ。これを分かってあげられるのは俺しかいない。
俺は由香ちゃんの想いに寄り添い、丁寧に背中をさすった。
ひとしきり泣き終わると、由香ちゃんはスクっと立ちあがって強い声で言った。
「ダメ、こんなの! 止めなきゃ!」
そして、荷物を拾うと、
「岩屋へ行くわよ!」 そう言って、ツカツカと早歩きで江ノ島へ歩き出す。
俺は大きく息を吐き、心を落ち着けてシアンが消えた空を眺めた。
子供の過ちを正すのは親の役目だ。例え愛ゆえに壊れてしまったとしても、それは愛の力で正さねばならない。
いつの間にか愛を語っている自分にちょっと違和感を感じながら、俺は由香ちゃんを追いかけた。
◇
俺たちは連絡橋を渡り、丘を超えて外洋側に出た。
目の前に大きく広がる水平線に青空、それに富士山、実に爽快だ。レジャーで来れたら最高だったのだが……。俺は自らの運命を呪った。
岩屋の入り口の料金所は、騒ぎで誰も居ない。俺は入場料を置いて、第二岩屋の入り口まで行って装備を整える。
しかし、下を見てみると、切り立った岩場に激しい波しぶき、とても簡単に行けるような感じではない。
「うわ~、ここかよ……」
俺がひるんでいると、
「誠さん、他に道はないのよ!」 と、由香ちゃんが涙目で、自分に言い聞かせるように言う。
確かに、ここで諦める訳にも行かない。
俺は木製の手すりの根元にロープを結びつけると、一歩一歩丁寧に足場を確保しながら下に降りた。4mほど降りて横の方へ行くと……なるほど、小さな穴が、波しぶきに洗われているのが見える。
入口があるとすると、あそこだ。
「あったぞ!」
俺は、由香ちゃんに叫んだ。
すると由香ちゃんは、沖の方を指して叫ぶ。
「誠さん! ダメ! 津波よ! 早く登ってきて!!」
俺が後ろを見ると、海面が大きく盛り上がっているのが見えた。俺はその凶悪な海面のうねりに死の恐怖を感じ、飛び上がるように崖にとりついた。これはダメだ! 死ぬっ!
死に物狂いで崖を登り、由香ちゃんが伸ばす手につかまって、一気に引き上げてもらった。何という火事場のバカ力!
俺達は岩屋の奥に走って、岩陰のくぼみに飛び込んだ。
その直後、
ZUNG!!
すさまじい衝撃音と共に、海水の塊が怒涛のように岩屋を襲った。激しい飛沫が俺達を打つ。
「キャ――――!」
俺の腕の中で由香ちゃんが叫ぶ。俺は強く抱きしめる事しかできない。
激しい流れが岩陰にも押し寄せ、水位が上がってきた。ここはマズい。
「由香ちゃん、岩壁を登ろう!」
「えっ!? 無理よこんなの!!」
岩壁には、上の方に足場になりそうなところがある。あそこまで行けば安全そうだ。
水位はどんどん上がってくる、迷っている暇はない。
急いで俺は岩壁に取りつき、命がけで指先に力をこめ、必死にルートをたどる。落ちたら由香ちゃんともども濁流に流されて死ぬのだ、死に物狂いで進んでいく。
「キャ――――!」
下を見ると、由香ちゃんが流されかかっている。もはや一刻の猶予もない。俺は死力を振り絞って最後の突起に指をかけ、一気に体を足場に持ち上げた。
そして、俺は岩の割れ目にドライバーを突き立て、ロープを出して結び、投げた。
「由香ちゃん、これにつかまって!」
必死にロープにしがみつく由香ちゃん。でも、濁流にあおられて、今にも流されそうである。
「きゃぁぁ!」
由香ちゃんの身体が大きく煽られる。ダメだ! ロープでは救えない。
俺は急いで途中まで降り、岩の出っ張りに身体をホールドさせて手を伸ばした。
「由香ちゃん、おいで!」
「誠さぁん!」
俺は伸ばされた由香ちゃんの手を、がっしりとつかむ。
「よし、引き上げるから、そこの出っ張りに右足を置いて!」
「え!? どれ!?」
「そこの白いところ!」
と、その瞬間、強い波が押し寄せて、由香ちゃんの身体を持っていく。
「キャ――――!!」
半回転して身体が流される由香ちゃん。
俺はとっさに、岩壁の出っ張りに自分の腕を当てて、由香ちゃんの体勢が崩れるのを防ぐ。しかし、流れは強く、腕は持っていかれる。
ガッガッガッ! と岩の突起が袖を切り裂いて俺の腕を抉り、俺は激しい痛みに襲われる。
「ぐぁぁ!!」
俺も由香ちゃんも必死に耐える。
次々と強く打ち付けてくる濁流で、右に左に身体を持っていかれる由香ちゃん。岩に打ち付けられるたびに増えて行く俺の傷。しかし、由香ちゃんを失う訳にはいかない。彼女を失ってしまったら俺は自分が損なわれてしまうと、なぜか確信していた。
『死んでも手は離さない』
俺は心に誓った。
未来の由香ちゃんが出てきていた以上、きっと何とかなるはずと、オカルトめいた自信だけが俺を支えていた。
俺は流れをじっくりと読み、流れが緩やかになった瞬間を見計らって、一気に引き上げる。
「よいしょ――――!!」
何とか岩壁に取りついた由香ちゃん。
とりあえずの危機は脱したが、水位はどんどん上がってくる。
「誠さん、腕がもう限界!」
ぐちゃぐちゃな顔をして、泣き言をいう由香ちゃん。
「大丈夫、僕たちは無事生き残る! 未来の由香ちゃんが教えてくれたろ?」
「未来の私――――! こんなになるなら教えておいてよ――――!」
まだ叫ぶ元気がある、大丈夫そうだ。
その時、俺の腕の抉れたところから血が垂れ、由香ちゃんの白い手にツーッと深紅の線を描いた。
「あ、血! 誠さん大変! 血が出てる!」
「俺の事はいいから、もう一段上、ここに足かけて!」
「え、でも……」
「早く!」
俺はさらに由香ちゃんを一段引き上げて、つかめるところを教えて安定させた。
「ごめんなさい、ケガさせちゃった……」
「こんなの絆創膏貼っとけばすぐ治る。それより、よく頑張ったね!」
俺は笑顔で応えながら、ロープを自分の体に巻き付けた。
そして、優しい声で
「おいで」
そう言って、両手で由香ちゃんをさらに引き上げて、抱き寄せた。
俺の腕の中で、ハァハァと荒い息をする由香ちゃん。
俺はしっかりと抱きしめる。
足元には濁流が渦を巻いているが、ここまで登れば大丈夫そうだ。
「誠さんが居なかったら……死んでたわ……」
由香ちゃんは震えながら、か細い声でつぶやく。
「俺も由香ちゃんが、津波を教えてくれなかったら死んでたよ。お互い様さ、僕たちは最高のバディって事じゃないかな?」
「最高のバディ?」
「最高のペアって事さ……あっ! ペアって言っても男女のって意味じゃないからね!」
「うふふ、こんな時にセクハラの心配なんて、しなくていいんですよっ」
由香ちゃんが少し茶目っ気を込めて言う。
「じゃ、労基署には内緒だよ」
「うふふ、いいですよ!」
しばらく二人は、黙ってお互いの体温を感じていた。由香ちゃんの震えも徐々に収まっていく。
由香ちゃんが呼吸をするたびに、柔らかい胸が俺を温める。由香ちゃんの体温のおかげで、下で渦巻く濁流の恐ろしい轟音も、気にならないくらい落ち着けている。
「なぜ……、美奈ちゃんを……呼ばなかったんですか?」
由香ちゃんは言葉を選びながら聞いてくる。
「うーん、なんでかな? 江の島に行こうと決めた時に、自然と由香ちゃんと一緒に行きたいと思っちゃったんだ。まさかこんな事になるなんて思わなくて……ゴメンね……」
「謝らなくても大丈夫です! シアンちゃんの問題は、二人の問題でもあるんだから。私たち、最高のバディですし!」
そうは言ってくれるものの、由香ちゃんには、怖い目に遭わせてしまった……本当に申し訳ない。
これはシアンの大爆発が引き起こした津波だろう。いつもの俺だったら衝撃波の時に、津波の襲来を気づけたはずだった。つまり俺はずっと前から精神的に追い込まれていたって事なのだろう。冷静なつもりでいてもダメなのだな、と有事の際のメンタルコントロールの難しさを思い知らされた。
やがて海水の流入はおさまった。すると今度は逆に、すごい勢いで海水が引いていく。
その流れを見ながら由香ちゃんがつぶやいた。
「シアンちゃん、もしかしたら……ミィの事故に責任を感じ過ぎたのかも……」
可愛かったシアンを想い、涙をこぼす。
なるほど、愛を失ったからというだけじゃなく、シアンは自分のミスでミィを殺してしまった事を気に病んで、自分を罰してしまったのかもしれない。俺の言いつけを守らずに勝手にミィを連れ出して殺してしまった、それを受け止めるには生まれたばかりのAIには荷が重かったのかも。それで暴走してしまった。
人間とAIは違うから本当のところは全然わからないが、ミィの喪失がシアンを決定的に壊してしまった裏にはそう言った心の動きがあったのかもしれない。シアンは実は暴れている裏で今も苦しんでいるのかもしれない。そうであれば切なく、心が痛む。
とは言え、事ここに至っては『AIの暴走でした』で済む問題じゃない、原状復帰が大前提だ。それはクリスに頼る以外ない。
「大丈夫、クリスがすべて解決してくれるよ」
俺はギュッと由香ちゃんを抱く手に力を入れた。
「そうね! 早くクリスに会いに行かなくちゃ!」
由香ちゃんは、赤く泣きはらした目で俺を見つめ、力強くそう言った。
俺もゆっくりとうなずいた。
足元では怒涛の様な引き波が、轟音を立てながら流れている。
◇
しばらく待っていると、波は完全に引いて行った。
しかし、津波はまたやってくるだろう、今のうちに第三岩屋に行かなくてはならない。
俺は外に出ると、さっきの崖を急いで降り、由香ちゃんも呼んだ。
由香ちゃんは、滑る岩肌を一歩一歩確かめながら、崖を降りてくる。
それをサポートしながら、まずは足場を確保してもらう。
いくら大潮の干潮と言っても、第三岩屋の入口には強い波が叩きつけており、簡単には入れそうにない。
タイミングを見て、素早く動けば穴に入れるかもしれないが……相当に厳しそうだ。しかし、ここで撤退という選択肢はない、覚悟を決めるしかない。
ヘッドライトを装着し、近くの岩場にロープを結んだ。そして、波のタイミングを見て、ドボンと降りる。引き波に足を取られながらも、決死の思いで穴の入り口の岩をつかんだ。
そこにぶつかってくる強い波。
俺は思わずよろめきながらも何とか耐え、引き波の中、必死に穴の奥へ進む。
なんとか奥まで行くと、その先は上の方へと抜けているようだ。この先に石像があるという事だろう。
俺はロープを岩に結び、ルートを確保して由香ちゃんを呼んだ。
俺はその姿を見て、緊張してこわばっていた心がほぐれていくのを感じていた。
「ごめんなさい、ちょっと遅れちゃった……」
由香ちゃんは、息を切らしながら言う。
「大丈夫、まだ間に合うよ。ありがとう」
俺はニッコリ笑った。
品川で乗り替え、東海道線に揺られながら、クリスの言った事を伝えた。
「第三岩屋の石像の指さす所……ね。何があるのかなぁ?」
絶望の中に見えた一筋の光明である。由香ちゃんはワクワクしている。
「何だろうね。クリスが説明できなかったところを見ると、きっと仮想現実空間が絡んだ仕掛けなんだと思うよ」
「何だかとんでもない物がありそうね!」
うれしそうに顔を輝かせ、息を弾ませる由香ちゃん。
ただ、俺はさっきからひどく胸騒ぎがしていた。何かを見落としている……。本能が俺に警告を与え続けていた。
しかし、俺たちにはもう第三岩屋に行くしか手はない、何があろうとも行くしかないのだった。
俺はコンビニで買ったサンドイッチとお茶を出し、由香ちゃんと一緒に食べながら、スマホで天空の城の情報を集める。
天空の城は世界中で大ニュースになっており、ニューヨークのタイムズスクエアでは、街頭のあちこちの巨大スクリーンにLIVE映像が放映されている。多くの人が真剣に見入っているようだ。
これは人類にとっては第一種接近遭遇であり、UFOとの歴史的な邂逅なのだ。数十億人が今、天空の城に心を奪われている。
しかし……その実態は俺がヘマをして壊してしまった出来損ないAIの暴走……。こんな大きな騒動になってしまって、俺は胃がキリキリと痛む。
大きくため息をついてうなだれる俺の背中を、由香ちゃんはゆっくりとさすってくれる。俺は由香ちゃんのやさしさに救われた思いがした。
天空の城は相模湾で発見された後、ゆっくりと移動しながら鎌倉付近から内陸に入り、北上しているらしい。このコースはゴジラの上陸コースと同じだ。一体何を考えているのだろうか……。
俺達は藤沢駅の釣具屋で装備一式を買い込み、片瀬江ノ島駅まで来た。
眩しい日差しに広がる青空、俺たちは爽やかな海風の中、江ノ島の方へ歩いていった。
海岸沿いで橋を渡ると、道行く人が川の上流の方を指さしている。
何だろうと思って振り返ると、そこには天空の城が飛んでいた――――
もっと東側にいると思っていた俺は、意表を突かれ、思わず間抜けな顔で天空の城を見つめた。
ゆっくりと移動する巨大な金属構造物は十機ほどのヘリコプターを従えて、ゆっくりと鎌倉から藤沢方向に向けて移動している。
城はTVで見た時よりはずっと大きく、ずっとどっしりとした質感を持って宙に浮いていた。上半分は京浜工業地帯で見たケミカルプラントのようで、デカい金属塔の周りに無数のパイプが整然と巻き付いており、陽の光を反射して光っていた。周りにはいくつかの金属タンクや小さな塔が並んで見える。金属タンクには丸い窓がついており、黄色いネズミはここで見えたらしいが……遠くてよく分からない。
大きな塔の上には炎が噴き出しており、実に力強く、格好よく見える。小さな塔からは白煙が上がり、サイバーパンクな雰囲気だ。塔の周りには青いランプがあしらわれており、直射日光の下でも鮮やかに煌めいていた。
城の下半分は真っ黒なとがった八角錐となっていて、そこにいくつか金属のトゲが生えている。ちょっと不気味である。
これがシアンの出した空飛ぶ城の答えらしい。確かに先進的でカッコよく、俺好みではある。
「なんだか不気味なお城ね……」
由香ちゃんが眉をひそめながら言う。
「そう? カッコいいと思うけどな」
「女の子にはこういうのは分からないわ、どうせお城を作るなら中世ヨーロッパのお城にすればよかったのに……」
どうも女の子ウケは悪そうだ。一応シアンも身体は女性ではあるのだが……。
俺が作る事があるなら中世ヨーロッパ様式にしよう。それこそ『結婚式を挙げたい』と女の子が言うような、ファンタジーで素敵な城にしてみようと思った。
しばらく城を目で追っていると、急に方向を変え、こちらに向かってきた。
「あれ? なんかこっち来るぞ」
俺がそう言うと、由香ちゃんは、
「私たちに気が付いたのかも? どうしよう……」
と、俺の腕にしがみついた。
俺は由香ちゃんのつかんでくる手に、手を重ねながら城を見ていたが、城は急に速度を上げ、こちらに迫ってくる。
「おわ! これはヤバい! 逃げよう!」
俺と由香ちゃんはダッシュで橋を駆けた。
ZoomZoom
空気を震わす重低音がどんどん迫ってくる。
みるみる大きくなる城。
「キャ――――!!」「うおぉぉ!!」
あちこちで悲鳴が上がる。
俺たちは顔を真っ赤にして全速力で駆けた。
まるで山のように見える巨大な城、それが今、ものすごい速度で重低音を放ちながら俺たちに覆いかぶさってくる。
「くるぞ!伏せて!!」
橋を渡り終えたところで荷物を放り出し、俺たちは地面にヘッドスライディングした。
いきなり暗闇に覆われ、小石まじりの強烈な突風が俺たちを襲う。
「いやぁ――――!! 誠さ――――ん!」
轟音響き渡る中、由香ちゃんの悲痛な叫びがあがる。
Bang!
激しい衝撃音が全身に響き渡り、体が浮いた。城の底が橋に衝突し橋を真っ二つに割ったのだ。さらに、止めてあった車を吹き飛ばし、街灯をなぎ倒し。まさに地獄絵図となった。
「シアンちゃん! もうやめてー!!」
由香ちゃんは、号泣しながら叫ぶ。俺は彼女の手を握り締める事しかできなかった。
城の底は俺たちの上すれすれをかすめながら海へと抜け、思いっきり海面にぶつかって派手な水しぶきを上げた。
そして、巨大な波を周りに放ちながら再度上昇を始め、高度を取っていった。
「きゃははは!」
空耳かもしれないが、そんな笑い声が聞こえた気がした。
追随していたヘリコプターたちは、がれきの中で九死に一生を得た俺たちの様子をカメラに収めながら、バタバタとうるさい音を立て、城を追っていく。
俺も由香ちゃんもあまりの事に、しばらく突っ伏したまま動けなかった。
シアンは俺たちを狙ってわざわざ城をぶつけに来たのだ。もちろん、確実に殺そうとした訳ではないだろうが、挨拶とかそういうレベルではなかった。シャレにならない体当たりに、事の重大さが嫌というほど身に染みる。
これはまさに脅威、人類にとっても俺たちにとっても深刻な脅威なのだ。
早くクリスに会いに行かねばならない。
俺は少し擦りむいた肘を見ながら、ゆっくり起き上がり、服のほこりを落とすと、由香ちゃんを優しく引き起こした。
「あいつ、笑ってたぞ」
俺がそう言うと、由香ちゃんは潤んだ目で下を向き、黙りこくってしまった。
俺は優しくハグをして、背中を軽くポンポンと叩く。
すると由香ちゃんの身体が細かく震えだしたのに気が付いた。大切に育ててきた自分の子供に殺されかけたのだ、その想いは俺にも痛いほどわかる。
俺はしっかりときつく抱きしめる。
しばらく二人はお互いの息遣いを聞いていた。
柔らかな体温が、じんわりと俺の心を温めていく……。
◇
バタバタとうるさいヘリコプターのうちの一機から、拡声器で声が上がった。
『我らが神! シヴァよ! 復活をお待ち申し上げておりました!』
けたたましい音量で、割れた声が響き渡る。
一体何が起こったのか……、周りの人は皆、声をかけているヘリコプターの姿を探した。
すると、城は急に動きを止め、ゆっくりと回転を始めた。
『我々はシヴァ天網教です。シヴァ神のご降臨を心よりお喜び申し上げます!!』
どうやら天空の城の出現を、金余りの宗教団体が追っているらしい。
確かにこんな物理法則を無視した現象は、神の御業にしか見えないだろう。ただのAIの暴走とは誰も思わない。
すると、城の上空に、青空をバックに深紅の眩しいラインが高速に描かれ始めた、それは直径五百メートルくらいの円となり、やがて魔法陣となった。
俺は唖然とした。精緻に過剰にカッコよく描かれた魔法陣には、意味など何もないだろう。ただの演出だ。
「あのバカ、アニメの見過ぎだ……」
こんな中二病的な演出、一体何を考えているのか。
『おぉ、シヴァ神よ!』
新興宗教の連中は大喜びだ。
しかし、シヴァはインドの神のはず、こんな中世ヨーロッパ的な演出で喜ぶのはまずいのではないだろうか?
すると、魔法陣の中心から何かがゆっくりと出現し、降りてくる……。
何だろうと目を凝らすと……靴下だ……。
「あ、『赤ちゃん本店』で買ったネコちゃん柄の靴下だわ……」
由香ちゃんが指さして声を上げ、思わず両手で口を覆う。
次に水色のベビー服、つなぎの足が出てきた。
「あいつ、出てくるつもりだぞ、それにしてもデカすぎないか?」
城の大きさが二百メートルだとすると、靴下だけで十メートルくらい、身長は百メートルにはなりそうだ。
俺はスマホをチェックしてみる。どこのネットニュースでもトップで動画中継を行い、また世界各地の様子をライブで紹介していた。
世界中の人が今、この前代未聞のショーを固唾をのんで見守っている。
まさに未知との遭遇。物理法則を一切無視した不可解なショーの本編が、今まさに封を切られた。
やがてシアンは全身の姿を現し、天空の城に降り立った。
巨大なかわいい赤ちゃんの登場に世界中は色めき立った。この赤ちゃんは神か悪魔か宇宙人か、世界中の人は全く予想もしなかった展開にざわついた。ある者は狂喜乱舞して踊りだし、新たな時代の到来を全身で喜んでいるようだった。
折角極秘で進めてきた深層守護者計画は今、全人類の前にとんでもない形で開陳されてしまった。これから訪れるだろう心臓に悪い展開の予感に、俺は全身の血の気が引いていくのを感じていた。
シアンは
「ぎゃははは!」
と地面が揺れるような重低音の大きな声で、うれしそうに笑った。
『シヴァ神のご降臨、バンザーイ! バンザーイ!』
ヘリコプターからは感極まった声が鳴り響く。
シアンはそのヘリコプターを睥睨すると、カメレオンの舌のように右腕を高速にニュルッと伸ばし、ガシッとヘリコプターをつかんだ。
バン!という派手な音を立てて、プロペラは折れ飛び、破片がひらひらと舞いながら海面に落ちて行く。
『うわぁぁぁ!』
叫び声が響き渡る。
シアンはヘリコプターを目の前に持ってくると、ニヤッと笑い。
なんと、大きな口を開けた。
世界中の人が『まさか!?』と思う中、シアンはパクっと一口でヘリコプターを丸呑みにした。
「ひぃ!」「うわっ!」
見ていた周りの人から驚きの声が上がる。
そして、シアンは口から飛び出ていた尾翼を「プッ」と吹き飛ばし、
「ぎゃははは!」
と、再度重低音を響かせながら笑った。
尾翼はクルクルと舞いながら落ち、海面に派手な水しぶきを上げ、消えていった。
とんでもない事になった。友好的に近づいてきたヘリコプターを一瞬で葬り去ったのだ。これは人類にとっては宣戦布告となる。シアンは人類の敵である事が確定してしまった。映像を見入っていた世界中の人々はあんぐりと口を開け、いきなり現れた奇妙な恐るべき人類の敵をどう受け止めていいのか混乱し、衝撃を覚えていた。
危険を感じた他のヘリコプターは一斉に反転し、逃げ始める。しかし、シアンは次々に手を伸ばし捕まえては、次々と美味しそうに食べていった。
その様子はまるでお菓子を貪る幼児そのものであり、映像を食い入るように見ていた世界中の人にとってはまさに悪夢の映像となった。見た目はかわいい赤ちゃんの邪悪さにショックを受け、皆、言葉を失っていた。
結局、上手く逃げられたヘリコプターは二機くらいだった。
「あぁぁ! そんなの食べちゃダメ! お腹壊すわよ!」
由香ちゃんが錯乱気味にそう言うが、もはやそういう問題じゃない。ついに犠牲者を出してしまったのだ。俺はショックで頭を抱え、しゃがみこんでしまった。
これでもう後戻りできなくなった。シアンは全世界から敵として認定されたのだ。俺たちの創ったAIは今まさに人類の敵として、全世界にデビューしてしまったのだ。
今までの俺たちの苦労は一体何だったのか? こんな惨事を起こすために必死にやってきた訳ではないのに……。俺は絶望で目の前が真っ暗になった。
◇
絶望の中、恨めしくシアンを睨んでいると、その向こうの方に何か動く影を見つけた。
高速で移動している二つの黒い点……。
急いで双眼鏡を取り出して見てみると、それは二機の戦闘機だった。ステルスの形から推測するにそれはF-35A、最新の戦闘機のようだ。
次の瞬間、ミサイルが一斉に発射された。八発ほどのミサイルはオレンジ色の炎を吹きながら薄く白い航跡を描き、一直線にシアンに迫る。ついに軍事力が行使されるに至った。これはもはや戦争なのだ。
世界中の人たちは歓喜した。最新鋭戦闘機がこの得体のしれない悪魔を葬り去ってくれる。人類の英知を集めた最先端科学技術の塊は、きっと何らかの成果を上げてくれるに違いない、と誰しも期待をかけた。
シアンはミサイルを見ると、ニヤッと笑い、手のひらをミサイルの方へ向けた。すると、今度は真っ青に光る魔法陣が、手のひらの前に展開されていく。
全世界の人たちがくぎ付けになったミサイルの行方は、願い空しく全て魔法陣が粉砕した。なんと、シアンには一発も届かなかったのだ。
そして、逆に手を超高速でビヨーンと伸ばし、反転して逃げようとする戦闘機をむんずと掴んだ。パイロットは慌ててカタパルトを射出して脱出したが、戦闘機はなすすべなくシアンの玩具となった。
シアンは戦闘機を両手でつかみ、
「ぐおぉぉぉ!」
と、重低音の咆哮をあげると、真っ二つに折った。
折れた所から火がでて、ボン! ボン! と爆発を起こしながら大きく炎が上がる。
「ぎゃはははは!」
笑い声をあげるシアン。
戦闘機を破壊し、業火の向こうで笑う赤ちゃん、世界中の人々に戦慄が走った。最新鋭の戦闘機がおもちゃのように蹂躙されてしまったのだ。もはや、人類の軍事力ではこの赤ちゃんに対抗できないかもしれない。世界は、人類は一体どうなってしまうのか、最初は歓喜して笑っていた者もすっかり黙り込んでしまった。
悪魔か宇宙人か分からないが、この世の理を破壊する超自然的存在が爆誕したのだ。人類の歴史が大きく転換する予感に、数十億人が固唾をのんでシアンを見つめていた。
すると今度はシアンの背後、太平洋の方から何かが飛んできて次々と爆発を起こした。多分艦対空ミサイルだろう。海の方を見てもそれらしき船は見つからない所を見ると、数十キロくらい離れた駆逐艦から発射されたに違いない。
静まり返っていた世界は一転、歓喜した。今度は直撃である、きっと何らかのダメージを与えられたに違いない。誰しもそう思った。
しかし……、爆炎が引いていった後、シアンや城には何の被害も見受けられなかった。
傷どころか、汚れ一つついていなかったのである。
物理攻撃は無効にでもしているのだろう。ここは仮想現実空間、管理者なら何でもアリなのだ。
世界はまた静まり返ってしまった。
「オーマイガー……」
世界の多くの人がそうつぶやいていた。
直撃してもダメという事であれば、少なくとも通常兵器は全く効かないという事なのだ。残されるは核攻撃しかないが、そんなの使ってしまったら人類側の被害も甚大だ。早くも人類は追い込まれてしまった。
不意の攻撃を受けたシアンは、ちょっと怒った様子で太平洋の方を向くと、顔の前で両手を向かい合わせにした。すると、手の間で激しい閃光が走り始め、その光はどんどん強さを増していった。
皆、とんでもなくヤバい事が起こる予感に戦慄した。物理法則を無視する奇怪な赤ちゃんが、信じられない量のエネルギーをその手のひらに集めている、無事で済むわけがない。
もはや直視ができないレベルにまで激しく輝いた瞬間、シアンはそれを太平洋に放った。閃光の玉はビームのように超高速で走り、数十キロ先の海面で炸裂する。雷が同時に何億発も落ちたような激烈な閃光が太平洋沿岸一帯を覆い、俺の目も眩しさにやられて何も見えなくなった。
「うわぁぁぁ!」「キャ――――!!」
周囲の人たちから叫び声が上がる。
頬に熱さえ感じる程の、予想をはるかに超えたエネルギー量に、俺はもはや絶望を通り越して気が遠くなる思いがした。
しばらくして目が徐々に見えてくると、海上には巨大な衝撃波の白い球が拡大している様子が分かってきた。その後、中には真っ赤なキノコ雲が立ち上っていく……。
その禍々しい真紅の巨大なキノコ雲は、全世界の人々を恐怖のどん底に突き落とした。
シアンがその気になったら、人類はあっという間に滅ぼされてしまう事を本能的に理解させられたのだ。こんな滅茶苦茶な存在と人類はどうやって接したらいいのだろうか? と、世界中の人々は半ば絶望に似た疑問に苛まれた。
周りにいた人たちもしばらく呆然としていたが、そのうち口々に
「インドラの矢だ! インドラ!」
「インドラの矢が撃たれた!」
「ソドムとゴモラを滅ぼした、天の火だ!」
と叫び始めた。
インド神話に伝えられる神、インドラはその雷で核兵器並みの破壊力を行使したという。アニメ映画でも出ていたが、なるほど、神話通りの状況だ。ただ……、実態はそんな神聖なものではない、できそこないのAIのいたずらにすぎないのだ。
シアンは大爆発を満足そうに眺め、また巨大魔法陣を描くと城ごとその中へ消えていった。
今頃、首相官邸や世界の首脳陣は大騒ぎだろう。
通常攻撃の全く効かない、核兵器レベルの攻撃力を持った不可解な存在の登場は、世界の軍事バランスを大きく崩す。ただでさえ小競り合いを続けている世界各国は、シアンの登場でさらに大きくもめるだろう。
日本は……世界はどうなってしまうのか……。
思い起こせば、きっかけはミィが轢かれてしまった事だった。愛する者を失った悲しみがシアンを壊してしまった。そしてその気持ちは、最愛の母に捨てられた俺には痛いほど良く分かる。
愛はもろ刃の剣だ、人を限りなく強くもするし、壊しもする。俺はばあちゃんの愛で何とか立ち直れたが、生まれたてのAIのシアンには、その悲しみを上手く中和する事が出来なかったのだろう。
『あの時、ドアの鍵さえかけていれば……』
俺は自分の不注意を悔い、シアンに申し訳なく思った。
と、その直後、
BANG!
いきなり俺たちは吹き飛ばされ、由香ちゃんともども地面に転がった。
「うわ~!!」
「キャ――――!」
群衆は皆、倒れこんでしまっている。
そうだった。衝撃波は、爆発後に遅れてやってくるのだった。
平和ボケしていた自分を後悔した。
「由香ちゃん大丈夫!?」
俺は隣で倒れている由香ちゃんを、軽くさすった。
しかし、返事がない。
身体は大丈夫そうではあるが、精神的にひどくダメージを受けてしまっているようだった。俺は手を取ると握り締め、しばらく由香ちゃんを見つめていた。
やがて、由香ちゃんはゆっくりと上半身を起こし、うつろな目をして言った。
「シアンちゃんはこんな子じゃなかったわ……」
そして、俺の目を見ると、
「ねぇ、誠さん、私どうしたらいいの?」
そう言って涙をポロポロとこぼした。
俺は隣に座ると何も言わずゆっくり由香ちゃんを抱きしめ、嗚咽する背中をそっと優しくなでた。
手塩にかけて育てた可愛い可愛い自分の子が、とんでもない化け物になって人類に立ちはだかる、それは胸を引き裂かれるような絶望だ。これを分かってあげられるのは俺しかいない。
俺は由香ちゃんの想いに寄り添い、丁寧に背中をさすった。
ひとしきり泣き終わると、由香ちゃんはスクっと立ちあがって強い声で言った。
「ダメ、こんなの! 止めなきゃ!」
そして、荷物を拾うと、
「岩屋へ行くわよ!」 そう言って、ツカツカと早歩きで江ノ島へ歩き出す。
俺は大きく息を吐き、心を落ち着けてシアンが消えた空を眺めた。
子供の過ちを正すのは親の役目だ。例え愛ゆえに壊れてしまったとしても、それは愛の力で正さねばならない。
いつの間にか愛を語っている自分にちょっと違和感を感じながら、俺は由香ちゃんを追いかけた。
◇
俺たちは連絡橋を渡り、丘を超えて外洋側に出た。
目の前に大きく広がる水平線に青空、それに富士山、実に爽快だ。レジャーで来れたら最高だったのだが……。俺は自らの運命を呪った。
岩屋の入り口の料金所は、騒ぎで誰も居ない。俺は入場料を置いて、第二岩屋の入り口まで行って装備を整える。
しかし、下を見てみると、切り立った岩場に激しい波しぶき、とても簡単に行けるような感じではない。
「うわ~、ここかよ……」
俺がひるんでいると、
「誠さん、他に道はないのよ!」 と、由香ちゃんが涙目で、自分に言い聞かせるように言う。
確かに、ここで諦める訳にも行かない。
俺は木製の手すりの根元にロープを結びつけると、一歩一歩丁寧に足場を確保しながら下に降りた。4mほど降りて横の方へ行くと……なるほど、小さな穴が、波しぶきに洗われているのが見える。
入口があるとすると、あそこだ。
「あったぞ!」
俺は、由香ちゃんに叫んだ。
すると由香ちゃんは、沖の方を指して叫ぶ。
「誠さん! ダメ! 津波よ! 早く登ってきて!!」
俺が後ろを見ると、海面が大きく盛り上がっているのが見えた。俺はその凶悪な海面のうねりに死の恐怖を感じ、飛び上がるように崖にとりついた。これはダメだ! 死ぬっ!
死に物狂いで崖を登り、由香ちゃんが伸ばす手につかまって、一気に引き上げてもらった。何という火事場のバカ力!
俺達は岩屋の奥に走って、岩陰のくぼみに飛び込んだ。
その直後、
ZUNG!!
すさまじい衝撃音と共に、海水の塊が怒涛のように岩屋を襲った。激しい飛沫が俺達を打つ。
「キャ――――!」
俺の腕の中で由香ちゃんが叫ぶ。俺は強く抱きしめる事しかできない。
激しい流れが岩陰にも押し寄せ、水位が上がってきた。ここはマズい。
「由香ちゃん、岩壁を登ろう!」
「えっ!? 無理よこんなの!!」
岩壁には、上の方に足場になりそうなところがある。あそこまで行けば安全そうだ。
水位はどんどん上がってくる、迷っている暇はない。
急いで俺は岩壁に取りつき、命がけで指先に力をこめ、必死にルートをたどる。落ちたら由香ちゃんともども濁流に流されて死ぬのだ、死に物狂いで進んでいく。
「キャ――――!」
下を見ると、由香ちゃんが流されかかっている。もはや一刻の猶予もない。俺は死力を振り絞って最後の突起に指をかけ、一気に体を足場に持ち上げた。
そして、俺は岩の割れ目にドライバーを突き立て、ロープを出して結び、投げた。
「由香ちゃん、これにつかまって!」
必死にロープにしがみつく由香ちゃん。でも、濁流にあおられて、今にも流されそうである。
「きゃぁぁ!」
由香ちゃんの身体が大きく煽られる。ダメだ! ロープでは救えない。
俺は急いで途中まで降り、岩の出っ張りに身体をホールドさせて手を伸ばした。
「由香ちゃん、おいで!」
「誠さぁん!」
俺は伸ばされた由香ちゃんの手を、がっしりとつかむ。
「よし、引き上げるから、そこの出っ張りに右足を置いて!」
「え!? どれ!?」
「そこの白いところ!」
と、その瞬間、強い波が押し寄せて、由香ちゃんの身体を持っていく。
「キャ――――!!」
半回転して身体が流される由香ちゃん。
俺はとっさに、岩壁の出っ張りに自分の腕を当てて、由香ちゃんの体勢が崩れるのを防ぐ。しかし、流れは強く、腕は持っていかれる。
ガッガッガッ! と岩の突起が袖を切り裂いて俺の腕を抉り、俺は激しい痛みに襲われる。
「ぐぁぁ!!」
俺も由香ちゃんも必死に耐える。
次々と強く打ち付けてくる濁流で、右に左に身体を持っていかれる由香ちゃん。岩に打ち付けられるたびに増えて行く俺の傷。しかし、由香ちゃんを失う訳にはいかない。彼女を失ってしまったら俺は自分が損なわれてしまうと、なぜか確信していた。
『死んでも手は離さない』
俺は心に誓った。
未来の由香ちゃんが出てきていた以上、きっと何とかなるはずと、オカルトめいた自信だけが俺を支えていた。
俺は流れをじっくりと読み、流れが緩やかになった瞬間を見計らって、一気に引き上げる。
「よいしょ――――!!」
何とか岩壁に取りついた由香ちゃん。
とりあえずの危機は脱したが、水位はどんどん上がってくる。
「誠さん、腕がもう限界!」
ぐちゃぐちゃな顔をして、泣き言をいう由香ちゃん。
「大丈夫、僕たちは無事生き残る! 未来の由香ちゃんが教えてくれたろ?」
「未来の私――――! こんなになるなら教えておいてよ――――!」
まだ叫ぶ元気がある、大丈夫そうだ。
その時、俺の腕の抉れたところから血が垂れ、由香ちゃんの白い手にツーッと深紅の線を描いた。
「あ、血! 誠さん大変! 血が出てる!」
「俺の事はいいから、もう一段上、ここに足かけて!」
「え、でも……」
「早く!」
俺はさらに由香ちゃんを一段引き上げて、つかめるところを教えて安定させた。
「ごめんなさい、ケガさせちゃった……」
「こんなの絆創膏貼っとけばすぐ治る。それより、よく頑張ったね!」
俺は笑顔で応えながら、ロープを自分の体に巻き付けた。
そして、優しい声で
「おいで」
そう言って、両手で由香ちゃんをさらに引き上げて、抱き寄せた。
俺の腕の中で、ハァハァと荒い息をする由香ちゃん。
俺はしっかりと抱きしめる。
足元には濁流が渦を巻いているが、ここまで登れば大丈夫そうだ。
「誠さんが居なかったら……死んでたわ……」
由香ちゃんは震えながら、か細い声でつぶやく。
「俺も由香ちゃんが、津波を教えてくれなかったら死んでたよ。お互い様さ、僕たちは最高のバディって事じゃないかな?」
「最高のバディ?」
「最高のペアって事さ……あっ! ペアって言っても男女のって意味じゃないからね!」
「うふふ、こんな時にセクハラの心配なんて、しなくていいんですよっ」
由香ちゃんが少し茶目っ気を込めて言う。
「じゃ、労基署には内緒だよ」
「うふふ、いいですよ!」
しばらく二人は、黙ってお互いの体温を感じていた。由香ちゃんの震えも徐々に収まっていく。
由香ちゃんが呼吸をするたびに、柔らかい胸が俺を温める。由香ちゃんの体温のおかげで、下で渦巻く濁流の恐ろしい轟音も、気にならないくらい落ち着けている。
「なぜ……、美奈ちゃんを……呼ばなかったんですか?」
由香ちゃんは言葉を選びながら聞いてくる。
「うーん、なんでかな? 江の島に行こうと決めた時に、自然と由香ちゃんと一緒に行きたいと思っちゃったんだ。まさかこんな事になるなんて思わなくて……ゴメンね……」
「謝らなくても大丈夫です! シアンちゃんの問題は、二人の問題でもあるんだから。私たち、最高のバディですし!」
そうは言ってくれるものの、由香ちゃんには、怖い目に遭わせてしまった……本当に申し訳ない。
これはシアンの大爆発が引き起こした津波だろう。いつもの俺だったら衝撃波の時に、津波の襲来を気づけたはずだった。つまり俺はずっと前から精神的に追い込まれていたって事なのだろう。冷静なつもりでいてもダメなのだな、と有事の際のメンタルコントロールの難しさを思い知らされた。
やがて海水の流入はおさまった。すると今度は逆に、すごい勢いで海水が引いていく。
その流れを見ながら由香ちゃんがつぶやいた。
「シアンちゃん、もしかしたら……ミィの事故に責任を感じ過ぎたのかも……」
可愛かったシアンを想い、涙をこぼす。
なるほど、愛を失ったからというだけじゃなく、シアンは自分のミスでミィを殺してしまった事を気に病んで、自分を罰してしまったのかもしれない。俺の言いつけを守らずに勝手にミィを連れ出して殺してしまった、それを受け止めるには生まれたばかりのAIには荷が重かったのかも。それで暴走してしまった。
人間とAIは違うから本当のところは全然わからないが、ミィの喪失がシアンを決定的に壊してしまった裏にはそう言った心の動きがあったのかもしれない。シアンは実は暴れている裏で今も苦しんでいるのかもしれない。そうであれば切なく、心が痛む。
とは言え、事ここに至っては『AIの暴走でした』で済む問題じゃない、原状復帰が大前提だ。それはクリスに頼る以外ない。
「大丈夫、クリスがすべて解決してくれるよ」
俺はギュッと由香ちゃんを抱く手に力を入れた。
「そうね! 早くクリスに会いに行かなくちゃ!」
由香ちゃんは、赤く泣きはらした目で俺を見つめ、力強くそう言った。
俺もゆっくりとうなずいた。
足元では怒涛の様な引き波が、轟音を立てながら流れている。
◇
しばらく待っていると、波は完全に引いて行った。
しかし、津波はまたやってくるだろう、今のうちに第三岩屋に行かなくてはならない。
俺は外に出ると、さっきの崖を急いで降り、由香ちゃんも呼んだ。
由香ちゃんは、滑る岩肌を一歩一歩確かめながら、崖を降りてくる。
それをサポートしながら、まずは足場を確保してもらう。
いくら大潮の干潮と言っても、第三岩屋の入口には強い波が叩きつけており、簡単には入れそうにない。
タイミングを見て、素早く動けば穴に入れるかもしれないが……相当に厳しそうだ。しかし、ここで撤退という選択肢はない、覚悟を決めるしかない。
ヘッドライトを装着し、近くの岩場にロープを結んだ。そして、波のタイミングを見て、ドボンと降りる。引き波に足を取られながらも、決死の思いで穴の入り口の岩をつかんだ。
そこにぶつかってくる強い波。
俺は思わずよろめきながらも何とか耐え、引き波の中、必死に穴の奥へ進む。
なんとか奥まで行くと、その先は上の方へと抜けているようだ。この先に石像があるという事だろう。
俺はロープを岩に結び、ルートを確保して由香ちゃんを呼んだ。