変態御曹司の飼い猫はわたしです

 案内されたのは、最上階にあるスイートルーム。貯金がいくら減ることになるのか、ヒヤヒヤしてしまう。

「女性スタッフにお召し物をお持ちするよう指示しておきます。よろしければバスルームもご利用ください。着替えが終わりましたら、先ほどのレストランで食事にいたしましょう」

「ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません」

「お気になさらず。どうぞ、非日常を楽しんでくださいね」

 そう爽やかに言うと、一ノ瀬さんは退室していった。

 部屋を汚してしまう気がしたので、そのままバスルームに直行する。大理石の壁や床、広々とした浴槽などの高級な造りに緊張したが、シャワーで温かいお湯を浴びていると、やっと気持ちが落ち着いて来た。
 
(これからどうしよう。退職したことに後悔はないけど、アパートが火事になるなんて)

 その上、こうしてレストランに押しかけたことで、たくさんの人に迷惑をかけてしまった。
 こんなことになるなら、実家の母に連絡を取って、帰省してしまえばよかっただろうか。でも、母にはこれまでたくさん心配をかけたし、出来れば心労を増やしたくなかった。

(今日だけはありがたく、一ノ瀬さんに甘えよう……)

 思えば、誰かの好意に甘えるのは、いつぶりだろう。実家を出て上京してから、ずっと一人で踏ん張ってきた。大家さんとは世間話をする程度だったし、友達も次々と結婚して疎遠になり、会社の人間関係は最悪で。

 ここ一年は特に、会社と家の往復だけで必死だった。張り詰めた毎日に、今日やっと終止符を打てた。逃げることが出来た。

(うん、私、頑張ったよね。今日はそのご褒美に、ディナーを楽しもう)

 一ノ瀬さんの柔らかい笑顔を思い出す。あんなに素敵なイケメンに声をかけてもらえて、案内されたのはハイクラスホテルのスイートルーム。その上、『あの』レストランで食事ができるのだ。

(楽しまなきゃ、損だ!)

『非日常を楽しんで』そう言われた言葉を思い出して、私はやっと、前を向いた。
< 6 / 37 >

この作品をシェア

pagetop