変態御曹司の飼い猫はわたしです
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あの人、曽根課長に会ったことで、退職した会社での日々が一気に脳内に蘇ってきた。
私は、医療保険の会社に勤めていた。一年前、コールセンターに異動することになり、曽根課長の部下になった。
最初は、異動したばかりで、まだ色々慣れていない私が、気に食わないのだと思っていた。
少しでもミスをしたり、分からないことを質問したり相談したりすると、激しく叱られるのだ。次第に、大きな声を出されるだけで、萎縮するようになっていった。
言葉で責め、追い詰め、言い返せないようになってから、ボディタッチが増えていった。飲み会は行かないようにしていたが、職場で二人きりにさせられた時は本当に怖かった。
その後、課長からのセクハラは、どんどんエスカレートしていった。周りの社員は自分を標的にされたくないからか、誰も助けてくれなかった。
いよいよ身の危険を感じたところで、やっと退職する決意ができたのだ。二人きりになってはいけないと思い、他の人が多くいる時間帯に課長の席にいき、退職願を差し出した。
退職願を出した時の、曾根課長の顔は、今思い出してもゾッとする。
『三上ちゃん、こんなことしていいと思ってるの?』
『逃げるんだ?』
念の為、人事課長にも同じものを提出して、逃げるように会社を出た。怒りを含んだその笑みは、恐ろしくて仕方なかった。
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「っはぁー」
思い切り息を吐いて吸う。たったそれだけのことが、難しくなってきたことに気づいて、退職を決意した。
辞めることができて、逃げ出すことができて、よかった。大丈夫、大丈夫……。
今日曾根課長がいたのは、きっと偶然だろう。
会社を去った私が偶然見えたから、あんな顔をしていたに違いない。大丈夫。あの頃のことを思い出して、指先はまだ震えて冷えたままだったけれど、一ノ瀬さんが隣にいてくれるだけで、息苦しさは消えていった。
「僕の猫ちゃんを傷つけたやつを、懲らしめないとね」
一ノ瀬さんが、運転席でポツリと呟いた言葉は私の耳には届かなかった。