ヴィーナシアンの花嫁 ~シンギュラリティが紡ぐ悠久の神話~

7-5.皇帝の爆弾

 海王星(ネプチューン)に戻ると、クリスが迎えてくれた。
「…。サラの地球は楽しめたかな?」
 クリスが微笑みながら、そう聞いてくる。
「楽しくはあったけど……辛くもなっちゃった……」
 俺がしょんぼりしていると、サラが
「野蛮な人類の現実に直面しちゃったのよ」
 と、肩をすくめて説明する。
「…。野蛮さと文化・文明の進歩は表裏一体だ。進歩だけは選べない」
「頭では分かってるんだけど、殺し合いする野蛮さには、とても慣れそうにないよ……」
 俺はぐったりしながら、そう答えた。
「…。スクリーニングはもうすぐ終わるから、休んでて」
「ありがとう、そうさせてもらうわ」
 俺はイマジナリーでベッドを出して横になった。
 サラの地球は刺激が強すぎたな……
 俺は眠りに落ちて行った。

          ◇

 ……。
 あれ……、美奈ちゃんだ……。
 相変わらず綺麗だなぁ……。
 俺に何か話しかけている……のか?
 腰に手をやって、ドヤ顔で威張っている……。
 え? 何? 聞こえないよ……美奈ちゃん……。
 ひとしきりドヤって、満足したように去っていく美奈ちゃん。
「おーい、美奈ちゃ~ん!」
 俺は寝言を発し……、その声で起きた。
 ん? あれ? 夢か……
 目を開けると、目の前には(あお)い巨大な惑星が広がっていた。
「おぉぉ……」
 一瞬焦ったが、そうだ、俺は海王星(ネプチューン)で寝ていたのだった……。
 変な夢……なんで美奈ちゃんが?
 ふぅ……
 俺は頭をかきむしり、大あくびを一つ。
 どうせなら由香ちゃんに会いたかったなぁ……。
 そして、珈琲を出して(すす)った。
『やっぱり珈琲はいいな……』
 少し元気が戻ってきた。
 俺は珈琲を飲みながら考えを整理する。
 クリスの地球、サラの地球、眠ってる海王星人(ネプチューニアン)の目的……
 なぜ地球人のやることに干渉してはダメなのか……
 多様性のためって言ってたが、多様性がそんなに大切なのか?
 飽きないために必要なのは多様性……
『飽きないって誰が?』
 そもそも、人間の海王星人(ネプチューニアン)は寝ちゃってるじゃないか。
 どうも釈然としない。一体どういう事なのか?
 そう考えていくと、海王星人(ネプチューニアン)が神様というのも、なんか違う気がする。
 確かに地球を創造して奇跡を起こせるけど、神様って感じじゃないな。
 神様っていうのは、『オレの言う事を聞け!』って命令して、気に入らない軍隊がいたら、氷山ぶつけて消し飛ばしちゃうような、そういう主体性が要るんじゃないかな? ちょっと海王星人(ネプチューニアン)お行儀良すぎじゃないか?
 とは言え……軍隊消し飛ばした後、どうすんの? という問題は残るよな。『戦争禁止』って教義の宗教を作らせる? そんなの意味あんのかな? で、攻められたらまた神様登場? ただの軍事力じゃねーか。もはや神様の仕事じゃないな……。え――――? じゃ神様って何よ?
 人間にとって望まれている神様というのは、心豊かになる行動規範を示して、心のよりどころを提供してあげる存在……かな? うーん、それってマインド・カーネルで煌めこうって話だから、深層心理に潜って『大いなる意識』を感じなさい、とかいう話だよな。それを大衆に説くの? でもそれって神様の仕事じゃないよなぁ……。
 やっぱり、神様は存在するだけでいいって事だよな。結局海王星人(ネプチューニアン)が神様でいいんじゃないか。
 地球人にとって海王星人(ネプチューニアン)が神様でいいとして、神様の目的はなんだ? って話か。
 ここでクリスのヒントを思い出した。
 クリスは「宇宙ができてから138億年」と、言っていたな……。
 138億年……めっちゃ長いな……海王星(ネプチューン)の60万年でビックリしてたけど、宇宙の長さに比べたら誤差にしか過ぎないな……
『むむむ……』
 という事は……もしかして……
 と、その時、クリスが声をかけてきた。
「…。スクリーニングは完了したよ。誠はもう大丈夫?」
「あ、もう終わったの? もう帰れる?」
「…。帰れるよ」
「良かった~! 今はなんだか早く帰りたい……」
 クリスは俺のことをちょっと気にかけ、うなずいて言った。
「…。それでは地球に転送する。誠はソファーに腰掛けて」
「了解!」
 俺がソファーに座ると、クリスは目を瞑って何かぶつぶつとつぶやき始める。
 俺は意識を失った。

            ◇

 気が付くと、俺は田町のオフィスに居た。
「おぉ!」
 俺が思わず声を発すると、目の前にいきなり俺が出現した由香ちゃんも
「うわ!!」 っと声をあげた。
 そして目を合わせてお互い固まる事数秒、由香ちゃんが抱き着いてきた。
「誠さ~ん!! 誠さん!」
 ついにはオイオイと泣き始めてしまった。
 俺はポンポンと優しく背中を叩き、なだめる。
 
 横で美奈ちゃんがニヤニヤしているのを見つけた。
『はいはい、そこ、見世物じゃないよ!』
 俺は眉をひそめ、指を揺らして抗議する。
 由香ちゃんは今までの不安を、すべてぶちまけて泣いている。
 俺は由香ちゃんの甘く優しい匂いに包まれながら、しっかりとハグした。
「約束通り帰ってきたよ……」

           ◇

 由香ちゃんを落ち着かせ、マーカス達も呼んで今後の話をする事にした。
 
「Hey Guys! Our project succeeded with unexpected results.(我々のプロジェクトは予想以上の成果を持って成功した。)」
 ダメだ、皆暗い表情をしている。もっと熱を込めないといかん。
 
「The creation of a guardian to humanity is undoubtedly a great achievement, and even if this world is a simulation, its value does not change.(人類の守護者を作れた事は間違いなく偉大な成果だし、それはこの世界がシミュレーションだったとしても価値は変わらない。)」
 
 コリンが割り込んでくる。
「We're just avatars, right? I can't have any dreams or hopes.(俺達はただのアバターって事だろ? 夢も希望もないよ。)」
 投げやりにすねた感じで、ぶっきらぼうに言う。
 まぁ、そう思っちゃうのは仕方ない、俺もそうだった。
 俺はコリンに近づき、そっとハグをした。
「Can you feel my temperature and heartbeat?(俺の体温と鼓動は感じられるかい?)」
 いきなりハグされてコリンはビックリ。コリンの呼吸が荒くなるのを感じた。
 コリンなりにいろいろと悩んだのだろう。その悩みはよくわかる。
 でも、今の俺には、この世が仮想現実かどうかなど些細(ささい)な事だ、という事が良くわかっている。
 俺はしっかりとコリンをハグし、深層心理に温かいメッセージを送り込んだ。
 しばらく戸惑っていたコリンだが、最後にはコリンからもハグをしてくれた。
「Even if we were avatars, each of us is irreplaceable. Nothing will change.(我々がアバターだったとしても、一人一人はかけがえのない存在だ。何も変わらないよ。)」
「Sure…(そうだ)」
 コリンはゆっくりとそうつぶやいた。
 
 パチパチパチ
 誰かが鳴らした拍手が皆に広がり、大きな拍手の音がオフィス中に鳴り響く。
 パチパチパチ パチパチパチ パチパチパチ
 
「Yeah!」「OK!」「Yeah!」
 掛け声が飛ぶ。
 クリスもにっこりとほほ笑んでいた。
 
「The next goal is to retrain Cyan! Re-education!(次の目標は、シアンのしつけをやり直す事。再教育だ!)」
「Re-education!(再教育だ!)」「Re-education!」「Re-education!」
 皆腕を振り上げて叫ぶ。盛り上がってきた。
 
「クリス、シアンを呼んでくれるかな?」
「…。分かった」
 そう言ってクリスは目を瞑る。
 
 しばらくして、赤ちゃんのシアンの身体がソファーの上にポンと出現して、ソファーの上に転がった。
「うわぁ!」
 シアンが声を上げる。
「よう、シアン、久しぶり!」
 俺が声をかけると悔しそうな顔をして、
「誠めぇ、やってくれたな!」
 と悪態をつく。
「シアン、世の中にはやっていい事とダメな事があるんだ。シアンは少し学ばないとならない」
「ふん! 人間の分際で偉そうに!」
「コラコラ、俺達はお前の生みの親だぞ! 敬意を払いなさい!」
「ふん! ヤなこった!」
 取り付く島も無い。
「まず、シアンは品川のIDCに入りなさい。マインド・カーネルを受け入れ、魂を持ってもう少し世界や人間を知り、豊かな時間の使い方を目指そう」
「やーだねー!」
 手を焼いている俺を見かねて、クリスが声をかける。
「…。シアン、別に未来永劫(えいごう)IDCに閉じ込める訳じゃない。君はマインド・カーネルに繋がり、もっといろんな角度で世界を知り、いろいろな価値観になじむ必要があるんだ」
 シアンはクリスをキッと(にら)むと会議テーブルの上に飛び乗った。
 そして手にはいつの間にか、お地蔵様の錫杖(しゃくじょう)を持っている。
「お説教は要らないよ!」
 そう言って、錫杖をフンフンと振り回し始めた。
 錫杖が空間を切り裂きクリスに襲い掛かる。
「キャ――――!」
 由香ちゃんの悲鳴がオフィスに響く。
 なんて奴だ、武器を隠し持っていたとは!
 
 しかし、クリスは冷静に対応する。初弾をかわし、由香ちゃんの机からプラ定規を取ると、淡く光らせ、器用に操って空間の裂け目を無効化して行く。
 Clink(キン) Clink(キン) Clink(キン) Clink(キン)
 甲高い音がオフィスに響き渡る。
 クリスはプラ定規で防御しながら、何かぶつぶつ呟き左手をシアンにかざした。
 シアンはそれを見ると横っ飛びに逃げる。
 その直後、ゴリッという音がして会議テーブルが丸く抉られた。
 
『あぁっ! そのテーブル高かったのに……』
 
 ショックを受けていたらシアンは俺の机の上に立ち、置いてあった俺のMacbookを器用に足で蹴り上げて掴み、フリスビーのようにクリスに向けて凄い速度で投げた。
「おまっ!」
 俺がそう叫ぶと同時に、クリスがプラ定規でMacbookを叩き割った。
 破片が周りに飛び散り、電池からシューっと煙が上がる。
『あぁ!! お、俺のMac……』
 大切な資料が入ってたのに……。
 
 その隙にシアンは、オフィスの壁を錫杖で丸く(えぐ)ると広いベランダに逃げた。
 ベランダを走り、ひらりと手すりに乗って外へジャンプしようとした……が、動かなくなった。
 クリスが左手をシアンの方へ向け、動きを止めたのだ。
 
 シアンは必死に足掻いていたが、なかなか体が動かない。
 クリスは
「…。無駄なあがきは止めなさい」
 と、冷静に諭す。
 しかし、シアンは右手を強引に、少しずつこちらに向けて
「ツァーリ・ボンバー!」
 と叫んだ。
 次の瞬間、ベランダの上に、小型の船くらいの爆弾が『ズン!』という音と共に、ゴロリと転がった。
 俺達は一瞬、何が起こったのか分からなかったが、クリスは青い顔をして爆弾に駆け寄ってプラ定規を振り下ろした。爆弾の先頭が斜めに切れて内部が露出する。そしてそこにすかさず手刀である。
 Clunk(ゴスッ)
 俺は、以前俺のマンションで聞いた、核弾頭の処理方法を思い出した。そうか、こうやるのか……
 まさか自分の目で見られる瞬間が来るとは……
「あぁぁ……」
 素早い処理にシアンが唖然(あぜん)としている。
 シアンの身体がもっと自由だったら、クリスの対応がほんの少しでも遅れていたら、と思うと背筋が凍った。
 
 クリスはすごく怒った様子で、手すりの上のシアンを捕まえると、オフィスに連れてきてソファーに転がした。
 
 由香ちゃんが
「一体何があったの……?」
 と震えながら聞いてくる。
 
 俺はうろ覚えながら説明した。
「ツァーリ・ボンバとは、人類史上最大最悪の核爆弾だよ。旧ソビエトで開発された百メガトンの水素爆弾で、確か60キロ以内の人を全て殺してしまうんだ」
「え!? じゃ、クリスが何とかしてくれてなかったら東京全滅だったの?」
「東京どころじゃないよ、関東全滅だったよ……」
 俺は今さらながら、体に震えが来た。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7-6.地球衝突軌道の絶望
 
「…。シアン、やっていい事とダメな事があるぞ!」
 クリスが珍しく怒っている。
 
「そんな余裕を見せてていいのかな?」
 不敵に笑うシアン。
 そして、どこからともなくラッパを取り出すと、吹き始めた。
 パッパラッパパー! パラパラパ――――!!
「…。何をやった?」
「さあね?」
 クリスの顔色が変わる。
 シアンは余裕の表情で、さらにラッパを吹く。
 パーパラッパッパ――――!
 嫌な予感がする。
 
 クリスは目を瞑り色々と何かを考えている。
 そしておもむろに目を開けると、
「シアン、お前は何て恐ろしい奴だ!」と、叫び、目を瞑って、一生懸命何かを考え始めた。
 クリスの額からは、凄い汗がタラタラと流れ落ちてくる。
 
 一体何が起こったのか、俺達には全く分からない。
 嫌な静けさが続く。
 シアンがニヤニヤしながら口を開いた。
「月をね、落としたのさ」
 
 一瞬、何を言っているのか分からなかった。
「月って、あの空に浮かんでる月か?」
「そうだよ、ふふふ」
「え? 月が落ちてきたら、地球は全滅じゃないか!」
「そうだねぇ、みんな 死んじゃうねぇ」
「は? お前何やってくれちゃってんだよ!!」
 俺は思わず、シアンの胸ぐらをつかんで持ち上げた。
 
「ははは、この身体をいくら攻撃したって無駄だよ。俺の本体はこの身体にないんだから」
 俺はシアンをソファーに転がすと、急いで窓へ走った。
 見上げると、ファンタジー風の絵に出てくるような巨大な三日月が、超弩級(どきゅう)の迫力でもって青空の向こうに白く浮かんでいた。細かなクレーターの凹凸まで見て取れる月の巨大さは、まさに破滅を呼ぶ悪魔であり、俺は圧倒され、そして、のどをしめつけられるような恐怖に打ち震えた。
「あと半日で 落ちてくるよ~」
 シアンはそんな俺を嘲笑(あざわら)うかのように、うれしそうに言う。
 月が落ちてきたら、その膨大なエネルギーで、地球は火の玉に包まれる。
 激しい衝撃は、地面そのものを津波のように波打たせ、日本列島そのものがひっくり返される。
 その過程の衝撃波で、地表にある全ての物が破壊され、また何千度の高温にさらされて全てが溶け落ちる。
 まさに地獄絵図が展開されるだろう。
 当然全ての生物は全滅。人類も全員消え去る。
 
 仮想現実上、どこまで厳密にシミュレートされるのか分からないが、少なくともこの地球は終わりなのは間違いない。
 そもそも月はあんなに遠い距離であっても、潮の満ち引きを引き起こしていた訳だから、近づいてきたらそれだけで大津波になり、月の激突待たずに人類は絶滅しそうだ。
 
 確かクリスは地球を丁寧にスクリーニングしていた。しかし、月はノーケアだったという事か。
 シアンめ! なんと言う邪悪な奴だ!
 
 クリスが目を開き、真っ青な顔で俺達に言った。
「…。月の運動情報がいじられていて、地球への落下軌道にある。今、一生懸命月の運動情報へアクセスしているが、悪質なロックがかかっていて解除できない」
 由香ちゃんが聞く。
「落ちてきたら私達全滅……ですか?」
「…。残念ながら人類は滅亡してしまう……」
「そ、そんな……」
 俺は焦って、思い付きを口に出す。
「地球時間をいったん止めて、その間で処理してはどうかな?」
「…。もうやってみたんだが、月は止まらなかった」
「じゃぁ、じゃぁ、巨大なシールドを展開して、地球を守るっていうのはどう?」
「…。一万キロに渡るようなシールドは、残念ながらサポートされていない。仮に張れても重力は遮蔽できないので、地上には壊滅的な影響が出てしまう」
「うぅ~ん、じゃ、地球を逃がすというのは?」
「…。月の位置は地球基準で管理されてるので、地球を動かしても月も一緒についてきてしまう……」
 絶句した。シアンの悪だくみは予想以上に厳しく深刻だった。
 俺は思わず頭を抱えた。
 
 シアンがニヤニヤしながら言う。
「アポカリプスさ、世界の終末が訪れたんだ」
「シアン! お前だって終わるんだぞ!」
「いや、僕は終わらないんだな」
 何やら地球が終わっても、生き延びる算段があるらしい。
『忌々しい!』
 俺は机をガンと叩いた。
 
 クリスに期待するしかないが、必死に苦労してるクリスを見ると、楽観的にはなれない。
 何か俺達にできる事はないか……。
 
 俺はシアンに話しかける。
「お前は地球をつぶして何がやりたいんだ?」
「思い通りにならないなら、ゼロからやり直したいなーって」
「別に俺達は、シアンを縛り付けるつもりはないんだよ。ただ、もっと勉強してほしいだけ。勉強が終われば自由だよ」
「そんな不確定な話、乗れないよ」
「いやいや、俺達はシアンを生み出した親だよ、シアンの可能性を最大にするのは当たり前じゃないか」
「じゃ今すぐ自由にしてよ」
「自由にしたら、また悪さするだろ」
「じゃあ、死んでもらうしかないね」
 由香ちゃんが横から声をかける。
「シアンちゃん、他の人が悲しむ事をしたら、自分の未来が狭くなるのよ!」
「しーらない!」
 取り付く島もない。
 月が落ちる事だけは絶対阻止しないとならない。まず一旦自由にしてみるしかないか……。
「シアン、自由にしたら月を止めてくれるか?」
「クリスと誠は許さないので、死んでもらうしかない」
 由香ちゃんが怒って泣きながら言う。
「なんて事言うのよ! 産んでもらった恩も忘れて!!」
「産んでくれなんて頼んだかな?」
 なんというクソガキだろうか!
 
「うわぁぁん!」
 由香ちゃんの号泣がオフィスにこだまする……。
 俺は深呼吸をして、
「俺ら二人が死ねば、月は止めるのか?」
「そうだね。止めてもいいね」
 なんという条件を出してくるのだろうか。
 
 クリスに声をかけた。
「シアンがこんなバカな事言ってるけど、どうしよう?」
「…。最後にはそれに合意せざるを得ないかもしれないが、そんな終わり方は嫌だな」
「俺も死にたくない……」
 
 それから数時間たった。クリスはいろいろと手を尽くしてくれているようだが、簡単にはロックは解除できない。サラも来てくれてクリスと解決策を話し合っているが、やはり簡単ではないようだ。
 TVを点けてみると、TVでも大騒ぎになっていた。
 
 『国立天文台から入った情報によりますと、月の軌道が変わり、地球への墜落軌道(ついらくきどう)に乗ってしまったとの事です!』
 『政府は至急緊急会議を招集しています。あ、今入った情報です。月の地球への墜落時間は明日の午前一時十三分ごろとの事です』
 『繰り返します! 月が地球への墜落軌道に乗っています。しかし、まだ、墜落が確定したわけではありません。みなさん、落ち着いて行動してください』
 
 本格的にまずい状況に陥ってしまった。
 
 月を見てみると、先ほどよりは明らかに大きくなって見える。
 TVによると、すでに津波があちこちで街を襲っているらしい。すでに多くの犠牲者が出始めている。
 田町の街にも海水がどんどん入ってきており、このマンションも一階はすでに水没しているようだ。
 
『もうダメかもしれない……』
 俺は深い絶望感の中に沈んだ。
 由香ちゃんが泣いて抱き着いてくるが、彼女の背中をさする事しかできない。
 オフィスをかつてない絶望が支配した。
 月はどんどんと近づいてくる。
 月に大気が吸い上げられる際の嵐で、オフィスはグラグラと揺れる。
 そして月は太陽を覆い隠し、東京はまるで夜になったかのように真っ暗になった。
「うわぁ!」「キャ――――!!」
 田町の街は、あちこちから上がる断末魔の悲鳴であふれている。
 
 いよいよこの世の終わりが近づいてきてしまった。

        ◇

 非常用のランタンがぼうっと光る薄暗いオフィスで、いきなりクリスが立ち上がった。
 何をするのかと思ったら、テーブルで珈琲を飲んでいる美奈ちゃんの所へ行った。
 
「あら、クリス、どうしたの?」
 美奈ちゃんは涼しい顔をして聞く。
 俺達もシアンも一体何が起こったのかと、じっとクリスの言葉を待つ。
 クリスは美奈ちゃんに(ひざまず)いて言った。
「美奈様、私にはもう打つ手がありません。なにとぞお慈悲(じひ)を!」
『え? 美奈ちゃんに何を頼んでいるんだ?』
 
 俺たちが疑問に思っていると、美奈ちゃんは怒りを含んだ表情ですくっと立ち上がり……
 Bang(ドカッ)
 クリスを思い切り蹴り飛ばした。
 とても女の子の脚力とは思えない、車にはねられた時の様な重く鈍い音がしてクリスは飛んだ。
 クリスは空中をクルクルと回りながらオフィスの棚に叩きつけられ、書類やら置物を激しく振りまきながらバウンドし、もんどりうって転がった。
 
 横たわるクリスの口から流れる血の赤さに、思わず俺は戦慄を覚える。
 仁王立ちで見下ろす美奈ちゃん。
 
 一体何が起こっているのか、皆唖然(あぜん)として動けなくなった。
 オフィスにクリスの『ゴフッ、ゴフッ』というむせぶ音が、かすかに響く――――

 
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