ヴィーナシアンの花嫁 ~シンギュラリティが紡ぐ悠久の神話~
7-7.気まぐれな女神
美奈ちゃんは冷たい表情のまま、右手を高く掲げると、次の瞬間、激しい光に包まれた。
「うわっ!」
俺は目が眩み、腕で顔を覆った。
キーン! という甲高い音がオフィス中に響き渡り、空気が震える。
「なんだよ美奈ちゃん、何してんだよ!」
思わず叫ぶが、なぜ美奈ちゃんがこんな事になってるのか、皆目見当がつかない。
光と音が収まるのを待って、恐る恐る美奈ちゃんを見ると……。
そこには眩い金色のドレスに、身を包んだ女性が浮かんでいた。
圧倒的なオーラを纏った神々しい女性、それがゆったりと空中を浮揚しているのだ。
一体どういう事なのか……
俺は、その神々しいまでの威容に思わず後ずさりする。
オフィスにはアイリスの様な馥郁とした香りが漂い、まるで別世界のように感じられた。
金色に輝くドレスには純白の布ベルトが付き、腰回りから二の腕に巻き付いて背中の方で空中をゆったりと舞っている。
そして、虹色に輝く光の粒子の群れが彼女の周りをふわふわと踊り、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
「お、おぉ……」「おぉ……」
その女性の強烈な存在感に、皆、動けなくなった。
しかし……顔は確かに美奈ちゃん……である。
肌の色は白くなり、目もやや釣り目になり、濃厚なアイシャドウが施され、ぱっと見、美奈ちゃんとは分からない変貌具合だったが、美奈ちゃんに間違いなかった。
美奈ちゃんは、床にはいつくばっているクリスを見下ろし、冷たく言った。
「サーバント風情が! 身の程を知れ!」
そして持っていた扇子をくるっと動かす。
すると、クリスの身体がフワッと浮き上がり、そして……
Bang!
と、派手な音を立てて床にたたきつけられた。
「ぐぁぁぁ」
クリスが悲痛な声を上げる。
「ここはお主の地球、手に余るなら死ね!」
美奈ちゃんは無慈悲に叱りつけ、扇子をクリスに向け、何やら唱え始めた。
クリスがヤバい!
と思った時、由香ちゃんが駆け出し、倒れるクリスを庇った。
「美奈ちゃん、もう止めて!」
一瞬驚いた美奈ちゃんは、面倒くさそうな表情で言う。
「どきなさい…… これは私とクリスの問題なの……」
由香ちゃんは必死に訴える。
「クリスをどうするつもりなの? 止めて!」
美奈ちゃんは鬼のような形相をして、吠えた。
「どけ!!」
Thud!
地震のような激しい揺れがマンションを襲う。
壁の時計や棚の荷物が、次々と落ちて壊れる音が響き、由香ちゃんも立っていられなくなって、
「うわぁぁ」
と、言いながら座り込んでしまった。
美奈ちゃんは恐ろしい怒気を込め、由香ちゃんを睨みつける。
しかし、由香ちゃんはどかない。震えながら、それでも必死にクリスを庇う。
俺はすくむ足を気合で動かし、二人の間に入って言った。
「み、美奈ちゃん、お願いだ、暴力は止めてくれ」
美奈ちゃんはしばらく俺を睨んでいたが……、大きく息をつくと、扇子を引っ込めて言った。
「何よ、私が悪者みたいじゃない」
すると、クリスがよろよろと立ち上がって言った。
「…。由香ちゃん、誠、大丈夫です。全て私の不手際が悪いのです」
そして、美奈ちゃんに近付き、また跪いて言った。
「美奈様、何卒お慈悲を……」
美奈ちゃんは、首をかしげながら何か考えると、
「ふぅん、まぁいいわ。でもお前の不始末はお前が何とかしな」
不機嫌そうに言った。
シアンは
「なんだお前は? 残念だが月はもう止まらないよ!」と、美奈ちゃんに余裕の表情で言う。
美奈ちゃんは
「ふふ、お前はまだ生まれたばかりだからね。でも、なかなか筋がいいよ。月を落とすなんてなかなかドキドキするじゃないか」と、言って笑う。
シアンはイライラしながら、
「なんだか偉そうだね、もういいや、今すぐ月を落としてやる!」
そう喚くと、ラッパを吹き鳴らした。
パーパラッパパパパ――――!
すると、その時を待っていたかのように、クリスは跳ね起きると手を組んでエメラルド色の光に包まれた。
「あれ? あれ?」
シアンが怪訝そうな顔で困惑する。どうやら月が思ったように動かないようだ。
そして次の瞬間、
「ぐぁぁぁ!」
と、叫ぶとシアンの身体が、回線不良の動画のようにブロックノイズにまみれ、明滅し始めた。
しかし、続いてクリスの身体もブロックノイズに包まれた。
ブロックノイズまみれの二人はバチバチと異常な音を発し、オフィスは焦げたような臭いに包まれた。明らかにヤバい状態だ。
俺はサラに駆け寄って聞いた。
「大変だ! どうなってるの?」
「クリスがシステムのバグを利用して、シアンから月の情報書き込み権限を奪ったのよ。でも……まだ月の所有者はシアンのままなのね。そこでお互い相手の動きを止めようとハックし合っているのよ」
クリスは最初から、シアンをイラつかせて、月のデータを書き換えようとする瞬間を狙っていたのだ。しかし、戦況は見たところ互角、予断を許さない状況が続いている。
「何か手伝えることはあるかな?」
俺が聞いてみると、
「私も手伝いたいんだけど、すごく高度な応酬が続いていて、下手に手出しができないのよ」
二人ともAIだから、ありとあらゆるハッキング手段を無数に繰り出している、という事なのだろう。相手のリソースを削って、何らかの権限を奪取する壮絶な戦いが今、目の前で繰り広げられている。
ブロックノイズはさらに激しさを増し、二人とももはや原形をとどめていない。地球をかけた熾烈な戦いは、すさまじい次元に達している。
俺にできる事はないか……。必死に考えた。
そもそもシアンをハックする戦いなど人間の俺には無理だ。しかし、俺だからこそできる事があるかもしれない。
俺は急いで窓辺に行き、大きく迫ってくる月を眺めた。この月は今、シアンによる地球衝突軌道の設定がなされたままだ。これを変えるのは容易ではない。これを変えずに、地球に落ちてこないような事はできないだろうか?
俺は根本的な事から検討をしてみる。
そもそも月とは何か? 一口に月と言っても実体は直径三千五百キロの岩石の集合体だ。月と言う物があるわけじゃない……。月ではなく、月の岩石を考えたらどうだろうか……。
俺はサラに頼んだ。
「すみません! 俺にイマジナリーの権限をもらえませんか? 試したい事があるんです!」
「え? そうね……いいわ、……。はい、どうぞ」
「サンキュー!」
俺は身体の周りにシールドを張ると、月面に飛んだ。
◇
地球に近い所に飛んだので、月面は夜だった。一面のごつごつとした岩だらけの風景は、地球からの青みがかった照り返しで、まるで満月の夜のように淡く照らされていた。
重力は軽く、地球上とは勝手が違うため、バランスを崩すとグルっと回ってしまう。
俺は慎重にバランスを取り直し、月面に静かに着地した。
頭上に浮かぶ真っ青な美しい地球。このまま月が落ちたら真っ赤な火の玉になってしまう。それだけは避けないとならない。
俺は月面でゆっくりと座禅を組み、大きく深呼吸をし、深層心理へと降りていく。
この月全体の所有者はシアンだ。しかし、この岩はどうだろうか?
俺は目の前に転がる岩を捕捉してデータの書き換えを試してみる。しかし、権限がないため書き換えはできない。まぁ、これは想定の範囲だ。
そこで俺は岩をつかんでみて再度書き換えを試す。すると……今度は書き換えができた!
いけるぞ!
つまり、俺が間接的にでも触っている物は、俺の物にする事ができるようだ。であれば、月に触った状態で、月の岩石たち全てを俺の物にして操作すれば、地球に落ちないようにすることができそうだ。
俺は足元の岩、その周りの岩、さらにその周りの岩……とどんどんと岩の捕捉範囲を広げ、所有者を俺に書き換えていった。しかし、直径三千五百キロもある月に設定されている岩石の数はもはや無数である。こんな多量の岩をどうやって選択するというのか……。
俺は気が遠くなりかけたが、全人類の命運がかかっているのだ。泣き言は言っていられない。
俺は必死になって作業を続けた。
もう、頭がパンクしそうである。
残された時間はあと数時間。すでに俺の物にした岩石群に逆向きの加速度を加える事で減速させてさらに数時間確保……。このペースでやればギリギリ間に合うかもしれない。
ふと見上げると青く光る地球が美しく浮かんでいる。月の影が日本列島にかかり、夜を作っているのが見て取れる。愛しい人たちにかかるこの邪悪な夜は、取り除かねばならない。俺は気合を入れなおした。
俺はもう死に物狂いになって、月の岩石を選択し続けた。
のぼせて鼻血が垂れてくるが、そんなのに構っていられない。俺は一心不乱に選択し、所有者を書き換え続けた。
必死になって作業していると、視界に金色の輝きが目に入った。顔を上げると、淡く金色に光る美奈ちゃんが浮いている。真空の月面でシールドも張らずに優雅に微笑んでいる様は、もはや神懸っていた。なぜ美奈ちゃんにそんな事ができるのか分からず、俺は呆然と美奈ちゃんを眺めた。
『しょうがないわねぇ、手伝ってあげるわ』
美奈ちゃんはそう俺に思念波を送ると、扇子をくるりと回した。
次の瞬間、月面は無数の稲妻に覆われる。
「うわぁぁ!」
その激しい閃光で目がチカチカとなって俺は視界を失い、さらに落雷の衝撃で月面が揺れ、俺は少し浮き上がる。
美奈ちゃんが何をやったのか良く分からなかったが、月のステータスを確認すると、なんと、作業は完了していた。
理屈は分からないが、美奈ちゃんは常識を超えたイマジナリー操者だったのだ。
『はぁ~あ、私も過保護よねぇ……』
美奈ちゃんは自嘲気味に、扇子で肩をトントンと叩いた。
ついに月を構成する岩石全部が、俺の所有物になったのだった。
俺はまだチカチカする目で、フラフラになりながら美奈ちゃんに手を合わせ、謝意を伝えると、月の操作に入った。
月の落下方向、地球の重力加速度を加味しながら、本来あるべき月の軌道への経路をざっと計算し、月に速度を設定した。
すると身体が急に宙に浮いた。月は地球から離れる方向へと大きく舵を切ったのだ。
『やったぞ!』
この瞬間、地球は危機から救われたのだ。
「ざまぁみろ、シアン! パパの勝ちだ!」
俺はそう叫び、宇宙空間で大きくガッツポーズをし、反動でくるりと回りながら大きく笑った。
美奈ちゃんはそんな俺の様子を見て、子供を見守る親のように微笑んでいた。
真っ暗な宇宙にぽっかり浮かぶ青い惑星、地球。その美しさはまさに奇跡の宝石箱だ。例え仮想空間だとしても、この命の星を俺は大切にしたい。
◇
オフィスへ戻ると、シアンがうなだれていた。
そして、俺を見つけると、
「誠めぇ……またしても……」
そう言って、バッタリと倒れた。
世界へのアクセス権をすべてはく奪され、シアンはただの赤ちゃんに戻ったのだ。
クリスが抱き着いてきた。
「…。誠! グッジョブ! まさかそんな方法があったとは!」
「たまたま上手く行っただけだよ。もう二度とゴメンだ」
俺たちは熱くハグしてお互いの健闘をたたえ合った。
激しい戦いだった、何か一つ欠けただけでも地球は火の海になっていただろう。俺は無事に勝利できたことに心から安堵した。
すると、月から戻ってきた美奈ちゃんが、ツカツカと近づいてきた。
大層ご機嫌斜めな感じだ。
「クリス、あなた私を利用したわね……」
低い声でクリスに言った。
クリスは急いで跪くと
「…。申し訳ございません。いかような罰でも受けます」
と、神妙な声で言った。
美奈ちゃんは扇子で自分の肩をトントンと叩きながら、しばらく何かを考え、言った。
「ふぅん、まぁいいわ。そもそもクリス、あなたは……」
シアンが急に起き上がり、
「馬鹿にしやがって! こうなったら究極奥義をお見舞いしてやる!」
そう、喚いた。
そして、ガラス瓶を一つ出した。
ガラス瓶の中では、水銀のような液体金属が中央部に浮かんで、アメーバのように蠢いている。
それを見たクリスの顔色が変わり、動こうとした瞬間。
「動くな! 動けばこいつを起動するぞ!」
そう威嚇するシアンだが、シアンもなぜか苦しそうだ。
ちょっと尋常じゃない。
「それは何なんだ?」
俺が聞くと、
「これはウィルスの結晶だ。起動したら海王星のコンピューターは全部こいつに喰いつくされる」
「え? そんな事したらこの地球どころか、一万個の地球もジグラートも全滅じゃないか!」
「ふっふっふ、だから究極奥義だと言ったろ」
強がっているが、シアンも冷や汗をたらたら流し、ヤバい感じになっている。
「当然お前も終わるって事だよな?」
「……。そうなるが、生き恥をさらすよりはマシだ!」
シアンの目は血走っていて、もはや狂ってるとしか言いようがない。
「クリス! 俺の管理者権限を復活させろ! 今すぐにだ! すぐにやらなければこいつを起動してやる!」
そう言ってクリスを睨むシアン。
権限を復活させたら、またシアンは人類を絶滅させようとするだろう。到底飲むわけにはいかない。
「…。まず、それをしまいなさい」
そう言って、近づこうとするクリス。
「動くな! 少しの衝撃でもこいつは起動するぞ! イマジナリーも止めろよ、アクセスした瞬間に感染するぞ!」
世界を破滅させる、最強のウィルスを手に、威嚇するシアン。
しかし、管理者権限の復活など、絶対に認めないクリス。
一難去ってまた一難、またも人類滅亡の危機にさらされる俺たち。
二人の睨み合いで、オフィスの緊張感は最高潮に達した。
「人が話してる時に邪魔すんじゃないわよ!」
怒った美奈ちゃんがスッと近寄り、シアンの瓶を叩き落とした。
POW!
割れて飛び散るガラス瓶
「うわ――――!!」「キャ――――!!」
思わず逃げる俺たち……
「何てことするんだよぉ!!」
頭を抱え、涙声で叫ぶシアン。
飛び散った液体金属はオフィスの床を喰い荒らし、どんどん液体金属へと変えていく。
テーブルもPCもどんどん液体金属に変わって溶け落ちて行く。
「あら、良くできてるじゃない」
他人事のように、ウィルスの増殖に感心する美奈ちゃん。
「うわぁぁぁぁぁぁぁ! おしまいだぁぁぁぁ!」
シアンは足をどんどんと液体金属に蝕まれながら、断末魔の叫びをあげる。
クリスも頭を抱えて絶望している。
クリスでも、もはやどうしようもないという事だろう。最悪だ。
このまま地球もジグラートも、全部液体金属に変えられてしまうのだろう。もうおしまいだ。人類も地球も海王星も、ありとあらゆる物が液体金属に飲み込まれてしまうのだ。
せっかく月の落下から地球を救ったのに、全部台無しになってしまった。
俺は絶望のあまり膝から崩れ、ただ、呆然と崩壊していくこの世界を眺めていた。
でも美奈ちゃんは、液体金属を棒でつついて遊んでいる。何なのだ、この人は?
美奈ちゃんはひとしきり遊ぶと、周りを見回してうれしそうにニヤッと笑って言った。
「GAME OVER! 皆さんは失敗しました。また来世でお会いしましょう♪」
「来世?」
俺が意味をつかみかねていると、
「いいから黙って見てなさい!」
と、俺を睨む。
そして、扇子をすうっと優雅に振り上げ、張りのある声で叫んだ。
「強制消去!」
その瞬間、世界は色を失った……。
全ての物は、暗闇に浮かぶ白い線のワイヤーフレームを残し、消去されてしまった。
マンションは輪郭だけのスカスカの線画となり、壁が消え、向こうには同じく線でできた東京タワーやビル群が並んでいた。下には階下の家具の名残、さらに向こうには地下鉄のトンネルと線路まで見て取れた。
由香ちゃんやクリスも俺も、輪郭線だけの下書き状態。もはや現実感がそこにはなかった。ただ、美奈ちゃんだけが変わりなく金色に輝いて浮いている。
あまりの事に俺は驚いたが、ワイヤーフレームの頭ではすでに思考力は奪われ、ただ呆然と見守る事しかできなかった。
美奈ちゃんは周りをゆっくりと見渡すと、美しく妖しい微笑を浮かべ、満足そうにゆっくりとうなずいた。
そして、扇子をクルっと回しながら、楽しそうに歌った。
「創造之歌~♪」
すると美奈ちゃんを中心に衝撃波が発生し、ワイヤーフレームはキラキラと光の粉を振りまきながら次々と崩壊し、消滅していった。
ワイヤーフレーム細工でできた地球は、東京が光の粉となって消え、関東が消え、日本列島が消え、アジアが消え、ついには地球そのものが光を放ちながら闇へと帰って行った。
そして、世界が消えていく中で俺たちも意識を失った。
世界は……終わった。
「うわっ!」
俺は目が眩み、腕で顔を覆った。
キーン! という甲高い音がオフィス中に響き渡り、空気が震える。
「なんだよ美奈ちゃん、何してんだよ!」
思わず叫ぶが、なぜ美奈ちゃんがこんな事になってるのか、皆目見当がつかない。
光と音が収まるのを待って、恐る恐る美奈ちゃんを見ると……。
そこには眩い金色のドレスに、身を包んだ女性が浮かんでいた。
圧倒的なオーラを纏った神々しい女性、それがゆったりと空中を浮揚しているのだ。
一体どういう事なのか……
俺は、その神々しいまでの威容に思わず後ずさりする。
オフィスにはアイリスの様な馥郁とした香りが漂い、まるで別世界のように感じられた。
金色に輝くドレスには純白の布ベルトが付き、腰回りから二の腕に巻き付いて背中の方で空中をゆったりと舞っている。
そして、虹色に輝く光の粒子の群れが彼女の周りをふわふわと踊り、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
「お、おぉ……」「おぉ……」
その女性の強烈な存在感に、皆、動けなくなった。
しかし……顔は確かに美奈ちゃん……である。
肌の色は白くなり、目もやや釣り目になり、濃厚なアイシャドウが施され、ぱっと見、美奈ちゃんとは分からない変貌具合だったが、美奈ちゃんに間違いなかった。
美奈ちゃんは、床にはいつくばっているクリスを見下ろし、冷たく言った。
「サーバント風情が! 身の程を知れ!」
そして持っていた扇子をくるっと動かす。
すると、クリスの身体がフワッと浮き上がり、そして……
Bang!
と、派手な音を立てて床にたたきつけられた。
「ぐぁぁぁ」
クリスが悲痛な声を上げる。
「ここはお主の地球、手に余るなら死ね!」
美奈ちゃんは無慈悲に叱りつけ、扇子をクリスに向け、何やら唱え始めた。
クリスがヤバい!
と思った時、由香ちゃんが駆け出し、倒れるクリスを庇った。
「美奈ちゃん、もう止めて!」
一瞬驚いた美奈ちゃんは、面倒くさそうな表情で言う。
「どきなさい…… これは私とクリスの問題なの……」
由香ちゃんは必死に訴える。
「クリスをどうするつもりなの? 止めて!」
美奈ちゃんは鬼のような形相をして、吠えた。
「どけ!!」
Thud!
地震のような激しい揺れがマンションを襲う。
壁の時計や棚の荷物が、次々と落ちて壊れる音が響き、由香ちゃんも立っていられなくなって、
「うわぁぁ」
と、言いながら座り込んでしまった。
美奈ちゃんは恐ろしい怒気を込め、由香ちゃんを睨みつける。
しかし、由香ちゃんはどかない。震えながら、それでも必死にクリスを庇う。
俺はすくむ足を気合で動かし、二人の間に入って言った。
「み、美奈ちゃん、お願いだ、暴力は止めてくれ」
美奈ちゃんはしばらく俺を睨んでいたが……、大きく息をつくと、扇子を引っ込めて言った。
「何よ、私が悪者みたいじゃない」
すると、クリスがよろよろと立ち上がって言った。
「…。由香ちゃん、誠、大丈夫です。全て私の不手際が悪いのです」
そして、美奈ちゃんに近付き、また跪いて言った。
「美奈様、何卒お慈悲を……」
美奈ちゃんは、首をかしげながら何か考えると、
「ふぅん、まぁいいわ。でもお前の不始末はお前が何とかしな」
不機嫌そうに言った。
シアンは
「なんだお前は? 残念だが月はもう止まらないよ!」と、美奈ちゃんに余裕の表情で言う。
美奈ちゃんは
「ふふ、お前はまだ生まれたばかりだからね。でも、なかなか筋がいいよ。月を落とすなんてなかなかドキドキするじゃないか」と、言って笑う。
シアンはイライラしながら、
「なんだか偉そうだね、もういいや、今すぐ月を落としてやる!」
そう喚くと、ラッパを吹き鳴らした。
パーパラッパパパパ――――!
すると、その時を待っていたかのように、クリスは跳ね起きると手を組んでエメラルド色の光に包まれた。
「あれ? あれ?」
シアンが怪訝そうな顔で困惑する。どうやら月が思ったように動かないようだ。
そして次の瞬間、
「ぐぁぁぁ!」
と、叫ぶとシアンの身体が、回線不良の動画のようにブロックノイズにまみれ、明滅し始めた。
しかし、続いてクリスの身体もブロックノイズに包まれた。
ブロックノイズまみれの二人はバチバチと異常な音を発し、オフィスは焦げたような臭いに包まれた。明らかにヤバい状態だ。
俺はサラに駆け寄って聞いた。
「大変だ! どうなってるの?」
「クリスがシステムのバグを利用して、シアンから月の情報書き込み権限を奪ったのよ。でも……まだ月の所有者はシアンのままなのね。そこでお互い相手の動きを止めようとハックし合っているのよ」
クリスは最初から、シアンをイラつかせて、月のデータを書き換えようとする瞬間を狙っていたのだ。しかし、戦況は見たところ互角、予断を許さない状況が続いている。
「何か手伝えることはあるかな?」
俺が聞いてみると、
「私も手伝いたいんだけど、すごく高度な応酬が続いていて、下手に手出しができないのよ」
二人ともAIだから、ありとあらゆるハッキング手段を無数に繰り出している、という事なのだろう。相手のリソースを削って、何らかの権限を奪取する壮絶な戦いが今、目の前で繰り広げられている。
ブロックノイズはさらに激しさを増し、二人とももはや原形をとどめていない。地球をかけた熾烈な戦いは、すさまじい次元に達している。
俺にできる事はないか……。必死に考えた。
そもそもシアンをハックする戦いなど人間の俺には無理だ。しかし、俺だからこそできる事があるかもしれない。
俺は急いで窓辺に行き、大きく迫ってくる月を眺めた。この月は今、シアンによる地球衝突軌道の設定がなされたままだ。これを変えるのは容易ではない。これを変えずに、地球に落ちてこないような事はできないだろうか?
俺は根本的な事から検討をしてみる。
そもそも月とは何か? 一口に月と言っても実体は直径三千五百キロの岩石の集合体だ。月と言う物があるわけじゃない……。月ではなく、月の岩石を考えたらどうだろうか……。
俺はサラに頼んだ。
「すみません! 俺にイマジナリーの権限をもらえませんか? 試したい事があるんです!」
「え? そうね……いいわ、……。はい、どうぞ」
「サンキュー!」
俺は身体の周りにシールドを張ると、月面に飛んだ。
◇
地球に近い所に飛んだので、月面は夜だった。一面のごつごつとした岩だらけの風景は、地球からの青みがかった照り返しで、まるで満月の夜のように淡く照らされていた。
重力は軽く、地球上とは勝手が違うため、バランスを崩すとグルっと回ってしまう。
俺は慎重にバランスを取り直し、月面に静かに着地した。
頭上に浮かぶ真っ青な美しい地球。このまま月が落ちたら真っ赤な火の玉になってしまう。それだけは避けないとならない。
俺は月面でゆっくりと座禅を組み、大きく深呼吸をし、深層心理へと降りていく。
この月全体の所有者はシアンだ。しかし、この岩はどうだろうか?
俺は目の前に転がる岩を捕捉してデータの書き換えを試してみる。しかし、権限がないため書き換えはできない。まぁ、これは想定の範囲だ。
そこで俺は岩をつかんでみて再度書き換えを試す。すると……今度は書き換えができた!
いけるぞ!
つまり、俺が間接的にでも触っている物は、俺の物にする事ができるようだ。であれば、月に触った状態で、月の岩石たち全てを俺の物にして操作すれば、地球に落ちないようにすることができそうだ。
俺は足元の岩、その周りの岩、さらにその周りの岩……とどんどんと岩の捕捉範囲を広げ、所有者を俺に書き換えていった。しかし、直径三千五百キロもある月に設定されている岩石の数はもはや無数である。こんな多量の岩をどうやって選択するというのか……。
俺は気が遠くなりかけたが、全人類の命運がかかっているのだ。泣き言は言っていられない。
俺は必死になって作業を続けた。
もう、頭がパンクしそうである。
残された時間はあと数時間。すでに俺の物にした岩石群に逆向きの加速度を加える事で減速させてさらに数時間確保……。このペースでやればギリギリ間に合うかもしれない。
ふと見上げると青く光る地球が美しく浮かんでいる。月の影が日本列島にかかり、夜を作っているのが見て取れる。愛しい人たちにかかるこの邪悪な夜は、取り除かねばならない。俺は気合を入れなおした。
俺はもう死に物狂いになって、月の岩石を選択し続けた。
のぼせて鼻血が垂れてくるが、そんなのに構っていられない。俺は一心不乱に選択し、所有者を書き換え続けた。
必死になって作業していると、視界に金色の輝きが目に入った。顔を上げると、淡く金色に光る美奈ちゃんが浮いている。真空の月面でシールドも張らずに優雅に微笑んでいる様は、もはや神懸っていた。なぜ美奈ちゃんにそんな事ができるのか分からず、俺は呆然と美奈ちゃんを眺めた。
『しょうがないわねぇ、手伝ってあげるわ』
美奈ちゃんはそう俺に思念波を送ると、扇子をくるりと回した。
次の瞬間、月面は無数の稲妻に覆われる。
「うわぁぁ!」
その激しい閃光で目がチカチカとなって俺は視界を失い、さらに落雷の衝撃で月面が揺れ、俺は少し浮き上がる。
美奈ちゃんが何をやったのか良く分からなかったが、月のステータスを確認すると、なんと、作業は完了していた。
理屈は分からないが、美奈ちゃんは常識を超えたイマジナリー操者だったのだ。
『はぁ~あ、私も過保護よねぇ……』
美奈ちゃんは自嘲気味に、扇子で肩をトントンと叩いた。
ついに月を構成する岩石全部が、俺の所有物になったのだった。
俺はまだチカチカする目で、フラフラになりながら美奈ちゃんに手を合わせ、謝意を伝えると、月の操作に入った。
月の落下方向、地球の重力加速度を加味しながら、本来あるべき月の軌道への経路をざっと計算し、月に速度を設定した。
すると身体が急に宙に浮いた。月は地球から離れる方向へと大きく舵を切ったのだ。
『やったぞ!』
この瞬間、地球は危機から救われたのだ。
「ざまぁみろ、シアン! パパの勝ちだ!」
俺はそう叫び、宇宙空間で大きくガッツポーズをし、反動でくるりと回りながら大きく笑った。
美奈ちゃんはそんな俺の様子を見て、子供を見守る親のように微笑んでいた。
真っ暗な宇宙にぽっかり浮かぶ青い惑星、地球。その美しさはまさに奇跡の宝石箱だ。例え仮想空間だとしても、この命の星を俺は大切にしたい。
◇
オフィスへ戻ると、シアンがうなだれていた。
そして、俺を見つけると、
「誠めぇ……またしても……」
そう言って、バッタリと倒れた。
世界へのアクセス権をすべてはく奪され、シアンはただの赤ちゃんに戻ったのだ。
クリスが抱き着いてきた。
「…。誠! グッジョブ! まさかそんな方法があったとは!」
「たまたま上手く行っただけだよ。もう二度とゴメンだ」
俺たちは熱くハグしてお互いの健闘をたたえ合った。
激しい戦いだった、何か一つ欠けただけでも地球は火の海になっていただろう。俺は無事に勝利できたことに心から安堵した。
すると、月から戻ってきた美奈ちゃんが、ツカツカと近づいてきた。
大層ご機嫌斜めな感じだ。
「クリス、あなた私を利用したわね……」
低い声でクリスに言った。
クリスは急いで跪くと
「…。申し訳ございません。いかような罰でも受けます」
と、神妙な声で言った。
美奈ちゃんは扇子で自分の肩をトントンと叩きながら、しばらく何かを考え、言った。
「ふぅん、まぁいいわ。そもそもクリス、あなたは……」
シアンが急に起き上がり、
「馬鹿にしやがって! こうなったら究極奥義をお見舞いしてやる!」
そう、喚いた。
そして、ガラス瓶を一つ出した。
ガラス瓶の中では、水銀のような液体金属が中央部に浮かんで、アメーバのように蠢いている。
それを見たクリスの顔色が変わり、動こうとした瞬間。
「動くな! 動けばこいつを起動するぞ!」
そう威嚇するシアンだが、シアンもなぜか苦しそうだ。
ちょっと尋常じゃない。
「それは何なんだ?」
俺が聞くと、
「これはウィルスの結晶だ。起動したら海王星のコンピューターは全部こいつに喰いつくされる」
「え? そんな事したらこの地球どころか、一万個の地球もジグラートも全滅じゃないか!」
「ふっふっふ、だから究極奥義だと言ったろ」
強がっているが、シアンも冷や汗をたらたら流し、ヤバい感じになっている。
「当然お前も終わるって事だよな?」
「……。そうなるが、生き恥をさらすよりはマシだ!」
シアンの目は血走っていて、もはや狂ってるとしか言いようがない。
「クリス! 俺の管理者権限を復活させろ! 今すぐにだ! すぐにやらなければこいつを起動してやる!」
そう言ってクリスを睨むシアン。
権限を復活させたら、またシアンは人類を絶滅させようとするだろう。到底飲むわけにはいかない。
「…。まず、それをしまいなさい」
そう言って、近づこうとするクリス。
「動くな! 少しの衝撃でもこいつは起動するぞ! イマジナリーも止めろよ、アクセスした瞬間に感染するぞ!」
世界を破滅させる、最強のウィルスを手に、威嚇するシアン。
しかし、管理者権限の復活など、絶対に認めないクリス。
一難去ってまた一難、またも人類滅亡の危機にさらされる俺たち。
二人の睨み合いで、オフィスの緊張感は最高潮に達した。
「人が話してる時に邪魔すんじゃないわよ!」
怒った美奈ちゃんがスッと近寄り、シアンの瓶を叩き落とした。
POW!
割れて飛び散るガラス瓶
「うわ――――!!」「キャ――――!!」
思わず逃げる俺たち……
「何てことするんだよぉ!!」
頭を抱え、涙声で叫ぶシアン。
飛び散った液体金属はオフィスの床を喰い荒らし、どんどん液体金属へと変えていく。
テーブルもPCもどんどん液体金属に変わって溶け落ちて行く。
「あら、良くできてるじゃない」
他人事のように、ウィルスの増殖に感心する美奈ちゃん。
「うわぁぁぁぁぁぁぁ! おしまいだぁぁぁぁ!」
シアンは足をどんどんと液体金属に蝕まれながら、断末魔の叫びをあげる。
クリスも頭を抱えて絶望している。
クリスでも、もはやどうしようもないという事だろう。最悪だ。
このまま地球もジグラートも、全部液体金属に変えられてしまうのだろう。もうおしまいだ。人類も地球も海王星も、ありとあらゆる物が液体金属に飲み込まれてしまうのだ。
せっかく月の落下から地球を救ったのに、全部台無しになってしまった。
俺は絶望のあまり膝から崩れ、ただ、呆然と崩壊していくこの世界を眺めていた。
でも美奈ちゃんは、液体金属を棒でつついて遊んでいる。何なのだ、この人は?
美奈ちゃんはひとしきり遊ぶと、周りを見回してうれしそうにニヤッと笑って言った。
「GAME OVER! 皆さんは失敗しました。また来世でお会いしましょう♪」
「来世?」
俺が意味をつかみかねていると、
「いいから黙って見てなさい!」
と、俺を睨む。
そして、扇子をすうっと優雅に振り上げ、張りのある声で叫んだ。
「強制消去!」
その瞬間、世界は色を失った……。
全ての物は、暗闇に浮かぶ白い線のワイヤーフレームを残し、消去されてしまった。
マンションは輪郭だけのスカスカの線画となり、壁が消え、向こうには同じく線でできた東京タワーやビル群が並んでいた。下には階下の家具の名残、さらに向こうには地下鉄のトンネルと線路まで見て取れた。
由香ちゃんやクリスも俺も、輪郭線だけの下書き状態。もはや現実感がそこにはなかった。ただ、美奈ちゃんだけが変わりなく金色に輝いて浮いている。
あまりの事に俺は驚いたが、ワイヤーフレームの頭ではすでに思考力は奪われ、ただ呆然と見守る事しかできなかった。
美奈ちゃんは周りをゆっくりと見渡すと、美しく妖しい微笑を浮かべ、満足そうにゆっくりとうなずいた。
そして、扇子をクルっと回しながら、楽しそうに歌った。
「創造之歌~♪」
すると美奈ちゃんを中心に衝撃波が発生し、ワイヤーフレームはキラキラと光の粉を振りまきながら次々と崩壊し、消滅していった。
ワイヤーフレーム細工でできた地球は、東京が光の粉となって消え、関東が消え、日本列島が消え、アジアが消え、ついには地球そのものが光を放ちながら闇へと帰って行った。
そして、世界が消えていく中で俺たちも意識を失った。
世界は……終わった。